第3話 暗転
3-1
翌日、美雪は幼稚園を休んだ。
薄着で外にいたせいか、それとも精神的な何かが起因しているのか、三八度を超える高い熱が出た。だが、食欲はあるし、ぐずってもいないので、そう心配はないだろう。私は母に美雪の看病を頼むと、自家用車でショッピングセンターまで出かけた。
家族の誰かが風邪を引くと必要以上に買いすぎてしまう。ショッピングセンター内のドラッグストアで風邪薬と冷却シートだけ購入するつもりだったが、少し立ち寄ったスーパーでジュース、ヨーグルト、ゼリー、プリン、消化の良いお菓子と見る間にカゴの底が見えなくなってしまった。
青果売り場で、林檎や蜜柑などの果物を物色していると、行儀よく積み重ねられた大根が目に入った。白くつややかで、足というよりも女性の二の腕を連想させるそれ。葉は頭にほど近いところからばっさり切り取られている。私は少し考えて、その中から一本選び取りカゴに入れた。
会計を終え、両手にビニール袋をぶら下げ、だだっぴろい駐車場を歩く。午前中、まだ客足の少ないスーパーの駐車場は空いているというよりも、むしろ空漠としていた。乾いた風に、カサカサとビニール袋が音を立てる。
〝お妃さまとあそんでいたの〟
〝みゆき、お妃さまとなかよしだもん〟
〝ママもおともだちになりたいの?〟
何度か尋ねたものの、誰に連れ出されたのか、どうしてついていったのか、美雪は明らかにしなかった。知っていて隠そうとしているのか、本当に知らないのか、それすらはっきりしない。昨日は疲れていたのか早々と眠ってしまい、今朝からは熱。寝込んだ子に問い質すわけにもいかず、私はもやもやした気持ちを抱えていた。
もっとも、美雪が正直に答えたとしても、状況は何も変わらないけれど。
薄氷が張ったような冬色の空の下、考える。私は一体、どうすべきなのだろう。
最初、母が音量をいっぱいにしてテレビを観ているのだと思った。襖一枚隔てた和室では美雪が眠っているというのに、どうしてあの人は遠慮が無いというか、無神経なのだろう、と。
だが、玄関を開けて響く声の調子に、テレビに向けた独り言とは違うニュアンスを感じ取る。いつもよりもトーンが一段高い。そしてようやく気付く。玄関には見知らぬパンプスが並んでいた。
「お母さん!」
「ああ、お帰んなさい。何、血相変えて」
ビニール袋を両手に下げたままリビングに飛び込むと、ソファにどっかりと座り込んだ母が、フォークを振りながら応える。そして――
「お帰りなさい」
母の向かいに腰掛けていたのは、白いパンツスーツと黒のインナーを品良く着こなした香世子だった。ローテーブルの上にはティーカップと皿に載ったショートケーキ。そして、傍らにはすっかり見慣れた白いソルトケースがあった。
驚きのあまり、言葉が出てこない。
「初瀬さん、あんたが買い物行っとる間にみえたのよ」
香世子を見つめる。彼女はいつも通りの柔らかな微笑を浮かべていた。
「なあに、そんな顔せんでも、ちゃんとあんたの分のケーキとってあるよ」
――なんだね。あんた、どうして大根なんか買ってきたの? ウチに山程あるがね。
母がソファから身を乗り出し、袋の中を覗いて文句を付けるのを無視して、
「……美雪は?」
「眠っとるよ。よく寝る子だね、あんたの小さい頃にそっくり」
「お母さん、もう帰って」
母の軽口に付き合う余裕はなかった。私の小さな〈城〉で優雅に座る幼馴染から目が離せられない。
母は一瞬渋面を覗かせたが、はいはい、わかりましたよ、と億劫そうに立ち上がった。そして香世子に向き直り、
「ご馳走様でした、ごゆっくりね」
昔、あれだけ初瀬家に対して冷たい態度をとっていた母が気味悪いほど愛想良く笑う。香世子も香世子で、そつなく挨拶を返す。その様子に私は身震いするほどの嫌悪を覚えた。
どうして彼女たちは平気なのだろう。この不協和音が聞こえないのか。耳に栓をして、いっそ逃げ出してしまいたいという衝動をかろうじて堪える。
「久しぶりね。少し痩せた?」
母が出ていき、二人きりになったリビングで、口火を切ったのは香世子だった。会わなかったのはせいぜい一週間弱。だのに、彼女は心底懐かしそうに私を見やる。
「立っていないで座ったら? ケーキ、食べない? 『Sun room』で買ってきたの」
――お母様が冷蔵庫に入れていたわ。美雪ちゃんの分もあるから良ければおやつにどうぞ。
もったりと、違和感が投網を投げかけられたように絡みつく。
なぜ、香世子がこの家の主人(ホスト)然として振舞っているのか。
なぜ、母に対しても、私に対しても、微笑みかけられるのか。
なぜ、……あんなことが起きたのか。
「どうして?」
投網に絡め取られ、引き上げられたのはそのたった一語。その一言にいくつもの意味を含めて私は問いかけた。対して香世子も端的に答える。
「いつでも、と言ってくれたから」
黒々とした兎の眼が、立ったままの私を見上げる。
……いつでも。確かに私はそう言った。
いつでも大丈夫。いつでも来て。いつでも待っている。
その気持ちには一片の偽りも無かった。だけど、今ここで、その台詞を持ち出されたら揚げ足取りに成り代わってしまう。私は私の想いを否定せざるを得なくなる。否定も肯定もできない。おかしいのは私なのだろうか? 悠然とした香世子を前に、自分がわからなくなった。
香世子はショートケーキにフォークを下ろす。ソルトケースの粉末をまぶしてあるのか、やたらきらきらと生クリームが光っていた。彼女は小さな欠片を一つ飲み込み、
「昨日は大変だったみたいね」
「誰から、聞いたの?」
「今さっき、お母様に」
「嘘」
私は即座に否定した。昨日のことは誰にも話していない。特に母は普段は大雑把なくせにいざ何か起きると不必要に騒ぎ立てる人なので、必要以上に知られないよう注意していた。知っているのならばそれはすなわち。
「貴女が……貴女が美雪を連れ出したのね!」
詰問に、しかし、香世子はきょとんと瞬き、
「なんのこと?」
「とぼけないで!」
「私はお母様が庭で転んだ話をしているのだけど。美雪ちゃんに何かあったの?」
冷水を引っ被らされた衝撃。己の早とちりに気付く。
香世子は不思議そうに首を傾げていた。成熟した大人であるはずなのに、妙に馴染む初々しい仕種。一瞬、自分がとんでもない言いがかりをしているのではと錯覚させられる。いや、違う――流されては駄目。証拠があるのだ。彼女以外にはありえない。私は大きく深呼吸してから、
「数日前から子どもたちが見たと噂していたわ。白いコートとサングラスの不審者が幼稚園を覗いていたって。昨日、美雪がそれらしき人物に連れ出された」
「まあ、大変。でも、すぐに見つかったのよね?」
見え透いた台詞に、不思議と怒りは湧かなかった。香世子の横に置かれたショルダーバックといつもの白いコートを目の端で捉え、
「貴女はそのコートを着て、機会をうかがっていたのよ」
「どうして、私がそんなことを?」
「…………」
無言のまま、無表情に、無心に、私を見上げる黒々とした兎の眼。いっそ、憐れだった。子どもの頃と同じ。何も変わっていない私の親友。隅っこで膝を抱えていたあの頃と同じ。だけど、私は――
「私は知っているわ。貴女が何をしているか」
ずっと考えていた。大人になった香世子が何故この町に戻ってきたのか。あの晩、とうとう真実に辿り着いて、それでもなお、迷っていた。でも。
「貴女は、お継母さんに復讐している」
白雪姫が継母に真っ赤に焼けた鉄の靴を履かせたのと同じ。
香世子は子ども時代の報復のために、この町へ戻ってきたのだ。
二十年前、彼女がどれほど酷い仕打ちを受けていたのかはわからない。だが、若干十歳の少女が滅多に笑わなくなるほど傷を負ったのは確かだ。それは精神だけでなく、肉体にまで及んでいた可能性は高い。
香世子は黙したまま私を見上げていた。反論しなければ、肯定もしない。謝罪もない。手綱を緩めそうになる自分自身を叱りつけて続ける。
「幼稚園の裏門の前に、美雪のハンカチと大根が置いてあったわ」
あの大根は数日前の晩、〈城〉を訪れた時に玄関に置き忘れてしまったもの。私はスーパーの袋からこざっぱりとした頭を突き出している大根にちらりと目をやる。あれほど葉が付いた大根はこの辺のスーパーには売っていない。
「あれは、貴女から私へのメッセージね」
かつて私の最優先事項は香世子だった。何かあればすぐに駆け付けていた。ずっと傍にいた。だけどもう、私も香世子も子どもじゃない。妻であり、母であり、私には私の守るべき〈城〉ある。けれど、この町で香世子が頼れるのは、二十年前と同じ。私だけだったのだ。
――たすけて、……。
か細い哀願。それは継母だけでなく香世子の叫びでもあったと思う。香世子は何度か私にサインを送っていた。継母へのどうにもならない恨み、哀しみ、憎しみ。
私に、知って欲しかった。私に、理解して欲しかった。私に、止めて欲しかったのだ。
「香世子」
こんな時であっても、幼馴染は美しかった。スクリーンの女優。誰も踏み荒らせない雪原。思い出の中の少女。
だからこそまさかと思った。信じたくなかった。怯えもあった。目を閉じ、耳を塞いでいたいという心根は否定できない。
あの晩、香世子は玄関に置き忘れられた野菜を見つけて、私に虐待の現場を目撃されたことに気付いた。にもかかわらず、何のアクションも起こさず、あまつさえ電話にすら出ようとしない私に、彼女は見捨てられた心地がしたのだろう。だから――現在、私がもっとも心を砕いている存在に手を出した。
「私は、貴女を許さない」
悔しさか、悲しみか、後悔か、滲み出る感情を噛み締めて、告げる。緩んだ指をすり抜け、スーパーの袋がぼたりと床へ落ちた。
自己アピールのために美雪を誘拐したことは絶対に許せない。美雪を捜している間中、私は気が狂わんばかりだった。あんな思いはもう二度とごめんだ。同時に……貴女の苦しみに気付けず、貴女を追いつめた自分自身も許せない。
白い城で何が行なわれていたのか。
黒い瞳で何を訴えていたのか。
赤い唇で何を告げようとしていたのか。
二十年前、もっと親身に話を聴いていたら、連絡先を調べていたら、繋いだ手を離さなかったら。甘い夢ではなく、苦い現実を見ていたなら……
私はかぶりを振る。時間は巻き戻せない。貴女が負った痛みは無しにはできない。私が犯した罪も消えない。
大人になった今、私は貴女以外にも大事なものを抱えていて、両手を差し伸べられない。
だけれど、大人になった今こそ、できることがあるはず。これは偽りない気持ち。見上げる瞳に、真っ直ぐに視線を返す。視界を曇らせる涙を通して、告げる。
「私は……貴女を
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