シュー生地の耐えられない軽さ (7)

(昨日のあれは結局なんだったんだろうなあ……)

 オーブンの中で膨らむシュー生地を見ながら、センはポケットの中で社章を転がしていた。社章の振動は小一時間ほど続いたが、今はぴたりと止まっている。そしてその後何かが起こるということもなかった。センの経験上、こういう時――なんだかまずそうなことが起こっているけれども見なかったことにした時――は、たいていその後実際にまずいことが起こるものだったので、今回の静寂は逆に不気味だった。


 卵をいくつも割り、温めた牛乳に砂糖、小麦粉と混ぜて火にかける。それを混ぜていると、急に外が騒がしくなった。


「臨時ニュースを申し上げます、臨時ニュースを申し上げます。『公平・中立な徴税委員会』本部、午前九時発表。『公平・中立な徴税委員会』軍は本惑星時間未明、メロンスター社バファロール星支社との戦闘状態に入れり。敵社屋を大破、大火災を生ぜしめ、その状況等より撃沈せられたるものと認めらるる」


 全館放送が流れ、それを聞いた人間が表に出て喜びの声を上げている。センが窓から外をのぞくと、上空から戦闘機が降りてきて滑空路に次々と着地していた。それを出迎える人間たちが戦闘機を囲んで熱狂的に旗を振っている。


 センは自分の耳を疑った。メロンスター社が(他の分野はさておいて)戦闘で敗北するというのが信じられなかった。メロンスター社の武器貯蔵は、新製品開発時に出る失敗品のおかげでつねに潤沢だし、メロンスター社の防衛体制には新製品開発時の事故に備えるため多額の予算が割かれている。これまでメロンスター社は数々の攻撃を受けてきたが、それで日常業務が止まることすら珍しかった。


「おい、聞いたか? 『公平・中立な徴税委員会』軍が大成果をあげたぞ! 正義の勝利だ! 今日はパーティだ!」


 キッチンに乗客の一人が入ってきてそう叫んでいった。センはカスタードクリームをバットにうつすと、ふらふらと椅子に座り込んだ。


(……おかしいな……)


 センは、自分には愛社精神というものはかけらもないと考えていたのだが、なぜだか全身から力が抜けていた。なぜだろうと考えると、ハイジャックからここまでの生活で感じていた違和感が心の表にあらわれてきた。


(……うーん、そうか……)


 センはしばらく違和感の正体を考えていたが、やがてその原因を探り当てた。それからセンはこめかみに手を当てて、自分がこの後いかに行動すべきかを思い巡らせた。


「よし」


 カスタードクリームの粗熱が取れたころ、センは意を決めて立ち上がった。エプロンの紐を締め直し、自分の顔をぱちんと叩いた。それからカスタードクリームをボウルに移し、別の鍋を火にかけた。



 その日の夜は祝勝会が開かれた。乗客たちが会議室の机と椅子を脇によけ、部屋の飾りつけをしている。たくさんの飲み物と食べ物が置かれ、部屋の隅に置かれたスピーカーからはアップテンポの音楽が流れてきている。


 会場にいる人間はみんな上機嫌だった。そして会場に『公平・中立な徴税委員会』のメンバーが入ってくると、その興奮は最高潮に達した。『公平・中立な徴税委員会』のメンバーは乗客たちに次々握手やハイタッチやサインを求められている。まるでn多様体空間フットボールの選手とそのファンのようだった。


 会場の中で、センは壁際によって目立たないようにしていた。プロジェクターに今日の戦闘の映像が流され、メロンスター社の社屋が燃え上がっているシーンになると、会場のあちこちでシャンパンの栓が抜かれた。メロンスター社のロゴが大写しになったシーンでは、映像に向かってトマトや卵が投げつけられた。そのうち一つ二つのコントロールが悪く、センの頭にべちゃりと当たったが、センは静かに紙ナプキンで拭くだけだった。


「今回の戦闘では極めて大きな成果を上げることができました。また、この成果により新たなスポンサーの獲得にも成功し、今後の作戦計画においても上方修正を行います」


 映像が終わって演説の時間になると、あのシュークリームを頼んできたハイジャック犯が壇に上がり、スライドを使いながら話をした。演説の最後には会場の人間全員に酒の入ったグラスが配られた。


 センにもグラスが配られていたが、センはそれを飲まずにそっとテーブルの上に置いた。


「それでは、メロンスター社打倒のため、乾杯!」


 壇上のハイジャック犯は、そう言ってグラスを高く掲げた。そして、そのまま壇から転げ落ちた。


「何? どうした?」

「大丈夫か?」


 会場の人間たちはざわついたが、会場全体のあちこちで人間がばたばたと倒れていくと、それはパニックに変わっていった。グラスがあちこちで割れ、悲鳴があがり、音楽がノイズに変わる。騒動の渦から離れたところで、センは一人でこっそりと会場から抜けだした。


 机の下に隠しておいたスーツケースを引きながら、センは廊下を全力で走った。祝勝会の前に、水から酒からシュークリームからとありとあらゆるものに睡眠薬を仕込んだので、邪魔は入らなかった(センは昔メロンスター社で受けた『薬品の安全管理』講習で、キッチンにあるありふれた材料から劇薬を作る方法を学んでいたので、睡眠薬を大量に生産することができた)。普段運動しないのでじきに息が切れたが、この機会を逃せばこの星からの脱出はおろか、メロンスター社社員であることがバレて袋叩きにあう可能性がある。その恐怖がセンの足を止めさせなかった。


「ここから先は許可された人間でないと通行できません。許可証の提示をお願いします」


 格納庫へと続く道の入り口のゲートは、ロボットが警備をしていた。センはロボットに刻まれたロゴを確認した。メロンスター社の製造ではない。ならば大丈夫だ。


「ぐ! ああ、苦しい! 助けて!」

「どうしましたか? 大丈夫ですか?」

「うう、持病の癪が!」

「おっと、お待ち下さい、今医療サーバーと通信しています。すぐ手当できますから、もう少々我慢してください」


 ロボットはそう言うとその場で止まった。隙が出来た。センはそれを見逃さず、スーツケースにしまっておいた瓶型爆弾(これも『薬品の安全管理』で製造方法を習ったのだ)を投げつけた。爆発炎上したロボットを尻目に、センは格納庫へと一直線に走った。


 現代の人道的なロボットは、ロボット三大原則を拡大適用し、ヒトが病気や怪我で苦しんでいる場合はそれを助けようとする。しかし本来の製造目的が医療用ではない場合、医療データを保存してあるサーバーと通信し、医療プログラムを取得してから救助行動を行うのだ。今回センはその機能を悪用し、ロボットが医療プログラムを準備している隙をついて攻撃を加えたのである。また、もちろんメロンスター社のロボットにはこの機能は搭載されていないため、メロンスター社のロボット相手ではこの手段は使えない。


 格納庫の手前にも警備ロボットがいたが、センは先ほどと同じ手段で倒し、中へ侵入した。戦闘機やセンの乗ってきた船が並ぶ中、センが目指したのは一人乗りの航宙船だった。がんがんと音を立ててハシゴをのぼり、操縦席に乗り込む。足元にスーツケースをほうりこみ、起動ボタンを押して制御プログラムを起動させる。


「目的地を入力してください」


 ナビに従って銀河のエリアを指定し、バファロール星を目的地にセットする。暖機が始まり、航宙船全体が振動し出した。


「止まれ、そこの船!」


 外から声がした。モニタの角度を調整して声の方向を見ると、驚いたことにそこにいたのはあの演説していたハイジャック犯だった。よく見ると足元がふらついているが、それでもこのわずかな時間のうちで回復したとは、とセンは目を見開いた。


「君は……ああ、あのキッチンにいた……どうしてこんなことをするんだ!」

「……」

「君も、僕達の正義に賛同してくれていたんじゃないのか? なぜだ?」

「私は」とセンはマイクをオンにした。「賛同していたわけじゃありません」

「じゃあ、メロンスター社の側だったのか?」

「いや、そうでもないんですが」

「どうして! あの巨大な悪の帝国を打ち倒すのは、銀河市民全員の望むところだろう!」


 そういうハイジャック犯の目には一点の曇りもなかった。


「えっと……あのですね。うまく言えないんですが、なんというか……まず、私は生まれた時からずっと、宇宙から理不尽な扱いばかり受けてきたんです」

「メロンスター社はその理不尽の最たる物だ! それに一緒に立ち向かおうじゃないか!」

「うーん、そう思っていたこともあったんですが、なんというか。宇宙って、そもそも理想とか正義とかまったく無視してくるじゃないですか。だから今さら正義とか善とか悪とか、そういうのになじめないというか……ものすごく居心地が悪いんですよね。なので、逃げます。すいませんが。あ、でも、応援はしてるので。頑張ってください」


 ちょうど暖機が終わり、制御モニタの「発進」のボタンがONになった。センはそのボタンを押し、ハイジャック犯を後ろにしてケリエスの重力圏から飛び去った。



「……次のニュースです。メロンスター社は本日付のプレスリリースで、『公平・中立な徴税委員会』の本拠地であった衛星ケリエスを消滅させたと発表しました。『公平・中立な徴税委員会』軍は、先日の成果によりその力に注目が集まっていましたが、今回はメロンスター社の前に抵抗むなしく敗れた形になります。これによりリルグランデの平均株価は一時十パーセント下落し、サーキットブレーカーが発動しました」


 机の上にのせたラジオからのニュースを聞きながら、センは始末書を記入していた。シュレッダーロボットの展示会に出席できずに報告が行えなかったことに関するもので、これによって来月の給与の十二パーセントが削減されることが決定していた。


 バファロール支社の社屋は先日の戦闘によりあちこちが崩落していたが、ところどころ崩落しているのは常日頃からのことなので、社員はいつものとおりに業務を遂行していた。風が直接吹き込む場所に配置されたシュレッダーロボットは文句をぶうぶう言っていたが、それ以外はいつものとおりに紙を砕いていた。


 始末書を書き終えて一息つくと、センはポケットに手を突っ込んだ。指先が布とはちがう感触に触れ、取り出してみるとそれは衛星ケリエスで読んだパンフレットだった。伸ばしてみると、先日は気付かなかったが、裏は『公平・中立な徴税委員会』の宣伝になっていた。


(もしあのまま彼らと一緒にいたら、今頃どうなってたんだろ)


 センはそう考えながら、しばらく『適正な納税を、公正な社会を!』と書かれたスローガンを眺めた。そしてしばらくしてから、センはパンフレットをシュレッダーにかけた。

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