3-2

 香世子は一瞬驚いたように瞳を見開き、次にゆっくりと目蓋を伏せた。サティの音楽に耳を傾けるように。そして紅茶を一口啜り、ほうっと長い吐息を落とす。

「それが、あなたの脚本なのね」

 ――この紅茶、ちょっと渋いわね。そんな台詞と置き換えても違和感の無い口調だった。

 私の戸惑いをよそに、香世子はティーカップを静かに下ろす。ソルトケースの粉末をケーキに振りかける。クリームをすくって舐める。

 そこには狼狽とか、迷いとか、怒りとか、余計な感情は見当たらなかった。ごく普通に、ごく普通のことをしているという単純な動作の連続。だというのに、どこか薄ら寒く、不安な気持ちが湧いてくる。耐え切れず、私は、香世子?、と彼女の名を呼んだ。

「色々と誤解があるようだけど、美雪ちゃんを連れ出したのは、私じゃないわ」

 ――私、白いコートなんて持っていないしね。

 さらりとした口調に、眉をひそめる。香世子の脇に畳んで置いてあるコートはどう見たって白い。言い逃れにしては――それこそ香世子には似合わないが――、あまりにお粗末すぎる。

私の視線に気付いたのか、彼女は微苦笑して、ふわり、白いカシミアを開いた。それは目に痛いほどの純白――

「ね。コートじゃないでしょう?」

 緩やかに広がる扇形。だがそこにあるべきものが見当たらない。袖がない。それは、白い、カシミアのケープ・・だった。

「あなたの前では羽織ったことがなかったかもしれないわね。ほとんど建物の中で会っていたから」

「…………」

「なんなら不審者を見たという子たちの前で、これを着て、サングラスを掛けてみせましょうか。賭けてもいいわ、きっと違うと首を振る」

 丁寧に畳みながら言う香世子に、私は二の句が継げない。

「美雪ちゃんが連れ出されたのは何時頃のこと? 昨日の午前中は病院、午後はずっと家にいたわ」

「……そんなの」

 いくらでもごまかせる。コートだってそうだ。子どもにケープとコートの見分けがつくはずない。ケープとは別に白いコートを持っているのかもしれない。ようやっと出した声を、しかし香世子は遮るように続ける。

「私はこの町で目立ち過ぎるもの。幼稚園なんか覗いていたら、すぐに通報されてしまう。自分を客観的に見られるほどには大人になったつもりよ」

 ――昔はそれができなくて、辛い思いもしたけれど。

 彼女はふっと笑みを浮かべた。口元に皺が寄った、ひどく乾いたそれ。

 私は棒立ちになって香世子を見つめた。

 ……おかしい。香世子は変だ。罪を明らかにされて取り乱さないのはもちろん、そもそも、彼女はこんな饒舌家だったろうか。今更ながら、二十年来の幼馴染に違和感を覚える。大人になって美しく羽化した? けれど根本は変わっていないと考え直したはずで、でも、だけど――

私は混乱した。困惑、と言っても良いかもしれない。目の前の香世子は、確かに香世子なのに、私の知らない表情をのぞかせる。

「もし仮に、あなたを死ぬほど憎んでいたとしても、白昼堂々、美雪ちゃんに手を出したりしない。そんな馬鹿じゃないわ」

 あなたを、死ぬほど、憎んでいたとしても。

 例え話であっても、まさか香世子の口からそんな台詞が出るとは思わず、思考が止まる。そして次の言葉に、私はさらに動揺した。

「美雪ちゃんを連れ出したのは、新森弥生さんよ」

 ――直ちゃん。お人好しの古い友人の丸顔が弾けて消える。

 どうして彼女の名が出てくる? 確かに顔見知りの弥生ならば、さほど警戒心を抱かせず、適当に言いくるめて美雪を連れ出せるかもしれない。けれど、さっぱり意味がわからない。そもそも、なぜ香世子と弥生に接点があるのか。

 クリームをもうひとすくい、彼女は言う。

「白状するとね、弥生さんは私に協力してくれたの」

「……おかしい、そんなの。だって弥生は、貴女のこと変って」

 愕然としながらも返す。だからこそ寒風吹きすさぶ小道で反論してやったのだ。庇ったのだ。絶交してやったのだ。香世子、貴女を守るために。

「そう。彼女は本当に善い人ね。昔から変わらない。お気の毒なぐらいだわ。大嫌いなあなたにも同じ母親として同情して、私に近付かないよう忠告したのね」

 目を細め、唇を三日月に描き、密やかに笑む。清潔さとは程遠い、じっとり艶かしいとさえ形容できる表情。

 ――大嫌いなあなた。

 明らかな悪意が込められた言葉は蛇。ちろちろと扇情的に揺れる赤い舌、ぬめりと濡れた鱗が膚の上を這い回り、見えない鎖となって縛り付ける。

 身動きできない中、どこか遠くで鐘が鳴り響いた気がした。午後五時、遊びの終了を告げる音。帰り道、一人、また一人と手を振り去ってゆく仲間達。そうして……最後に二人だけになって、ようやく息を吐くのだ。家までの、ほんの短い距離。

 今、ここにいるのは二人、私達だけ。

 誰の邪魔も入らない。誰からも咎められない。誰の目も気にしなくて良い。思う存分、素直に話せる。

 なのに、どうして、貴女がそんなことを言う?

 この町で唯一の味方である私に。

 救けてあげる、そう手を差し伸べているのに。私の手を振り払う?

「弥生さんはね、ずぅっと昔からあなたを憎んでいたのよ」

 香世子が笑う。ぐるんと縄跳びが目の前をかすめる。蠢く虫。散らばった筆記用具。給食のプラスチックトレイ。雑巾。一際大きく鐘が鳴り響く。そんなのは――そんなのは、許さない。


「――かめこ・・・っ!」

 

 すぅっと。衝動のままに吐き出した叫びを、自分自身の耳で捉えた瞬間。沸騰した血が一気に氷点下まで下がった。

 光射し込むリビングいっぱいに静寂が満ちる。

 香世子は皮肉めいた笑みを消し、無言のまま、無表情に、無心に私を見上げていた。あの漆黒の兎の眼で。いや――灯がともる。平坦な印象だったその瞳に。 

「ようやく、その名で呼んでくれたのね」

 王子に捜し当てられた娘のように。父親と再会した兄妹のように。魔女の呪いから目覚めた姫君のように。

 香世子はこの上なく幸福そうに、微笑んだ。


 初瀬香世子。

 花びら舞う季節に現れた、大人びた顔立ちの真白い少女。

 一目見たその時から、私の中から感情という色が次から次へと溢れ出した。湧き出る泉のように、いや、そんな綺麗なものではない。全てを飲み込み燃やし尽くす、溶岩流の勢いで。

 憧憬、羨望、嫉妬、優越、恐怖、支配欲、独占欲。自分の内側から噴出した感情に驚き、おののき、混乱した。他の誰かに心奪われるなど、初めての経験だった。どうすれば良いのか見当もつかない。

 結果、私は彼女という真白いキャンパスに、感情の奔流を塗りたくった。


 焦点が定まらない。足元が浮遊する。誰かの声がぼんやりと聴こえる。

「かめこ。のろまなかめこ。おかしなかめこ。名付け親はあなただったわね」

 何を言われてもだんまり。教室の隅っこで、通学途中の道端で、公園の角で身を縮めていた転校生。名前を一文字差し替えただけのあだ名は、あっという間に伝播した。

「当時は嫌でしょうがなかったけれど、思い返してみれば絶妙なネーミングだわ」

 甲羅に見立てたランドセル。それはここいらで贔屓にされていたメーカーとは少しデザインが違っていて、格好のからかいの種だった。叩いたり、殴ったり、蹴飛ばしたり。こっそり背後に回ってランドセルの留め具を外せば、下を向いた拍子に教科書、ノート、筆記用具がばちゃばちゃと水溜りに散らばり落ちる。

「あなたは私を嫌っていた。親友という立場を隠れ蓑にして、私をいじめ抜いていた」

「違う!」

 首を振って否定する。同時に、焦点が合い、視界が元通りになる。目の前の白い顔はもう微笑んでいない。そこにあるのは能面の無表情だった。

「……ちがう」

「そうね。違いがあるのは当然だわ。それが、脚本が脚本たる所以だもの」

 気圧される形で力無く繰り返した私に、向かい合う女は、いなすようにあっさりと頷いた。

 貧血でも起こしかけたのか、身体を支えきれず、倒れ込むようにソファへ身を沈める。

 ……何。一体、何の話をしているのだ? どうしてこんな話になってしまったのか?

 罪状を突き付けられたのは香世子だったはず。私ではない。そう、香世子はひどい。ずっと嘘をついていた。ずっと、ずっと、ずっと。一カ月前、ショッピングセンターですれ違った時から。あるいは年賀状を送ってきた時から。再会の喜びも、『Sun room』での会話も、映画の感想も。〝……また、あなたのおうちに遊びに行っても良い?〟 あの呟きさえ嘘。偽り。演技。

「取り引きの、つもり?」

 声が震えた。美雪をさらったのも、今更な昔話をするのも、継母への報復――すなわち虐待――を口止めするための脅し。だからって――

「やって良いことと悪いことがあるじゃない! 貴女にわかる? 子どもがいなくなった母親の気持ちが。貴女に……!」

 子どもの誘拐。親にとってもっとも忌むべき犯罪。私がどれほどの恐怖を味わったか。

 彼女の身上を考慮すれば、それは言ってはならないことだったのかもしれない。だが、私自身に直接害が及ぶならともかく、なんの関係も無い美雪を巻き込むなんて筋違いもいいところだ。当たり前の道徳観念じゃないか。髪を振り乱し、感情に押されるまま叫ぶ。

「貴女には絶対にわからない!」

「本当に頭の回転が速い人ね。昔からそうだった」

 対照的に香世子は平静だった。それどころか感心する素振りで、

「自分が置かれている状況を的確に見極めて、論点をさり気なくすり替え、妙手を打つ」

 でもね、と小首を傾げた。幼い子どもに諭すように、読み違えれば意味がないのよ、と。ぞっとするほど優しげに。

 香世子は、おもむろにショルダーバッグを開き、革製の手帳を取り出した。ページをめくり、澱みない仕草で挟んであった一枚の写真をローテーブルの上に置く。

 写真には二人の人物が佇んでいた。一人は香世子。もう一人は女の子だった。美雪と同じくらい、あるいは一歳ほど年下だろうか。咲き誇る桜の下、紺色の制服を着ている。一見して、幼稚園の入園式とわかるそれ。両者ともいささか表情が硬いが、これはまるで……

「私の娘よ。もう死んでしまったけれど」

 ――交通事故でね。淡々と続ける香世子を信じられない思いで凝視する。

 流産したのではない? 再会した日、彼女は語りながらそっと腹部を撫でていた。確かに明言していなかったかもしれない。だけど……

 次から次へと切られるカードに思考が追いつかない。私は額に手を押し当てた。

「でも、あなたの言うことは多分当たっている。私はこの子が死んでもあまり悲しくなかったから。私はどこか壊れた人間なのかもしれないわね」

 整った指先が、写真の中の幼女を伝う。頬の辺りで指が止まる。私はただ言葉を失った。

「あなたに聞いて欲しい話があるの」

 ……はなし?

 紅い唇が優雅に動く。ケーキを食べ、紅茶を飲んでいるのに、どうしてルージュが落ちないのだろう。そんなどうでも良いことを考えながら、私は胸のうちで繰り返す。

「大して面白い物語ではないけれど……本当のことを知っていて欲しいから。あなたには」

 いつか耳にした台詞、目にした形に唇が動く。

 寸分の狂いなく整った面。磁気のごとく冴えた肌色。夜のような漆黒の髪。私は彼女から目を逸らせない。香世子という檻に囲まれながら、思う。

 ――私は知らなかったのだ。真っ白なキャンパス。すべての色を塗り重ねれば、無明の闇が生まれるなんて。

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