##3 神官長Xの献身(3)
それからしばらく、彼女は驚くほどに大人しかった。
常日頃、彼女に振り回される神官たちも、少々物足りなく感じているように見えるほどだ。
私もまた彼女とは顔を合わせづらく、仕事を理由にしてなかなか足を向けられずにいた。そして彼女に当たり散らしてしまった事から、己の未熟さを痛感する日々を送っていた。
私宛の来客があったのは、そんな折りのことである。
神殿の応接室。
二人だけにしてもらったその部屋で、私の目の前にいるのは懐かしく、見慣れた顔だった。
「お久しぶりです。お元気そうで、何よりです」
「こちらこそ、忙しいだろうに時間を取ってくれた事に感謝する」
そう言って小さく頭を下げたのは、先代神官長だった。遠くの町に住まいを移したと聞いていたのに、私用のついでにここまでわざわざ顔を出してくれたらしい。
先代は、その職位に就任するよりも以前、私の上司だったことがある。それ故に、私にとっては先代として以上に気安い存在でもあった。
そんな彼は私の上司であった時より、そして代替わりの際に顔を合わせた時よりも、ずっと寛いだ穏やかな表情を浮かべていた。
「今はどうしていらっしゃいますか?」
「ああ、田舎に帰って役場で働いているよ。あそこには派生神殿はないけれど、祠があってね。頼まれて管理もしている」
彼はそう言って、小さく微笑む。
同僚には鬼上司と揶揄される事の多かった厳しさは、もはやどこにも見られない。
生まれた土地に戻ったからか。それとも重責から解放されたお陰か。その様子に私は、一抹の寂しさと、わずかな羨ましさを感じていた。
「そちらは随分と苦労しているようだな。あまり顔色が冴えない」
「ええ、お陰さまで」
揶揄するように答えると、先代は思わずと言ったように小さく笑った。
そうした気安さも、見知った以前の彼には見られなかったものだ。
「あの方に仕えるのは、なかなか骨だからな」
「先代の苦労が偲ばれます」
「言ってくれる」
彼は目元を緩ませた。
「あの方は、お変わりないか?」
「……え、ええ」
私は即答できなかった。
何か支障が生じた訳ではない。しかし、今の彼女の様子をして、変わりないと答える事には抵抗があった。
「何か、あったのか?」
「その……少し、彼女に当たってしまいまして」
彼はそんな私の様子から、問題があったことを類推したのだろう。
かつて信頼していた元上司に確信の眼差しで問われ、私は隠しておく事ができなかった。
「私は、彼女に女神として相応しくあって欲しいのです。それが、彼女を守る事にも繋がるとも思っています」
世界を救ってくれた彼女の存在に感謝し、その威光に頭を下げる。
それが疫病の女神に対する信仰の形だ。
けれど、彼女はそうした理想の姿からは余りにも遠い。そもそも、彼女自身にその自覚がないようにすら感じられる。
彼女が女神であろうとしないのならば、仕えている我々は――、
「まるで馬鹿みたいじゃないか、か」
私は小さく頷く。
私は疫病の神殿の神官である事に、疫病の女神の信徒である事に誇りを持っている。
それは私以外の神官たちもまた、同じ事だろう。
だからこそ、彼女自身にも誇るに相応しい存在であって貰いたいのだ。
「その気持ちは分からないでもないな」
先代は、目を伏せると私の言葉に頷く。
「だが、それは思い違いだ」
「しかしっ」
私は思わず顔を上げて言いつのる。
先代こそが、理想と現実の差異に絶望してこの神殿を去ったのではないのか。
他の誰でもなく彼こそが、一番自分の気持ちを理解してくれると思っていたからこそ、私は彼の言葉に反発する。
「彼女は、疫病の女神なのですっ」
崇めるべき、敬愛すべき存在。
それが何よりの前提であるはずだ。
「そうだな。だが君は、我々が彼女に仕えている理由が『彼女が疫病の女神であるから』ではないということを、忘れてはいないか?」
思いがけない所から突きつけられたその言葉に、私は声を出せなかった。
※ ※ ※ ※
ノックの音が、どこか辺りをはばかるように響く。
「失礼致します。女神様、採血のお時間です」
鍵の付いていない扉をそっと開いて入ってきたのは、採血を担当するいつもの医療神官だ。
彼は遠慮のない足取りで部屋の中央にあるベッドに近付くと、覆い被さった布団の山に向かって楽しげに声をかける。
「女神様、起きて下さい。そうやってぐずぐずしていると、また神官長に叱られますよ?」
まるで猫がネズミを甚振るように。舌なめずりせんばかりの口調でそう言って、彼は女神を揺り起こそうと手を伸ばす。しかしそれよりも早く布団を捲り、身を起こした相手を目にした途端、驚き言葉を失った。
「どうしましたか、シュウ神官。今日は採血の予定は入っていなかったはずですよ」
彼は唖然として指を差すと、口をぽかんと開けている。
それもそうだろう。彼とて女神愛用のベッドで寝ていたのが、本人ではなく神官長である私だとは思ってもみなかったに違いない。
「そ、そんな。め、女神様はいったいどこへ……?」
「あの方は、恐れ多くも私の部屋で休んで頂いています。それよりも、シュウ神官。私の質問に答えていませんよ」
彼はどうにか冷静さを取り返したようで、ぐびりと唾を飲むと、おずおずと私に向かって頭を下げた。
「すみません。うっかり予定を勘違いしてしまっていたようです」
「違うでしょう、シュウ神官。あなたがこうして独断で彼女の採血を行っていたのは、一度や二度ではないはずです」
彼女に行う採血。
それは、かつて人類を滅亡の一歩手前まで追い詰め、今もまだ思い出したように発生する恐ろしい伝染病の薬を作る為の措置だ。
病が流行してから一度に血を貰うのでは負担が大きい為、定期的に採血をさせてもらってはいるが、行う回数はさほど多くない。
むしろ血を提供してもらう女神自身が採血を苦手としている為、その回数は必要最低限に抑えており、頻繁に行うことはないのだ。
「聞いた所によると、このところ羽振りがいいようじゃないですか。その資本は、いったいどこから得ているのですか?」
誰にも治せない病を癒した女神の血。
万病薬としてそれを欲する者も、研究の為に調べたがる者も決して少なくない。
神殿は彼女の血を疫病の薬とする以外に利用する事を断じて認めていないが、もし密かに採取し闇で売ることができれば、そこにはかなりの値がつくはずだ。
「しかも、あの方の髪まで勝手に切り落として……!」
私は不揃いになっていた彼女の黒髪を思い出して、吐き捨てる。
彼女の毛髪や身体データもまた、血肉と同様に求められることが多いものの一つである。
血液に比べればまだ痛ましさは少ないが、それでも気遣いの様子のない無造作な切り口は無残の一言だった。
すべてを見透かされたシュウ神官は、破れかぶれになって声を張り上げた。
「いいじゃないかっ。女神らしいことをしないあの女に、人の役に立つ機会をくれてやっただけだ!
「あの方は、我々の道具ではない!」
身勝手な彼の言い様を、私は怒りも露わに一喝する。シュウ神官は、びくりと身を震わせた。
神官である彼なら、知らないはずがない。
見も知らぬ人間を救わせるために、我々は彼女にすべてを捨てさせた。
にも関わらず彼女は何でもないように笑って、今もなお我々を助けてくれているのだ。
そんな彼女を、己の欲望のままに略取するなんて恥知らずな真似が、どうしてできようか。
「調子に乗ってしまったようですね、シュウ神官。あの方は、あなたが私利私欲で利用していい存在ではない」
私は待機していた武装神官たちを入らせると、がっくりとうなだれるシュウ神官を連行させる。
彼からは販売経路や背後関係などを探らなければならない。
主のいない部屋を一瞥し、私もまた彼らの後を追う。彼女の部屋を背に歩きながら、私は先代との会話を思い出していた。
異世界に、慈悲深き女神がいる。
彼女は流行病によって滅亡に瀕した人類を悼み、召喚に応じてこの世界に顕現した。
そしてその血肉を供することで人類を救い、以後人々は彼女を疫病の女神として信仰するようになった。
「これが、世間に流布する女神の逸話だが、これが真実でない事は君も知っているな?」
先代の言葉に、私は頷く。
当時の人々が、魔術による召喚を行ったのは純然たる事実。
しかしそれによって現れたのは、女神ではなく、病に冒された一人の異世界人だった。
その血は確かに病の特効薬となり、また異世界移動の影響か不老となりはしたけれど、彼女の出自は紛れもないただの人間だ。
「けれど、だからこそ、彼女は女神になって貰わなければいけないんです」
心ない者達にこれ以上彼女が利用されないよう、不可侵の立場まで祭り上げる。
それがこの神殿の、本当の始まりだ。
先代は、私の言葉に頷いた。
「ああ、そうだな。しかし、一方で彼女に女神らしく振る舞わせる事にはあまり意味がない」
「何故ですか!」
彼女の協力なくして、彼女は女神足り得ない。
私はそう主張するが、彼はそれに首を振った。
「彼女を女神として認めない者は、たとえ彼女がどれだけ女神らしく振る舞おうとも、何かしらにケチをつけるだろう。そして彼女も女神でない以上、必ずどこかに瑕疵が生じる」
その言葉に、私は反論できなかった。
「もし仮に、彼女の振る舞いに文句を言う者がいたらこう答えれば良い。人知に及ばないからこそ、神なのだと。――まあ、もっとも」
彼女の言動に振り回される我々としては、どうにかして欲しい部分も多いのだが。
かつての苦労を思い出したのか。遠い目をして零されたぼやきに、思わず私も神妙にうなずいてしまう。そこに関しては、互いに看過できないようだった。
彼は目を細めると、さらに続けた。
「魔術協会の事も、あまり気にしなくて良いだろう。彼らに女神を偽物だと断ずる利はほとんどない。むしろ彼らとしては、あれほどの犠牲を出した魔術で只人を喚び出したとするより、神を召喚したとする方が聞こえが良いと分かっているだろうからな」
彼は手を伸ばすと、私の頭に軽く触れる。
「まだ年若い君に神官長という立場を継がせる事は、多大な負担だと言う事は理解している。辛い事も多いだろうが、その時はこう考えて欲しい。疫病の神殿において神官長になるということは、彼女のもっとも近い家族になるということであると」
それが、日々の暮らしも家族も世界すらをも、奪ってしまった我々が彼女にできる数少ない償いだと。
かつて、彼女に最も近しい存在であったはずの彼はそう言う。
「それと、君は彼女は女神として神殿に協力をしていないというが、そんなことはないはずだ。彼女は彼女のできる範囲で我々に手を貸してくれている。もし、彼女が何かを嫌がることがあるなら、その訳を聞いて差し上げた方がいい。理由なく彼女が我々の要望を拒絶することは、そう多くない」
そう断言する先代の言葉で、それまで気付かなかった一つの違和感がふいに思い浮かぶ。
私は神妙な思いで、彼にうなずいた。
かくして私は独自に調査を進め、神殿内における疫病の女神への搾取の実体に気付くこととなったのだ。
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