挨拶の魔法
クダラレイタロウ
第1話
ラフ、と言うのすら憚られる格好で現れた奴に、私は眉根を寄せる。
おいおいオマエ、いくら自分の実家に行く番だからって、パーカーにジャージはねえだろう。常識ってもんを考えろと言ってやりたい。嫁ぐ方の身にもなってほしい。
訝り顔を向けていると、奥から私を認めて、まるで鏡合わせのように訝り顔を返してきた。上から下まで舐めるような、無遠慮な視線を飛ばしてきたかと思うと、眉間に刻まれたシワは更にその亀裂を濃くした。
つかつかと遠慮のない人格を丸出しにした歩調で、こちらにやってきたと思うと、開口一番、割と信じられないことを言われた。
「お前、汚れてもいい格好で来いって言ったろ」
「はぁ?」
私は訝り顔を崩さないまんま、強い口調で問い返すと、またか、とでも言いたげに浅いため息を吐いた。
「お前、またメールちゃんと読まなかったろ」
オマエのメール、長いんだよ。口には出してやらない代わりに、反射的にそう思う。
いつもひと言ふた言の文しか打たない私からすると、三行以上の文章が並ぶメールは、レスポンスを重ねていくうちにどうしても目が滑ってしまう。確かにそのせいで割と重要な内容を読み飛ばし、意思疎通ができなかったり、齟齬が生まれてしまったことは多々あった。
イヤイヤながら、携帯メールを見返す。しかし、その文面に私はきちんと覚えがあった。
『オヤジん家はきたねーし、気張らねーでテキトーな汚れてもいい服着てこい』
そうあった。うん、覚えてる。こればっかりはきちんと読んでたぞ私は。しかしだな。
オマエ、考えてもみろ。結婚報告しに行くんだぞ?
こいつなりに気を遣った一文なのかも知れない。しかし、このシチュエーションでそれはちょっと呆れざる得ない気がする。送られてきた時は、気張るとかそーゆー問題じゃねーだろと思って、その部分は黙殺した。だからほっとんど、印象に残らなかった。結果私は、ちょっと前に、結婚挨拶用にとわざわざ想定して買っておいた服を着てった。無難と考えていたが、まさかこんな顔をされるとは。何だ? こいつの親父の家は、近所でも有名なゴミ屋敷とかなのか?
この男は分かりやすい男だ。それが個性になるくらい、突き詰めて。だから、もうそろ改めてプロポーズしてくんだろと言う、そわそわした空気感すら私は、察知させられざるを得なかった。まあ私はそこがいいと思っていた。俗に言う駆け引きや、心理戦を必要としない、つうかあのしやすい男。まるで単細胞バカと言っているように聞こえるかも知れないが、それも突き詰めると尊敬に値するレベルになる。だからこそ私はいよいよプロポーズを受けた時、一切迷わなかった。迷わなかったどころか、プロポーズを受ける前から、それを想定して、今日のこの服を買ってしまっていたのだ。フライングも甚だしい。私も割とそそっかしい女だ。
明け透け過ぎてグダグダだったプロポーズは、それこそプロポーズなんつう横文字にしてやると失笑を禁じ得ない。求婚って言ってやった方がいいだろう。その方が、ひねりと言うものを知らないこの男には似合う。
だからこそ私はこの男が持つ秘密を、まるで予見できていなかった。
この男との出会い、と言うのは場が場なのでちょっと気が引ける。認識したのは他でもない、こいつの母の葬儀だった。
まだ若いのに、喪主を務めている姿が初めから目を引いた。存外、立派に。悪く言えば事務的に。私はこいつの母親と繋がりがもともとあった。母親は生前、スーパーで長いことパートをしていた。私はぺーぺーの新入社員の時に、彼女のいるスーパーに配属されていた。私が飛び込んだ時点で、パートと正社員の間には、それはそれは露骨な対立構造ができていた。しかし、母親は私を毛嫌いしなかった。そもそもあまり、対立を好む性格ではなかったらしく、正社員だからと言って嫌悪感を示す感覚が彼女にはそもそも備わっていなかった。そこに付け入ってちゃっかりいいように使おうとしていた正社員もいたが、ずいぶん世話してもらった私からすれば、さすがにそれは憚られるような人格の持ち主だった。
「いいのよ。人が足りないのは分かりきってるしね。アグリちゃんの日なら私もやりやすいし、来るわよ」
正社員が私一人で受け持つ日で、なおかつ露骨に人が足りない日なんかは、向こうからこう申し出てくれた。
「私は他のパートさんと違って、子どもももう大きいしね。そうそう、私の子ね、アグリちゃんと同じくらいの年なのよ……あんまり帰って来てくれないけど」
アグリちゃんもたまにはお母さんに会いに行ってあげなきゃダメよ? そう諭してくれた彼女の顔は今でもはっきり覚えている。こんな風に考えるのは失礼かもしれないが、あんなに良くしてもらったのは、正社員の中で、彼女のお子さんと年齢がいちばん近いのが私だったと言うのもあったのかも知れない。
だからこそ、訃報を聞いた時はショックだった。彼女は既に別のスーパーへ異動していたが、私は新聞でその名前を見て、すぐに葬儀に駆けつけた。
そこで初めて彼女の息子を見た。本当に年は私と変わらないようだった。恐らくあまり着慣れていないと見られる喪服に身を包みながらも、涙を一切見せず喪主を務め上げる彼は、気丈とも取れたかも知れない。
しかし、私は少し怒りを覚えた。そんなに彼女の親族と近しい関係には無かったのだから、今思えば身勝手な感想だったのかも知れない。
だけど、淡々と葬儀を進める息子は、どうしても悲しんでいるように見えなかったのだ。私は人の心を読むことに長けている訳でもないのに、何となくこの時はそう思えて仕方なかった。この若さで喪主を務めなくてはならない状況は、悲しみを覚えているいとまさえないのかもしれないとも思ったものの、どこかに割り切りきれない思いが、私には身勝手にもあった。私の母もいっとき、生死に関わる病気で倒れ、危ない橋を渡ったことがある。何とか運良く一命を取り留めて、今は通院で済むまで快復してくれた。それだけでも、私の精神は取れかけの乳歯くらいぐらぐらと揺らいだ。当時、私はまだ大学生だったのだが、そんなことをしたとして何の役にも立たないのに、しばらく大学を休んで膝を抱いてばかりいた。
初めての就職先で、まるで娘のように接してくれた彼女の死は、やはり母が倒れた時のことや、これから間違いなく来るであろう母を失う瞬間を想起させた。生前、彼女と接していた時でさえ、母のことを考えさせてくれることが多かった。だからだろう。葬儀の時の彼の態度について、何かしゃくにさわる部分があったのだ。
「何かすげー見てくる女がいるな、と思ったよ」
こいつは後々、付き合い始めた頃、そんな言い草で葬儀の時のことを述懐していた。後日、改めて線香をあげに行った時、私は初めて息子と話す機会を得た。葬儀の時、会場には顔は出せたものの、仕事の都合でどうしても時間が取れず、香典を置いていくくらいしかできなかったからだ。
訪ねた私が、生前の故人との関係を伝えると彼はこう言った。
「ああ。わざわざ、ありがとうございます。当時、母から聞いたことがあります。可愛い子が入ってきたんだって、言ってましたよ。ああいう子を嫁に連れてきてほしいなんて言われたこともありますね」
先入観からか、この発言も何となく感じ悪いなと思った。愛想笑いにしても品のない笑顔が、どうもへらへらとしたものに思えた。出してくる話題も、ちょっと不謹慎まではいかなくとも、軽率ではなかろうか、と。あまり帰ってきてくれない、と、寂しがる彼女の言葉を思い出してしまい、その空気感との違いもあって、私は余計に失望していた。他にもいくつか言葉を交わしたが、母を弔う子の姿にはどうしても見えなかった。やはり何か、軽い。
「? 何か?」
率直な感想は、態度にまで出ていたらしい。
親族という訳でもないのに、葬儀が終わった後に改めて訪ねてくる時点でおかしな女だし、厚かましさどころか怪しささえあるかも知れないのに。ズバリ、私はそれを指摘してしまうのだった。
「何か、あんまり悲しそうじゃないですね。ほっとしているみたい」
思えば、こんなのは有り得ないなと、今は反省している。参列者の中でも、私は故人と関係が浅い方だったと思う。スーパーも亡くなる直前まで勤めていた訳ではないので、私は既に他人とだって言える。葬儀の場ともなると、男の人なんてそうそう感情なんて表に出さないし、そもそも家庭の事情もほとんど知らないのに。思い出すたび、自分の軽率さを恥じてしまう。
虚を突かれたように、彼は黙った。その顔を見て、やはり言うべきではなかったよなとさすがに私も後悔した。塩を撒かれても仕方がないとも思った。その一瞬は。
しかし、その後悔は一瞬にして取り払われることになる。信じられないことに彼は、すぐに破顔した。笑ったのだ。自嘲を含んでいるのは見て取れたが、やはりそれも軽率に映った。次に続いた彼の返事は、更に信じられないものだった。
「分かりますか」
え、と声を漏らした。怒りにつながる前に、彼は続けた。
「実は、好きじゃなかったです。母のことは」
遺影に目を向けながら彼はそう言った。遺影を見る彼の表情は少し眉間にシワが寄っていて、憎々しげですらあった。
沈黙のポケットが入り、私も少し思い直した。こんな非常識な物言いをする私にすらそう漏らすのだから、やはり何か事情があるのかもしれない。しかし、私が知る故人を思うと、やはり言葉を続けたい気持ちが残った。
「でもあの、お一人で育ててらしたと聞いています」
昔、離婚されたとは生前、聞いていた。私の父も高校生の時に他界している。大学まで出してくれた母には感謝している。
「一人で育てることになったのは、母の勝手な都合です」
言い捨てるような言い種に絶句すると、彼は続けた。
「僕が幼い頃、父は借金を抱えて失業しました。生活を立て直す為に努力すると言った父から、母は問答無用で僕を連れて逃げたんです。仕事を失った父から、家族まで取り上げたんです。あの人は」
僕からも、父を奪った、とぽつり彼は言った。
「もちろん、感謝はしています。育ててくれたのは事実ですし。でもずっと、ずっと昔から嫌いでした」
溜まり溜まったものがあったのかも知れない。いくら何でも部外者に等しい私に対し、極端な表現を使いすぎている。あくまで口振りは冷静だが、言っている内容からすれば明らかに彼は冷静ではなかった。
後で聞いたことだが、自分の母への気持ちをズバリ指摘したのが、たまたま私だけだったんだそうだ。まあそれは、そうだろう。こんな失礼なことを言う常識外れな人間は、私くらいなものだ。無遠慮な親戚とかなら、それを指摘する人がいてもおかしくはないかも知れないが、そういう存在もいなかったそうだ。まあ、また身内なら身内で、こんなことをノリノリで死後に告白したらカドが立つだろうから、寧ろ他人だった方が打ち明けやすかったのかもしれない。
帰ろうとする私を、彼が呼び止めた。もちろん断ってくれていいんですけど、と彼は前置きした。
「そこまで母を庇おうとする人は、他にいませんでした。お察しの通り、僕では母を悼みきれません。良かったら、たまに来てあげてくれませんか。母も喜びます」
遺族として身勝手な願い出だと思った。それによく、自分を非難した人間をまた来いと言えるなと。しかし、私は彼女が好きだった。本当に、心の底から彼女が可哀想だった。私は頷いた。連絡先を交換し、後日、彼女の納骨堂がある、寺とフロアの場所も聞いた。
考えれば不思議なものだ。隣を歩く、横顔を見て思う。
それから墓参りをしたりしているうちに、何となく今度は彼が心配になってきた。生前の彼女の部屋を引き払ったと言うので、線香をあげる為に、彼の部屋に足を運んだこともある。喪った母を想えないと言うのは、あまりにも寂しいことだとも思った。だから、私は生前の彼女が、どれだけあなたを心配していたか、思っていたか、知る限り語った。彼女がスーパーのパートで働いた期間は長い。私と一緒だった期間ですら三年ある。その中で、彼女とは多くのことを話してきた。その会話の中で、息子である彼の話も多く出てきていた。そこからにじみ出る母の愛。彼が受け取りたかったものとは違ったのかもしれないが、それでも彼女の息子への愛は、まっすぐなものだったと言う記憶がある。人並みの、或いはそれ以上の母親の愛に溢れていた。だからこそ、それが伝わっていなかったと知ったとき、余計にやるせなかったのだ。
そんなやるせなさが、一体ぜんたいどうして恋に変わったのかは、あまり思い出せない。思いのまっすぐさ、自分の気持ちへの正直さが、まさしく母親譲りだなと思ったあたりから、彼を理解する気持ちが生まれた気はしている。
そして最終的に、故人の望みを私は叶えてあげられたんだという実感があった。
アグリちゃんはいい子だねえ。娘にしたいわ。
当時、言ってくれた言葉が、声がよみがえる。
見てくれていますか。私、あなたの娘になれそうです。嫁に来てほしいと言う言葉は冗談だったのかもしれないですし、それを軽率に口にした息子には腹が立ててしまいましたが、あなたがそう言ってくれていたこと自体はすごく、嬉しかったんです。
彼の母のことをひとしきり回想していても、なかなか目的地には着かなかった。と言うか、もうかれこれ二十分くらい歩いていないか? そろそろ足が痛いのだが。さすがにこんなに歩かされるとなると、身体のことも心配だった。
「ねえ、まだ着かないの? この距離だったら、タクシーとかでも良かったのに」
ぼやいてみると、彼もさすがに申し訳なさそうな顔をした。
「ああ、ごめん。ちょっとこの辺りは懐かしいんだ。校区だし」
「コーク?」
「通学路。俺の青春の思い出が詰まったステージ」
さすがに言葉の飾り付けが過ぎるので、吹き出してしまった。中学生かよお前は。なんだよ、と小突かれたと思うと、ぴたりと彼の足が止まる。ふざけるのをやめて、彼を見やると、私の足許を見ていた。
「え、何?」
「お前、ここ、その靴で降りれる?」
「はい?」
彼が指さしたのは川の土手。平行なアスファルトから斜面が伸び、斜面には干し草のような枯れた雑草が寝ている。私はローヒールのパンプスを履いている。降りられないことはないと思うが、ちょっと気を付けて降りないと転んでしまいそうだった。
「え、なに、ここ降りるの? やめようよ。何かあそこ、ホームレスいるっぽいし。そもそもこれから挨拶行くんでしょ? 思い出深いのか知らないけど、せめて寄り道は帰りにしなさいよ」
目の前をアスファルト沿いに歩けば、橋に差し掛かる。川があるので、それを跨ぐ橋だ。その高架下(と呼ぶほど橋は大きくないが)の影にひっそり、段ボールで拵えていると思しき、家のようなものが見えた。
嫌な予感はした。ダンボールハウスをこっそり指差した時に、彼の表情はみるみる曇った。嫌そうにと言うよりは、複雑そうに。この男の顔は、見ていれば意図を読みやすいので、話す時には意識して顔を観察するようにしている。
「……実はあれが、オヤジん家なんだ」
「……は?」
言っている意味が、理解できなかった。
「まずは降りるぞ。見てもらった方が早い」
彼は私の手を引いて、土手を降りていく。引っ張られる形となった私は、両手で引く手を掴んでいったんは拒んだが、まずは降りろ、と顔で促され、仕方なく足許に気を付けながら土手を降りた。手を繋いでもらえてさえいれば、思ったより危険ではないようだった。
私たちに気付いたのか、ダンボールハウスの中から、人が出てきた。ぬっと出てきた男性を見て、軽くぞっとする。
ああ、顔が似ている。そういうことか。この人が。
男性がこちらを見て笑顔で頭を垂れたのを見て、諦めに近い気持ちで確信する。これがお父様だ。汚れてもいい格好って、こういうことか。
言えよ。
「オッサンこれ、玄関ブチ抜いて大丈夫なのかよ。これから冬だろ? 死ぬぞ」
彼が玄関と言って指差したのはダンボールハウスの前面だ。今はハウスが一面だけ完全なコの字型になっているが、破いた跡があるので、恐らく壁にあたる部分が、前面にも少なからずあったのだろう。だとしても玄関と称するのは無理があると思うが。
「後で修繕しますよ。だって、ここを開け放たないと、三人なんてどうやっても座れないでしょ? ただでさえ
挨拶もそこそこにし終わると、ずいぶん関係性を混乱させる会話を二人が繰り広げるので、私は絶句して見ているしかなかった。
「て言うか仙崎さんて呼ぶなよ。もう苗字あんたのをもらうんだから」
実は彼、仙崎
と言うかそもそも、何で仙崎〝さん〟なんだ? 実の息子を相手に、さん付けで呼ぶ方がよっぽどおかしいだろう。と言うか何でそもそも敬語なんだ? 彼の口ぶりが粗野なのは割と誰に対してもそうなのだが、親に対しての口調にしてもちょっと度が過ぎているようにも思う。呼称も何故か〝オッサン〟だし。まあ彼の口ぶりだけならまだしも、父親の敬語が何とも異質だ。
ただこれだけはわかる。彼は、この人が好きなのだ。端から見ていて、母とのあの関係性の話を聞いていなかったとしても、これは一目瞭然だ。この大好きな父親を捨てた母が嫌いだと言うのも、分かる。状況だけ見るととても分かりにくいが、この口調の荒さ、無遠慮さも彼が気を許しているからこそ出ているものなのだ。
こいつ、ただの単細胞だと思ったら、意外と面倒くさいところもあるじゃねえか。今回のこの挨拶に来るというところだけで、まったく違う側面を見せられ、まるで魔法でもかけられたかのようだった。
「ああそうだ。私、お茶菓子も出さずに失礼しました。あの、これどうぞ」
ペットボトルのお茶と、ちょっと潰れた温泉まんじゅうを差し出されたので、呆気に取られつつも、何だか過剰に申し訳ない気持ちになり、すごく、すごく謝りながら受け取ってしまった。
それを見ていた彼が表情を固くした。
「……おい待て。オッサンそれ、どこから盗ってきた」
「え、ひどいです仙崎さん。仙崎さんのお嫁さんに私だって盗んだ物なんて出しませんよ。駅の方に住むオダさんにね、息子が嫁を連れてくるって自慢したら、子どもに食わせろって二つ恵んでくれたんです」
「オダのジジイって、おい! あいつコソ泥じゃねえか! ぜったい盗品だろ! ふざけんなーっ!」
「痛いイタイ痛い! ごめんなさいもうしません」
実の息子に耳を捻られて自白するお父様は、威厳も何も無かった。何か、いちおう緊張して黙っている自分がバカみたいだった。
……たぶん、その手癖が悪いらしいオダさんとは、ホームレス仲間なのだろう。ホームレスにも、ネットワークがあるのだなと変なところで感心した。
彼が用意したビニールシートとクッションの上に座った私は、確かにこの格好で来たのは間違いだったと悟る。お腹も冷えそうで怖いし。どう考えてもコントのようなこの状況と会話。どうして相手の親御さんへの挨拶と言えよう。私は母に、どう説明すればよいだろう。一度お会いしたいわと無邪気に言っていた母の顔をぼんやり遠い昔のことのように思い出す。
色んな意味で、これはどうしたものか。
「ほら、もうそのへんにして!」
私は彼の手を取り、お父様の耳を開放してあげた。まんじゅうはそっとお父様の方に戻し、お茶だけ握りしめて彼に言う。
「そんなこと話に来たんじゃないでしょう?」
彼の真意がようやく分かった。今後のことを考える為にも一度ちゃんと会わせてほしいと伝え、ようやく今回の機会を彼は設けてくれた。しかしこれはもう仕方ない。一瞬、どうしようと考えたものの、しかしこれは彼の願い出を受けるしかないだろう。
「私、大丈夫だから。生活も、じゅうぶんしていけると思うし」
「え? ああ……あの、本当に、ごめん」
私は首を振った。お父様は目をぱちくりさせながら、私と彼に視線を行ったり来たりさせている。ずいぶん抜けている印象があるが、かわいい人だ。大丈夫。暮らしていける。
「オッサン。前から言ってたろ。俺も所帯持てるまでになったし、あんたも住まわせながら、回していけるくらいにはなった。だから、俺らの家に来い」
まさかホームレスだとは思わなかったが。
父と一緒に住んでほしい、と求婚の時に同時に頼まれた。こいつは一緒に暮らしてきた母を憎んでまで、離れた父を想っていた。一方で私は、私によくしてくれたあのお母様を好きになってもらう為に私は彼と向き合い、結婚まで決めた。そのうちに、父親に特別な想いが寄せていることも承知していた。
『あの母親のせいで、オヤジはサイアクな人生を歩んでるんだ』
そのタイミングで、具体的にホームレスなんだと言ってくれれば良かったものを、躊躇いがあったのか言わなかった。洋食店が潰れてしまったのをきっかけに離婚したところまでは聞いていたが。
今回、ここに来るまでにもけっこう揉めた。過剰に会わせたがらないし、いざ会うことが決まっても、連れてくるから、などと最初は言っていた。結婚の挨拶も兼ねるというのに、呼びつけるだなんてありえないと何度も説得して、今日に至った。
行くのではなく連れてきたいという意図は、橋上を走る車の音が高架下であるこの場に響くたびに会話をストップしなければいけない今なら、とてもよく分かるが。
『俺はな、もっかいオヤジの料理を食いたいんだ』
彼は少しずつ、私に心を開き、自分の願いを伝えてくれた。器用ではなかったけど、やはり真っ直ぐで素直な気持ちなのが伝わってきた。彼の性格上、バカみたいな大きな夢を語ってもおかしくないのに、彼が実直に語るのはそんなささやかな願いだった。是非、叶えてやりたかった。だから、一緒に住むことも含めて、私はほとんど迷わず決めた。
挨拶に行って、まず一目でも会わせてもらうことだけはしっかり条件にして。
「一緒に住むのは、たぶん平気。それくらい覚悟して結婚も決めたつもり。だけど、いちおうどういう人なのか、会ってみたい。挨拶もしなきゃいけないでしょ?」
実際に会ってみて、分かった。まだそんなに話していないし、盗品と思しき温泉まんじゅうをつかまされそうにはなったけど。でもきっと大丈夫。頼りない雰囲気は真逆と言っていいほど違うけど、直感的に思った。ああ、似てる。空気が同じだ。この人たちとなら、生活してみたい。ちょっとまだ、関係性が不透明な部分はあるけど、それくらいどうと言うことはないと思う。きっと、楽しい。
それに、私も食べてみたいと思ったのだ。店は潰してしまったけれども、味は確かだったと言う。結婚前、彼がしてくれたかぼちゃのポタージュの話。彼はあの味が忘れられないんだそうだ。
「私からもお願いします」
私は頭を下げた。あんなに偉そうだったけど、ここは察したのか、私に倣って頭を下げた。
「……頭を上げてください」
「オッサン。俺は心配なんだよ」
彼は、結婚する前にも、何度かこの申し出をして断られているようだ。しかし、彼が心配するのも当然だろう。冬もここで凍えながら生活しているのだ。お父様は還暦を過ぎておいでだとも聞いている。健康状態だって、分からない。現時点でも、検査して何かしら見つかってもおかしくない年齢だ。
「まずはご結婚、おめでとうございます。本当に良かった。生きているうちに、仙崎さんのお嫁さんにご挨拶にお越し頂けるなんて、夢にも思いませんでした」
今度はお父様が頭を下げた。
「アグリさん、でしたね。仙崎さん、一輝に嫁いで下さって、本当にありがとうございます。一緒に住んでほしいなんてわがままにまでお付き合い頂いて。お気持ちは受け取らせて頂きます。ですが、アグリさん。できればこの老い先短い老人めの願いを叶えて頂きたいのですが」
今までとは違うお父様の雰囲気に当惑しながら、私はひとまず頷いた。
「元気な孫の顔を見せてほしいのです」
彼が僅かに顔を上げた。お父様が続ける。
「こんな愚かな私ですが、現金なもので、結婚した上で息子が会いに来てくれるとあらば、その希望も見えてきてしまうもので。私を養おうとするそのお金で、たっぷりと孫に贅沢をさせてやっては頂けませんか」
私も少し、顔を上げた。もう一度、彼の方を見ると、目が合った。
「……オッサン」
私の方を真っ直ぐ見るお父様の視線が、彼の方にずれる。
「あんた、どこまでおめでたいんだ」
「……ええ?」
彼が完全に頭を上げる。どころか、腕組みまでしだした。先ほどまでの空気が、一気に戻ってくる。あの、お願いする立場なのは変わらないと思うのだが、いいのか?
「あのな、俺はあんたがいても回していけるって言ったんだ。養うなんてひと言も言ってないぞ」
え、と今度は短く返事をした。口もとが引き攣ってきている。
「俺も店出してんのは知ってるな。あんたには店を手伝ってもらう。お前は金を食うんじゃない。生むんだよ」
こんな偉そうなスカウトは見たことがない。この二人の関係性だから成立している、んだよな?
「二十年近く、包丁も握ってねえのは知ってる。だから、気合で勘、取り戻せ。二人で店、復活させるぞ」
お父様は絶句して固まっていたが、後半、目を丸くしつつも、ぱあっと華やかな表情になってきていた。何というか、無邪気だ。六十代とは思えないくらい。彼がやきもきしてあの手この手と仕掛けたくなる気持ちも、何となく分かってきた気がする。
魔法の根源は紛れもなく、この人だ。
「仙崎さん」
「だから仙崎じゃねえっての……あんたの味、再現できなくて困ってんだよ。そもそも、全メニュー食えてなかったし。それにな」
私もこっそり身体を起こし、お腹をさすった。
「あんたの夢はもう半分、叶ってる。ガキに贅沢させられるかどうかは、あんたがどれだけ金を生むかにかかってる」
彼が私にチラリと目を向けた。それを見て、お父様もこちらを見る。私はさすがにちょっと居たたまれなくなって俯いて目をそらした。と言うか、今日のこの挨拶だけで分かった。意外とこの男、秘密もきちんと持つことができる。ちょっと感心した。
「さっさと準備して、あんたは店に住み込みで。いいな?」
私がそのうち身重で店を手伝えなくなるから、当店は即戦力で人が必要な状況にこれから追い込まれる。住所不定の老人とはいえ、飲食店経営の経験者が住み込みで来てくれるなんて、願ってもないことだ。そこを言わないのは単純に照れ隠しからか、寧ろ遠慮のない関係性だからなのか。分からないけど、いずれにしても何か、微笑ましい。
そこを理解している様子もないお父様は頷きながら、妙に大袈裟に泣き崩れた。ほとんど言葉になっていなかったけど、どうも私にありがとう、と感謝の言葉を述べているらしかった。本当に、かわいい人だ。
挨拶の魔法 クダラレイタロウ @kudarareitarou
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