エルジェイムで ~城勤めの兵士と菜園の魔王~

筆々

第零話 見限ったあらゆる世界

夜に紛れるは悪意の塊なのだろうか?

 誰それを――否、男は自身の唯一無二である女性の前髪を横に流しながら撫で、世界を恨む――何故、世界にはこれほどまでに悪意が蔓延っているのに、この唯一無二が『泣かなくては』ならないのだろうか? そんな世界を許すつもりはない。

 男が浮かべる表情は世界に蔓延る悪と同じように鋭く、冷たい。

「………………」

 男は歩みを進め、研究室――そう呼ぶには、温もりが溢れているその場所。思い返せば、あの時からこの場所は変わった。少女であった唯一無二が、男のやっていることを真似し始め、男と男の仲間がそれを教え始めた。子育てなどしたことはない。その瞬間から、この場所は無骨なただ研究をするだけの冷たい牢屋のような、世界の果てのような『世界』から変わり、暖かく、誰しもが笑みを浮かべられる場所に変わったのである。

しかし、その唯一無二は女の子であり、研究ばかりしてきた男にとって、男と女という、世界で片手の指に入るほどの面倒臭さ上位にあるそれ――最初は接し方すらわからなかった。こう言っては何だが、女性は苦手である。男はそうため息を吐き、人生の中で最も長く接した女性である唯一無二を想う。

 唯一無二がこの場所に来てからの数十年――様々なことがあった。危険だというのに、教えてもいないことをやったり、真面目に話しているのに欠伸をしたり……その度に叱るのだが、叱り方を知らない男は、ただただ唯一無二を傷つけてしまっただけであった。そのことを男は理解しており、所謂『父親』らしいことは一切したことがなかった。いや、父親と形容するのもおこがましいほど、男は人とは接していなかった。

 唯一無二が『世界と違えた』時も、男は何もすることが出来なかったのである。

 男は、研究室にある大きな窓から世界を臨む。

 この景色は好きだ。大樹の中に住んでいる男は、まるで世界と同化したような錯覚に陥り、そこから見ることの出来る世界は、全てが自身の一部のような――。

 男はフッと鼻を鳴らすと、研究所の中に入り、様々な道具に触れてみる。

 今では、その唯一無二が求める『優しさ』に染まってしまった道具たち――彼女がここに来る前は、人の血液や悪意、それだけではなく、生命の冒涜までも内包した傍若無人っぷりであった。

我々は何様なのだろうか? 唯一無二がここに来て、自身の研究をするようになってから、男は何度も自身に問いかけた。超えてはいけない領域――彼女はいつも言っている。否、男が彼女に教えたことである。人の領域、生命の終着点……それを超えることは、そもそも生命で在る内は無理なのである。彼女にそんなものを目指させないために、口酸っぱく教えたが、唯一無二が来る前、男はそれを目指していた。

 そして、それが染み込んだ道具たちを男は一撫で――。

「もう一度……狂気を内包してくれる気はないだろうか?」呟いた男。「答えなくても良い」

 男が言うように答えないわけではない。道具たちは答えられないのである――しかし、男にとっては、その言葉の意図は自己満足であり、決意の証であった。

「もう一度――もう一度」まるで、とり憑かれたように繰り返す。「このままではいけない。また、泣かせるわけにはいかない――」

 男は、道具の一つである釜に近づき、薪をくべる――その表情は、やはり悪意に満ちており、今まで築き上げた全てを擲ってでも『救いたい』と、思った――思ってしまった。

 今までは、生きているのか、死んでいるのかも曖昧で、ただ研究をしていた――だが、生きがい、生の執着……それを見つけてしまったのである。そのためならば、男は全てを失っても良い。最早生を感じていなかった身――その生に、一般の生命が持つべき全てを与えてくれた唯一無二のために、男は今、過去であった狂気を、捨てたはずの『生への羨望』を――その全てを自身に纏わせ、笑みを浮かべた。

「さぁ、始めよう――」男が生命を感じられないほど、白く、細い腕を広げた「我らの宝、世界になどくれてやるものか」

 いつの間にか、男の背後に集まった男たち――。

 今まで通りで良い。過去はこうだったのである。ならば、それを冷えた頭で模倣すれば良い。自身の模倣、馬鹿らしい話であるが、それほどまでに、男たちの頭からは過去がなくなっていた。

 それは感謝すべきことであるが、今では必要のないことである。

「――ッ!」

 一瞬、唯一無二の笑顔と泣き顔が頭の中を掠めたが、頭を振り、世界を『恨む』ことだけを考えた。

 男たちのそれは狂乱か。

 誰がためにあろうとも、それは在ってはいけないこと。

 それを理解する頭を切り離し、男たちの狂宴が始まる。

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