松江塚利樹掌編集
松江塚利樹
社会仮病理
T氏は某大企業の管理職だった。
管理職とは言っても、大きな組織の中で細分化された末端の部署の数名の社員しかいない小さな係りを統括する係長、いわば中間管理職に過ぎなかった。
毎日、山のように積み上げられた書類に目を通し、不十分なところがあれば起案した社員に修正を指示し、再度チェックをし、時には自ら修正や作成をせねばならない状況も少なくなかった。
大企業とはいえ、ライバル社も多く、一分一秒を争う企業競争の中、うかうかしていたらいつ利益を横取りされるか分からない。T氏の日常は多忙を極め、最終電車に駆け込むなんてざらであったし、日付が変わる前に帰宅できればラッキーというような生活だった。
しかも、T氏の上司が厳格かつ几帳面な性格で、T氏の提出した書類や仕事ぶりに対して、いつも詰めの甘さや進み具合の遅さを指摘されては叱咤され続け、そのたびにT氏はやるせなさや憤りや失望感や不安感の入り混じった気分を引きずりながら、ひたすらデスク上のパソコンをにらみ続けなければならなかった。
T氏には妻子があった。しかし、帰宅時間が遅いため、自宅のドアを開けても誰も出迎えにこないどころか、妻はすでに就寝、中学生の娘は自室に引きこもっており、リビングの電気すら消えていた。T氏はほぼ毎日、ダイニングに残された冷たくなっているその日の夕食を電子レンジで暖めて、冷蔵庫から出してきたビール肩手に晩酌を兼ねた食事を済ませ、しばらくの間テレビを眺めてから就寝するというのが日課となっていた。
朝は朝で、家族とまともな会話をする余裕などなく、テレビニュースを横目に妻が無造作に用意したトーストだのコーヒーを胃に押し込み、「行ってくる」と一言呟いてから玄関を出て、ポストに突き刺さったままの朝刊をカバンに詰め込んで最寄の駅に向かうのだった。
たまの休日であっても、これといって何をするでもなく、T氏はほぼ1日中布団の中で静かに眠っていた。起きたところで、妻と目を合わせれば近所の主婦仲間や学生時代の友達の旦那と比較されて、給料が安いだとか昇進が遅いだの、今月も家計がピンチとかいつまで借家暮らしさせるつもりだなどの愚痴を聞かされるのが関の山だし、中学生の娘は、いつごろからかT氏のことを「冴えない汚い親父」とさげすむようになり、会話どころかまともに目をあわせようともせず、いつもきつい眼差しでT氏のことをにらみつけ、「親父が使った同じタオルで手を拭きたくない」とか「お風呂は絶対に親父よりも先に入りたい」などと毛嫌いもされていた。
T氏は分かっていた。彼女らはT氏そのものはどうでもよくて、毎月T氏が働いてくることで会社から振り込まれるサラリーのみにしか興味がないことを。
職場では上司や部下にはさまれ、家庭にも居場所はなく、T氏の心身状態はいつも不安定だった。
そんなある日の午後、T氏が椅子から立ち上がろうとしたとたん、急に目の前が真っ白になり、手足の力が抜けたかと思えば、手にしていた書類の束を床にばら撒いたと同時に、T氏も仰向けにバッタリと倒れてしまった。薄れ行く意識の中でかろうじて耳にしたのは、部下の「大丈夫ですか!」や、上司の「おい!」という声で、それ以来意識はぷっつりと途切れてしまった。
職場内に同様と緊張が走る。T氏は救急車に担ぎこまれ、会社の近くにある病院へと担ぎ込まれた。昼過ぎだったので休憩時間中だったが、急患ともあり、ドクターやナースはすぐに診察の準備に取り掛かった。
当のT氏は搬送中に目を覚まし、すぐさま自分のおかれている状況を理解することはできたが、床に叩きつけられたときの体中の痛みと慢性化した疲労感でもはや起き上がることすらできなかった。
あまり大きな病院ではなかったので精密な検査はできなかったが、レントゲンや心電図や血液や尿などの一通りの検査を済ませ、T氏はぼんやりとした面持ちで診察室の椅子に腰掛けていた。
ふいにT氏の前に座っていたドクターがカルテから顔を上げ
「簡易な検査なので確実なことは言えませんが、倒れられたのは疲労による体力消耗からくる立ちくらみが原因でしょう。気を失ったのは床に頭を打ち付けたことによる軽い脳振盪と思われますので、特にこれといった疾病はありません、今は」
ドクターの言葉にほっとしたと同時に「今は」という言葉にひっかかるものを感じた。不安そうな表情を浮かべるT氏にドクターは続けて
「血液検査・尿検さ共に数値が高く、心電図も若干なれども乱れている結果が出ています。今は大丈夫としても、今後このような状況が続くと、何かしらの病気に繋がる可能性は否定できません」
「そうですか」とT氏は落胆の表情を浮かべながら肩を落とした。
「最近よくあることなのですが、生活環境や外的ストレスが原因で鍼身状帯を悪化させ、心身の病気を引き起こすというケースがあるのですが、もし差し支えなければあなた自身の職場や家庭のことなど生活状況についてお聞かせ願えないですか?」
T氏はちょっと躊躇したが、もしかしたら自分の健康が危うい状況になるかもしれないとのドクターの指摘に押され、職場のことや家庭のこと、T氏を取り巻く人間関係や自分のおかれている立場など、思いつくことは洗いざらいドクターにぶちまけた。ドクターはうんうんと頷きながら熱心に耳を傾け、傍にいるナースは休むことなくペンを走らせ、T氏の話を書きとめ続けた。
「なるほど」
T氏が話が終わると、ドクターは少しの間腕組みをしながら考え
「どうやらあなたは毎日非常に厳しい緊張感の中で生活されているようですが、気分が重たく感じたり、不安感に苛まれるなんてことはありますか?」
「いつもです」
「倦怠感は?」
「……時々あると思います」
「よく眠れますか?」
「熟睡はできてませんが、眠れないというほどでもないです」
「息苦しさや胸の辺りの圧迫桿、口の渇きや冷や汗を流すことは?」
「……ありますね」
ドクターは再び沈黙し、思案をめぐらせているような様子だった。「おそらくは……」と、ドクターはT氏へとある病気の名を挙げ、その傾向にあると告げた。その病名は現代の疾病として、特に最近マスコミでも取り上げられるようになり、テレビや雑誌でちょっとした特集が組まれることもあることから、T氏はそれなりに知識は持っていたが、まさか自分がその病気であるなんて信じることができず、おろおろしてしまった。
「落ち着いてください。先ほども申し上げましたように、今時点は問題ありません。しかしながら、今のような健康状態と生活が続けば、精神が病んでしまう可能性があるということです」
「もしその病気になってしまったら、仕事どころか生活そのものも成り立たなくなってしまうんじゃないんですか?」
「症状が重たくなればそうなります。その場合、適切な治療と充分な薬と休息、そして御家族や職場の方々の理解が必要になりますね」
「それは困る! ただでさえ仕事が立て込んでいるのに休むことなんてできるか! 今だって残された仕事のことが気になって仕方ないのに。休息なんてしようものなら私は真っ先にクビだ。娘もまだ中学生だし、収入がなくなれば食べることはおろか住むところさえなくなってしまうかもしれないんだ!」
「お気持ちはよく分かります。しかし、今のような状況を続けて悪化させてしまえば本末転倒です」
「私は八方塞ということですか……」
T氏は完全に動揺し、今にも泣き出しそうな表情になった。
「落ち着いてください。私から一筆診断書を出しておきますので、あなたの今の状況を職場や御家族の方々にきちんと説明してください。それと精神安定剤を処方しておきますので、隣の薬局で受け取ってください。それから、定期的に受信していただき、状況を私に報告してください」
と言うなり、ドクターはデスクに向かい何やら書き始めた。
T氏は受付で診断書をもらい、薬局で薬をもらった。診断書にはあくまでも「軽い」としているが、病名が記載してあり、放置しておくと重度化する可能性があることと休息が必要な旨の内容が記してあった。
薬は1週間分で7錠の小さな錠剤が入っており、夜寝る前に飲めとのことだった。それらを交互に見ながらぼんやりと考えていたが、急に遣り残した仕事のことを思い出し、急いで会社へと戻った。
職場に戻ると何人かが「大丈夫ですか?」と声をかけたものの、基本的にはいつもと同じような雰囲気だった。T氏は仏頂面で書類を眺めている上司のところに例の診断書を差し出しながら、迷惑をかけたことへの謝罪とこれまでの敬意について説明した。
診断書に目を落とした上司は、とある病気の名前が記載されていることに気づき、マスコミで取り上げられていることから一種の社会問題化していることも知っていたので、若干なれども気に留めずにはいられなかった。診断書から顔を上げた上司は
「今日はもういいから、自宅に戻ってゆっくり休め」
とのことだった。意外な返答に当惑したT氏は
「しかし、医師からも今は特に異常はないとのことでしたので、さほどのことでは……」
「いいから帰れ、これは命令だ」
「命令」と言われたらT氏としては従うしかない。やや後ろ髪引かれる思いはあったものの、上司の命令どおり、その日は真っ直ぐ自宅に帰った。
自宅では、あまりにも早いT氏の帰宅に妻や娘が驚き、更にT氏が差し出した診断書を妻が見て更に驚いた。そこには、とある病気の名前があり、精神が病むことによって生活そのものがなりたたなくなり、時として自ら命を絶つこともあるということをワイドショーなどで報じていたことを聞かされていたからだ。
娘はその場の状況を理解することはできなかったが、青ざめる母の顔を見て、父の体に何かしらの異変が起こっていることを感じ取った。
次の日、出勤するなり上司から呼び出された。話の内容は、一部業務分担を変更し、T氏の担当業務を若干軽減したということだった。
が、一番変わったことは上司のT氏に対する対応だった。それまではきつい口調で妥協を許さない完璧で迅速な仕事を要求していたが、態度そのものが目に見えて柔らかくなり、T氏の仕事振りについてもあまりけちをつけなくなった。
また、家庭でも、それまで無造作と言っても過言ではないような態度で接していた妻が、食事の内容に気を配り、以前よりも比較的早く帰宅するようになったT氏に対して気遣うような発言が出るようになった。もう以前のような愚痴をぶつけるようなことはなくなったし、娘も心なしか父への態度が丸くなったような気がする。
これら周囲の対応の変化と、ドクターから処方してもらった薬のおかげで、T氏は少しずつ緊張感がほぐれ、あまり不安感を感じないようになってきており、定期的に通院したときにドクターへも、体調が改善に向かっているような気がするとも報告できるようになった。
ある日、ドクターはT氏の診断結果を見ながら
「数値も平常値になりましたし、心電図の乱れもなくなりました。どうですか、御気分のほうは?」
「ええ、はじめてこちらの方に担ぎ込まれたときに比べて、だいぶ気持ちも落ち着いたと思います。」 「今の状態を継続しておけば全く問題はないと思いますね。もう薬を使う必要もなさそうですし、こちらへの通院も今日で終わりで大丈夫ですよ」
とのドクターの言葉にT氏は若干表情を曇らせた。
「終わり……ということは、もうこちらへはこなくていいということでしょうか?」
「ええ、具合がよくなれば受信する必要はないですからね。」
「はあ……」とT氏は奥歯に物の挟まったような返答を返した。
診断書を提示してからというもの、明らかに職場や家庭の雰囲気、具体的にはT氏に対する態度が変わった。担当業務は軽減されるし、部下は気を使うようになってくれたし、上司も頭ごなしにしかりつけるようなことはなくなった。家庭でも妻や娘にぞんざいな扱いをされることはなくなったし、優しい言葉をかけてくれるようにもなった。
それもこれも、みなT氏に「病気」という肩書きがついたおかげだ。この病気になることがどんな意味を持っているかははっきりとは理解していなくても、この肩書きのおかげで、今のT氏の生活環境や人間関係はとても居心地のいいものになっている。
もし今、この肩書きがなくなれば、また昔のような厳しい職場、冷たい家庭に逆戻りになるかもしれない、いやきっとそうなるに違いない。T氏が以前のような病気なしの体になれば、今のような対応をする必要も意味もなくなるからだ。
冗談じゃない。せっかく手に入れた安楽な生活をそうやすやすと手放せるものか、もうしばらく、いやできればこのままずっと周囲が自分を甘やかしてほしい、オレは病人なんだからな。少なくても、ここに通院していると言う既成事実さえあれば、自分はずっと病人として世間から認識される、別にオレは嘘を言ってないんだからな。
「いや、それでも時々とてつもない不安感や緊張感を感じたり、眠れなくなったりすることもあるので、もうしばらく通院が必要と思うのですが……」
「そうですか? 検査結果からしても特に問題のあるような兆候はなくなっていると思いますし、あなた自身も以前に比べて顔色も表情もよいように思えるのですが……」
「いや、それは今先生の診察を受けて気分が落ち着いていますし、毎晩飲んでいる薬が効いているせいもあると思いますよ。ただ、まだ根本的なところが治っていないような気がするので、ここで通院や薬をやめたら、以前先生がおっしゃっていたような重たい状帯にならないとも限らないじゃないですか」
T氏の強い希望により、ドクターは処方箋を出し、次回の予約も受け付けることにした。
T氏が帰った後、傍にいたナースが
「先生、あの患者さん、本当にまだ具合が悪いんでしょうか?」
「いや、もう以前のような不安定な状況は改善した、全く問題ないと言ってもいいくらいだ。薬だってごくごく軽い精神安定剤で、別に飲まなければどうということもないはずだ」
「だったらなぜわざわざ時間とお金を使って通院したいとか薬を出してほしいなんて言うんでしょうね」
ナースの問いかけに、ドクターはため息をひとつつき
「病人という甘い蜜の味を覚えてしまったらしいな」
「はぁ? なんでしょうか、それは?」
「彼が私のところに運ばれてきたとき、確かに彼の心身状態は不安定で、放っておけば身体を壊すだけではなく精神を病んでしまい、社会復帰そのものが危ぶまれる状帯になってしまったことだろう。そして私は診断書を出し、彼の職場や家庭に彼が危険な状態であることを示し、理解が進むように仕向けた」
「嘘を書いたんですか!?」
「おいおい、まさか公文書に嘘なんか書けるはずないだろ。診断書には「軽い鬱傾向が見られる」とか「十度化する恐れがある」としただけだ。今はこのような精神疾病も注目されつつあり、マスメディアでも比較的取り上げられ、原因として激務などの厳しい労働環境や人間関係の困難さなどが挙げられている。会社とすれば、このような情報が流れている昨今において、自分の会社でそのような病人を出してしまうのは不名誉なことでもあるし、しいては企業の信頼問題にも関わる。この情報化社会において、いつ誰がどういう形で情報が流出するかなんて予測がつかないからな」
「はあ」
「それに、家庭だって一家の大黒柱が仕事をなくして社会復帰できないとなれば艪盪に迷うことになるし、家族にそのような病気を持っている者がいることそのものを拒む人もいなくはないからな。多分、今の彼はそういう病気を持っていることで体節にされ、結果的には体調もよくなったが、今の生活を手放すのがおしくなったってところなんだろう」
「お言葉ですが」とナースは遠慮がちに
「それならば、結果としてあの患者さんのためにはならなかったんじゃないのでしょうか。病気でもないのに病人のふりをして、甘やかされた生活に浸ってしまうというのは」
「確かに君の言うとおりだ。でも、私は医者として、放置しておけば悪化するような患者を目の前にして、そのままにしておくことはできない。少なくても、彼に対しては適切な処置をしたつもりだ。ただ……」
「ただ……」
「人間とは元来、楽な生活に味をしめてしまうと抜け出せなくなってしまうものなんだ。病気があるのならば治療して元の状態にしなければならない、しかし、病人と言う肩書きを利用して自分に都合のいい理屈を並べて、無理を通そうとする人間も少なくないようなんだ。確かに、今は明確な病気ではなくてもそのままにしておけば重度化するようなボーダーライン上にいるような患者はかなり多い。そして我々はそれらの状況に対して何かしらの病名をつけた上で適切な処置をしなければならないが、そのこと事態また新たな社会病利を生み出しているような気がするんだ」
ドクターは再びため息をつき
「差別や偏見が社会的な弱者を生み出す一方で、その弱者を擁護するような考えも生まれる。しかし、中途半端な知識だけで擁護に入れば、それを逆手にとって都合のいいような解釈を持ち出すヤツも出て来るんだ。本当に治療しなければならない人も大勢いるが、医学的な立場からではなく、別の視点から治療しなければならないケースも増えて困っているのが今の私の悩みなんだ、あの患者のようにね」
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