第5章 恐怖の対象
第1話 縁側に猫
縁側に腰をおろして、少女は険しい瞳で庭を眺めていた。
手入れをしていない髪が、乱れて肩にかかっている。素直に笑うことさえ出来ればかわいらしい少女だろうに、黙っていてもきつい彼女の目が、人にやわらかい印象を与えることはなかった。
まだ日も高い午後のこと、学校にいるはずの時間だったが、そもそも都雅はそんなこと気にしていない。
それどころではない。
雅毅がさらわれてすでに数日。
当然、母親は都雅を責め立てた。都雅自身が重傷だったのと、康平が、都雅がどれだけ懸命に彼らを守ろうとしたかを証言してくれたのもあって、少しは抑えたようではあったが。――当然、新藤家も責められた。
だから、やめておけと言ったのに。雅毅も。何より自分も、関わらなければ良かったのに。
ため息がもれるが、今更遅い。
一方新藤家からは、もう被害は聞かない。もし魔族が再び襲ってきたとしても、あれだけの事が起きた後だ。しかも、付き合いがこじれたら困るような家の子供を巻き込んだ。新藤家もごまかすのはやめたようだし、協会も本格的に護衛に取り組むはずだから、なんとか対処するだろう。しかしながら魔族が現れたという話は聞かないところを見ると、相手は新藤家のことを、忘れたようだった。
魔族は、睨み殺すように都雅を見ていた。もう標的を都雅に変えたのだとしか思えない。
でもそれなら、雅毅を連れていく意味がない。そんなことは間違ってると言いたいが、そんな抗議は相手には届かない。
神舞家は警察にも協会にも手をまわして、捜索させている。表沙汰にはしないようきつく言い渡した上で。新藤家も神舞家も、協会にとっては大きなスポンサーだ。その上、あんな凶悪なものが野放しになっている。総力を挙げて探しているはずだ。
都雅自身もずっと魔族の行方を追っていた。けれど、少しも足取りがつかめない。責められる上に行き詰まって、余計に苛立ちが募る。
人間の誘拐犯ではないのだ。雅毅の命なんて、あるとは思えない。だからと言って、あきらめるわけにいかない。
力無く膝の上に腕を置き、都雅はただ庭を睨みつけている。
折れた腕はとりあえず都雅自身が回復魔法を使ったものの、もともと回復系のものが得意でないから、完全に元通りにはなっていない。添え木をあて、その上から包帯を巻いて固定してあった。何か少しでも衝撃を受ければ、きっとまた折れてしまう。ごわごわの応急措置は、彼女の細い体から浮いて見えて、痛々しい。
だが、そんなこと構っていられなかった。
どうすればいいかも分からなくて、苛立ちを込めた目をしたまま、じっと座っている。
猫の鳴き声が聞こえる。
かすれた声が、どこからともなく聞こえてくる。都雅は思わず苦笑した。
――どうやらあの猫、ガラにもなく遠慮しているらしい。
「なんだ。用があるんならさっさと出てこい」
どこへともなくつぶやいた。それと同時、目の前に黒い塊が落ちてくる。
着地した猫の、頭に巻かれた包帯が目立つ。人間になったときに首を絞めてしまうため、飼い主にもらった首輪を泣く泣く外したままうろついているその猫は、紛れもなく菊だった。小さく細く鳴いただけで、何も言わずに黙り込んだ。
「なんだ、今日は何の用だ」
うんざりした声で都雅は言うが、猫はまだためらっている。包帯の頭を低くして、翠の目を上目遣いにしている。
「あのなあ、お前、あたしの性格分かってるんなら、そういう態度をやめて、用事を言え。蹴飛ばすぞ」
ただでさえ今は、機嫌が悪い。動くのが億劫だし愁傷な気分だったから、行動の前に忠告してやると、猫はすくっと頭を上げた。それから口早に言う。
「美佐子ちゃんが大変なんじゃ。お主に言うのも今回ばかりはためらわれたが、わしはお主以外に頼む相手がおらぬ」
黒猫は必死だった。
いつもいつも、こいつに関わっているとろくなことがない。本当は化け猫じゃなくて疫病神なんじゃないか。
この切羽詰った状況、他に気を向ける余裕などない時にまた頼み事とは、いい度胸だ。
――いや、あたしが疫病神なのか。
都雅は大仰に溜息をつく。どうでもいい。だからなんだってんだ。
実際この猫が、都雅以外に頼む相手がないのも事実だ。そもそも特殊な状況で、頼み事ができる相手なんて限られる。だから菊がここへ来るのは当然だと理性では分かる。様子を見る限り、尋常でないことに巻き込まれたのだろうとも、察しがつく。菊からすれば、都雅の事情より、飼い主の少女の問題が優先されるのは仕方ない。
それくらいは理解してやってもいい。だから、怒らずにいてやってもいい。蹴飛ばさずにやってもいい。菊も懸命に雅毅の行方を探していたのを知っているから。
やってられないな、とは思うけれども。
都雅にだって依頼らしきものは来ていたが、それを断っている。自活のために金は必要で、だから依頼はなるべく受けているのに、珍しくそんなことをするくらい、他に構っていられない状況だった。
それなのに言っていた。
「何がどう大変なんだ。とりあえず聞くだけは聞いてやるからさっさと言ってみろ」
冷ややかに言う都雅に、もう慣れっこな菊はまくし立てる。
「美佐子ちゃんの学校で怪奇事件が起きておる。わしが新藤家の一件で留守をしておるうちに、美佐子ちゃんが巻き込まれてしまうた」
「怪奇事件……」
猫の言葉に引っかかるものがあって、都雅はぽつりとつぶやいた。その様子に、猫は首を傾げたが、そのまま続ける。
「頼む。わしと来てくれ。事情は道々話すでのう」
「ったく」
都雅はただ悪態をつく。
――だが。先の依頼が来たとき、それを蹴った後で、考えていた。
彼女が対峙したあの魔族は、始めから激しく力を消耗していた。都雅とのことでさらに消耗して、おまけに傷を負った。雅毅をさらった後どうしているのか分からないが、そのままじっと大人しく力の回復を待っているとは思えない。何らかの方法で、失った力を回復しようとするはずだ。
何らかの方法といえば決まっている。相手は魔族だ。魔族といえば人に仇なすもの。人を喰らうものだ。
怪奇事件を虱潰しにしていけば、いつかあの魔族にぶち当たるかも知れない。
あまりにも気の遠くなるような無謀な思いつきだったが。
「しょうがねえなぁ」
鷹揚につぶやくと、都雅は立ち上がった。
――待っていれば、相手のほうから出向いてきてはくれるのだろうが。
それでは、遅い。
それにじっと待っているのは、苛立ちが募るばかりだ。神舞の家の方から、毎日責め立てるような電話が来るのに、耐えられない。せっかく家から離れて、自由に生きようとしていたのに。毎日少しずつ、針を飲ませられるような生活、さっさと終わらせたい。
それより何より、損な性分だとも、つくづく思う。
都雅ちゃんと気軽に呼ぶ声を、簡単に見捨てられなかった。
はっきりとは言わないが、ついてきてくれるらしい都雅に安心したようで、菊は都雅の肩に飛び乗る。うって変わって文句を言いだした。
「そんなはしたない言葉遣いをするものではないと、いつもいつも言うておるに、学習しない奴じゃ」
「学習しないのはお前だろうが。殴られたいか」
歩き出した都雅は、部屋から出てきた祖母を見つける。
「出かける」
「おや、そうかい」
短い都雅の言葉に、祖母もあっさりと返した。念のため、都雅は続ける。
「遅くなると思う。数日開けるかも」
「それは構わないけど……。月曜の夜までには帰ってくること」
「……なんで」
「録画を頼みたい番組があるんだよね。あたしはご近所のみんなとカラオケに行って来るから」
「ばあさん……」
呆れて力が抜けた。
孫が一大事だというのに相変わらずだ。もちろん、ただびとである祖母が、雅毅のために出来ることはほとんどない。それでも動揺せずにいられないのが普通だろう。思わず尊敬の眼差しを向けてしまった。
「あんたがいないとほんと不便でしょうがないよ。最近の電化製品とやらは、ややこしくて仕方がない」
言葉の真意が分かってしまって、都雅はとりあえず手をひらひらと振ってみせた。
――ちゃんと帰ってきなさい、との言葉。
「人を便利な道具かなんかと勘違いするなよ」
「あの子を、あんまり恨まないでおあげよ」
歩き出そうとしたところ、引き止めるように声をかけられて、都雅は振り返る。
「なんだそれ」
いつも通り飄々した祖母の言葉に、都雅はいつも通りに皮肉な笑みを浮かべて返した。――あの母親を、恨むなと?
「お前の立場で恨まないってのは無理だろうけどね。あの子もつらい目を見てきたもんだから、性格ゆがんじゃったんだよ」
性格がゆがんでいると言うのなら、あんたには適わないよ、と思うのだが。
とりあえず大人しく話を聞いている都雅に、祖母は続ける。
「あの子も、子どもの頃には、お前のような桁外れの
力の加減は、徐々に覚えるもの。感情の制御の仕方すら知らない子どもには、簡単なことではない。
言葉を我慢しても、手を出すのを我慢しても、能力の制御の仕方なんて誰も教えてくれない。それは加減も何もない、剥き出しの牙となってまわりの者を襲う。その感覚は、経験として、都雅も知っている。
「相手の親が学校で騒ぎたてて、噂になってしまって、クラスの子とかにも怖がられてねえ。学校を変わったりもした。あの子は、化け物なんて言われたのが余程つらかったようで、それ以上に、友達を傷つけてしまったことで自分を責めてしまって、苦しんでいた。結果、記憶も能力も全部、無意識に封じてしまったようだった。……だから、あの子はお前が怖いんだよ」
能力者や不可思議な現象は、封じたはずの過去を思い出させる。それを歪ませるのが、自分の娘などと近しい存在なら尚更。
苦しんで苦しんで、結果、必要以上に都雅に冷たくなっていた。その反動で雅毅を溺愛している。――他のものが目に入らないように、必死に。
「勝手だよな」
吐き捨てるようにつぶやく。
理由があるのだという。だがそれで、今までのつらさを忘れろと言うのは、あまりにも勝手だ。――理由があるからって、許されるものでもない。自分の子の不始末を許してやれと孫に言うのもどうなのだ。大人の失態を、どうして押し付けられなきゃいけないんだ。
逃げた者を許してなんかやらない。そんなことしたら、あがいている自分があまりにも、無意味だ。
「人間てのは勝手な生き物なんだよ。知らなかったのかい」
飄々と返されて、都雅は苦笑した。
やっぱり、この婆さんには適わない。
「はいはい。それじゃ、行ってくる」
「ああ、帰りに、新藤さんとこのデパートで、プリン買ってきておくれ。もしかしたら、この間のお礼でただでくれるかも知れないし」
苦笑が笑みに変わってしまった。
天高くあったはずの日が、もう沈み始めている。赤く染まった部屋の中、少女は歩き出した。
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