第6話 交歓

6-1

 女の子がパン屋の前を通ると、小鳥たちが集まってお喋りしていました。とても楽しそうなので、女の子はお願いしました。

「私も仲間に入れてくださいな」

「だめだめ、だってお前は小鳥じゃないもの」

 小鳥たちに追い返されて、女の子は諦めて、先へ進みました。

 広場の前を通ると、猫たちが集まって日向ぼっこをしていました。とても気持ち良さそうなので、女の子はお願いしました。

「私も仲間に入れてくださいな」

「だめだめ、だってお前は猫じゃないもの」

 猫たちに追い返されて、女の子は諦めて、先へ進みました。

 肉屋の前を通ると、犬たちが集まって骨をしゃぶっていました。とても美味しそうなので、女の子はお願いしました。

「私も仲間に入れてくださいな」

「だめだめ、だってお前は犬じゃないもの」

 犬たちに追い返されて、女の子は諦めて、先へ進みました。



 白雪姫も、灰かぶりも、ヘンゼルとグレーテルも、理不尽な仕打ちな受け、それまでの生活を一変させられる。

 私の前に唐突に現れた大日向有加おおひなたゆかも、シンデレラの生活を一変させた継母とその娘たちのようなものだった。


 N西女に第一希望を変更してから、私は放課後を図書室で勉強して過ごすようになっていた。

 以前は教室でクラスの女子グループとお喋りしながら参考書や高校のパンフレットを惰性でめくっていたけれど、今はそんな余裕も友達もいない。土壇場で進路を変えた私は、彼女らから不信感を露わにされていた。結局のところ、私は今の女子グループよりも、幼馴染と年上の憧れの女性をとったのだ。

 けれど孤独は勉強するには良い環境だ。今日は五限目で授業が終り、時間はたっぷりとある。私は図書室の隅に陣取って、苦手な数学から取り組むべく、鞄からペンケースとノート、問題集を取り出した。

 と、予想外の感触を覚え、そろそろと鞄に差し込んだ手を引き抜く。一緒に出てきたのは『つぶつぶ小倉みそサンド』――ご当地菓子パンのビニル袋だった。もちろん中身は空で、受験生への差し入れではない。鞄を逆さまにすると教科書やポーチや財布の他にガムの残骸を包んだ銀紙や丸めた紙屑が落ちてくる。ゴミそのものに心当たりは無くとも、ゴミを入れた人物にはある。きっと多分、私がトイレに行った隙にでも、笑いながら軽いノリでやったのだろう。

 全くくだらない。私は憤然としてゴミを拾い集めて、ゴミ箱に投げ込む。

 くだらない連中と袂を分かつことができて本当に良かったと思う。一緒につるんでいたら、金魚の糞よろしく志望校を同じにすると言い出していたかもしれない。ライバルは少ないほうが良いに決まっている。

 とはいうものの、悪意を向けられて完全な無傷ではいられなかった。ほんの小さな紡績つむに刺されて百年の眠りについた姫君のように、何気ない一言、低俗ないたずらが致命傷になることもある。

 ほとんど意識せず、私は指で自身の長い髪を梳いた。昨日、香世子さんが触れた髪。彼女の慰撫の感触が思い起こされる。

 黒髪の間を滑る白い指先、えも言われぬ良い香り、ごくごく近くに感じられた吐息……

 我知らず、頬が熱くなる。あれは単なる慰めでそれ以上の意味はない。慰めという大義名分がなければ、私とてああも積極的に近づけない。

 嘆息が漏れる。慰めという名目上の甘やかしは中毒性が高い。なぜだかひどくいけないことをしている気にさせられた。いけないことは、結局、極上の甘さを与えてくれるからやめられないのだ。

 香世子さん。白い家の美しい人。彼女の存在は、私に孤独を耐える強さと、一人の自由、そして未知の感情を与えてくれた。昨日はそんな彼女を魔法使いみたいだと言ったが、むしろ白馬に乗った王子だ。

 彼女との付き合いは、ここ一年というさほど長くない時間に限られている。けれど、私はずっとずっと待っていた気がする。待ち侘び続けていた。童話の姫君のように、ひたすら。だとしたら、香世子さんもまた、私の目覚めを待っていてくれたのだろうか……

 と、チャイムが図書室を震わすように鳴り、我に返らされた。いつまでも妄想に耽って時間を潰していては、受かる受験も受からない。机の上に散らばった用具を片付け、問題集とノートを広げた。


「藤田さん」

 声を掛けられたのは、二時間ほど取り組んだ数学の証明問題に飽き、小休止をとっていた時だった。

 大日向有加は、取り立てて目立つところのない女子だ。ただマッシュルームカットの髪は薄茶色で、染めているのかもしれない。香世子さんの影響で、艶のある黒髪を維持するのに腐心している私にとっては理解しがたい趣味だった。

 放課後の図書室は人気が少ない。というか、教室とは別棟の四階に位置するこの部屋は慢性的に閑散としているのだ。おまけに学年末テストを控えたこの時期、三年生の授業は他の学年よりも二時限早く終わる。

 だから私たち二人の他には誰もおらず、だからこそ、大日向有加も話しかけてきたのだろう。クラスも部活動も小学校も違う。茉莉と同じクラスで顔は見知っていたが、直接の接点は何も無いはずだった。

 話しかけられた時、私は気分転換に本を読んでいた。『グリム童話2』――いわずとしれたグリム童話集だ。数日前、勉強の合間に、スチール製の書架の間をぶらぶらしていたところ、偶然見つけた。この間の香世子さんとの会話が記憶に残っていて、なんとはなしに手に取ってみたのだけれど、わりに面白い。

 解説によると、グリム童話は、グリム兄弟がドイツ語圏に伝わる話を広く集めたもので、最終稿である第七版は一八七五年に出版されているという。第七版には二百十一の話が集録されており、『Kinder- und Hausmarchen』――訳すと『子どもと家庭のためのメルヒェン』――からとったKHM番号が通しで付けられていた。

 図書室にあったのは、現在一般にグリム童話と呼ばれる第七版の完訳で、全五巻ものだった。一話一話は短く、すぐに読めてしまうので気分転換にちょうど良い。私はぱらぱらと気に入った物語を拾い読みしていた。

 シュールで、残酷で、滑稽。実際に読んでみれば、グリム童話はそんな印象だった。普通、子どもに聞かせる物語ならメデタシメデタシで終わるはずなのに、あまりにひどいラストが多く、逆に笑ってしまう。

 ちょうど読んでいたKHM41『コルベスさま』では、タイトルのコルベス様は一体どんな悪い奴だったのか一切の説明なしに、鶏と猫とひき臼と卵とあひると針に殺されてしまった。次の物語KHM42『名付け親さん』を読もうとしたその時。唐突に場違いなキャッチコピーが割り込んできた。

『アラフォーを輝かせる上質白の着こなし術!』

 白いコートを纏った演技派の女優が優雅に微笑むその月刊ファッション誌は、書店やコンビニによく並んでいて、目にしたことはある。だけど意識することはない。そんな雑誌だった。なぜだか表紙には油性マジックで『S』を丸で囲ったサインが書かれていて、女優の顔半分を隠していた。

 落ちてきた影に振り仰ぐと、すぐそばに大日向有加が立っていた。予想外の登場人物に、私は歓迎というよりも不審を露わにして声を上げた。

「……なに?」

「これ、読んだ?」 

 読むわけない。四十台向けの雑誌なのだから。反射的に心の中で返すが、言葉には出さなかった。彼女の意図がよくわからず、怪訝な眼差しを返す。

 グリム童話の上に重ねて置かれた雑誌に、特に興味を示そうとしないと、彼女はもどかしそうにページをめくり始めた。なかなか目当てのページが見つからないらしく、最初に戻って一からめくり直すを繰り返す。社会の図説よりも分厚く重い雑誌を学校に持ってくる危険を冒しているのに、付箋を貼ってこない要領の悪さにうんざりした。待っている間、グリム童話を読むことも、勉強の続きもできず、ただただ時間を浪費するしかなかった。

 そうして、ようやくとあるページを見開きにして。大日向有加は誰もわからなかった証明問題を、教師に当てられて黒板の前で解いてみせたような笑みを浮かべた。

『この俳優とおしゃべり』

 雑誌の終わり近くの、そんなタイトルのページだった。雑誌のほとんどがカラーなのに、その誌面はモノクロで、ファッション雑誌にしては文章量が多い。タイトル通り、映画やドラマ、その時々の話題の役者にインタビューする連載記事らしい。そして大日向有加は左ページの隅っこを指した。小さな枠の中で控えめに微笑んでいるインタビュアーは。

「初瀬、香世子さん。知ってるよね?」

 ハセカヨコさん、と名字と名前つなげるのではなく、ハセとカヨコのあいだに間を置いたのが癇に触った。『香世子さん』は、母も使わない、私だけの特別な呼び方なのに。

「前に藤田さん、この人とケーキ屋で一緒にいたよね。あたしも結構仲良くさせてもらっているんだ。いい人だよね。美人だし」

 軽い驚きを覚える。結構仲良くさせてもらっている? しかし、私は驚きを表情に出さないよう努めた。なぜだかその方が良い気がした。

 香世子さんとケーキ屋。それには心当たりがある。おそらくは香世子さんの知り合いがシェフだという地元のケーキ屋さんに連れて行ってもらった時のことだろう。あまり味は好みではなかったが、洒落たイートインがある小奇麗な店だった。しかし、香世子さんと大日向有加の接点が分からない。

「この連載面白いよねー。他は読み飛ばすけど、これだけは読んでるんだ。特に先月、あ、先々月号だっけ? ジャニーズのええとだれだっけ名前は忘れちゃったけど、そのインタビューが良かった。月9のドラマ観てるよね、主人公の弟役の人」

 なぜ大日向有加が香世子さんを知っているのか、本当に親しいのか問い質したくて堪らなかった。だけれど、こちらから訊くのは癪だった。

「ブログも好きでよくアクセスするんだ。料理とかお菓子とかのレシピや写真も載ってて、飽きないんだよねー」

 図書室に冬の西日が射し込む。さして広くない室内が黄金色に染め上げられる、この一瞬。最近の私の中では、香世子さんと過ごすことの次に、気に入りの時間だった。その美しいひとときに、なぜこんな邪魔が入るのか、ひどく理不尽な仕打ちを受けている心地にさせられる。

 大日向有加はハイテンションでどこか得意気に話し続ける。この連載単行本になったら絶対買うよねー、写真も美人だけど実物はもっと綺麗だよねー、とか、それにしても毎日勉強勉強で受験やにならなーい、とか。やたらと馴れ馴れしく、いちいち語尾に『ねー』を付けたり、伸ばしたり、こちらに同意を求める口調が鬱陶しかった。

「それで、今度、初瀬香世子さんとゆっくり話がしたいなと思って。良かったら藤田さんも一緒にどうかなって」

「……どうして」

 私は努めて冷静に訊く。良かったら藤田さんも一緒に。まるきりオマケの言い様に、腸を煮えたぎらせながら。

「ライターって職業に興味があるんだ。憧れちゃうよねー。仕事場とか見てみたくて」

 ガタンっと、乱暴に椅子を引いて、私は立ち上がった。見上げる形だった視線の高さが合う。大日向有加と私の身長はほぼ同じだった。

「静かにしたほうがいい。ここ、図書室だし」

 自分を棚に上げてはいたが、この場にふさわしい正当な抗議だったと思う。たとえ、私達の他に誰もいなくても。

 冬至近くの陽が落ちるのは早く、図書室には薄闇が押し寄せつつあった。午後の授業が終わり、向かいの校舎からブラスバンド部の金管楽器の音色が響いてくる。電灯を点けていない図書室で、さらに逆光の位置に立つ大日向有加の表情は読み取りにくかったけれど、彼女のハイテンションが下がってくるのが感じられた。

 私は閲覧用の長机に広げてあった勉強用具を通学鞄に手早く仕舞い、雑誌の下敷きになってしまったグリム童話集を救い出す。そうして、鞄とコートと本を抱え、図書室を出ようとした。

 足早に、足音高く、足下を見つめたまま私は進む。教科書やら問題集が詰まりずっしりと重い鞄が、方眼紙の上に配置されていたような机や椅子にぶつかり、耳障りな音を立てた。その雑音の中、そっと投げ込まれた言葉に、私は足を止めさせられる。

「面接の対策してる?」

 意味がわからず振り返るが、大日向有加の表情はもう完全に見えなかった。だからこそ、なのか。薄闇の中、その声は小さかったのに、はっきりと聞こえた。灰かぶりがはしばみの木の下で唱えたのも、こんな声音だったろうか。

「N西女、藤田さんも受けるんでしょ。N西女の推薦って面接あるよね。その練習一緒にやんない? 茉莉がいなくなったから相手がいなくて不便でしょ、藤田さん」

 無言のまま、私は薄闇のむこうにいる人を見つめる。

「それに初瀬香世子さんって、インタビュアーじゃない。面接の練習みてもらえないかなあって」

 どこか間延びした声。その時、こちらがどんな表情をしたか、大日向有加からは見えただろうか。

 私は小さく考えておくとだけ答えて図書室を後にした。

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