2-3

 悔し紛れの捨て台詞。気にするほどのことじゃない。

 そうは思っていても、ジャガイモを乱切りにする手の力を緩められない。ニンジンを真っ二つに切ってしまってから、まだ皮を剥いていなかったのに気付いて舌打ちする。夕刻、私は夕食の支度をしながら、まだイライラと弥生とのやりとりを思い出していていた。

 〝あの子が私たちと違うって、一番よく知っているのは直ちゃんじゃない〟

 私と香世子が違う? そんなの誰に言われるまでもなく承知している。香世子は特別なのだ。けれど、私は彼女の『特別』を理解している。だからこそ、一緒にいる資格があるのだ。それを知ったふうに……

 ささくれ立った気持ちはなかなか鎮まらない。私は玉じゃくしで鍋の中身を乱暴にかき回した。トロリ、白いスープが湯気と香りと一緒に踊る。今夜はシチューだ。冷蔵庫には野菜サラダを待機させてある。あとは夫の帰宅に合わせて魚の干物を焼くばかりだった。

 リビングから美雪の好きなアニメ番組のイントロが流れてくる。ということは現在、午後六時。怒っていると普段よりも速く手が動くのか、予定よりも前に準備が終わった。しかし主婦の仕事は尽きない。余った時間で、陽の高いうちに取り込んでおいた洗濯物を畳もうかとキッチンを出て――

 〝……あの家、気味が悪い〟

 〝悲鳴を、聞いたの〟

 〝物が倒れたり、ガラスが割れたりする音も。喧嘩っていうより、あれは…………〟

 弥生の言葉を信じたわけじゃない。だが、魚の小骨が喉に引っ掛かっるように、いちいち心に突っ掛かる。私はシチューの火を止め、カウンター越しに、リビングへ声を掛けた。

「ママ、ちょっと出掛けてくるわ。十分くらいで帰ってくるからお留守番していてね」

 美雪はテレビに視線を固定させたまま、微動だにしない。余程夢中になっているらしい。あとは母屋に一言断っておけば、このままにしておいて大丈夫だろう。

 私は苦笑して、エプロンを外し、壁に掛けてあったダウンジャケットに袖を通した。


 別段、おかしなことではない。

 私はガサガサと騒ぐ紙袋を抱え、緩やかな坂道を上っていた。袋の中には大根、白菜、葱など、たくさんの野菜がひしめいている。友人宅に自宅で採れた野菜をおすそ分けする、ごく自然な行為であり好意。だというのに、何とも言えない後ろめたさを引きずりながら、私は歩いていた。泥のついた野菜と香世子が不似合いだから――そんな理由ではないことは重々理解していた。

 とっぷりと陽は暮れ、足を伝って冷気が這い上がってくる。香世子の家――〈城〉までは歩いてほんの五分の距離だ。外灯はなく、こんなに暗いなら車を出すのだったと後悔しないでもなかったが、凛とした空気で身を清め、頭を冷やす時間が欲しかったのも事実だった。こと、〈城〉を訪れるのならば。

 ふと、この道を上るのは随分と久しぶりだなと気付く。この先には〈城〉しか建っておらず、道幅も極端に狭くなるため、〈城〉に用が無ければまず通らない。

 初瀬家が越してくる前、幼い私はこの道を駆け上がって何度も〈城〉を見に行った。真っ白な壁、シャープなライン、張り出したバルコニー。しかし、そんなにも憧れた〈城〉に私は一度も招かれたことがない。二十年前、香世子に遊びに行きたいとねだったが、大学教授である父親の高価な蔵書があるため、子どもは呼んではならないとすげなく断られた。私達の話を聞いていた他の級友がさらにしつこく迫ったが、彼女は常に見せない意志の強さで突っぱねた(それがお高く止まっているとさらに反感を買う一因になるのだが)。

 察するに、香世子は、十歳にして初めて共に暮らした父親に畏怖を抱いていたのだろう。継母にも、実の父親にも甘えられなかった少女。私は当時の彼女の境遇に思いを馳せ、嘆息した。 

 ……でも。だったら何故、香世子は〈城〉に戻って来たのだろう。

 紙袋の重さにか、ふいに浮かんだ疑問にか、私は自然と足を止めた。彼女にとって、〈城〉はあまり居心地の良い空間ではなかったはずだ。

 〝また、あなたのおうちに遊びに行っても良い?〟

 『Sun room』でのあの呟きには溢れそうな感情が凝縮されていた。加えて彼女はライター、手に職を持っている。それなりの収入はあるだろうし、まだ若いのだ、今からでも企業の正社員にだってなれるはず。だったらどうして、離婚後、彼女は一人暮らしをしなかったのか。体調を崩していたから? 気苦労の多い生活は、ますます病状を悪化させそうなものだが……

 青く澄んだ川のように流れる夜の中、私は目前に迫った〈城〉を見上げた。今では、この町でもこういったモダンな家は珍しくない。加えて自分が大人になったからだろうか、憧れ続けた〈城〉は記憶よりも一回り小さく感じられた。だが自分にとっての神聖性は少しも失われていない。我知らず漏れた感嘆が白い霞となって闇に溶ける。

 〈城〉には、特に変わった様子はなかった。二階のバルコニーからはオレンジ色を帯びた暖かな灯がカーテン越しに漏れ出ている。私は安堵すると同時に苦笑した。まったく、弥生の言うことなど真に受けて馬鹿馬鹿しい。だが、〈城〉を訪れるきっかけになったには違いない。それだけは感謝すべきかもしれないとひとりごちる。

 小さな鉄製の門を開き、アプローチを辿り、インターホンの前で紙袋を下ろす。ダウンジャケットのフードの歪みを直し、髪を撫で付け、身なりを整える――と。

 突如、夜陰に響いた硬質の音に私は固まった。

 食器を落とした? だが連続する音がその想像を否定する。滅茶苦茶に……投げつけ、叩きつけている? 私は反射的に音のした方――バルコニーを振り仰いだ。

 そこにはカーテンに張り付くように人影が浮かび上がっていた。まるで何かに追いつめられているみたいにぴったりと。ふいにもう一つ影が現れ、先の影に詰め寄る。二人はもみ合う。そのうちに一方が相手を押し倒した。倒れた相手を……殴っている? 髪を引っ張り、何度も何度も執拗に、強く、乱暴に。いや、それは無造作とも言える乱雑さ。人を人とも思っていない、サンドバッグにでも向かっているような。打たれる方は抵抗を止め、ただ身体を丸くしている。

 その光景は遠い昔、テレビで観た影絵劇を思い出させた。くるくる回転するシルエット、記号化された登場人物、紡がれるおとぎ話。それほどに現実感が無い。だが、呻きが、叫びが、怒号が冬の張りつめた冷気を震わせる。

「な、に……?」

 私は呆然と呟いた。と。

 ――たすけて、……。

 引き絞られた声が耳をかすめた。女? 一瞬、香世子かと思うが違う。もう少し上の年代のしゃがれた声音。耳を澄ますが、何か――ひどく重量がありそうな――が、倒れる騒音に掻き消されてしまう。

 バルコニー脇の小窓から、派手な音と共にガラスを破って、何かが飛び出してきた。咄嗟、しゃがみ込み、両腕で頭を覆う。数秒後、恐る恐る顔を上げれば、キラキラ光るガラス片と、大理石の置時計がすぐ近くに落ちていた。アプローチの石畳に落ちたというのに置時計は余程頑丈なのか、ひびすら入っていない。打ち所が悪ければ死んでしまう。ぞっと戦慄が走った。

 三十年生きてきて、幸いというべきか、私は暴力を肌で感じたことがない。それだけに――いや、暴力に慣れなど無いのかもしれないが――、全身が強張り、すくみ上がる。

 〝もし本当に何かが起きていたなら、近くの家に助けを呼ぶとか、警察に連絡するとか、大人なら相応の対処があるでしょう?〟

 弥生を笑った台詞に、今度は自分が嘲笑される。けれど、今はそんな自尊心に構ってられなかった。

 ……逃げなきゃ。私は残った気力を総動員して立ち上がろうとした。

 足が震え、バランスを崩す。尻餅をついた拍子に小さな悲鳴が出る。

「……誰か、いるの?」

 気付けば騒乱は止み、ほっそりとした影が、カーテン越しに佇んでいた。その声には聞き覚えがある。いや、聞き覚えどころの話ではない。できそこないのしゃっくりみたいな音が喉を突いた。そこで初めて携帯電話を家に置いてきてしまったことに気付く。母屋に行き先を告げてこなかったことも。

 地面に尻をついたまま後ずさり……私はなんとか立ち上がると全速力で駆け出した。だがいくらも行かないうちに、暗闇の中、何かに堰き止められ、強く身体を打ち付ける。混乱の中、必死に手足をばたつかせ、それが先ほど通ってきた門だと気付くが、いくら押しても揺すっても開かない。しばらく格闘して、レバーを上げるという当たり前のことにようやく気付き、転がるように敷地の外へ飛び出る。つんのめりそうになりながらも、一切スピードを緩めず坂を下りた。

 歩いて数分、走れば一分もない距離。だが永遠に続く森のように出口が見えない。それでも闇を振り切る勢いで手足を動かす。

 ほんのちょっとの『おつかい』のつもりだった。弥生のたわ言を一蹴し、あわよくば〈城〉の中を覗かせてもらおうという小さな企みはあったけれど。道中、赤頭巾のように狼と出会ったわけでもなく、寄り道して花を摘んでいたわけでもない。

 恐怖に喘ぐ一方、私の頭はやけに冷静だった。散らばっていたいくつものピースが集まり、繋がり、やがて一枚の絵を完成させる。まさかと疑いつつも、出来上がった画の美しさに圧倒され、息を飲み、目が離せない。

『お妃は、赤くやけた上ぐつを、むりにはかされました。そして、たおれて死ぬまで、おどらなければならなかった、ということです。』

 香世子、香世子。私の美しい幼馴染。貴女という人は。

 ――そう。貴女は、本当に白雪姫だった。


    

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