第3話 守り方を知らない2
無機質なLEDの灯りなど消し飛んで、部屋には月明かりが降り注ぐ。庭に面していた壁も天井も大破し、広い部屋は、ベランダのようになっていた。
それですんだのは、ひとえに都雅の防御が間に合ったからだ。
けれど轟音も、消し飛んでしまった壁や天井も、たいしたことじゃなかった。その場にいる誰もが目を奪われ、戦慄して立ち竦んでしまったのも、そのせいなどではない。
「おや。おやおや」
沈黙と緊張を破って声が降ってきた。二階建ての建物、天井を破壊された部屋へ。すべらかに風の間を流れるような美しい声が。
都雅たちが見上げた先、中空にいたのは、一人の女。
「わたしの術を破るとは、どうしたことだと思うたが」
闇を凝らしたような黒い瞳で見下ろして、嗤っていた。自分の圧倒的な存在を、揺るぎない優位を誇示するように。月を背負って夜空の直中に浮いている。豪奢な黒の着物をまとった、それ。
――やはり。
都雅はそれを見て改めて確信する。
場に満ちた空気が異様だった。冬の冷気だけではなく。目の前の者がまとうのと同じ空気に触れるだけで、指先から凍りついてしまいそうな、緊迫感。
菊も少年たちも、誰も身動き取れずにいた。
理屈ではない。
人も動物も、この世ならざるものの菊ですら無条件に恐れてしまう、本能。
――やはり、これは。
これが魔族というのなら。これだけの妖気と圧迫感を持っていて、魔族でないと言うのはあり得ないことだが、人以外の何者にも見えない容姿を持つこれが、やはり魔族だというのなら。
そしてこれだけの美貌を、他者を圧するようなものを持つのなら、これはとんでもない相手だ。一般に恐れられるような、姿形の恐ろしい魔族は、低級のもの。高位であればあるほど人に似て、美しい容姿を持つ。否、人が彼らに似ているのだとも言われるが。
――まったく、冗談じゃない。
都雅は、そよと吹く夜風にスカートをあおられて、今更ながらマントを忘れたことに気がついた。あれは、一級の術師が念を込めて織った布で出来ている。防御のための道具の一つだった。こんな魔族の前にたいしたことではないが、少し後悔した。
何より、制服やユニフォームと同じようなものだ。着る前の自分とは切り替わる。気持ちも、覚悟も。
「今度のは、少しは使えるようだねえ」
鷹揚に人間たちを見回した相手の目は、ひたと都雅に据えられる。
「お前の相手は後で存分にしてやる。わたしはその子どもに用があるゆえ、そこを退け」
雅毅の腕にしがみつき、宙に浮く女を凝視していた康平が、びくりと大きく震えた。雅毅は康平をかばおうと、手を伸ばす。
魔族の女は、紅の唇をつりあげて、あわれむように少年たちを見た。そして突然、消える。まるで夜空に溶けたようで、都雅は呆気にとられてしまった。見上げた先には、月があるばかり。
幻術のこともあって、化かされていたのかと一瞬思うが、呆けている場合ではない。目を険しくして気配を探る。と思えば、それは忽然と都雅の真後ろに現れる。
気配と威嚇の声に、都雅は振り返った。菊が、威嚇の爪を掲げている。魔族の視線からも隠そうとするように少年たちをかばい、小さな唇から牙を剥き出し、うなり声をもらしている。
魔族は、笑いながら両手を差し出した。手を伸べて迫り来る美しい恐怖――けれどその手は、菊にも康平にも雅毅にも、触れられなかった。窓ガラスに手を叩きつけたかのように。あまりの唐突さに、少年たち肩をふるわせる。
――結界。
阻まれたこと、そして結界の存在に気がつかなかったことに、魔族が束の間止まった。
その直後、熱波があたりを襲った。赫い光に頬を灼かれて、誰もが目を瞠った。夜を圧して赤く染める紅蓮の業火……!
魔族が振り返る。そのまま炎に呑み込まれた。
炎の舌は少年たちにも迫ったが、結界に阻まれた。彼らの頬を赤く染めただけで、熱気も風圧すらも、彼らに触れない。
そしてまた唐突に、炎がかき消える。
変わらず魔族はそこに立っていた。髪の毛一筋、焼け焦げてなどいない。炎は魔族を包んだものの、どこにも触れられず、空気を舐めただけだった。
しかし女の顔は、凶悪なほどに怒りに染まっていた。不意をつかれ、攻撃され、魔族の女は美しい貌を都雅に向ける。その先で手を掲げて直立する都雅が「ちい」と舌打ちをした。
魔族は、都雅が更に仕掛けるよりも早く、手を振り払った。都雅はとっさに体の前で両腕を交差させた。身を庇うその腕に、魔族の手が当たる。ただ、それだけの動きなのに。
単調な音がした。ぼきりと。両腕が折れ、吹き飛んだ都雅が、机にぶつかって止まる。
悲鳴が上がった。
汗が額をつたう。歯を噛みしめて、声をこらえた都雅の耳に聞こえたのは、雅毅の悲鳴だ。都雅はただ鋭く息を吐いた。身じろぎすると背中が痛んだが、背骨に異常がある様子はない。なんとかなる。
折れた腕から血が滴っているが、構ってる場合じゃない。膝をかがめて、身を前に伏せるようにして起きあがる。
魔族は、再び少年たちの方へ向かっている。今度は、結界の存在など役には立たないかもしれない。でも、させるわけには行かない。
身体の痛みに目眩もするし息があがるが、諦める原因にはならない。
――何者にも。
流れる汗も血もそのままに、都雅はもはや彼女に視線も向けていない相手を睨みつけている。使いものにならない腕をだらりと垂らして。
都雅は足を踏み出して、さらにもう一歩踏み出して、魔族に近寄っていく。気配に気がついた魔族が美しい貌を向ける前に、再度息を吐き出した。
こんなところでくじけてる場合じゃない。
「纏いて来たれ」
静かに呪文を唱えた声に応じて、まわりの空気がぴたりと止まった。刹那、風が動く。収縮して、周りのありとあらゆるものを吸い寄せるような勢いで集う。都雅自身吸い寄せられそうになりながら、ありったけの力を込めてその風を放った。
耳が痛くなるような音をたてながら、それは、魔族に襲いかかる。
風の塊は魔族に激突した。――魔族は、決めつけていたから、油断していた。都雅が反撃に出ることなど不可能だと。
激突の衝撃は余波をまき散らし、重い音を響かせ、その音すら暴風に吹き飛ばされた。空気が目に見えてゆがんで、部屋の中にあった家具が砕け飛んだ。残っていた部屋の壁さえも崩壊する。
結界に守られて、そよ風すら感じずにいる少年たちは、唖然と立ち尽くしている。自分たちのまわりの狭い空間と、暴風に荒らされ壊れていく世界の違いに、声も出ない。
あまりに常識離れた、現実に。
「お姉ちゃんっ」
叫ぶ声が聞こえて、朦朧とする意識の中で都雅は、声を荒げた。
「やめろ。引っ込んでるって約束しただろっ」
駆け寄ろうとした雅毅は、声の剣幕に止まった。雅毅には分からないが、都雅の張った守りの結界の中、ぎりぎりの場所で。
「でもお姉ちゃん……!」
「邪魔なんだよ!」
言い募る雅毅を、怒鳴りつける。痛みのあまり声に容赦がなかった。菊が雅毅を引き戻したのを見て、都雅は息を吐く。少しだけ菊に感謝した。
――ああもう、まったく。
心の中で思うことは、自分に対する呆れ。
怪我することなんて、分かっていたことだ。敵わないのなんか、始めから分かっていた。なのにどうしてこんなことをしているんだか。腕を折る程度で済んだことを感謝しなくてはならないくらいだ。これからどうなるか分からないが。
思った途端、魔族の手に光りが灯った。巨大で目映い光を見ながら、とんでもなく近所迷惑だとかどこかで思っていた。
光から目をそらし、うつむいて気を落ち着ける。少年たちを守る結界を張ったまま、防ぎきれるとは思わなかったが、仕方ない。あっちの結界を解いてしまうわけにいかない。自分自身は無傷で済まそうとは思っていないから、まあいい。どちらにしろ、自分にかける防御は苦手だし。
光が投げつけられる気配と、また雅毅の声がしたが、それに気を向けてばかりもいられない。恐れてすくんでいる場合ではない。
――風の音は。
流れる風はどこに。身を包む大気は。肌に触れる空気は。その源は。
精神を研ぎ澄ませてその動きを感じ取る。全身で風の行方を追いながら力強く命じる。その流れを変えて、我と我のかばうものを守るようにと。抗うことを許さず、断固とした声で。
「風よ――!」
言葉尻は轟音に消えた。それでも始めと同様、防御の呪文は確かに作動した。
だが、すべてを防ぐには足りない。痛みのせいで、足を踏ん張る力が入らなくて、都雅は床になぎ倒されていた。そのまま、絨毯の上をすべっていく。
うめき声がもれる。頭の中ではあらゆるものに悪態をついていた。母親も雅毅も、菊も美佐子も、ご大層なお金持ちの新藤家も、魔族も、まったく腹のたつ。何よりやっぱり、自分自身に腹が立つ。どうしてくれようか、と思いながらも、都雅は歯を食いしばり、毛足の長い絨毯を睨みつける。折れた腕を使えず苦労したが、額を床につけて、膝をついて、身をひねるようにして起きあがる。
長い前髪の間から、鋭い眼差しを向ける。
――――もう、何者にも、邪魔されてなるものか。
自分の、人生を。
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