カクヨム転載特典短編
猿の森の満開の下(上)
ベッドに横たわったまま、彼の手に腕を伸ばす。触れた浅黒い手は、私が思っていたよりもずっと大きく、骨ばっていて、少しだけ乾いてかさついていた。
短く爪を切り揃えた指先は凍りついたように冷たくて、私は無意識に手の内に握り込んで暖めようとする。
「ねえ、神官長。どうやら私が頑張れるのも、ここまでみたい」
彼の涼やかな青い目は、指先よりもずっと冷たく私を見下ろしていた。
「色々と迷惑をかけてゴメンね。でも、私は神官長と一緒にいられて、すごく楽しかったよ。ああ、でももし最後にひとつ願いが叶うのならば、私は――」
「お前は」
切なる言葉に被せるように神官長が口を開いたので、私はちょっと鼻白む。
「決して出来のいい女神ではなかった。だが、それでもお前はこの疫病の神殿の祭神であり、俺の唯一の女神だ」
だから、と神官長は私の手を振りほどき、代わりに何かを握らせる。かさりと紙の擦れる音がした。
「俺は最後まで、自分の役目をまっとうしよう」
「……これは、なに?」
それは何らかの呪符のようだった。
私が唯一見たことのある転移符に少しだけ似ているけど、なんだかもっと禍々しい物をここからは感じる。
「自爆符だ。起動すると空高く飛び上がり、爆発四散する」
「ちょっと待ったあぁぁ!!?」
私はがばっとベッドから身を起こす。
「なんで爆発? どうして私が空中爆死させられなきゃいけないの!?」
「お前は疫病の女神という生きる神話だ。しかし実際には目覚めてこの方、奇跡を起こした事もなければ、百年先まで語り継がれるような歴史的偉業を果たしたわけでもない」
神官長は淡々と語るが、その目に一切の揺らぎがないのが逆に恐い。
「ならば、その死に方くらいは伝説的でないと、疫病の神殿が廃れてしまうだろうが」
「そんな伝説いらないから! 最後は普通に死なせて、頼むから!」
「安心しろ、破片は一欠け残さず拾い集めて、全国に仏舎利塔を立ててやる」
「そこ、安心できる要素ゼロだから!!!」
しかも爆発符起動のキーワードは、頭にバの付く三文字らしい。セキュリティがばがばやん。
「私はただ、湯治に連れて行って欲しいだけなんだってばぁぁぁ!!」
私は全身全霊で、思いの丈を吐き出した。
プログラマーとして平凡に生きていた私が、蛍光ピンクの胞子で死に掛け、異世界に疫病の特効薬として召喚されてから二百年と半世紀ちょい。
相変わらず疫病の女神として祀られていますが、今日も私は元気です。
「温泉地など、すでに何回も行っているだろう」
「全部仕事としてじゃない。私は何にもせずに、ただのんびりと温泉につかりたいの」
まあ、仕事中でものんびりと温泉に入って叱られたことは、多々ありますがね。
私の渾身の仮病は、速攻で神官長にばれていたらしい。下手な芝居に付き合ってやったんだから感謝しろと、居丈高に言われてしまった。
しかも、どうやら自爆符は本物のようで、いざと言う時の為に持っていると押し付けられたままである。私、こんな物騒なものを持っていたくないんですけど! てか、神官長いつか絶対に私のことを爆死させるつもりなんでしょう!!
無駄に美形な神官長の情け容赦ないドSっぷりも、相変わらず健在である。
温泉に連れて行ってくれないと死ぬと駄々を捏ね続けたところ、呆れ果てた神官長はしぶしぶと私を、二泊三日の温泉旅行へと連れて来てくれた。
最後には何だかすごく可哀想なものを見る目で見られた気がするけど、これは私の捨て身の作戦が成功したという事だから、哀しくないよ! でも、涙が出ちゃう。だって女の子だもん!
川沿いに何件もの旅館が立ち並ぶ温泉街が、今回の湯治先だった。湯は硫黄泉で温泉らしい匂いが辺りに漂い、鄙びた雰囲気がまた趣深い。
場所は山中の渓谷にあるので、神官長の運転する車でここまで来たのだが、相変わらず車種が軽トラなのは実は神官長の趣味なのかもしれない。
「ねえ、神官長」
「なんだ」
「今日、私はオフで温泉につかりに来たんだよね」
「そうだな」
端的に答える彼の耳に、私は顔を近付けて小声で尋ねる。
「じゃあなんで私、拝まれてるの?」
「神秘性 +10」の為に神官長から渡されたフード付のマントを羽織って、車から降りる。しかし途端に私は温泉地の人たちに取り囲まれて、拝まれ始めてしまったのだ。
なんか小さく「さるさる」とかも聞こえてくるけど、この辺の人たちは神をたたえる時は「いあいあ」の代わりに、そう唱えるのだろうか。
「お忍びにしなくていいと言ったのはお前だろ?」
同じように小声で神官長は返してくるが、私はどうにも納得いかない。
芸能人じゃないんだからと、お忍び旅行にしなくていいと言ったのは確かだ。でも、だからと言ってこんな風になるなんて思っても見ないじゃないか!
「考えても見ろ。もしお前の家の近所をふらふらと神が歩いていたらどうする」
「とりあえず、拝んで神頼みのひとつでもするよね」
「そういうことだ」
納得してしまった。
あまり好みではないけれど、大騒ぎになるのも本意ではないので、次に湯治に行くときにはお忍び旅行にした方がいいのかも知れない。
「この場を無理やり突破しようとすると、逆に暴動のひとつでも起きそうだ。落ち着いてから、解散を促すから少し待っていろ」
そう言われたので、大人しく神官長の隣に立っておく。
だけど色んな人が手を合わせ、頭を下げて、お願いごとをしていくのを見ているうちに、私はものすごく心苦しくなっていった。
そんなに一生懸命祈ってくれても、私には何もできないんだよ?
落ち着かない気持ちでもぞもぞとしていた私の脇腹を、唐突に神官長が抓り上げる。痛みに思わず飛び上がりそうになったけれど、すかさず足の甲を踏まれて地面に縫い付けられた。
二段攻撃とは、神官長のレベルが上がっている。主に鬼畜方面に。
「そわそわしていないで、大人しくしていろ」
「だってぇ」
小声で注意されたのを、私は半泣きで言い返す。ちなみに半泣きなのは、神官長の情け容赦ない鉄槌のせいである。
「どうせ神頼みをする奴の大半は、話を聞いて貰えるだけで満足するんだ。気にするな」
「でも、中には本気で叶えて欲しい願いことがある人だっているでしょう?」
一生懸命祈って、それでも何の効果もないと分かってしまったら、私は詐欺師として訴えられてしまうかも知れない。
その場合は、果たして懲役何年になるのだろうなどと不安になっていると、神官長がしれっと答えた。
「その時は、信仰心と寄進が足りないせいだと言っておけばいいんだ」
それでいいのか宗教屋!
あまりにもあっさりと放たれた言葉に、私はぎょっとして神官長を見上げてしまう。暴力ドS以外にも悪徳守銭奴なる称号も得ようとは、神官長は実に向上心が強いようだ。
しかし神官長はその目に冷たい色を浮かべたまま、鼻で笑ってみせる。
「そもそも、僅かな賽銭や一度や二度拝んだ程度で願いを叶えて貰おうと考える方が、よっぽど調子の良い話だろう。魔術に限らず、すべての物事には対価が必要なんだ。楽して結果だけ得ようという輩に、得られるものは何一つない」
そう言って、神官長はこちらをちらっと見る。
ううっ、骨身に染みるお言葉です。この旅行が終わったら、もう少しまじめに働こうなどと、何度目とも知れない決心を抱いていると、突如悲鳴が聞こえてきた。
反射的に神官長が前に立ち塞がり、軽トラの扉に私の体を押し付ける。ぐええっと変な声が口から漏れた。加減して神官長! 潰れるから、中身が出ちゃうから!
神官長の背後から覗き込むと、何やら周囲は逃げ惑う人でてんやわんやになっていた。神官長が折檻棒……ではなく、先日新調したばかりの飾り杖を握りしめ、身を緊張させたのが分かった。
そしてとうとう、騒ぎの大本が姿を現した。
≪ウキィィ――ッ!!!≫
それは、荒くれ者の集団だった。
モヒカンのようなとさかは天を突かんばかりに立ち上がり、目の周りはサングラスでも掛けているかのように真っ黒だ。
鉄パイプではないものの太い木の棒を手に手に振りまわし、その身を革ジャンならぬ毛皮で覆っている。
「ああっ、最後の種もみがぁぁぁ!」
「おじいちゃん、うちの農家はもう廃業しちゃったでしょ」
ちょっとボケが入ってしまったらしい老人が叫ぶのを、孫らしい娘さんがいつものことのように流しているのは、まあ関係ないみたいだから気にしなくていいだろう。
ともかく、如何にも世紀末にバイクを乗り回して襲撃してきそうなその集団は、
「猿だよね……」
反省が得意な猿軍団も、野生に帰ればあんなに凶暴な愚連隊になるようだ。
私は彼らが土産物屋や観光客を襲っては温泉まんじゅうなどの食べ物を強奪していく様を、呆然と見送っていた。
どうやらこの温泉街は今、度重なる猿の被害に悩まされているらしい。
凶暴な猿たちは、商店を襲撃しては土産物を箱ごと浚って行ったり、客を襲って食べているものを強奪していく。さらには窓を割って客室に入って、荷物を荒らすことまでしているという。
お蔭で旅行客は激減し、温泉街は苦労を強いられているようだった。
この温泉街は、今後の更なる発展の為に現在川の上流に大型の温泉施設を建設中らしい。しかしこのままでは完成を待たずに、温泉街そのものが潰れてしまいかねなかった。
「ねえ、疫病の神殿の人間として、彼らを助けてあげたりしなくていいの?」
涙ながらに苦労を語る温泉旅館の仲居さんに同情した私は、二人だけになった際にそっと神官長に尋ねてみた。しかし彼は静かに首を振った。
「病に関わることでなければ、疫病の神殿の管轄外だな」
冷たい言葉に聞こえるかも知れないけれど、それは仕方のないことだろう。
私から見れば、なんでもできるように見える神官長だけれど、彼だって決して万能ではない。
病に倒れ、救いを求めてやってくる信者を神殿に蓄積された知識や、お布施と言う名の寄付を対価にした医療魔術で助けることはできても、それで手いっぱい。
すべての苦しむ人たちを救うことはできないのだと、彼自身も割り切っているようだった。
それは私ももちろん理解できるところで、きっと私なんかよりももっと立派な、本物の神様でないと、全ての人を救うことはできないのだろう。
奇跡も偉業も成し遂げられない名前だけの
※ ※ ※ ※
温泉は大変すばらしかった。
自然の景観を活かした露天風呂は、お客さん自体が少ないこともあってかほぼ貸切状態で、私はひとりでのんびりとお湯に浸かることができた。
神官長にはあまりはしゃいで女神の威光を失墜させるような真似はするなと、半ば恫喝のように注意されたけれど、これだけ人がいなければ湯船で背泳ぎをしようがバタフライをしようが、何の問題もなかっただろう。
私は上下スウェットと言う楽な部屋着に身を包み、ホクホク気分で部屋へと戻る。
部屋に帰ったら、買っておいた温泉まんじゅうを食べるのだ。
ちなみにお土産用の温泉まんじゅうは別に買う予定である。これは、快く温泉に向かわせてくれた神殿のみんなへのお土産、の下見だ。みんなには、ぜひとも一番美味しい温泉まんじゅうを食べてもらいたい。
温泉まんじゅうを食べて、昼寝して、夕飯を食べたら、もう一回温泉に浸かろう。そんなことを考えながら部屋に戻った私だったけれど、襖を開いたところで呆然としてしまう。
部屋はまるで嵐にでもあったように荒れ果てていた。そして部屋で待っているはずだった神官長の姿もどこにも見えない。
ありとあらゆる荷物がひっくり返されている中、私は硝子を割られ開け放たれていた窓に目を奪われる。そして指を突きつけて、叫んだ。
「あああっっ!」
――窓に、窓に! ではない。
ちょうどそこには、温泉まんじゅうの包みを持った数匹の猿が、部屋から出て行こうとする姿があった。
「温泉まんじゅう返せ! 泥棒~っ!!」
びくっと震え、慌てて窓から飛び出していく猿たちを、私は追いかける。
そして同じように窓から飛びおりてから、私はこの部屋が一階であったことを思い出し、心の底から安堵するのだった。
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