現代、彼女は僕の太陽であった

すばる

第1話






「元始、女性は太陽であった。」


儚き大正時代、フェミニズムを訴え駆け抜けた「平塚らいてう」は、声高らかにそう言った。

同じ言葉を、何処までも柔軟でたおやかな彼女「華」が、囁くようにいった。

夕陽が傾き畳に溶ける六畳一間の安普請で、そこだけ切りとったような甘美な時間を過ごした僕ら。

華に出会うまでの僕は清流、いや濁流の流るるスピードで進む現代社会に、切ないような疲労感を抱き、時間になれば動き出す動物園のからくり時計のように、なんの感情も持たず、ただ、黙々と日々の生活を過ごしていた。


濁流に落ちた一枚の葉が、たちまちその茶色く汚れた大量の水に飲み込まれて見えなくなるように、


僕も現代の都会生活に飲み込まれ、全てのことが見えないでいた。


機械的に淡々と派遣のアルバイトをこなしている中でも、そんな中でも心のどこかに、何か人生の生きがいを見つけたい、という気持ちが木漏れ日のように差す時がきて、そんなときふいに空に手を差し伸べてみたって、濁流の中では誰にも気づかれずに、またすぐに飲み込まれ流されるだけ。


だけど、あの日あの時、忽然と華が僕の部屋に現れた。

あの時から、僕の流される濁流は、たちまち清流に変わり、鮮やかな着物を身にまとった華が、僕の伸ばした手を引っ張りあげてくれた。


その日も僕は、登録派遣バイトの通信販売の出荷作業のために、片道電車で30分かけてその埃っぽい倉庫に向かった。


このバイトは、派遣本社に登録さえしておいたら、メールで多種様々なバイト情報が送られてくる。

送られてきた情報から、自分の気に入ったアルバイトを選んでエントリーしたらいいだけだ。


いちいちアルバイト情報誌を見なくてもいいし、短期のバイトが多いから、煩わしい人間関係に悩むこともない。

1日限定のバイトもあるから、派遣先の奴らと喧嘩してきたことだってある。

どうせ、限りのある人生なんだから、正社員になって残業やプレッシャーに押しつぶされそうな日々を送るよりも、僕は自由気ままに生きていきたいと思っていたし、実際そうしてきた。


きっと僕のこの生き方は、小学生のころに亡くした姉の影響が大きいように思う。

一生懸命生きたって、人間いつかはぽっくり死ぬんだ。

生まれつき体が弱く、若くして死んだ姉の部屋に残された、真っ白いシーツを思い出してそう思う。

姉が死んでまだ現実を受け入れられなかった僕が、母親の手によって、綺麗に整えられた姉の部屋に入り、真っ白く糊のきいたシーツに手を滑らせた時、指にひっかかった長い一本の髪。

その髪が僕に、姉が本当に死んでしまって、この世にいないという現実をひっぱってきてくれた。

そうだ、姉ちゃんはまだまだ生きたかったんだ。だから髪を一本遺したんだ。

そんなことを、通勤で込み合う電車内、吊革につかまりウトウトと眠りこけている、くたびれたサラリーマンの真っ白いワイシャツの肩に落ちた、髪をみながら考えていた。


倉庫は春の黄砂の影響か、いつにも増して埃っぽく感じられた。

なんの飾り気もない、口をぽっかり開いた四角い箱の中に飲み込まれていく従業員の列に混じり入って行く。

みな一様に無表情で、特に挨拶もせずに、目線をただ、自分の前だけにおいているのは、映画なんかであるような機械人間みたいだ。

見渡しても自然と名のつくものがない、この工場地帯では、緑といえば道沿いに等間隔に植えられた木と、小さなプランターの花くらい。

これだけ人工物に取り囲まれた環境においては、人間もタコの保護色のように周りの色に溶けてしまうのだろうか。

事務所とは名ばかりの、机が数個おいてある部屋に入ると、そこには唯一、機械人間ではない嶋本さんがタバコの煙をくゆらせていた。


「おはよう、兄ちゃん。今日も元気ないなぁ!」


白い煙の中で、黒い顔の嶋本さんが、ヤニで汚れた黄色い歯をのぞかせ笑った。


「おはようございます。嶋本さんは今日も元気そうですね。」


「元気があるからやっていけるんや。兄ちゃん、若いんやから元気ださんとあかんで~。カラ元気でもええねん!ええねん!」


嶋本さんは関西出身で、いつも明るく元気を押し売りしてくれる。

最初は鬱陶しかったけれど、慣れればそのあっさり竹を割ったような性格が心地よく僕の胸に響いてくるようになってきた。


「元気出します。」


と、僕は今日初めての笑顔を浮かべ、タイムカードを押して、現場に向かおうと事務所のドアを開いた。

すると嶋本さんが、


「自分…背中に真っ赤な金魚しょってんで(背負って)。」


と謎の言葉を投げかけた。


真っ赤な金魚。


夏祭りの闇の中で、ひときわ鮮やかにみえた、幼い少女の浴衣の帯のような尾びれ。

そんな尾びれをヒラヒラさせ、狭い水槽で踊る真っ赤な金魚。


中国製の安物の靴を、ひたすら箱に詰めながら、僕は幼い時に飼っていた金魚のことを思い出していた。


嶋本さんは、時折、不思議なことを言う。


どうやら彼には、他の人には見えないものが見えるらしい。


人の気持ちもわかるのか、愛想笑いをしてへつらいつつ、その奥底ではどす黒いことを考えている奴らを辟易していて、僕以外には無愛想だ。


嶋本さんいわく、


「兄ちゃんは、苦虫噛み潰したような顔してまっさらやなぁ。」

ということらしい。


苦虫噛み潰したような顔して、苦虫噛み潰して生きているつもりの僕は、拍子ぬけしたけれど、きっと彼のいうことは正しいんだろう。


素直にそう思わせる不思議な魅力が、嶋本さんにはあった。


単調な仕事は定時で終わり、嶋本さんに金魚の事を聞きにいったけれど、タバコの吸殻を灰皿に残し、彼はもう帰っていた。

そして僕は、四角い箱から出ると、いつもの時間にいつもの電車に乗り込み、駅から安アパートまでにある中型スーパーで、惣菜弁当やカップ麺を買う。

その日は、何故かイチゴの赤が目につき、イチゴもワンパック買った。

透明のプラスチック袋からのぞく真っ赤なイチゴ以外は、全てが僕のつくりあげてきた平凡な日常。


なんら変わったことはなかった。


いつもの見慣れた木製のドアを開くまでは、いつもの生活だった。

ところが、いつものドアを開いた途端、僕のつくりあげてきた日常の中に、僕のつくらなかったものが飛び込んできた。


殺風景な僕の生活に、思いもよらない鮮やかな非日常がやってきた。





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