n1.

 おだやかな冬の昼下がり、僕は都内の大学病院にいた。


 落ち着いたグレーの床、ブラウンの壁面。どちらも光を反射しない自然素材が用いられ、温かみを感じさせるデザインになっている。


 大きく締め切った窓からは、ぬくもりのある陽ざしだけが届く。肌を刺すような寒風の代わり、人工の風も受けながら、ホコリ一つない清潔感のある廊下を進んでいった。角を曲がり、奥の部屋で立ち止まる。


「こんにちは、紅坂さん。伊織です」


 軽くノックした。「入りますね」と、声をかけたあとで扉をスライドさせた。


 室内に踏み入ると、廊下よりも温かい風が頬をなでる。目に映る光景は、一流ホテルのスイートを思わせる個室だ。飾り気はないが、いかにも特注であることを示すベッドに、美しい女性が佇んでいる。


「なんだ、また伊織か」

「また僕で申しわけありませんでしたね」

「お前の顔は見飽きた。帰れよ」

「あはは。ひどいなぁ」


 部屋の主は「紅坂朱音」という。各エンタメ界隈でその名を轟かせる『怪物』だ。去年の終わりまで、日本を代表するゲームIP「フィールズクロニクル」のプロデューサー職についていた。そしてゲームの完成版となるマスターアップの直前に過労で倒れ、この病院に運ばれた。


 病状は脳梗塞。伝達神経の一部は壊死して治らなかった。彼女の利き腕には麻痺が残る。SNSでは「紅坂朱音はオワコン」という非難中傷が飛び交っている。


「お前、大学受験、そろそろじゃなかったっけ?」

「来週には発表ですよ」

「なんだ、もしかして今日が受験日だったのか」

「えぇ。おそらく合格しましたよ。僕以外の全員が、満点でも取ってない限りはね」

「そいつはめでたい。予選突破オメデトウ」


 人生の一大イベントを、あっさり予選扱いされてしまう。

 まぁ実際、そんなものだろうけど。


「紅坂さん、ハンガー借りますよ」

「好きにしろ」


 手負いの化物は、病室のベッドに掛けている時ですら変わらない。まるで檻の中に閉じ込められた獣が牙を研ぐように、リハビリ用のゴムボールを握ったり、退屈で弄んだりしている。


「身体の調子はどうですか?」


 手にしていた鞄を床に置き、クローゼットを開いた。ハンガーラックに上着をかけてから尋ねる。


「問題ねぇ。っつーか、今日ぐらいは家に帰っとけよ。お前の家、両親は不在で、女子高生の妹が一人で暮らしてるんだろ」

「大丈夫です。さっきメールを送りましたから。妹も僕に似て淡泊なところがあるので、一人は慣れています」

「あぁそうかい」

「えぇ、そういうわけです。椅子も借りますね」

「好きにしろ」


 許可を得て、来客用の椅子に腰を下ろす。これもありがちなパイプ椅子ではなく、近代デザインのアーロンチェアだ。


「……」


 さて、今日は何を語ろうか。瞳を逸らさず、相手がどのような情報を含んでいるかを探り合う。この緊張感が好きだ。会話は一言の密度が高いほど良い。


「――髪が」


 静寂を打ち切ったのは、彼女が先だった。


「ほんの少しだけ、髪が伸びたな」

「そうですか?」

「最近、美容院にいってないだろ。自分の〝居場所〟を見つけて、身だしなみが疎かになりやがったな」


 心臓が凍る。彼女は、ひどく的確に過ぎた。

 そんな僕の動揺を見透かしたように「ふふん」と笑う。


「夢中になれるものを見つけたのは結構だがな。身内(オタク)の色に染まりすぎると、対外の交渉と評価に響くぞ。気を付けな」

「……心得ておきます」


 姿勢を正す。緊張感を取り戻すと、僕の師は頷いた。


「手番をくれてやる。お前のターンだ」


 所詮、人生はゲームだ。人間はたかが知れている。

 ルールに則り、点数を交換するだけの生き物にすぎない――僕の本質を見抜き、あえてそんな言葉を投げてくる。


「……師匠は、髪が短くなりましたね、少しだけ」

「お苑がうるせぇんだよ。うっとおしいから、切れ切れ~っつってよ」

「いますよね。髪を伸ばしたい年頃の娘と、切りたがる母親」

「あたしを痛いアラサー女にすんな。っつーか、見合い写真まで撮ろうとしやがって。この前なんか一眼持って自撮り勧めてきたんだぜ? あいつマジでヤバくね? 自分の婚期ガン無視で、親友の仲人気取りとか、どんだけあたしの事好きなのって話よ」

「知りませんよ」


 うん、なんだこの会話。しかし微妙に痛いところをつけたのか、ふいと視線をそらされる。


「っつーか、あんまりジロジロ見てんじゃねぇぞ。化粧も何もしてねぇんだから」

「十分に綺麗ですよ」

「相変わらず世辞だけは得意な男だな」


 白いため息を、ひとつ。


「さてと。世間話は十分だろ。伊織、今日は暇だったよな?」

「断言されるのも困りますが、内容によっては引き受けますよ」

「素直に仕事をお恵みくださいと言え。押し付けてやる」


 とんでもないブラック上司だった。


「ネットに繋がるもの、なんか持ってるか?」

「無線に繋げたタブレットならありますけど、スペック高くないですよ」

「クラウド上のデータベースを開く程度だ。それでいい」


 席を立つ。持っていた鞄から、タブレットPCを取りだした。


 ベッドのサイドボードから、飲食にも使える平台を組み立てて、タブレットを起動してパスワードを入れた。


 彼女は細い指で操作する個人情報があるらしい場所にアクセスして画面を見せてきた。


「あたしが再入院した後、いくつか仕事を切ったのは知ってるな?」

「マンガ原作とか、小説の執筆ですよね」

「そうだ。あたしはもう、第一線への復帰は叶わない」


 ゲームプロデューサーのみならず、各方面でマルチクリエイターの異名を持っていた紅坂朱音の作品は「休載」処置を取っていた。だが今回の再入院で、いよいよ連載の中断を決断するに至ったらしい。


「――勘違いするなよ。これ以上、自分のアシ共にタダ飯食らいをさせたくなかっただけだ。頭がハッキリ告知しないと、手足の連中も無駄にしがみつこうとするだろ」


 確かにその通りだが、彼女の心境を推し量ることはできない。自分の身を削るように続けてきた仕事を辞める。その裏にどんな理由があったとしても、それは必ず苦渋の決断となるはずだ。


「仕事を辞めるからには、現状で借りてる家を解約する必要がある。その手続き、不動産とのやりとりなんかを、受験が終わって暇なお前に任せたい」

「……僕でいいんですか?」

「構わん。さっきアクセスしたページに、あたしの印鑑やら個人証明書を預けた場所が書いてある。確認して別メディアに保存しとけ」


 正直、意外な内容だった。


「僕はてっきり、新拠点の立ち上げに備えて人材を集めろ。という話だと思いましたが……」

「そっちは別のルートを考えてるさ」

「別のルート?」

「くくく。どうせ〝例の少年〟は、これから一年を通して暇に明け暮れる事になるだろ? だから、人材集めはあいつに任せる」


 ――例の〝少年〟といえば、思い当たる節は一人しかいない。


「彼も一応、地元の大学を受験したとは言ってましたけどね?」

「あはははははは。受かるわけないじゃん?」

「ですよね」


 珍しく意見が一致した。すまない、倫也くん、正論だ。

 君は向こう一年、美人のアラサーお姉さんに食べさせてもらえる選択肢を選べるみたいだよ。良かったね?


「それで……肝心の退院できる日は決まりそうなんですか?」

「来週の精密検査次第だな。桜が咲く頃には、あたしも新規一転、出直しってわけだ」

「余計な再入院フラグを立てないでください。せっかくだから隅々まで検査して、おとなしくしていてください」

「お苑と同じことを言うんじゃねぇ。父親か。っつーか、もうガマンの限界。お前も気が効かん弟子だよなぁ。一升ぐらい持ってこいよ」

「出禁になるので無理です」


 冗談で言ってないから困る。


「あーあ、あたしも早く退院して、気ままに同人作って稼ぎて~」

「その発言、全国の同人作家の大半を敵に回しますよ」

「上等。そのぐらいの覚悟がないと、アレは越えられんだろ」

「紅坂さんほどの人が注目する作品がありましたか」

「なんだよ、謙遜すんなよ」

「……どういうことですか?」


 世間から〝怪物〟と称されている彼女が、緩やかに笑った。

 赤い唇が紡ぐ。僕らにとって、黄金律にも等しい旋律を口にする。


「お前たちの作品だよ。――冴えない彼女の育て方」


 彼女の表情が、とても美しいものに思えた瞬間だった。



「波島伊織」



 名を呼ばれた。


「お前たちの作った〝二作目〟な。――良かったよ」


 自分たちの名前は単なる記号ではないのだと。

 当たり前の真実を、僕はその女性から教わった。


「あたしはウソを付かない。知ってるだろ。世間の評価は分かれるだろうが、アレは確かに良い作品だった。あの少年の一途な勘違いと、なにより、その勘違いの向こう側に、〝お前がいる〟のも見えていた」

「……っ!」


 今日も変わらず沈み行く太陽の日差しが、境界を超えて降り注ぐ。気づかないフリをしていた檻の鍵を開くように天蓋が崩れる。道が開けたのを確信したように、世界がとつぜん色めきだした。


「この世には実際、紛れもない〝奇跡〟ってやつがあるんだよ。誰かが欠けてはいけない。多くても起こらない。まるで巡り合わせたかのように、同じ意志や感情を抱いた【適切な人間たち】が一所に集まる。常識ではありえないような事、理想を実現する瞬間ってのがあるんだよ。そしてその中に、お前もいた」


 祝福の鐘がなる。彼女の背から、この世ならざる翼が広がるのを見たと言えば、笑われるだろうか。


「おめでとう。波島伊織。少々早いが卒業だ。お前は否定するかもしれないが、もう立派なクリエイターの一人だよ。自らを誇り、自負しろ。この先も信念に従い、死んでいけ」


 心臓が。血が。熱に染まるのを、身の内からわきあがるのを。

 ただ、感じとっていた。


「お前の〝次なるもの〟を、あたしは期待する。以上だ」

「……ありがとうございます……」


 気がつけば、深々と頭を下げていた。目頭が熱くなり、迸る熱があふれないよう必死だった。


 ――【クリエイター殺し】紅坂朱音


 誰もが畏怖して、侮蔑する名が持つ本当の意味を。

 僕はこの日、始めて知った。そして、


「伊織」

「はい?」

「部屋を出るまででいい。私をエスコートして帰れ」

「え?」

「これから検査とリハビリだからな。少しだけ、人に戻らせろ」


 とつぜん、細長い、陶磁器のような手を差し伸べられた。断る間もなく、縋るように抱き付かれた。


「……頼むぜ。しっかり握っててくれよ」


 ぐっと身を寄せて、彼女が立ち上がる。ひどく実感した。


「…………軽い」


 本当に軽すぎて、つい声にでた。

 これまで触れ合った、どんな女性よりも軽かった。


 肉を、魂を。心身共に削り尽くして、理想に埋没し、他者や物を徹底して選別し、云われなき非難と憎悪と期待を一身に浴びて、すり切れるほどに作品に興じ、創作性の神に奉仕し、個人の幸福の一切をすべて放棄した、抜け殻のような女が重く圧し掛かっていた。


「…………人間なんて、たいした生き物じゃない。いつか死ぬ。なにをしたところで、死ぬんだよ」

「紅坂さん……」

「だったら、あがくっきゃねーだろ」


 震える利き腕が、生者を憎むように掴みかかった。

 彼女の世界で一番だいじな片割れ。あるいは武器だったもの。


「伊織、私たちを歩かせろ。前へと導け」

「――はい」

「もし、連中が〝もう無理だ〟と口にしたら、その場で捨てろ。迷うな。お前は新しく掴むものを探すんだ」

「はい」

「いい子だ。〝あたしの次〟を頼んだぜ、波島伊織」


 世界でもっとも、攻略難易度の高い女性が笑顔を向ける。

 華奢な体躯をあわせもち、水面下で泳ぎ続ける様を魅せない白鳥のように、音もなく隣へと降り立って、とつぜん離れていく。


「さぁ、行こうぜ。エンドマークを付けるには、まだ早い」


 彼女の姿勢は美しかった。片翼をもがれた鳥のような危うさが見えるものの、そのアンバランスな振舞いが、奇妙な存在感となって、見る者を圧倒する気配に満ちている。


「おら、なにぼさっとしてんだ。部屋でるぞ」

「っ、すみません。すぐ行きます!」


 この時、僕は直感した。


(やれやれ……紅坂朱音はまだ進化する……か……)


 常人では終わりとなるところを。自らの不幸を糧として、まだまだ伸びていく。


(……参ったな。思った以上に遠いみたいだ)


 その背にかける声を、伸ばす勇気を持てない。しかし今だけは師を超えて、前を歩こうと決意した。



*2 妹と裸エプロン


 すっかり陽が落ちた後、家に帰ってきた。玄関先でカードキーを取り出した直後、扉の向こうから足音が近づくのが聞こえてきた。


 扉が開く。


「お兄ちゃん、おかえり~。遅かったね、受験どうだった~?」


 矢継ぎ早にとんでくる質問を流し、土間に一歩入る。それにしても、


「出海、お前なぁ」

「どうしたの?」

「好奇心が強いのはいいけど、もう少し相手のことも考えた方がいいんじゃないかい」

「え? お兄ちゃん相手にそんな遠慮いる?」

「ひどいな」


 廊下を進み、客間に入る。両親不在の自宅に客が訪れることも極めて少なく、自然にこの場所が僕と妹の身支度を整える部屋となっていた。


「もし君の兄が受験に落ちていて、傷心しながら帰ってきたのだとしたら、普通はどう思うだろうね?」


 ハンガーラックに上着をかけ、改めて二つ歳下の実妹を見つめる。黒のネックウォーマーに袖を通した僕とは裏腹に、出海はベージュ色のニットセーターに、アニメキャラクターの全身像がプリントされた「痛エプロン」をつけている。


「お兄ちゃん、私今夜はごはん作ったよ、褒めて~」

「あぁ。仕事で忙しく、滅多に帰ってこない両親の代わり、甲斐甲斐しい新妻のように振舞うのは、兄として合格点をやりたいよ。しかしいささか裸色面積が多くないかな、そのエプロンは」

「へへへ、カワイイでしょ~」


 出海が身に着けたエプロンは白かった。何故白いか。ベッドのシーツだからだ。


 ベッドのシーツの上(白エプロン)に横たわるキャラクターは、頬を赤らめた、二次元黒髪の大和撫子風の美少女(瑠璃)と、現代社会で活発な装いを連想させる美少女(巡)だ。

 何故かお互い抱きあう格好になっており、女性の大事な箇所をギリギリで隠しながらも、謎の第三者目線の存在に向けて、やおら熱い視線をくれているからだ。


「――出海、どうしてそれを抱き枕として制作せずに、エプロンにしたんだい……?」

「いつだってキュンキュンしてたいからだよ~!」

「間違っても外では着るなよ。僕はお前のお兄ちゃんをやめるよ?」

「ちょっとー! 私だってそれぐらいの分別はあるってばっ!」

「そうか。ところで今日の洗濯物はどうした?」

「え? 学校から帰ってきてから、普通に取り込んだよ」

「ベランダに出たのか」

「うん、出たけど」

「エプロンは?」

「着けてたよ?」

「おい波島」

「実の妹を苗字呼び!?」

「今日からお前は僕の妹じゃない。さっさと帰ってくれないか」

「私の家はここだもんね~っ!」

 

 残念な妹だった。僕は眉間に手を添えながら首をふる。やれやれ。


「ところでそのエプロン、やけに汚れてないか」

「色? あー、やっぱり専用のプリンターじゃないと、粗がでるよね」

「そういうことじゃなくてだな」

「どーいうこと?」


 出海が首を傾げた。扁平な胸元を飾る、複雑怪奇な二次元美少女の肌色には、赤やら茶色やら黄緑色などの液体もまた、あちこちに流血沙汰のように散りまくっていた。「増愛が過ぎて刺したのかい」と聞いてしまえば、即答された。


「料理」

「――なにを解体した?」

「豚肉だよ」

「その黄緑色の液体はなんだい」

「ドレッシング?」

「なぜ、疑問形なのか」

「うーん、沢庵のお汁が散ったのかもしれない?」

「改めて聞くよ。なにを錬金した?」

「チャーハン・イズミ・オリジナル?」

「人はそれを失敗作と言うんだ。君の兄は頼れる庶民の味方、不夜城の如き営業するコンビニへと赴いて適当な弁当でも買ってくる。止めてくれるな」

「させぬ」


 襟元を引っ張られた。


「お兄ちゃんが食べないと、食材がもったいないでしょぉ?」

「そういうことは素直にレシピ通りに作ってから言おうな!?」

「じゃあ次は一緒に料理してよー。お兄ちゃん、料理は得意でしょ~」

「僕のは得意と言わない。ただ普通に作ってるだけだ!」

「そうだよ~、だから毎日食べてると飽きるんだもん。だから今日は私が作ったんだよ。責任もって食べてよー。食べて。食べろ」

「出海……ほんと、君というやつは……ほんと、なんなんだ?」

「お兄ちゃんの萌えない妹だよ。見捨てないよね?」

「……」


 ――両親が不在がちな実家で暮らす全国の妹を持つ兄たちへ。


 妹を甘やかしても、ろくなことは、ないよな?



*3


 紅坂朱音の代理人として過ごす日々が数週間続いた。仕事上で大きなトラブルが起こることもなく、東京を中心に、各地の不動産を渡り歩き、彼女の仕事場であった場所を解約していった。


 同時に持前のネットワークを駆使しつつ、部屋の片づけを行っていった。もっとも手間がかかったのが「紙の本」の処理だった。

 ひかえめに言っても、知識の源となりうる蔵書量だけで、図書館が一棟立つ。場所によっては、本来は居住区である三DKのマンションがそのまま本棚で占められていたこともある。よくもまぁ、床が抜けなかったものだ」とあきれた程だ。


 僕は自前のネットワークを駆使して、貴重な本は電子化し、そうでないものは売り払った。作業内容は事前にリスト化し、紅坂さんにも転送したが、返事は「すべて任せる」で完結した。


 結局、残された「現物」は、創作に使えそうな資料から、家具の一式に至るまで、彼女の元アシスタント達が引き継いで、それでも余ったものは処分した。


 雑然とした部屋を元の状態(すがた)に戻す。頭の内側を思わせる、本という媒体に収められた知識を拡散し、大勢の者へと還元させる代わり、一人の賢者は存在を消す。

 創作とは真逆にあたるだろう行為を繰り返してゆくのは、死にゆく者の身辺整理をしている様にも感じられた。


(――人はいつか死ぬ。この部屋のように〝片付けて無くなる〟という事なのかもしれない)


 彼女も、ともすれば死ぬのだろうか。

 死ぬ前の準備の一部として、僕にこの仕事を託したのだろうか。


(――いや、そんなはずは無いはずだ……無いはずだよな……)


 安直な言い方だが、人というのはわからない。成功を収めるはずの人間が、あっさり死んでしまったり、一見して取り柄の無い人間が、まったく別の分野で大成功を収めたりもする。


(殺しても死にそうにない人間が、たやすく死ぬ)


 僕も例外ではない。明日には、どこかの誰かに「片付けられて」いるかもしれない。すっかり片付いた広い床と、はらはらと、オレンジ色の光を向かえる窓の先を見つめていると、センチメンタルな感情が去来した。


(……死ぬなら、こんな日が良いよな)


 この場所に長居してはいけない。しがみついていると、うっかりその窓を開き、我が身を空の中へと踊らせてしまいそうだ。


『――斬り捨てろ。新しく掴むものを探せ。現状から振り返れ』


 僕に『支配者』としての生き様を教えた彼女の言葉を思いだす。意識と肉体を現実に立ち返らせ、空白(からっぽ)になった部屋で深々と頭を下げた。


「ありがとう。多くの者を生みだしてくれて」


 主不在の代わり、代理人として、彼女の住居に頭を下げた。最後に不動産の人間に挨拶を終えて、駅のホームに向かった。


 特急の券を買い、ホームに向かうエスカレーターに乗ったところで携帯が鳴った。すでに日付が変わる時刻になっていたが、表示された名前を見て迷わずでた。


「なんだい倫也くん」

『――よぉ、伊織。今ヒマ?』


 誰も彼も、僕を暇人扱いにしたいらしい。

 もっとゆっくりさせてくれないかな。なにせ一度も表紙を飾ったことが無いのだからね。



 一仕事を終えて地元に帰ってきた僕は、まっすぐに指定されたバーガーショップに向かった。元サークル代表の彼は席についていて、向かいに座るなり言ってきた。

 

「伊織、いや、伊織さん! 教えてくれ……くださいっ! 俺は一体、どうしたらいいんだ……いいんでしょうかっ!!」


 さて、所詮は「人生の予選」なので割愛していたが、先日彼女の病院に見舞いにいった翌週、僕は予定通り、大学の合格通知を受けとった。そして案の定、彼は志望校、すべり止めさえも落ちていた。


「――伊織ぃ……俺、ついに 無 職 になっちまったよ……」

「あっはっは。自業自得というやつだね」

「うぅ……俺は一体、どうしたらいいんだ……?」

「異世界転生でもしてみればどうかな?」

「おいぃ!? マジメに相談してるんだが!?」

「だってこれ、ラノベじゃないか。第三部は、転生前に同人サークルで偉業を成し遂げた主人公が、その知識を生かして転生先で無双する展開にしよう。あっはっは、いっそ作品も新作に転生しようか?」

「ボツだよ! なんとか現状で生存する方法でオナシャス!」

「なにを言ったところで君の問題だからなぁ。だいたい、僕は売れるならなんでもいいんだし」

「都合の良い時だけ同人ゴロの顔ださないでくれよ!?」


 卒業式を間近に控えた二月の終わり。適当に頼んだ物をつまみながら愚痴に付き合う。ちなみに明日も平日だが、既に三年生は自主登校に近いので問題はない。


「そうそう。倫也くん、加藤さんが大学に合格したって話は知ってるかな?」

「知っとるわ! すでにそれが火種となって炎上中だよ!」

「炎上? どうしてさ」

「だってー! 詩羽先輩は嬉しそうに毎日メール送ってるし、英梨々まで、行くところが無いならウチ来る? とか行ってくる始末だぞ!?」

「あっはっは。三角関係のドロ沼にツッコミたくないなら、ウチに来るかい?」

「断る!」

「それは残念。まぁ僕の家にきたら、実妹とドロドロの三角関係が展開する大三部が……」

「ありえねぇし、誰得だし、売れねぇよ!!」

「最後だけ同意しよう」

「全面的に同意してくれーっ!!」


 ――バァン! と机を叩いた彼は、ぜぇぜぇ息を荒げながら、プラケースの容器に入ったジュースを吸い上げた。バァン!


「チクショウ……! 別れろ! 男女一組のカップルで、今年揃って大学受験に受かってイチャラブしてる奴ら限定で今すぐ別れろぉ……っ!!」

「そんな超個人的な残留思念をぶつけられたところで、神も仏も困るだろうね。というかまともに考えたら、彼氏だけ無職の方が、続かないと思うけどさ」

「現実を突きつけるのはやめろ……無職の俺に、正論は堪える……」

「ならいっそ、木造の六畳間のアパートに、都合よくヒロイン達が集合して、毎日日替わりで養ってくれる女性たちの下に訪れたらどうだい? 一晩限りの逢瀬を続けていけば、食うには困らないって、長身細身のヘタレ社会人が言ってたよ」

「二次創作だからって、俺を本当にクズ扱いするのやめてね!? あとその作品の主人公そんな事言ってないからね!? 怒られるぞ!?」

「でも未成年を押し倒して、グランドエンドで孕ませてたよね」

「や、やめろ……! それ以上はやめるんだ……っ! 登場人物は全員18歳以上だっ! 倫理規定において何も問題はない! なかった! ありませんでしたー!」

「あっはっは。そんなエロゲーみたいな展開が本当に起きるわけないだろ、と一概に否定しきれないところが、同作者の主人公たりえる安芸君の素質――」

「そんなエロゲーみたいな展開が本当に起きるわけないだろ!?」

「あっはっは。それじゃあ言い訳がましい〝倫也規定〟が崩壊した時に、早速君は彼女とヤるわけだ。妻は大学生で、お父さんは無職か。やれやれ、先が思いやられるね」

「だから俺はそこまでゲス野郎じゃないから……ってか、さっきも言ったけど、割と真面目に相談してるんだよ? 頼むから話を聞いてくれ!?」

「相談相手に僕を選んだ君が悪い」

「えーと……友達って、なんだっけ?」

「未来の可能性(バッドエンド)を忠告してくれる存在じゃないかな?」

「ありがてぇ、ありがてぇ……なわけないだろ!? お前、俺の心の傷を広げて楽しんでるだけじゃねーかよっっ!!」

「気づくのが遅すぎる」

「……伊織、お前は最低のゲス野郎だよ…………」


 はぁ。とため息をこぼされる


「あー、どうしよう。やっぱ一年使って、予備校とか通うべきかぁ」

「普通のことをしていたら、彼女たちとは、さらに差がつけられてしまうよ」

「……伊織、俺たち友達だよな? 清い意味で」

「見捨てられた子犬みたいな目を向けないでくれるかい。真面目な話、僕に君の人生をどうこうする資格はないよ」

「あ~~、俺はいったいどうしたらいいんだ~~!」


 酒におぼれ、路地裏で泣いてうずくまるヒモ男のテンプレのような声をあげる。僕らは素晴らしく無駄な時間を過ごしていた。そして無駄なやりとりの先に、彼は真実の言葉を吐く。


「っていうか、さ……俺は、本当は何になりたいんだろう……何がやりたいんだろうな……って、考えまくってる」



 ――〝ここ〟だ。



 今の僕の仕事、および役割は〝引きだす〟事に尽きた。彼が散々無意味な息を永らえた後で、ふともたされた真実の光に踏み込む。


「倫也君、キミはこの二年間、散々好きなことをやってきた。大勢の人たちを巻き込んで、後戻りのできないところまで追い詰めた」

「え?」

「一歩間違えたら、君はありふれた人々を殺していた。【クリエイター】達の人生を終わらせかねなかったんだ。

 いいかい、倫也君。僕からすれば、君はすでに【殺人未遂者】の容疑をかけられた罪人となんら変わらない。

 そんな人間が立ち止まり、実にありふれたセリフを吐いて、己の不甲斐なさを嘆いている。無駄な時間を、創作性の素質がない人間に付き合わせることで、許しを乞うてるつもりかい?」

「………………」


 彼は目を見開いていた。


「【咎人】にかける言葉はなく、慈悲も与えるべきではない。勝手に敗れて死んでいけ。――それが【消費者】の感性だ」


 驚きに満ちた瞳が、徐々に憎しみと憤りの色に変わっていく。次の瞬間には、思いっきり叩いていた。自分の頬を。


「――――ちょっとだけ、目ぇ覚めたわ。ありがとな」

「なによりだ。もう一杯だけ付き合おう」


 僕たちは一杯100円の野菜ジュースを注文して、改めて大人の真似事をした。


「あ~、加藤の気持ちが、今ならわかる気がする」

「彼女を〝苗字〟呼びかい」

「なんていうか、〝加藤〟と〝恵〟はベツモノだからなぁ」

「はは。確かに」


 僕らはそろって、笑いだす。深夜のせいか、完全に気がふれ始めていた。


「伊織、俺さぁ、みんなでゲームを作る前――オタショップでバイトを始めた時から思ってたんだけど」

「なんだい」

「人ってさぁ、おもしろいんだよな」

「そうだね。多分にどうしようもないところがあるけれど」

「それも含めて、おもしれーよ。実際、自分でゲームを作ることになって、才能に満ちた奴らの感性に触れることで、なんか、実感したんだよ。実感した上で、やっぱ、創るのって面白いなー、って思ったんだよ」

「ならばその道を往くべきだ。僕にはそれしか言えないよ」

「……うん。やっぱり、そうなんだよなぁ……」


 悩みぬく彼に手を貸す。


「倫也君、君の中で、その当時から変わってない本質はなんだい?」

「え?」

「あるはずだ。君が【ただのオタク】だった頃から、絶えず変わらなかったもの、変えられなかったものが必ずある。思いだすんだ」

「………………」


 彼は真顔になって、腕を組み、過去の迷宮に落ちていく。


 確かに、僕に創作者の才能はない。しかし手に入れたものはある。


 それが【人生経験】だ。


 霞ヶ丘詩羽より、澤村英梨々より、加藤恵よりも。豊かな【才能】を持ち合わせた彼女らよりも、僕は一足早く、大人たちが顔を合わせる社会に溶け込んでいた。


 自分とは違う価値観、正義と理念を持った大人たちと話をした。同い年の彼女たちが、自分に忠実であろうとする日々を送るよりも早く、僕は毎日、偽りの仮面(ペルソナ)をつけて、一癖も二癖もある大人たちと付き合い、騙し、騙されの人生を送ってきたのだ。


 ――その分野において、僕は負けない。

 誰よりも強い【力】を持っている。


 他の誰よりも早く、子供の頃から自分の人生を決めていた。

 繊細に、詳細に。未来をイメージして、実践した。


 その積み重ねこそが、僕の武器である。そして積み重ねたものが、他者にも伝わるように、外見だけで窺えるように鍛え抜いた。


 故に、彼は僕を選び、この場に召還した。


 その誇りが、今の僕のすべてだ。

 師である彼女からも認められた、波島伊織の【矜持】だ。


「俺の中で、一つだけ変わってない本質があるとしたら……おもしろいもの、伝えて、広げたいってこと、だよな……」

「そうだ。君が本質を見失わない限り、君の信者は存在する。その信者には当然【君自身】も含まれるわけだよ」

「……俺自身の、信者?」

「あぁ。君が将来どうなりたいかというのは、結局のところ【君の中の信者】が納得しているかどうかだ。

 鏡を通じて自らを見つめた時、そいつが喜んでいるか、以前より強く笑っているか。そういう事になるんだよ」

「………………俺に、できるのかな。【何も知らないただのオタク】だった自分よりも、楽しく、強く。険しい道を、笑って生きて、いけるのかな」

「…………」

 僕も瞑目して飲み物を含み、考えるフリをした。とっくに答えはでている。


 君ならやれる。僕が影で支配(サポート)する。だから、


「――あまり無茶だけはするなよ。倫也くん」


 君に死なれては困る。

 僕のような人間は、君のような者がいないと、成り立たないのだ。


 それだけは、忘れないでくれ。




 深夜2時すぎまで、男二人でフリードリンクとポテトで粘るという、安っぽくも濃密な時間を過ごした。


 それからタクシーを使って自宅に帰ると、驚いたことに一階のカーテンから光がこぼれていた。


「……もしかして、まだ起きてるのか?」


 不審に思いつつ今日はカードキーを刺して開く。後ろ手に扉をしめると、どたどたとやかましい足音が近づいてきた。僕の前に不審者が現れる。


「お兄ちゃん~~~~~っ! 聞いて聞いて聞いてーー!!」


 不審者が抱き付いてきた。もこもことした、くまのスウェット上下を着て、あらん限りの力で抱きしめてきた。女子力が強い。


「出海、苦しい」


「お兄ちゃん、ついにやったよ! わたしやったよぉ!! フィールズクロニクルの裏ボス倒したんだよぉ~~!!」


 キャラ崩壊を気にせず、興奮したアドレナリンが鼻から赤い血潮となって垂れ落ちる。出海≪ポンコツ≫が自分の状態異常を気にせず続ける。力はさらに上がっている。


「さすがは霞ヶ丘先輩ですっ!! まさかクリア後のおまけダンジョンでここまで濃密な外伝ストーリーが展開するとはっ!! しかも分岐するんですよ!? 追加パッチ無しでここまでやります普通!? 開発陣どんだけ頭ブッ飛んでんの!? って話ですよおおぉ~~~!!」


「もう一度言うぞ、出海、お兄ちゃん苦しい。背骨が折れる」

「魚鱗系男子!!」

「日本語を喋ってくれ。いた、いだだ。いただだ、だッ!?」


 世界でもっとも残念な生物(オタク)の勢いは止まらない。


「どうしても今日中にクリアしたかったの! だってね、だって明日、英梨々先輩の書き下ろしがのってる完全攻略本が発売するからなのね! 今日までに完全クリアして、それから、巻末にのってる詩羽先輩の書下ろし外伝とインタビューを端から端まで一字一句ためつすがめつした後で、熱くたぎるソウルを勢いのままファンアートにしてピクシブにネタバレタグ付けてアップロード! その直後に違法アップされてるのを見つけ次第片っ端から通報してスッキリした後で、それからスカイプで海外のマニア同士が繋がってるコミュに参加して異言語で好きに語り合うんだよ~~!!! フィールズは世界同時販売だったけど、詩羽先輩と英梨々先輩の完全書き下ろし完全攻略本が先行発売してるのは日本だけですぅー!! 私日本人だから一足先に内容しってます~、控えめに言ってもヤババババでしたよ~~~って、寝落ちして気絶するまでフィールズ談義をするの!!! わたしの祭りはこれからだー!! 今から夏コミの書下ろしも考えておかないとー!! た、たまらんーー時間がいくらあっても足りないよぉ~~~死ぬ~~!!」


「――無茶だからやめろ。死ぬな、寝ろ。僕の背骨を折る前に止まれ」


 僕の意識は朦朧としはじめていた。走馬灯が流れる。記憶の整理が行われ、おばあちゃんの顔が浮かんだ。生前は黒帯だった彼女から聞いた話だが、壊れた物は、叩けば大概なおるらしい。


 ――ドスッと。ヤりなさい。


 うっすらと見える祖母が言う。ドスドス。「まだよ、角度が浅いわよ伊織ちゃん。もっとこのあたりを、こう、しゅっ、ドスッという感じで」「だけど手が動かないんだよ」「肘で」「わかりました。肘で」


 しゅっ、ガスッ。


「あ、れ――お兄、ちゃん?」


 ガクッ。


 出海は死んだ。ラノベか。




「お兄ちゃん、お風呂、おいだきしたよー」

「ありがとう」

「返事に感謝がこもってないなぁ」

「風呂を自動運転でわかす事を開発したシステム屋、技術屋、ガスには多大な感謝をしているけれど、スイッチを一つ押しただけのお前にそこまで感謝する義理はない」

「……いやそこまで言わなくても」


 むすーっ、とした表情の出海≪いもうと≫が、居間でココアを飲んでいる僕の側にやってきた。背骨が軋む。


「お兄ちゃん、私もココア飲みたい」

「作りなよ」

「お兄ちゃんの方が上手だもん。お兄ちゃんのがいい」

「変わらないだろ、こんなの」


 応えながら、素直に電子レンジの戸を開いた。


 M永製菓のミルクココアを作る。ロングセラーの商品が、記憶の味になっている人は少なくない。僕の家庭もそれは同じだった。小さな子供たちが作っても怒られない料理。


 人肌を過ぎたお湯を沸かして、粉末を溶かす。電子レンジに入れてタイマーをセットするだけ。三分もすれば、甘く落ち着いた香りが、暖房の効いた部屋の中でうっすら揺れる。


「飲んだら寝ろよ。学校に行くんだろ」

「行く~、ありがと~」


 僕らは同じ席に着いていた。読み過ごした新聞をめくりながら口をつける。出海の方もスマホを探っていたけれど、飽きたように手放して、また突然に言った。


「ねぇ、もしかしてお兄ちゃんは、恵さんの事が好きだったの?」


 うちの妹は遠慮がない。時に「ゲスホスト系男子」と評判であるこの僕が、思わず言葉に詰まる事を平然と言って退ける。


「…………なにを言っているのかな?」

「もぉー、誤魔化さないでよねー」


 出海は二次元が大好きなオタクで、イラストレーターを志している。自分の描くキャラクターには、徹底して衣装や下着、身に着ける小物まで厳選するくせに、自分の身だしなみには無頓着だ。


 髪はドライヤーで乾かしただけ。朝起きた時、寝癖が目立たなければ良いという程度の女子力だ。最近になってやっと、肌の潤いや保湿といった要素にも気にかけてくれるようになった。


「だってお兄ちゃんって、基本的に他人に興味もってないよね」

「そんな事ないだろ。興味をもってなかったら、ゲームのプロデューサーなんて務まるはずがない」

「それって結局のところ、自分にとって有益に働くか、そうでないかの二択じゃない?」


 女子力の成長に対して、言動の方は棘が増した。


 昔はまだ可愛げがあったはずなのだけど、今日においては〝妹萌え〟というのは、単なる幻想ではないのかと疑う次第だ。


「それよりお兄ちゃん、私のココアは~?」

「前後に脈絡がない返事もやめようか」

「だからそれで、どうなの?」

「何が」

「だからぁ、恵さんのことが好きだったんじゃないの?」

「…………」


 僕は応えず、眉をひそめたポーズを取った。質問を先送りするように新聞をめくった。


 記事――株式の変動とインサイダー疑惑。科学の新技術に、AIを用いた配達関連のコスト削減利用が検討されているとのこと。

 一日で、数十億という予算を投資する規模に対して、舌先には、溶け損ねた粉末の匂いと、ざわついた舌ざわりが残った。


「ね~、無視しないでよ~。恵さんのこと、好きだったんでしょ~? 親友に、好きな人を寝取られた気持ちはどうですか?」

「……さすがに身内とはいえ、冗談も過ぎると怒るよ、出海」

「じゃあ、嫌いなの?」

「べつに嫌ってはいないさ。彼女が一方的に僕を嫌ってるだけで」

「あっそ。私は早く、仲直りした方が良いと思うけどね。今後の為に」

「今後って、どういう」

「さぁ?」


 なにを見透かしているつもりなのか。悪いところだけ似てしまった出海は、静かに席から立ちあがった。飲み終えたマグカップを全自動の食器洗い器におき、ついでに手を洗った後、なにか思いだしたようにスマホを取った。


「お兄ちゃん」

「なんだ」

「明日、今年最後の雪が降るかも、だって」

「そうか」

「私も、新しい恋をしてみたいな」

「頑張れ」

「うん。じゃあね、おやすみ」


 なにか精一杯、強がっているような事を言ってきた。扉が閉まる音を聞き届けた後、僕は新聞を見つめたが、文字は流れ落ちるように、後ろへと零れ落ちていくだけだ。


 代わりに、出海の言葉が積もった。


 明日は、今年最後の雪が降る。




 出海とココアを飲んだ翌朝は、真面目に学校へ登校した。

 既に出席日数は足りている。必要のない学校にいく。

 結果として、卒業式や大学受験といった、学生定番のイベントを間近に控えているものの、特に面白いイベントはなかった。


 休み時間に下級生からの告白を受け流したり、昼休みに隣のクラスの女子からの告白を断ったり、放課後の進路指導室で、女性教師から押し倒されそうになったのを、携帯の警報アプリで回避したりと、実に平和な時間を堪能した。


 校門を出た時に、冬の最中にある太陽はすでに沈み、風も中々に冷たく、世界は薄暗かった。少しだけ、最後の雪が降り始めていた。


 首元のマフラーに下顎を隠し、熱のこもる息を潜めた。高校の外周に沿って坂を下り、バスの停車駅で待つこと五分。やってきたバスに乗り込んだ

 空いた中央の席に座し、特にすることもなく、腕を組んで考えにふける途中、二つ先の停車場所で、同じ高校の制服を着た女子生徒が一人、乗り込んできた。


「――あれ、お兄ちゃんだ」

「出海」

「お兄ちゃん、今日は帰るの早いね。あ、そっち詰めてよ」


 妹は当然のように僕の隣に座ろうとする。前後の文章の脈絡はなく、彼女の手には、この近くにある書店の袋が抱えられていた。


「雪、降ったねぇ」

「そうだね」


 世間一般の兄妹というのが、僕らの常識に当てはまるのかは知らないけれど。少なくとも僕らの間には「隣に座ってもいいですか?」といった礼儀は存在しない。


 窓際にぴたりと身体を寄せるように動くと、

 空いた隣にすとんと座った。


「お兄ちゃん、今日は住むところ探すんじゃなかったの?」

「もう決まったよ」

「え、いつのまに。どこらへん?」

「内緒だ」

「ふーん。じゃあ〆切近くなったら、部屋借りるね」

「なんでそう勝手なんだ……」

「お兄ちゃんだって、勝手にやってるじゃない」

「僕は他人に迷惑をかけない」

「他人に迷惑をかける人のお世話をするのが、プロデューサーの仕事じゃないのかな~って」

「曲解しすぎだろ、それは」

「でもクリエイターは、そういう人のもとに集まるって聞いたよ?」

「自立してくれ」


 獅子身中の虫なんて言葉もあるが、存外、兄にとっての妹は、そんなものかもしれない。


「もー、冷たい。お兄ちゃん冷たい。私〝兄萌え〟という感覚が、一生理解できそうにないよ~」

「同感だ」


 バスの扉が閉まる。

 低い呻き声のような音をあげて発進した。


「――で、出海。その本は例の?」

「うん。例の完全攻略本だよ」


 見る? 見たい? これ今日発売したんだよ~? という、オタク特有の目付きをしながら、紙袋の持ち手についたテープをはがした。


「……攻略本という名の鈍器だな」

「うん。お兄ちゃんを殺せるね」

「よしてくれ」


 手にした本は相当なぶ厚さだった。妹が本気になって振りかぶれば、手頃な兄ぐらいは確かに殺れる――かどうかは分からないが、角のところが突き刺されば、すごく痛そうだ。質量がある。取り扱い注意のタグぐらい付けた方がいい。


 僕の妹はいま、凶器を手にしているのだ。その認識を忘れぬようにして、慎重に言葉を選ばなくてはならないな。


「このご時世に、わざわざゲームの攻略本を買うなんてな。ありがたいお客様だよ。お前は」

「……」


 細目で睨まれる。おかしいな。女子高生が目前の男を変質者であるか見定めようとしてる具合だ。兄に対して向ける眼差しではない。


「自分の妹を消費者扱いしますかー」

「冗談だよ」

「明日のニュースになるところだったね」


 出海が微笑む。オタクの笑顔ほど怖いものはない。



 さて、本編を読んだ読者のお客――貴重な財源を投資した顧客に対して、今更説明するまでもないけれど『フィールズクロニクル』は、日本が誇る、世界に通用するIPタイトルだ。


 並のスパコンにも引けを取らない最新機種。総勢千人を超えるゲームスタッフが集結し、総額「100臆」に届くかという予算を投じ、文字通りの〝命運〟を賭したプロジェクトだった。


 数多の人命と社運を背負った総指揮官の名が、紅坂朱音その人だった。彼女はゲームのマスターアップ直前に病で倒れたが、その意志を継いだ〝子供たち〟が見事、作品を完結へと導いた。


 ――と言えば、誇張も甚だしいかもしれない。


 結局は大人たちが優秀に過ぎた。頭がもがれても、超高度に編成された手足の基部が、統制を失うよりも速く、生き残るために、やるべき事をやり尽くしたといえる。


 それでもやはり、僕たちは無関係ではなかった。

 作品を通じ、今まで以上に、互いを深く結びつけた。


 友人であったり、恩師であったり。個人的な恋敵や、べつの何かとして。その他大勢の見えざる糸が複雑に絡み合った結果、まるで奇跡のような偶然の先に、出海が手にしている作品は誕生したのだった。


「攻略本って、巻末にインタビューとか載ってるでしょ。私そういうの読むのも好きだから」

「自分が関係者になると、目を通すのも嫌になると聞くけどね」

「……そーいうこと、言わないの~」


 まぁ、いろいろあるという事だ。成功者の語る耳障りの良い言葉は、近くにいる人間ほど、物を申したくなる気分になるのだ。しかし今回、その最たる人物であろう彼女の存在は、何処にもなかった。


「……やっぱり、紅坂さんのインタビューは無いんだね」


 出海が小声でささやく。前後の席には誰も座っていない。

 僕も腕を組み、目を閉じた。


「発売寸前に緊急入院したからな。あの人の性格上、インタビューは完成後に受ける手筈になっていたから、予定が消えた。あとは……」

「……霞ヶ丘先輩と、英梨々先輩を、目立たせたかった?」

「そんなところかな」


 ゲームクリエイターの名前を浸透させる。

 それは現代において、とりわけ重大な要素(ファクター)を占める。


 SNS文化の発展により、個人が情報を発信しやすい環境がととのった。そのことで、単なるゲームの一ファンであった人間が、クリエイターという個人の内面にも興味を持ちはじめたのだ。


 人々は、好意的に感じられる『個人の作品』あるいは『個人が評価する作品』を求めている。ランキングという〝民意〟が浸透し、優遇されすぎた結果として、この動きは今後いっそう高まるだろう。


「んー、やっぱり家に帰ってから、ゆっくり読もっと」


 安っぽい紙袋を、一生の宝物のように抱えて出海が笑う。


「あ、そだ。澤村先輩、攻略本の発売日だし、なにか呟いてるかなぁ」


 それからスマホを取り出して、ツイッターを起動した。澤村英梨々のID、egoistic_LiLyの名前が表示される。


「……帰宅帰りに見つめるのがそれとはね。フォロワーの鑑だ」

「信者で、ライバルだもん。自称だけど」


 実在する二つ歳上のクリエイター。世界で600万本を売り上げたゲームのメインデザイナーが、柏木エリだ。

 その素顔を知りながら、追うことをあきらめない。普段から信者である妹は「先輩、またどうしようもない事言ってるよ~」とか言いながら、ログを追いかけるのが常だったが、今は違っていた。


「………………」


 出海の目が見開かれていた。目がスマホの画面に釘付けになっている。息をするのも忘れてしまった趣で、音のない〝つぶやき〟へと耳を傾けている。


「……描かなきゃ」

「出海?」

「ダメ、置いていかれる」

「おいどうした、いず――」

「はやく」


 そこで気がついた。出海の〝スイッチ〟が切り替わっている。クリエイターという生き物は、往々にして、覚醒を促す回路を持っている。

 それは止められない。厄介なことに、連中はそれを止めたら〝死ぬ〟と本気で思っている。


 バスが停車した。


「……急がなきゃ……っ!」


 開かれた扉を見つめる。進行先、縁石に寄せたタクシーが停まっている。そちらの方が〝まだ速い〟と感じたのだろう。駆けだそうとする。


「出海、待て!」


 妹を――激情に満ちた女性を、静かに諫めた。


「――――ッ!」


 ギラギラとした眼差しが、僕をまっすぐに捉える。

 全身が熱を帯びたように震える。否、掴んだ腕は本当に熱い。興奮して、本来以上の熱を放っているのだ。


「お兄ちゃん、ジャマ。放して。放せ」


 今この瞬間、普通である事が耐え難い。一分一秒でも早く。法定速度を維持する、常識的な排気音をたてる乗り物から飛び降りて、ただ速く、何よりも迅く〝巣〟に還らねば、


「――置いていかれる。嫌」


 コトバをアウトプットするという処理を一切廃していた。悲痛な叫びが、熱を放つ腕を通じてまっすぐに突き刺さった。


「出海」


 僕はクリエイターではない。しかし常軌を逸している彼ら、彼女らの言葉を理解できると信じている。


「大丈夫だ。今からタクシーに乗って、家まで直接帰ったところで、10分も変わらない」


「わかってる。わかってるけど……っ!」

「コントロールしろ。最近無茶するのに歯止めが効かなくなってるぞ」

「でも……」

「お前に壊れられると困る。耐えろ」


 伸ばした手を肩の上にのせ、気を落ち着かせるように伝える。


「座るんだ、出海。深呼吸して、イメージの中で絵を描いていろ」

「……」


 妹はどうにか従った。僕は無言で、出海のスマホを鞄の中に閉まう。バスの扉が無事に閉まる。


『発車します』


 バスは規則を守った速度で走りだした。正しく、平和的に。そしてあろうことか、後ろから自転車にのって、馬鹿みたいな速度で競争している、中学生の男子がすぐ横を通りすぎた。

 

 雪がちらほらと降りはじめる路面で、スリップしかけ、よろめいた。バスの出入り口のすぐ側で。タイミング的に誰かが降りていたら、ぶつかり、都合よく車道へと跳ね飛ばしていた、かもしれない。


「なにあれ」

「やだ、危ないわねぇ」


 買い物帰りの主婦たちが口にする。今まさに、事故が起きる寸前だったという可能性に気づかない。


 僕は本当に、心の底から安堵した。


「死ぬな、出海。まだ生きていろ」


 本当にバカみたいな話だ。バカみたいにありえない、人間の脳内で作られる都合の良すぎるといった理由で、クリエイターという生き物は死んでしまう。


 ありふれた日常のすぐ側に、世界を変える化け物は潜んでいる。全パラメーターを攻撃力に振り切った、防御力ゼロの生き物が、人知れず社会に潜み、気づかれることなく死んでいくのだ。


 僕はそいつらを守らなくてはいけない。 

 毎日が、実にスリリングだ。



 自宅に帰ると、出海は飛び込むように自室にこもった。一息ついた後で、僕も自分のノートパソコンを用いて、出海を狂わせた元凶を追いかけた。


 泣く女


 一時間ほど前に投稿された、柏木エリの最新ツイート。たった三文字の内容と共に、鉛筆書きらしいラフスケッチが投稿されていた。

 そこには基本、首から上だけの、美少女キャラの表情イラスト集が、勢い余ったように書き殴られていた。

 シチュエーションは様々だったが、共通しているのは「泣いている」ということだ。


 一枚目、ブチ切れている。今にも相手に掴みかかろうする女。その目尻には涙が浮いている。


 二枚目、子供みたいに、正面から大口を開けて泣きわめく女。


 三枚目、爪を噛み、じだを踏み、悔し涙を浮かべつつも、一心になってキーを打ち続ける女。


 四枚目、耐え偲ぶように俯き、前髪で隠された頬を伝う一筋の涙。


 五枚目、性質の悪い冗談を見てしまった直後、目を白丸にしつつ「ああああああ!!」とギャグ絵のような顔で涙を流す女。


 六枚目、言われなき非難を浴びるも、こぼれた涙をぬぐいとり、信念をもった眼差しで覚悟を決めた女の表情。


 七枚目、マイクを掴み、観衆に向かって盛大に叫ぶと共に、高揚とした汗と共に、喜びと悲しみの混じった涙を飛び散らせる女。


 八枚目、さらに細い鉛筆の芯の先だけで描かれた、影のうすい女。彼女だけが涙を見せず、無表情に、泣き叫ぶ女たちを見つめている。今にも消えてしまいそうなのに、不思議と印象に残る。



 柏木エリによる、無言のメッセージ。


 泣く、涙する。


 物を作る。創作に携わることは、

 結果として〝泣くこと〟に集約される。


 楽しさも、喜びも、怒りさえも。乗り越えて。


 至上の幸福も、敗者の孤独と寂寥も、涙をこぼした先にある。


 彼女の書いた〝落書き〟は、そんな思いを連想させるものだった。即座に書き上げた荒い絵は、感情をそのまま上乗せしたと思えるほどに、刺し違えるほどの迫力≪イメージ≫に満ちあふれていた。


『………ぁぁぁぁっーーー!!』


 たまらないだろう。そんなものを見せられては。


『わああああああああああああああああ!!!!!!!!』

 

 たまったものじゃないだろう。同じ道を志す者としては。


 なんでこんな奴が、同じ時代に生きてるんだよ。


 嫉妬に猛り、狂い、自分も何かを成し遂げないと気が済まない。そんな思い違いも甚だしい〝勘違い〟に苛まされることだろう。


『………もおおおおおおおぉぉ!!』


 天井を超えた部屋の先から、絶叫が響きわたった。先ほどから定期的に、謎めいたおたけびと、床を踏みつける音が聞こえてくる。


 ――ドン、ダン、ダダン。


 壁を叩く音も聞こえる。物を投げつける音もする。バッサバッサと、羽毛布団が振り回される音もする。


「平常運転だな」


 ミルで豆から煎れたコーヒーを啜る。市内の一等地にあるこの家は、隣宅まで距離がある。出海の個人的な騒音もギリギリ届かず、普段は人当たりの良い、優等生で通している僕ら兄妹の評判が崩れることはない。


『りなぃ、たりない! ヘタクソか私はァー!!』


 うぎゃーっと、奇声が聞こえてくる。お隣さんからの苦情は無いものの、異形の獣と暮らしているようで居心地が悪い。症状が今後も悪化していくならば、さすがに対策を考えなくてはいけない。


『これじゃダメだああああぁ!!』


 紙をひきちぎり、丸め、壁にぶつける音がする。本来、万人がイメージする古めかしい芸術家のイメージは、現代も続いている。

 ただ、壊れる人間は減った。他人の才能を気楽に見つめられる今。現実を直面する機会は増えた。ようするに【勘違いできなくなった】のだ。


 数値と実績だけで足下を見られる前に、自分自身が真実に気づいてしまう。そんな環境ができあがっている。しかし、幸か不幸か。そんな現状でも、相変わらず、ブッ壊れる人間はいる。


『こんにゃろおおおおおおおぉぉ!!!!!!』


 どうやら今日はキチガうと決めたらしい。

 明け方まで一睡もしないつもりだろう。


「コーヒーでも煎れてやるか」


 有害物質。脳を過剰に働かせるカフェインをたっぷり孕んだ薬物。それが寿命を縮めたとしても止める気はない。

 この手助けが命を削る。永らえる処置は行わない。その代償として、勝者へ至らせる道を選びとらせる。


「――〝死ねよ〟出海。つまらない事で命を落とすなよ」


 現実と理想の違いは、あらゆる世界で一点のみ。


 やるか、やらないか。


 波島出海が〝やる〟というのなら、やらねばならない。石をぶつけられ、死ぬ覚悟ぐらい持ってないと――


「人生はつまらない。そうだろう?」


* 


 時刻は四時過ぎ。まだ薄暗い明け方だった。階上から一切の音が途絶えたのを感じた辺りで、部屋をでた。


「入るよ、出海」


 マナーに則りノックだけはしたが、返事がないのは分かりきっているので、即座に開けた。


「くあー……すぅー……」


 冷たい廊下の外気に反し、部屋の中は、ひどく暖かかった。今の季節にあった厚着をしていれば汗をかくほどだ。


「……むにゅむにゅ……せんぱぁい……」


 出海≪いもうと≫は、ノースリーブのカーディガンを着て、下はスウェットパンツを履いていた。カーペットの中央で眠っている。暖房もかかっているとはいえ、1メートル先にあるベッドに倒れ込むのも面倒だったらしい。


 眠落ちした出海の周辺、一般的なフローリングの床上には、A4の白いコピ―用紙が、雪解けを始める直前の地面を思わせるほどに散らばっている。


「……そーれすね。わたひ達は……幸せものなんれすよぉ~……」


 良い夢を見ているらしかった。


「やれやれ、仕方のない妹だね」


 抱きおこすのも面倒だったので、適当にベッドにある毛布を掛けてやった後、無差別に散った紙をかき集める。


「…………」



 僕の出海を狂わせ、嫉妬に狂わせた、現代の画家が描いた「泣く女」。その背中を全力で追いかけた証を並べ替え、一枚ずつ、時間をかけて眺めていく。一晩の間におきた進化を見届けた。


「………………ふ」


 仄暗い喜びが全身を巡った。白い紙を一巡させた後、出海は今日〝先へ進んだ〟のだと確信する。妹が昨日よりも壊れたことを示す証左を見つめ、自然な笑みを浮かべてしまう。


「いいぞ」


 それぞれの紙に描かれていたのは、イラストのコピーだ。しかし、その情景≪シーン≫がまったく異なっている。


「やはりお前は天才だよ、出海」


 妹は二枚で一組のイラストを完成させていた。――柏木エリの絵を正確無比にコピーした1枚と、その直後に起きたことを予感させるオリジナルのイラストで『セリフの無い2コママンガ』を完成させていた。


 様々な表情の「泣く女」が、次のページでは笑っている。


 時にはふっきれたように。時には後悔を押し殺したように口元だけの笑みを作り、それでも彼女たちはこの先を歩いていくのだと、自分の道を進んでいくのだという力強さに満ちていた。


 波島出海の絵には、光がある。


 気兼ねなく吐く毒の側には、いつも真実が寄り添っている。


 柏木エリの「泣く女」が、辛さ、苦しさに直面するイラスト集であるならば、出海の描いたものは、まさしく「泣く女」が後に手にするだろう、希望に満ちた「明日」を予感させるのだ。


 そして最後の一枚。

 唯一に、無表情で描かれた「泣く女」の次の一枚は。

 それだけが、特別に色を添えられていた。背景に、カラフルな春夏秋冬の花が咲き乱れていたのだ。


 桜。


 白百合。


 菖蒲。


 向日葵。


 水仙。


 紫陽花。


 桃。


 バラ。


 アイリス。


 アネモネ。


 スノードロップ――。



 無表情の「泣く女」は驚いていた。

 自らの内側にある可能性。

 そこに花なんてあったんだという事実に、純粋に驚いていた。


 さらにおまけでもう一枚。花を詰め合わせたブーケを抱きかかえ、くすぐったそうに笑う彼女は――心底幸せそうだった。



 ――わたしは、君のメインヒロインに、なれたかなぁ?



 涙をこぼして笑っていた。

 ともすれば強欲に。すべてを抱き締めた上で、笑っていた。


「なれたとも。何者でもなかった君が、勝者となった」


 今日が死ぬほど辛くても。あるいは、希望と喜びに満ちあふれていなくても。この世界で花が咲く限り、人が生きることにも意味がある。それが綺麗ごとだと言われたら、僕は全力で否定する。


「必要なんだ。現実を喚起させる絵空事が、僕たち人間には必要だ」


 今日という日を終えて、ほんの少しでも、夢と期待に満ちた環境を作るために、僕たちは生きている。


 ――〝お前の次〟を、私は期待する。


 息を吸い、ため息をこぼす。新しい風を吸い上げる。

 単なる呼吸の一貫が、とても大事なことなんだ。


「……ん?」


 さらに髪留めのクリップで、雑にまとめた別のコピー用紙が見つかった。いかにも衝動的に描いたことを予感させる、即席のマンガだった。


 シャープペンシルで書かれた、黒一色のタイトルロゴ。


 薄明るい蛍光灯の下で、ページをめくった。



「    」



 フキダシがない。


 男が2人、女が1人。学生服を着た男女3人組。


 ページをめくる。


 いつも明るく、バカみたいに笑っている学生の一人が、やがて大勢の人々を巻き込んでいく。その最中、彼女と結びつく。残された一人はシニカルな笑顔で祝福していた。


「    」


 一言もないのに、不思議とそいつの感情がわかる。


 そいつもまた、無表情に、泣いているのだ。それが3ページ続いた。男の涙は武器にならず、みっともない。女子の独白は可愛いが、男子の独白は見苦しい。


 そう言わんばかりの顔でひたすら耐える。花は一輪も添えられない。 

「    」


 痛々しいほどに突き刺してくる。恥も涙も浮かべられない人間の、弱さと惨めさと不幸の集約。行き着く先の可能性の無さ。声をあげずに沈んでいく、想いを伝えず消えていく、無意味な存在。


 そう、そいつは、


 ――これを見ている、貴方のことだよ。


 たった一人、僕だけに突き刺さる、作者の言葉。


「…………確かに、お前は僕の妹だ」


「むにゃむにゃ。ふひひへへ……」


 的確に、もっとも嫌がるところを突いてくる。遠慮なく暴き立てる。自らが望む形で操作する。


「【ただのオタク】め」


 そのマンガは、クリエイターのものではない。一切の計算なく、ただ、書きたいものを書いてみただけ。

 苦笑が浮かんだ。可愛いと称すには程遠い、ニヤけた顔に毛布をかぶせ、部屋をでた。


 後ろ手に扉をしめると、廊下の窓から木漏れ日が差し込んでいた。腕時計を見れば六時前だ。こんなにも時間が過ぎ去っていたのか。クリエイターの毒気は、一般人の時間間隔を消失させる。


 カーテンを開く。窓を開ける。


 冬の明朝。空に浮かぶ朧月。風は切り裂くように冷たい。雪は止んでいた。春の到来を予感させる唸り声のような幻聴が囁く。


 ――進めよ。波島伊織。

 ――〝お前の次〟を、私は期待する。

 ――彼女と仲直りした方がいいんじゃないかな?


「……やれやれ、だ」


 白い息がこぼれた。笑みが浮かんでいるのを自覚した。今日は、いつもと違う自分を過ごしてみるのも悪くない。クリエイターの毒気にあてられた日はいつもそうだ。だから、僕は彼らの存在が愛おしい。


 クリエイターが死ねば、何の力も持たない僕も死ぬ。


「……あぁ。そんな日々はもっと嫌だね」


 誰にともなく呟いた。何気ない言葉が積もった雪を溶かしていく。


 春の訪れを待つ前に動かねばいけない。心が急く。望まぬ結果が待っていようとも、只の空白が、物語の主役になれなかった者たちの記憶を風化させてしまう前に。後悔の一切を消しておけ。


「たまには、みっともなく足掻いてみるかな」


 また笑っていた。次の物語が始まる前に、彼女に伝えてみよう。


(君の事が好きだった)


 秘めた想いを打ち明けると決め、階段を降りた。

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