#20 私は自堕落な病の女神(最終話)


 



 彼は言った。


『気味の悪い生き物め』


 私は肩をすくめて答える。


「私だって人間だよ」


 似合わない大人びた口調が続ける。


『何の目的でこの世界に来た』


 大仰すぎる質問に、私は苦笑をこぼす。


「好きで来たんじゃないんだよ」


 背伸びするように精一杯虚勢を張ったまま、彼は言った。


『今すぐ立ち去れ……さもなければ……』

「さもなければ?」


 笑いながら、私は意地悪っぽい気持ちで続きを促す。すると彼は顔を真っ赤にして、声を張り上げた。


『お前が本当はどうしようもない駄女神だってことを、皆に言いふらしてやる!』






「いや、もう勘弁して下さい」

「神官長」


 私は振り返る。そこにいるのは、一番見慣れた青年姿の神官長。そしてそれと入れ替わるように、幼い子供の神官長が淡雪のように消える。


「頼みますから、今すぐ忘れて下さいよ」

「嫌だよ、せっかく思い出したのに」


 恥ずかしそうに肩をすくめる彼に、私は笑う。そして、申し訳ない思いで首を傾げた。


「ごめんね、今まですっかり忘れていて」

「若気の至りなので、もの凄い勢いで忘れていて下さって良かったんですけどね。でも――、思い出したんですね」

「うん、そう。随分かかっちゃったけど」


 優しげに目元を和ませる神官長に、私はこそばゆい思いで頷く。


「もう、大丈夫ですか?」

「うん。みんなのお陰だよ。どうもありがとう」


 私が頭を下げると、彼は笑って首を振る。


「それはこちらの台詞ですよ。まあ、どうしてもお礼がしたいと言うのなら、あのやり取りを改めて忘れて下されば」

「えー、それは無理だって」


 相変わらずちゃっかりしている神官長に、私は声を出して笑う。


「でも、本当にお礼は言いたいよ。今まで、本当に世話になったから」

「お易い御用ですよ。だってわたしたちは、家族でしょう?」


 彼の言葉に、私は勢い良くうなずく。


「さあ、そろそろ戻りましょうか。貴女を心配そうに待っている者がいますから」

「神官長」


 お別れだと思うと途端に寂しさが胸を締め付ける。彼は笑って首を振った。


「今の貴女の神官長は、わたしじゃないでしょう?」


 そう、そうだった。だから、私は代わりに名前を呼ぶ。


「ヨイチ」

「良くできました」


 彼は指で丸を作る。


「それでは、わたしの不肖の孫をよろしく頼みますよ」


 彼の姿がうっすらと消えて行く。そして代わりに視界が真っ白になり――、




  ※   ※   ※   ※




 瞼を開いて、真っ先に目に飛び込んできたのは、天井だった。

 でもそれは、白くどこまでも高い神殿の天井ではなく、木の板ででき、蛍光灯が下がった普通の民家の天井だ。


「ああ、なんだまだ村長さん家か」


 目を瞬かせて首を捻ると、すぐ傍らに見慣れた姿があった。


「おはよう、神官長」

「――目を覚ましたのか!」


 私の起床に気付いた当代の神官長――イサが、顔を上げ私に近付いてくる。


「おはようじゃない。お前は、一週間も眠り続けていたんだ」

「えっ、そんなに経ってるの?」


 七日間という思ったよりも長い時間に驚くが、そう言えば私は過去二百年ほど眠り続けていたこともあるのだから、それを考えれば大した事はないも知れない。しかし――、


「またお前が、何百年も目を覚まさないままなのかと思ったぞ」


 神官長は深く安堵のため息をつく。随分と、彼には心配を掛けさせてしまったようだ。

 私は神官長への申し訳なさと、彼から寄せられていた思いの深さに、ついつい顔を緩める。

 神官長はそんな私をじっと見つめていたが、ふいに私の顔に向かって手を差し伸べてきた。

 彼の、長い指が私の頬にそっと触れる。そして、


「――何をだらしなくにやついてるんだ。お前が何の成果も上げず再び惰眠を貪り始めたら、我々の65年間の苦労がまったくの無駄になるところだったんだぞ!」

いひゃいひゃいっ」


 私は頭を傾けたまま、悲鳴を上げる。何故傾いているかと言うと、それはもちろん神官長に頬を抓られたまま、引っ張り上げられているからだ。

 頬が、頬が捻じ切れるっ!!


「病み上がりの女神にんげんに何すんのさ!」

「疫病の女神がどの面下げて病むとか言うんだ! そもそも、お前はどこも悪くないとすでに検査済みだ」


 あ、そうなの。まあ確かに調子も悪くないけどね。神官長には毎度のことながら、ご苦労をお掛けしています。


「あ、お姉さん! 良かった、起きたんだね。オレ、村長さんに教えてくる!」


 ふいに勢い良く襖の開く音がして視線を向けると、そこにいたのはお茶のお盆を手にして入ってきたケント少年だった。

 彼は目覚めた私に気付くと、目を輝かせて再び部屋を飛び出して行く。

 ちょっと待て、この状況を見て他に何か言うことはないのか。せめてしつこく頬を抓り上げたままの神官長の悪行を、止めて行ってくれ。餅みたいにほっぺたが、伸びてしまったらどうするんだ。

 私は涙目のまま、恨みがましい視線を閉まった襖に向けた。



「そう言えば、あれからいったいどうなったの?」


 ようやく指が離され、赤くなった頬を擦りながら私は尋ねる。

 今先ほどではないものの、もの凄く危機的な状況だったことは覚えている。

 しかし、いったい自分がどうやって助かったのか、さっぱり分からなかった。

 ともかく神官長やケント少年がいて、そして私がこの村長さん宅で眠っていたと言うことは、恐らく事件は無事に解決したのだろう。


「なんだ、何も覚えていないのか?」


 神官長はそう言って、私に何かを差し出してくる。

 手渡されたものに視線を下ろした私は、思わず叫び声を上げてそれを放り投げた。


「もぎゃっ!」

「どんな悲鳴だ、それは」


 神官長は呆れたように言うけれど、私にしてみたら無理もない話だ。

 何しろ渡されたものと言うのは、目に眩しいほどに自己主張の激しい色をしたキノコ。

 その色は忘れたくても忘れられない、ド派手な蛍光ピンクだった。

 高熱とともに蛍光ピンクの斑点を全身に浮かべ、病院で死に掛けていた記憶が走馬灯のようによみがえる。


「あの時、辺り一面にこのキノコが生えた。村人たちは一斉に倒れて、意識を失った」


 な、なんですと! なんか、最後にすごく嫌なものを見たような気はしたけれど、これのことだったのか!


「我々は急いでその場を離れ、村に戻ったが、村の中もこのキノコが生い茂り、寄生された村人は一人残らず倒れて、目覚める気配はなかった」


 やばいよ、それバイオテロだよ。でも、私のせいじゃないですからね!


「も、もしかしてみんな死んじゃってたんじゃ……」

「いや、息はあった」


 恐る恐る発した質問に、神官長はあっさりと答える。私は深く安堵の息をついた。


「だが、彼らの頭にも、このキノコが生えていた」

「怖い!」


 ちょ、マジで怖いんですけれど。昔年の恐怖、再びだよ! みんな大丈夫? 蛍光ピンクの斑点とか浮かんでない?


 それにしても――265年目にして、初めて明かされる新事実! 私が死に掛ける原因になった胞子は、ただの胞子ではなく、キノコの胞子だったらしい。

 ならば胞子まみれになって判別がつかなくなっていた幼馴染の土産物の正体も、押して知るべしだ。

 だが、どう言う訳か欠片も嬉しくない! そもそも何故、新婚旅行の土産がキノコだったんだよと、心の友と書いて地獄に落ちろと読む幼馴染に対する恨み言が、今更のように思い浮かぶ。

 神官長は私の内心の恐慌を無視して、あっさりと話を進めた。


「我々はその隙に彼らを神殿に運び、キノコと寄生虫を取り除く手術を行った。すると驚くべきことに彼らに生えていたキノコは、実は寄生虫から発生している事が判明した」

「冬虫夏草か!」


 私は思わず突っ込む。しかし、それと同時に納得もした。

 何故私が、この村限定で千里眼を発揮したのか。

 それは、私が歩き回る事で知らず知らずのうちに撒き散らした胞子が、この村の地下に菌糸を張り巡らせていたからだろう。その菌糸を通して、私は村の様子を知る事ができたのだ。

 またその菌糸は、村の人たちの中にも取り込まれていた。もちろん、彼らの中に潜んだ寄生虫の中にも、だ。


「あの時、それが一気に発芽したんだ」


 そんなの今まで一度だって起こったことがないので、もしかすると温泉の地熱効果も引き金の一端になったのかもしれない。


 私は自分の中で煩いくらいに喚いていた声を思い出す。

 この世界に召喚されたのは、私一人だと思っていたけれど、そうではなかった。

 生にとても貪欲な小さな命もまた、私とともにこの世界に渡っていたのだ。


「……」

「おい、どうした?」


 もの凄く微妙な笑みを浮かべたまま凍り付いている私に、さすがの神官長も心配そうに声をかける。

 せっかく判明した事実だけど、私は速やかにそれを忘れる事にする。場合によってはキサラギに頼んで記憶を封じてもらうのも已む無しだ。


 だって、自分が蛍光ピンクきのこ人間だったなんて、恐ろしすぎるよ!

 どんなマタンゴだよ! 完璧ホラーじゃん。そのうち一個の大きなキノコになって徘徊を始めるとか、絶対に勘弁して欲しい。


 嫌なことは寝て忘れるべく、私はおもむろに布団の中に潜り込む。

 その直後、神官長に情け容赦なく布団を引っぺがされたのは、もちろん言うまでもない。




  ※   ※   ※   ※



 一週間眠り続けた割には、確かに身体は健康そのものだ。また、疫病の問題も解決したということで、私と神官長はこの村を出ることにしたのだった。

 症状の軽かった村人たちが集まって、私たちを見送りに取り囲む。

 まだ入院中の人も多いので数はそれほど多くないけれど、回復次第みんな村に戻って来られるそうだ。

 寄生されていた時間が短かったためか、比較的早く回復をしていたタンデンさんも、ちょっと離れた柿の木に寄りかかりながらこちらを見ていた。それにしても何故彼の立ち振る舞いは、いつも無意味にハードボイルドなのだろう。


 先頭に立って私たちに頭を下げたのは、もちろん今にも死にそうな顔色で笑みを浮かべた村長さんだった。


「本当にありがとうございました、女神様。村人一同を代表致しまして、心からお礼を申し上げさせて頂きます」

「いいの、いいの。無事に解決して良かったよ」


 どうしてお礼をと言うなら、この先もう寝女神像は収集しないということで一つ。次は燃やしに来るよ。


「神官長様も、色々と手を貸して下さいましてありがとうございました」


 村長さんは神官長に向かっても、深々と頭を下げる。


「あのキノコは頂きました助言の通り、疫神キノコとしてこの村の新しい名物にしたいと思います」


「――ちょっと待ったああぁっ!」


 私は思わず全力で静止を呼び掛ける。

 まさかあのキノコを栽培するつもりじゃないでしょうね!

 煮て焼いて食うの? 止めた方がいい。絶対に止めた方がいいから!


「ああ、約束通りバックマージンはこれで」


 そして四本ほど指を立てる神官長! なんであんたも勝手にリベート貰ってるのさ!

 神官長は私を振り返り、しれっと答える。


「あのキノコだがな、調べてみた所かなり高い薬効があることが分かった。特に冬虫夏草となったキノコには、ずば抜けた効果が期待できる。毒性もないようなので、販売すればかなりの儲けが見込めるだろう」

「いや、そう言う問題でもないでしょう。これだから守銭奴は!」

「何を言う」


 神官長は呆れたような眼差しで、私を睥睨した。


「お前がぐーたらと惰眠を貪っている間、我々は助けを求めて駆け込んできた信者たちに医術や魔術を使って治療を施してきたんだ。医療魔術には莫大な対価が必要となる。それ故に我々は、お布施以外にも収入源が必要なんだ」

「そ、そうだったんだ……」


 私は神殿にお金がないのは、てっきり神官長たちが横領しているからだとばかり思っていたよ。疑っててごめん。


「でもそれとこれとは話が――、」

「お姉さん!」


 勢いのあるボーイソプラノに振り返ると、ケント少年が人の輪を潜り抜けてこちらに向かって走ってきた。

 彼は呼吸を整えると、私を真っ直ぐに見すえて言う。


「お姉さん、ありがとう。お父さんも、お義母さんも、ドモンおじちゃんも、皆無事だったって、もう少ししたら帰ってくるって教えてもらった」

「そうなんだ。良かったね」


 走ってきたからという理由だけではなく、頬を紅潮させたケント少年に私は目元を和ませる。

 彼は私たちがこの村に来る前から、村を救おうと一人奮闘していたのだ。今回一番の功労賞は彼かも知れない。


「それでね、オレ魔術師になるのやめることにする」

「え、そうなの?」


 あれだけ魔術師になりたがってたのに。やはりキサラギという悪例が目の前に居たのがいけなかったのだろうか。

 自分のせいではないものの、子供の夢を壊してしまってちょっと申し訳なく思っていると、彼は私に向かって言った。


「オレ、医者の資格と医療魔術を習得して、疫病の神殿の神官長になる!」

「え、ええぇ!?」


 私は思わず目を見開く。絶対に魔術師の方が実入りがいいのに! 後悔したって知らないよ!


「いいんだよ。だって神官長になれば、側でずっと女神様を守れるんだろ。だから――、」


 彼は赤い顔をわざとらしく背けてそう言い捨てると、私の手を取り、小指に自分のそれをひっかけた。


「指切りげんまん嘘付いたら針千本飲ーます、指切った!」


 彼は乱暴に手を振って指切りすると、恥ずかしそうにそのまま走り去って行く。彼の後ろ姿はあっという間に見えなくなった。

 ケント君、あんなに指切り怖がっていたのに。

 私は微笑ましいような、こそばゆいような気持ちで頬を緩ませる。


「もしかすると、次の神官長は彼になるかも知れないね」

「この役職は生半可な気持ちで就けるものじゃないから、本人のやる気次第だな」


 神官長の物言いは手厳しかったけれど、その声にはどこか面白がるような色がある。

 まったく素直じゃないなぁ。


「では、行くぞ」

「うん」


 村人たちの感謝の眼差しを背に踵を翻す神官長の後を、私は付いて行く。

 こうして、私の女神としての初仕事はなんとか無事に終了したのだった。




  ※   ※   ※   ※







 窓から見える景色は、行きの時とは逆に山道から田舎道、そして市街地にと雰囲気を変えて行く。

 行きもそうだったけれど、何時間もずっと車の助手席に座っていると言うのは飽きるものだ。神官長は相変わらず、あんまりコンビニにも寄ってくれないしさ。


「ねえねえ、神官長。暇だよ、なんか面白い話でもしてよ」


 私は彼に向かって無茶振りをする。相手にしてはくれないだろうと分かってはいたが、やはり神官長は「なんで自分が」と言わんばかりに、こちらを見事に無視している。

 ならばこのままうたた寝でもしてしまおうかと思ったけれど、ふいに思い出したことがあったので、私は再び神官長に声を掛けた。



「そう言えばさ、神官長。私、思い出したよ」


 それだけの言葉で、神官長は何のことだか察したのだろう。表情を凍りつかせた彼は、やがて搾り出すかのような声で、ぽつりと答えた。


「そうか……。とうとう思い出してしまったか」


 そこに若干の痛ましげな色が混じるが、彼は小さく首を振る。


「だが魔術で封印し続ける方が、無理があっただろうからな」

「うん、そうだね」


 それでよかったのかも知れないと言う彼に、私も頷く。


 もう何十年も前から、私は魔術を掛けられていた。

 意識操作の魔術によって、記憶を隠蔽されていたのだ。

 そのこと自体、忘れさせられていた私だったけれど、その記憶の留め金はキサラギに殴られた事でほとんど外れ、あのカニ騒動の後とうとう全て解けてしまった。

 そして、取り戻したのだ。

 思い出す事がないように封じられていた、記憶――それに連なる感情を。


 神官長は何かを堪えるような表情で唇を引き結び、僅かに逸らしていた視線を戻す。


「お前にとって攫われて殺されかけた記憶が辛くとも、その記憶を封じることは決して良いこととは……」

「あれ、そんなことあったっけ?」


 重々しい口調で始まった神官長の語りに、私は思わず首を傾げる。すると神官長はくらりと目眩を起こしたように上体を傾がせ、そして改めて私を怒鳴った。


「お前はその事件を切っ掛けに、神殿に引き蘢るようになったんだろう!?」

「あー、思い出した思い出した。でもそっちは魔術で封じたんじゃないし、今回思い出した事にそんなに関係してないから」


 まあ、ちょっとは関係しているかも知れないけど。


 それは私がこの世界で意識を取り戻して数年が経った頃。

 私は街のお祭りに行こうと神殿を抜け出して、誘拐された事があった。

 その騒動の最中、私はうっかりと死に掛け、またこの世界に対して若干の警戒心を持つようになった。けれど、引き蘢るようになったのは単に私が怠惰なせいだ。


「私が思い出したのはね、家族の記憶だよ」


 父と母。そして弟。私の中で封じられていたのは、そうした家族の存在と、それにまつわる記憶や感情だった。


 この世界で意識を取り戻した当初、私はこの世界にまったく現実感を持つ事ができなかった。もっとも病院で死に掛けたと思ったら異世界で女神になっていたなんて状況に、現実味リアリティを持てと言う方が無茶だろうが。

 そのまま夢の中にいるような気持ちでフワフワと、流されるままに生きていた私だったけれど、ふいに起った誘拐事件は、この世界が私の生まれた元の世界とはまったく違う『現実』であるということを、強烈に意識させた。


「それだけならまだ良かったんだけど。その後、当時の神官長のお孫さんと言葉を交わす機会があったんだ」



『気味の悪い生き物め』



 きっと眦を吊り上げて、私を罵倒する幼い少年。

 私は取り戻した当時の記憶を、懐かしく思い出す。


「私はその時、――自分の弟を思い出して、ホームシックになっちゃったんだ」


(お前、気持ち悪いから。半径30メートル以内に近寄んな。しっしっ)


 それに喚起されたように、もの凄く嫌そうに顔をしかめる弟の、在りし日の姿もまた思い浮かぶ。

 後の神官長でもあるヨイチ少年の刺々しい物言いは、辛辣を形にしたような我が弟の千明に良く似ており、ただでさえ里心の付いていた私はいても経ってもいられなくなってしまった。


「でも、今更帰る事なんてできないし、方法もない。このままじゃ女神生活にも差し支えが出るしってことで、私から頼んで記憶を封印してもらったんだ」

「そうか……」


 神官長は私の話を聞くと、おもむろに視線を下げる。そこに若干気まずそうな色が混じるのは、そのヨイチ少年が、今目の前にいる神官長の実の祖父に当たるからだろう。

 親しい肉親のやっちゃった話は、なんとなくこう、自分のせいではないにも関わらずいたたまれないものである。



 それから、しばらく無言のドライブが続く、――と思われた。



「かつて――この世界の人間がお前を召喚した時、その扱いは特効薬としてのものでしかなかった」


 トラックに揺られながら外の景色を見ていた私は、ぼそりと呟かれたその声に思わず振り返る。


「瀕死の状態で特効薬として召喚されたお前の延命を任されたのは、魔術協会の中でも医療魔術に特化した一派だった。召喚されたばかりのお前の側に、最も長く居たのも当時の彼らだ」

「あー、そう言えばキサラギもそんな事を言っていたね」


 ちなみにキサラギは気がつけば姿を消していたらしい。恐らく、魔術庁に帰ったのだろう。

 せいぜい、帰ってから上司に叱られるが良い。神罰としてはボーナスカットが妥当だろう。女神の恨みは深いのだ。


「医療魔術師たちもまた、お前を世界を救う特効薬としてしか見ていなかったのだが、その意識が変わる切っ掛けがあった」


 神官長は私にちらりと視線を向ける。


「お前がうわ言で、死にたくないと家族を呼んでいたんだ」


 うわー、恥ずかしい! その時から危機的状況下で、親や弟の名を喚く癖は変わってなかったのか!

 私は思わず頭を抱えて、羞恥心に悶える。


「だが、それを聞いたことによって医療魔術師は、お前が特効薬ではなく一人の人間である事に気がついたんだ。そして、このままではいけないと考えた」


 彼らには伝染病が解決した後、私がどう扱われるのか予想ができたのだろう。

 特効薬としての役割の次に待っているのは、実験動物かはたまた違う薬の材料か。

 私を研究材料として欲したキサラギの様子を見れば、その想像は大きく外れていなかったと分かる。


「だから、お前を守るために、お前を疫病の女神として祀ることにしたんだ」

「そうだったんだ……」


 何故、疫病の特効薬として召喚された私が疫病の女神として祀られていたのか。そのことを疑問に思った事もなかったけれど、そこにはそんな理由があったのだ。

 265年も昔に、この世界に召喚された私を守ろうとしてくれた人たちがいる。

 一度たりとも言葉を交わしたことも、見たこともない彼らの存在に、じわりと胸が熱くなる。


 ――叶うことなら、会ってお礼の一つも言いたかった。


 だけどその代わり、今、私の隣には265年分の思いを受け継ぐ人間がいる。


「我々神殿の役目は、世界を救ってくれたお前を守る事と、もう一つあった」


 神官長は、こちらに一瞬だけ視線を向ける。


「召喚することで奪ってしまった、お前の家族の代わりになることだ」


 うわ言で両親や弟の名を呼ぶ私を、きっと何よりも家族を愛する人間だと思ったのだろう。

 だから彼らは、私が望む家族に似たものになろうとした。形は女神に仕える神官であっても、私の家族になってくれようとした。

 私は黙って神官長を見る。彼は少し戸惑ったように口を開いた。


「どうしたんだ」

「知ってたよ」


 神官長は驚いたように目を見開く。

 私は満面の笑みを彼に向けた。


「神殿の皆は、私の家族だった。だから、私は両親と弟の記憶を封じてしまっても寂しくなかったんだ」


 歴代の神官長、そして神殿の皆。彼らはぐーたらと寝てばかりの私に苦笑しつつも、暖かく見守ってくれていた。

 今、元の世界の両親や弟への慕わしさを取り戻しても平静でいられるのだって、ここに新しい家族が居るからだ。


「神官長、あなたもだよ。まあ、ちょっと口が悪くて暴力ドSかも知れないけど、弟みたいに思ってる」


 むしろそんな所が、元の世界の弟の千明にすごく良く似ているんだよね。

 それともどこの世界も、弟ってそんなもんなのかな。


「厳しくしていたのも、引き蘢ってばかりだった私に発破を掛ける為だったんでしょ」


 疫病の神殿はまるで布団の中のように、見知らぬ世界のやってきた私を暖かく包んでくれていた。

 でも神官長は、目覚まし時計の音ともにその布団をひっぺがし、今が外の世界に出る時期なのだと教えてくれていたのだ。


「別に、単にお前の怠惰さが目に余っただけだ」

「すごい! 神官長がデレてくれた――っと、蛇行運転危険だからっ!」


 ぐらりと大きく車が揺れ、私はシートベルトを掴んで思わず悲鳴を上げる。

 ちょっと手が滑ったとか言うけど、今の絶対わざとだろう!

 珍しすぎる神官長のデレに、ちょっとばかり喜びを抑え切れなかっただけじゃないですか。


「ねえ、神官長。あと、神殿までどれくらいかな」


 私は神殿にある自分のベッドを懐かしい気持ちで思い出す。

 戻ったら、いの一番にベッドにダイブして、思う存分ごろごろしてやるぞと私は期待に胸を膨らませる。

 畳のごろ寝も良いけれど、やっぱり寝心地が良いのは慣れ親しんだ自分の布団だろう。

 やっぱり我が家が一番なのだ。


「何を言っているんだ」

「……へ?」


 しかし神官長は、あっさりと不穏な一言を口にする。

 何だか今、もの凄く聞き捨てならない言葉を耳にした気がするのですが。


「この一件くらいで、溜まりに溜まった仕事が片付くと思っているのか? 次は嵯峨県黒磯村だ」

「ええっ、ちょ! 聞いてないよ! 頑張って働いたんだから、少しくらい休ませてよ」

「喜べ」


 私の悲鳴のような訴えに、神官長はクールに告げる。


「そこも温泉地だ」

「ぐっ」


 そんなことを言われて懐柔されると思ったら、思ったら――、


「含食塩芒硝硫化水素泉らしい」


 つまりは憧れの白濁温泉ってことですか!


「ううぅっ! 温泉卵に温泉まんじゅう! あと、ご当地名物! 今度こそ食べささせてくれないと許さないからね!」


 くくっと愉快そうに笑う神官長に巧く乗せられたような気がするけど、そんなことはない。

 これは私の女神としての使命感のなせる技なのだ。


 開け放ったトラックの窓から吹き込む風は気持ちよく、空はぽかぽかと晴れ渡っている。

 これにごろ寝と温泉が付くならば、もう少しくらいの寄り道も良いかも知れない。




 そんな訳で、私がぐーたら疫神生活を取り戻すのは、まだしばらく先の事になるのだった。









 

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