2-4

 どうしたの? どこか痛いの? 何か言われたの?

 昔、だんまりの香世子の黒々とした瞳を覗き込み、彼女の心の裡を探るのは私の役目だった。

 しかし、二十年ぶりに再会した友人は、随分と変わっていた。それは『変貌』ではなく、『成長』という意味で。もちろん外見はさらに磨かれていたが、特筆すべきはその内面だ。豊富な知識、軽妙な会話、細やかな気配り。いじめられても何も言い返さず、小さくなっていた少女時代が嘘のよう。引っ込み思案の虫は、美しい蝶へと羽化していた。

 私の庇護はもう要らない――本音を言えば、多少の寂しさを覚えないでもなかった。王子に姫を奪われた七人の小人たちもこんな気持ちだったのだろう。しかし、それならそれで、『保護者』としてではなく、ごく普通の友人として気楽に付き合えば良いだけのこと。『親友』の序列が変わるわけじゃない。私は概ね満足していたし、彼女の友人である自分が誇らしかった。

 でも、それは誤りだった。希望的観測。香世子は変わっていない。外も内も昔のまま。たった一人、ポツネンと蹲っていた少女。無言のまま、無表情に、無心に見上げてくる、漆黒の兎の眼。

 あの頃と同様に、彼女は無言のまま訴えていた。――いや、少しの言葉ヒントは提示されていたかもしれない。赤い表紙の『白雪姫』。改竄されたストーリー。むかしばなし。

 〝人は苦みばしった原本オリジナルよりも、砂糖で甘く美しくコーティングされた脚本アレンジを無意識のうちに選び取るわ〟

 映画館での彼女の言葉が甦る。そう、私は夢を見ていたかったのだ。高台の城。立派な王様とお妃様。愛らしい姫君。だが、現実は美しくも甘くもなく、底を見通せぬほど黒々と苦々しかった。

 ……助けて。助けて。助けて。

 暗がりにこだまする哀願。それは森を走る白雪姫か、地下に連れていかれたお妃か。

 〝本当のことを知っていて欲しいから。あなたには〟

 香世子の甘い微笑が白く浮き上がる。

 〈城〉を逃げ出した夜から三日。私はひとり思い悩んでいた。良識ある市民ならば、速やかに警察や市役所に届け出るべきなのだろう。もしかしたら一刻の猶予も許されない事態なのかもしれない。

 ……警察に通報? あまりの非現実さに眩暈がする。誰よりも彼女の苦しみを知っている私が、未だ彼女の温もりを覚えているこの手で?

 携帯電話に香世子からの着信が何度かあったが、留守番電話にしておいた。幼稚園では弥生と顔を合わさないよう、送りは早めに、迎えは遅めに家を出た。

 本当のことなど知りたくなかった。知ったところで、どうしようもできない。何もしたくない。聞きたくない。目を閉じ、耳を覆い、身を縮め、いたずらに時を浪費し――

 そうして。小さな、だが私にとって、決定的な事件が起きたのだった。


 鉛色の雲が天を覆う。それは灰色というよりも燻された銀。明るいのか暗いのか、はっきりとしない空模様だった。

 私は急ぎ足で幼稚園へ向かっていた。出掛けに母が庭で転び、介抱しているうちに美雪のお迎えが一時間近く遅れてしまったのだ。いくら弥生を避けているからといって一時間は長過ぎる。幼稚園には電話をしておいたが、突然のことで美雪も戸惑っているだろう。私はできる限り足を急がせた。

 午後三時。正門の赤い鉄柵を押して園内に入る。降園は午後二時だが四時まで延長保育を行なっているため、まだまだ中は賑やかだ。ジャングルジムの天辺を年長組の男の子が占拠し、ぶらんこの順番待ちをしていた女の子がしびれを切らして泣き出す。騒々しい園庭に視線を巡らせるが、美雪の姿は見当たらなかった。

「藤田さん。お母様、大丈夫だった?」

 年配のベテラン幼稚園教諭に声をかけられる。電話で応対してくれた相手で、私は頭を下げ、遅刻を詫びた。彼女は、事故なのだから助け合うのは当たり前と朗らかに答える。そのまま少し立ち話をして、一区切りがついた頃、

「あの、美雪は?」

「ああ、ごめんなさい、ちょっとお待ちくださいね。小田先生、美雪ちゃん呼んできてくれる?」

 彼女は大声で、園舎から顔を覗かせていた若い教諭に呼び掛けた。だが、若い教諭――小田先生は、きょとんと小首を傾げ、

「美雪ちゃん、今日、延長組でしたっけ?」

「お家の都合でお迎えが遅れていたんですよ。中で遊んでいると思うから」

 どこか腑に落ちない様子で小田先生は頷き、園舎の奥へ向かう。……しばらくして彼女は戻ってくるが、美雪を連れてはいなかった。

「こちらには見当たりませんが……」

 降園後、小田先生はずっと園舎で子どもたちを見ていたが、その中に美雪はいなかったと言う。連絡帳に預かり保育の旨が書いてなかったので、それを不審に思うこともなかったそうだ。私が電話したのは二時少し前、帰りの集まりで一番あわただしい時間帯だ。美雪についての連絡が行き届いていなくても責められない。

「じゃあ、外でかくれんぼでもしているのかもしれませんね」

 私は特に気にするでもなく答える。美雪は隠れるのが上手く、今までにもお迎え時に見つからないことが何度かあった。『狼と七匹の子山羊』を演(や)るなら、柱時計に隠れる末っ子役はあの子で決まりだ。そんな空想を思い描きながら娘の名を呼ぶ。

 手分けして捜し始め、五分、十分……十五分。アスレチックハウスの中にも、滑り台の影にも、用具入れの隅にも美雪はいない。我が娘ながら手がかかる。そんな不満が、だんだんと不安に浸食されてゆく。きっと隠れているうちに居眠りしてしまったに違いない、あの子は一度眠るとなかなか起きないから。そう考えつつも気が焦る。子どもたちの嬌声は、不安を薄めるというよりも、むしろ水と油のように心から分離された。

 かくれんぼをしていたなら、死角になっている場所へ移動するはず。思い付いて私は園舎の裏手に回った。コンクリートで固められた殺風景な場所。普段から人気がないが、やはり誰もいない。落胆しながら一応周囲を窺うが、何の気配も感じられなかった。

 園と公道をわけるブロック塀には子どもが白いチョークか石で描いたのであろう、稚拙な落書きだけが寂しげに佇んでいる。駐車場への出入りに使用する裏門が、風に揺られてキィキィと耳障りな音を立てた。

 ……開いている? 普段は施錠まではしないものの、閉められているはず。と、その下。ぎりぎり門扉が触れない場所に何か白っぽい塊が落ちているのに気付く。近付いて確認すれば、それは小振りな大根だった。多少は切り落とされているが、まだ青々とした葉もついている。

「…………?」

 幼稚園に大根というシュールな光景に、私は眉根を寄せた。大根の下には、くしゃくしゃになったピンク色の布が敷かれている。その布が飛ばされぬよう、大根を重し代わりにしていたのか。しゃがみ込んで布を拾い上げれば……心臓が跳ね上がった。その柄には見覚えがある。アニメの魔女っ子七人組が描かれたハンカチ。今朝、まだアイロンをかけていなかったのに、美雪がこれじゃなきゃ嫌だと駄々をこねた一枚――

「先生!」

 私のではない、高い、切羽詰った声。半ば無意識に大根を近くの茂みに押しやり、ハンカチをダウンジャケットのポケットに突っ込み、私は園庭へと戻った。

 と、駆けてきた小田先生と鉢合わせ、すんでのところでぶつかりそうになる。その顔色は蒼白。予感が津波となって押し寄せる。彼女はジャングルジムの上で仁王立ちしていた男の子の手を引いており、私というよりもやはり駆け寄ってきたベテラン教諭に向かって、

「あの、マサ君が……美雪ちゃんが、大人と話しているのを見たと」

「大人?」

 男の子――マサ君が頷き、

「白いコートで、黒いめがねかけてた」

 おれ、一番上にいたからみゆちゃん見えたんだ、とどこか得意気に胸を張ってみせる。

 白いコートに黒眼鏡サングラス。それは耳に残る組み合わせだった。井戸端会議で、子どもの戯言だと決め付けたそれ。

 〝おきさき様、みゆきに会いにきたの〟

 確か美雪もそう言い張っていたが、『白雪姫』と混同しているのだと取り合わなかった。

 気の遠くなる思いでマサ君の両肩に手を置き、向かい合って尋ねる。

「……美雪は、その人に連れて行かれたの?」

「わかんないけど、いっしょに外歩いてた。先生がいない時は、ぜったい出ちゃダメなのに」

 ――ならどうして、あの子を止めてくれなかったの。喉から出かかった言葉を押し込め、代わりに質問を重ねる。

「……それは、女の人?」

「うん、たぶん」

 藤田さん、と教諭たちに腕を引かれる。気付けば、私の指が小さな肩に食い込み、マサ君の顔は泣き出しそうに歪んでいた。手の力を緩めると、彼はさっと身を引き、走り出す。

「け、警察に電話を」

「馬鹿言わないでっ」

 自分よりもずっと若い教諭に怒鳴りつける。警察を呼ぶ? 警察が必要な事態だとでも? こんな狭くて、退屈な田舎町で、何かが起こるとでも?

「そんなはずないじゃない!」

 美雪はどこかに隠れているのだ、早く捜し出してあげないと、きっとふてくされてしまう。

 落ち着いてください、掛けられた声を振り払うように睨みつける。自分たちの責任を放棄して、もう警察頼み? あんたたちがそんなんだから、美雪は、――。

 私は吐息混じりに額に手をやった。無論、八つ当たりだ。彼女たちを責めたところで美雪が戻るわけでもない。

 ふいに思う。今朝、幼稚園に送ったのが午前八時半。最後に美雪を見てからもうすぐ七時間が経つ。あの子を産んでから今日まで、こんなにも長い時間離れていたことがあっただろうか。一体、あとどれだけ待ったらあの子は私の元に帰る? このままどんどん時間が経過してしまったら――

 香世子。唐突に、十一歳当時、あの日・・の幼馴染が甦った。

 白いダッフルコートに、赤いマフラー、揺れる黒髪。その姿を最後に、彼女は戻ってこなかった。降りしきる雪が染み入るように、彼女はじんわり白く塗り潰されて……

「美雪……!」

 矢も楯もたまらず、私は園の外へ駆け出した。

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