さよならを言えるだけの時間が欲しくて
十三年ぶりに父と再会した娘と、寝て起きたら三歳の娘が十六歳になっていた父親は、今や肩を寄せあって、橋の上でオーロラを見上げていた。
「冬の夜、こいつを見るのが好きだった。ベムリと二人で、たまにクオナを連れて」
そう語る父親の口は、白く曇る息を吐き出さない。体温は、氷点下の気温とほぼ同一で、口の中に残っている水分は、直前に飲んだ還死剤の残りだけだ。
「ガキの頃から知っているのに、見飽きねえんだ。いつも違う色と形をしてる」
「でも、私こんな形のオーロラ、初めて。大聖堂のステンドグラスみたい」
「ああ。綺麗だ」
その極光を生み出したのが自分自身だと、はたして彼に自覚はあっただろうか。二人は、昨夜家で会った時より、たくさんの話をした。その時にいくつか話していたから、彼女の母であり、彼の妻である女性の話題はすぐに尽きてしまう。
「叔父さん、私のこと、なんて言ってた?」
「大事にしろよ。ってな。無茶苦茶怒られた」
「本当よ」頬をふくらませる。
「それで……元気してるかとか、色々知りたがっていたな。あー、そうだ。……お前、付き合ってるやつとかいるのか」
びっくりしてミリヤは首を振った。もちろん、横に。
「じゃ、これって相手は」
「いない」憮然と。
「色気がねえな。お前ぐらいの歳には、クオナと二回別れて、三回目の交際をしてたんだぞ、俺は。……まあいい。じゃ、将来の夢、なんかあるか?」
困った顔をして、ミリヤはマフラーに顎をうずめた。腕をもたせかけた欄干の下、再起動したマーメイド・ワイトたちが、徐々に川へ戻ってきている。
「将来とか未来とか、もう降りるつもりだったのよ。そんなの」
「じゃあ、来週の予定とか、そういうのでいい。未来の話はねえか」
「……お父さんと、買い物行きたい。お洋服を一緒に選ぶの」
「いや、そういうのじゃねえだろ」
「うん。分かってる」
「大丈夫か、お前。その、俺がいなくても。いや、今まで俺はいなかったんだよな」
「そうよ。私にはもう、お父さんなんて人は、一生いないって思ってたんだから」
二人同時の沈黙が、夜の闇と、薄れつつあるオーロラに吸い込まれていった。
「お前、なんで死のうとか思ってたんだ」
「それは」う、と言葉につまり。「……内緒よ」
生暖かい目でじーっと見つめてくる父親に対し、そう間を置かず娘はギブアップした。「誰にも言わないでね」と断った上で、ナイショ話を囁く。
「……。……」
聞き終えたニフリートは、何とも言えない顔で腕を組んだ。
「……あー。それは、まあ。おう。恥ずかしくて死にたくもなる、な」
「やめて。言わないで。そのまま封印して」
「分かった分かった」
耳まで赤くなった顔が夜風に冷える頃、ミリヤはぽつりと言った。
「私たち、もっと早くこういう話してれば良かったね」
「ああ。俺はどうも、こう、間が悪いんだ」
ミリヤは一度、ばつが悪そうに、視線を斜め上にそらした。
「私、そういう所はお父さんに似たみたい」
「そいつはいい。いや、よくねえか。ああ、でも。……いいか、三歳のちびじゃ、どこが俺似で、どこがクオナ似か、中々分からなかったからよ」
グローブのように大きな手のひらで、ニフリートはそっとミリヤの頭を撫でると、くしゃくしゃと髪をかき混ぜた。朝日色の金髪が柔らかにきらめく。
「時間だ」
橋の欄干から離れて真っ直ぐに立ち、ニフリートは自らに言い聞かせた。霊柩バイクに背をもたれていたサイゴは、体を起こして、一挺の古めかしい銃を手にする。
対還死仕様モーゼルM98ライフル。先代鎮伏屋から受け継いだ、五発の
何が言いたげな一人娘をちらりと見やり、ニフリートは自分に、娘に、誰かに言い聞かせ始めた。
「今の俺は、地獄の卵なんだ。目の前に形のない壁があって、もう少しでその先に手が届きそうなのに、届かなくてイライラしやがる」夜の川へ向けて、手を伸ばす。「放っておいても俺はくたばるんだろうが、その前に、壁を突き破っちまいそうなんだ。だから、終わらさなくちゃいけねえんだよ。分かるな?」
伸ばした手を握りしめる。たくさんの取りこぼしてきた物から、持っていけるだけの何かを、もう一度掴みとろうとするように。
「ベムリは、あいつは目先の寿命より、思い出を抱えて逝くのを選んだ。俺だってそうだ。自分が自分で無くなっちまったら、生きてようが死んでようが同じだ。そんなモンが幻だとしてもな、俺は、やっぱり俺でいたいんだよ」
ボルトハンドルを引く音がして、ミリヤは鎮伏屋の青年を見た。
弾倉から、還死剤の影響を受けた細胞を根こそぎ蝕む、死向性剤入りの弾丸が装填される。死から還って来たものが、再び死を思い出す摂理の弾頭が。
「やれよ、鎮伏屋。俺にしちゃ、まあ……及第点じゃねえのか。〝父親らしい〟ってヤツのよ」
くるりと、回転するように銃口を持ち上げ、木の
「お嬢さん、無理に見る必要はありませんよ」
頬骨で銃把を押さえ、ニフリートから目をそらさないままサイゴは言う。父と叔父を探し、話をする。その依頼自体はもはや達成されていた。
「そうだ、見るな、ミリヤ。お前が生きていくのに、親父が溶けて崩れていく姿なんか、覚えておく必要なんざねえんだ。お前は俺が生きてた顔だけ知ってりゃいい。誰もわざわざ墓を暴いて、死体の顔なんざ確認しねえだろ」
欄干を背に、物怖じせず腕を広げたニフリートの声は、あくまで静かだった。
「これから俺はそれになる。目を瞑っていろ」
ミリヤは瞼を伏せた。小さく首を振って、サイゴの隣に立つ。精一杯腕を伸ばし、引き金に指をかけた手に、自分の手のひらを重ねた。
「お父さん、さよなら」
少女と鎮伏屋の指が入れ替わる。
「さよならだ、ミリヤ」
最初の一発は、彼女が引き金を。
次の一発も。
次のもう一発も。
血のように赤く赤く還死剤が噴き出して、大気に触れてはたちまち揮発し、もうもうと蒸気を上げる。胸いっぱいに広がるマカル・インセンスにむせそうになりながら、ミリヤは深くそれを吸い込んだ。父の姿を隠す蒸気を手で払う。
四つ目の銃声が響く。蒸気が濃くなる。
ミリヤは銃から手を離し、還死剤蒸気の雲に突っ込んだ。薄いそれはすぐに抜けて、目の前に、ニフリートの笑顔がいっぱいに広がる。
親しみと、慈しみと、懐かしさと、少しの悲しさをたたえた満面の笑みが、花火のように一瞬ひらめいて、すぐに夜の闇に散って消えてしまった。
最初からそこには、ニフリート・ハーネラという男などいなかったのではと、思わされるほどに、あっけなく、跡形なく。ただ、そこに彼の服と、人工声帯のチョーカーが残されていた。それで、全てが終わったのだ。
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