6-2
身体は冷え固まり、足先はしびれて感覚が無かった。辺りはとっぷり陽が沈んで、夕暮れでもなんでもなく、完全な夜。森に置き去りにされた兄妹もこんな心細い心地だったんだろうか。でも、今、私は一人。兄妹よりよっぽど孤独だった。
連絡もなしにこんな時間までほっつき歩いてと、きっと母は怒り狂うだろう。N西女の受験許可を取り消されるかもしれない。それでも私は待ち続けた。
闇夜に浮かぶ白い邸を何度も見上げる。
正直を言えば、子どもの頃、私はこの邸が好きではなかった。どことなく、隔絶された、閉鎖された雰囲気を纏っていたから。両脇に木々が茂った坂道の上の一軒家という配置が、子ども心にそう感じさせたのかもしれない。
ふいに思い出す。昔――幼稚園か、小学校に上がったすぐぐらいの時だったか、自宅から白い邸を結ぶ坂道で遊んでいて、ひどく叱られたことを。家の外で遊んでいたとか、自動車にはねられるとか、そんな理由だったのだろうが、母の剣幕は凄まじかった。白雪姫が生きていると知ったお妃さながら。
もしかしたらそれが原因で私は長らく白い邸に寄り付こうとしなかったのだろうか。私は失われた十年を恨めしく思った。今、こんなにも白い家の主を待ち焦がれているというのに。
車のエンジン音が響き、白い邸の外壁がライトに照らされる。自宅の庭先にうずくまっていた私は弾かれたように立ち上がり、赤い車を追い駆けた。
「香世子さん!」
「あら、美雪ちゃん、今晩は。待っていてくれたの?」
駐車場に車を止め、降りてきた香世子さんはいつも通り柔和な微笑みを湛えていた。その笑みに、言いようのない気持ちになる。ようやく救われたような、さらに絶望したような。
待ってた、待ってたの、ずっと待ってたの! 本音を言えば、そう叫んで香世子さんに抱き着いてしまいたかった。だけど香世子さんは、今日は白く光沢のあるダウンコートを着込んでいて、その拍子に汚してしまったらと思うと、とてもできない。
結局、私は冷たい地面に両足を踏ん張って、泣くのを堪えるしかなかった。
その様子に、香世子さんはちょっと困ったふうに小首を傾げ、
「ともかく、中に入りましょう?」
と、私の肩を柔らかく抱いて玄関へと向かった。
ココアにはふわふわに溶けたマシュマロが浮かんでいて、とても魅惑的な香りがしていたけれど、私はソファに腰掛けたまま手を付けていなかった。
香世子さんは着替えてくるわ、とココアを淹れてから、二階へ上がったままだ。
こういう時、香世子さんは必ず先に飲み物を出してくれて、自分のことは後回しにする。そういう気遣いをしてくれる。でも、それはきっと誰に対してもで、私だけを特別扱いしてくれているわけではない。
ココアを飲まないのは単に意地を張っているだけで、意固地になればなるほど香世子さんを困らせてしまうとわかっていけれどどうしようもなかった。優しく肩を抱かれた感触がまだ残っていて、反芻するように瞳を閉じ、自分の両肩に手を回す。
「落ち着いた、美雪ちゃん?」
しばらくしてスリッパの音も立てず、香世子さんが二階から降りてきた。ベージュのケーブル編みのセーターに細身のパンツ、そして肩にストールを掛けた、いつもに比べたらラフな姿は新鮮で、わずかに目を見張る。でもそれは一瞬で、私はすぐに顔を伏せた。
けれど香世子さんは私を逃さなかった。こちらの前にしゃがみ込み、まるきり子どもをあやすふうに、どうしたのかおしえてちょうだい? と頬に触れてくる。
その温かさとしなやかさに、涙腺と口元、そして心までもろくも緩んでしまう。
「……私、全然知らなかった、香世子さんの仕事のこと」
「どうしたの、いきなり」
香世子さんは目を瞬かせ、いつもの癖の、小首を傾げる仕草をした。実年齢に不似合いな、でもとても可愛らしいそれ。無防備なその姿は私の前だけで見せているのではないと今更ながら気付くなんて、大馬鹿だった。
「今日はじめて、GLORYって雑誌を読んで」
「あら。なんだか恥ずかしいわね」
ふふっと微笑を漏らすけれど、それでどうして私が落ち込む理由になるのか分かりかねているようで、困った顔をする。
香世子さんに憧れていて、大好きで、一番の理解者でいたかったのに、そのくせ目の前に差し出された甘いお菓子に目が眩んで、なんにも知ろうとしなかった。
中学生向けの雑誌じゃないもの、知らなくて当然よと香世子さんは慰めてくれるが、私はぶんぶんと首を振り、
「同級生で、読んでいる子、いた」
「同級生?」
「大日向有加は、香世子さんのこと知ってた。知り合いだって。彼女もN西女を受けるって……」
「おおひなた、ゆか?」
言葉の合間に、涙と鼻水がほたほたと落ちる。ティッシュを渡されて、促されるまま、鼻をかんだ。
いきなり現れ、自分の好きな人について自分より詳しかった。その上、好きな人と相談して決めた進路も知っていた。挙げ句、婉曲的にではあるが、あなたひとりぼっちねと憐れまれた。
学校で第一希望をT高校から変えたことは隠してはいない。というか、何度も担任と面談の機会を設けていたのだ、隠しようがなかった。その一方、N西女の推薦狙いということはひた隠しにしていた。その秘密主義こそがクラスの友人関係を悪くした原因なのだけれど。
知っているのは、家族と担任、そして香世子さんしかいないはず。私は濡れた目を向ける。
「……香世子さんが言ったの? 私がN西女を受けるって」
「いいえ、私に中学生の知り合いは美雪ちゃんしかいないわ」
「でも、」
好きな人を疑っても、何も誰も得しないとわかってはいたが、自分を止められない。
香世子さんは私の隣に座り、落ち着かせようと髪を梳く。心地良くて、その心地良さに泣けた。このままもう我慢はやめて、大声張り上げて泣いてしまおうか。そうしたって、香世子さんは受け止めてくれるはず。しかし、不意に指先が止まり、
「おおひなた……もしかして、大日向さんの家の子かしら」
香世子さんはそんなことを言い出した。
「知ってるの?」
「大日向さんの家は美雪ちゃんも行ったことがあるわよ。私は今日もお邪魔したところのなの」
大日向有加の家に行った? 愕然として見つめる私に、年上の美しい人は微笑んで種明かしをする。
「『Sun room』――前に一緒にケーキ屋さんに行ったことがあるでしょう。あすこのオーナーシェフは大日向さんと仰るの」
『Sun room』のオーナーシェフとは仕事上の古い知り合いであり、世代は違うが親しくしてもらっているという。
「シェフのところのお嬢さんはもう社会人になられているけど、たしか中学生ぐらいの姪御さんがいるのよ。よく覚えていないけれどお店で紹介されたことがあるかもしれないわ」
そして、彼女は嘆息を漏らした。
「結果的には、私が大日向さんにばらしてしまったようなものね」
「どうして」
目を見開き、香世子さんを見つめる。
「高校受験の頃、私は他県で暮らしていたから、このあたりの事情に明るくないの。美雪ちゃんから志望校について相談を受けたけど、正直、わからなくて。
だから、シェフと奥様に相談して、お嬢さんの受験の話をうかがったのよ。お嬢さんはN西女の出身でね、とても良い学校だと仰っていたわ。もしかしたら、姪御さんにも同じように勧めていたかもしれないわね。特別口止めはしなかったら、多分、そこから伝わったんでしょうね」
私はなんとも言えず、黙り込んだ。その沈黙をこちらの怒りとうけとったのかもしれない。
……がっかりした? 香世子さんはやおら上目遣いになり、そんなふうに問うてくる。
「偉そうにアドバイスしておきながら、本当はなんにも知らなくて。でも、美雪ちゃんの力になりたくて。いいえ、頼られたかったのね」
いつも慈しむように私を見る香世子さんに、逆に縋るような眼差しを向けられて、胸がざわついた。白雪姫に命乞いされた狩人もこんな心地だったのだろうか。生涯己が口を聞けるはずがないほど、身分が高く、美しい人に懇願される。この誘惑をどうしてはねのけられるだろう。私は力なく首を横に振った。
落ち着いて整理してみれば、そこには悪者も悪意もなかった。ただ、大日向有加がほんの少し顔を合わせただけで「仲が良い」という、度を過ぎた図々しさを持っていたというだけで。そういえば、あの雑誌に書かれていたS字マークは、『Sun room』のSなのだろう。きっと喫茶室に置いてあった客向けの一冊なのだ。
「本当にごめんなさい。美雪ちゃんの同級生に話が漏れるなんて思いもしなくて……」
話の道筋に納得したものの心は晴れない。俯いたままの私に、香世子さんが床に敷かれたラグに跪き、祈りを捧げるようにして謝ってくる。
けれど、私の落胆の原因はまた違うところにもあった。大日向有加は、香世子さんの仕事について知っていた。ブログを書いていることも。引き換え、私はまったく理解していなかった。知ろうともしなかった。
否応なく考えさせられる。私と香世子さんの関係性とはなんなのだろう? 親でもない、教師でもない、同級生でもない。歳の離れた友人だろうか? そうとは言い難い。一方的に香世子さんに甘えるだけで、その逆はない。それでは対等な友人関係とは呼べないだろう。
ふいに、先日読んだグリム童話が思い出された。『鼠と小鳥とソーセージ』――タイトルからして奇妙だけど、内容はもっとおかしい小話だ。
鼠と小鳥とソーセージが一緒に暮らしていた。鼠が水汲みと火の焚き付け、小鳥が薪集め、ソーセージが料理をして、仲良くやっていた。だけどある日、小鳥はほかの鳥に薪集めはきついものだと吹き込まれ、他の二人に仕事の交換を要求する。各々ふさわしい仕事から不慣れな仕事に変わり、ソーセージは犬に食い殺され、鼠は鍋に沈み、小鳥は井戸に落ち、結局三者ともが死んでしまう、救いのない話。
教訓を述べるとしたら、現状に満足して欲を出すな、ということだろうか。現状維持。今が嫌なわけではない。香世子さんとの時間は私にとって何よりの至福の時間。だけど。
親でもない、教師でもない、同級生でもない。名前のない関係は、イコール、何も関係ないことなのかもしれない。ある日突然、ふっつり途切れてしまう。そんなのは、耐えきれない。
「香世子さんは……私なんか嫌いでしょう? 面倒臭いでしょ」
自分のためにここまで骨を折ってくれた人に、誤解して、怒って、すねて、最悪だ。わかっていても、感情に振り回され、歯止めが利かない。言葉と共に、涙がぼろぼろとこぼれる。腹立たしいのは自分自身に対してなのに、よりにもよって最も尊い相手に八つ当たりしてしまうなんて。
「そんなこと!」
それは涙が引っ込むほどの鮮烈な一声だった。シンプルな美しさを保つ白い邸に、その声はよく響く。そして一転、悲痛に、
「どうして、そんなことを言うの」
香世子さんは美しい顔を歪ませた。目、頬、唇、皺の顔のパーツのすべてが絶妙な曲線を奏でる。美しい顔は、歪み方すら美しいのだと、私は知る。
「あなたは私の大切な女の子よ」
両手で頬を挟み、顔を近付け、香世子さんは囁く。その黒い瞳を、長い睫毛を、紅い唇をごく間近で見つめ、
「……お母さんの、昔の親友の娘だから?」
「いいえ、それだけじゃないわ」
「だって」
だって、それ以外、何があるというの。大日向有加のおかげでというべきか、自分はたんなる地方のいち中学生であることを思い知る。香世子さんにとって、プラスになる材料は何一つ持ち合わせていないのだと。
「私はずっとずっとあなたを待っていたの、この家で。あなたがこうして私を訪ねて、一緒にお茶を飲み、お菓子を食べて、お喋りするのを」
――だからほら、ココアを飲んで頂戴。せっかく淹れたのに冷めてしまうわ。
頬に片手を残したまま、香世子さんはカップを持ち、私の唇に触れさせる。なんだか赤ちゃんみたいに飲ませてもらっている格好は、さすがに恥ずかしい。口を開かないでいると、香世子さんはもう片方の手で私の頬を軽くつねった。思わず吹き出してこぼしそうになり、反射的に私はこぼすまいとココアを飲み込んでしまう。
ココアはだいぶ冷めていたけれど、その甘さは疲れ切っていた身体と心に染みた。一口飲めば止まらなくなって、二口、三口で飲み干してしまう。考えてみればもう夕食時で、昼食を食べたあとは何も口にしておらず、空腹だった。
「おかわりは? 今日はケーキをもあるのよ。『Sun room』のショートケーキ。食べるでしょう?」
ええ、と私は呻きにも似た声を上げた。つまりは大日向有加の伯父、あるいは叔父が作ったケーキ。なかなかに複雑な味がしそうだった。それに、あそこのケーキは。
毒なんか入っていないわよ、という言葉に、私は逡巡した後、白状する。
「だって、あそこのケーキ、あんまり甘くないから」
極度の甘党の私にとって『Sun room』は大人向き過ぎるのだ。香世子さんは笑って、角砂糖三つ入りの紅茶を淹れてくるわと立ち上がった。
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