第2話 守り方を知らない1
※ ※ ※
ふいにノックの音がした。少年たちがびくりと肩を震わせる。
誰も近寄るなと言ってあるのに一体誰だ。 こん、こん、こん。
ノックの音は続いている。うかがうように、からかうように、チーク材の頑丈なドアが音を響かせている。しかし、部屋の中に声がかからない。
少年たちと一緒にソファに座っていた菊が、ふたりと都雅を見比べて、立ち上がった。都雅が舌打ちする。
「待て。何もするな」
こん、こんこん、こん、こんこんこん、どんどんどんどんどん!
リズミカルに戸をノックし続けていた音が、急に強くなった。
そこにいるのは分かっているんだ、とわめいているようだった。ドアノブがガチャガチャと鳴る。その間も、大きな音でドアが鳴り続けている。
人が片手で戸を叩きながら、片手でノブを動かしているような音。――けれども。
ドアに鍵などかかっていない。入って来たいなら入ってこられる。なのに、脅かすように音が鳴り続けるだけで、誰も入ってこない。何も言わない。
そもそも――戸の向こうに、人の気配がしない。
どん、どんどん。……ゴン!
最後に、力任せに蹴りつけるような音がした。
唐突に、音が途絶える。少年たちは食い入るようにドアを見たまま、目を離せないでいる。戻ってきた静寂は、前のものよりもっと鋭い。薄氷を渡るような、触れたら割れてしまいそうな緊張が満ちている。
沈黙が長く感じられて、都雅は呼吸の数を無意識に数えた。
けれど、どんなに待っても、兆候らしきものは起こらない。どんなに待っても――? 本当は、一分も経っていないのかもしれない。緊張が肩にのしかかってきて、長い長い時間に思えただけで。
康平は、緊張に耐えかねたように、ふらふらと立ち上がった。ドアを見つめたまま。
「動くなって言ってんのが、分かんねーのか」
容赦のない声がかかる。びくりと肩を震わせて、少年は都雅を振り返る。都雅の目は、康平を見ていない。ドアも見ていない。反対側の壁を睨んでいる。壁――?
康平の動きにつられて、雅毅もドアから目を離した。同じように都雅を見て、けれども後ろから、とん、と肩を叩かれて、振り返る。
雅毅が目をやると、細いものが見えた。ほっそりとした指、手首、白い腕。そこでぷっつりと切れている。
肘までだけの、細く長い、しなやかな――誰かの、手首。
誰もいないのに、腕だけが宙に浮いている。ようやくそれが意識にしみこんできて、雅毅が息を呑んだ。声が喉に張りついて出ない。寄り添うように座っていた康平も雅毅の視線を追う。息を呑む間もなく凍り付いた。
雅毅の肩に置かれた手は、パッと掌を向けた。驚いたかのように。
おや、人違いか。
そんな声が聞こえそうだった。コミカルな動きで、康平と、雅毅とを、どっちだったかな、という調子で、順番に指さしていく。人差し指が二度往復して、空中を踊る。
やがて康平の前に止まる。ああ、そうだ、この子だ、と言わんばかりに、再び掌を広げて揺れて見せた。笑っているかのようだった。
――遊んでいる。
「お姉ちゃん!」
雅毅が叫ぶのと、手が康平の首に掴みかかるのと、都雅がその手首を捕らえるのと、ほぼ同時。
都雅は奇妙な違和感に気づいた。康平の首にからみつき食い込む爪、目に見える指の節、なめらかな肌触り、冷たい体温。どれもこれも、人間のもの。おかしいくらい、おかしなところなどない。だが――だが、指先から這い上がる奇妙な感じは。
「幻術か?」
しかし康平は喘ぎながら顔をゆがめている。自分の首に掴みかかる手を引き剥がそうとしている。しっかりと掴んで。都雅自身だって同じだった。けれど、やはり幻術とはそういうものだ。
相手の視覚に、聴覚に、触覚に、とにかくあらゆる感覚に、記憶に働きかけて、あり得ないものを、そこにあるものだと認識させる術が、幻術だ。詐術だ。手触りも体温も、相手に思い込ませるものだ。
康平は、そこにない手をあるものだと認め、首を絞められていると認識して、勝手に呼吸を止めている。
――つまりそういう
「康平、聞こえるか。康平」
都雅は、なるべく声を抑えて呼びかけた。けれど少年は、涙をあふれさせながら手にすがりついている。聞こえてもいないかもしれない。――無理もない。何日もかけて植え込まれた恐怖に加えて、ちょん切れた手首が、自分の首を絞めているのだ。
無理もない。
まず自分自身を落ち着けるように息を吐いてから、都雅は白い腕を離した。雅毅の視線が不安げに、康平と都雅の間を往復している。大丈夫だと眼差しで応えてから、手を片方伸ばして康平の目に当てる。目隠しをするように。少年の涙が、掌をしめらせた。
突然触れられて、康平が唇をひきつらせる。息ができない上に、前も見えなくなった。恐怖を増長させるかもしれないと分かっていたが、これしかない。そして都雅自身も目を閉じる。何も見ないように。
もう一度大きく息を吸う。力を込めて、けれども驚かせないように、怖がらせないように気をつけて、丁寧に声を出した。
「康平」
場違いなほど、染みるように穏やかな声で呼びかけられて、少年がぴくりと動く。掌の下、反応を返したのが分かる。
「ここには何もない。お前と雅毅と菊と、あたし以外は何もいない。何もないんだ。お前は息が出来る。邪魔するものは何もないし、息を吸うことも、吐くこともできる」
暗示にかけるように、言い聞かせるように、言葉をつむいでいく。落ちつけ、落ちつけと念を込めて。呪文を放つ時のように、強く意思を込めて。
「大丈夫だ。あたしがいるから。守ると言った以上、守ってやる。今からあたしは手を離すが、お前は何も見ない。部屋が見えて、雅毅がいて、菊がいて、あたしがいるが、それ以外のものはなにも見ない。――大丈夫だから」
言い聞かせているのは、むしろ自分自身だ。
掌の下で、ひきつるように康平が動いたのを感じ取って、都雅は少年から手を離した。次いで自分自身も目を開く。不安と疑問が混ざった表情の雅毅がいる。うかがうように見る菊がいる。
そして目の前の康平の首には、もう白い腕はぶら下がってはいなかった。それがあったはずの場所に手を伸ばして、掴もうとしても、空気を握りしめただけだった。康平がひくりと喉を動かす。息を吸った。瞬間、激しくせき込んでしまった。
都雅は唇の端をつりあげて、立ち上がる。再び壁の方へ、きつい目を向けた。
もともとこの世ならざる者は人の隙をつくのがうまい。その上、幻術なんかが得意なのは、巧妙な奴と決まっている。ただでさえ、何度も幻術を見たことがある自分が、そうと分からなかった。さすがに相手は長けている。
苦手だ。
とにかく、こういう奴は、苦手だ。
「菊、ガキどもを守れ。さすがにあたしも余裕がない。それくらいは役に立て」
有無を言わせぬ命令口調だったが、さすがに菊も反論しなかった。都雅は初めから、余裕のない相手だと言っていたが――真剣に、余裕のない表情をした都雅の様子が、さっきの話より、菊に状況を教えたようだった。
それに何より都雅が、菊に向かって頼みごとをしたことなどない。
都雅は、口中呪文をつぶやいた。
間髪置かずに、夜空に轟音が響く。
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