EBE
しる
プロローグ
一
どんなに辛いことや悲しいことがあっても、私は孤独ではなかった。
そんな日常が、とてつもなく愛おしかった。
「アイツは不気味過ぎる…」
それが私への評価だった。
名前は、
服はボロボロ、髪は伸び放題で右目しか人からは見えない小学五年生の女子だ。
耳は上部が少し尖っていて、目は吊りあがっている。
東京都日野市、都のほぼ中心部に位置し、多摩川と浅川の清流に恵まれ、湧水を含む台地と緑豊かな丘陵をもつ、都会とは思えない程田舎のこの町で私は育っている。
今日も学校でイジメられた。トイレの個室に入っている時に、上から水が降ってきた。悪戯な女子の笑い声が聞こえてくる。ずぶ濡れで、長い髪から水が滴り落ちる。
しかし、私は平気だ。これが私にとっての日常なのだから仕方がない。
教師はこの事態を知ってか知らずかまったく見て見ぬフリだ。そもそも私自身まともに教師と話をしたことがない。これまでどの教師もそうだった。生徒の私に対して、一応は笑顔を向けてくるが、その目で分かる。明らかに私を不気味なものとして見ている。
親にも、いや親といっていいのかどうかわからない存在にもイジメられていることを話したことがない。言っても無駄だということはわかっている。
辛い、と思ったことがないわけではないが、それも随分前の話だ。小さい頃は、イジメられる度に泣きじゃくっていた。だが、イジメが日常化していくにつれ、私は自分の外見上仕方のないことだと割り切るようになった。そう割り切ることができたのは、学校外のある友のお陰でもある。イジメは相変わらずあったが、飽きたのか頻度は減っているし、むしろ今は少し幸せでもあった。
「心結ちゃん」
学校からの帰り道、私の名前を「ちゃん」付けで呼ぶのは、学校で唯一の友達、
「花村さん」
五年生になってから初めての友達で、私は気さくに名前を呼ぶことなどできず、「さん」付けで呼んでいる。
「すごい濡れてる!またあいつらにイジメられたの?」
「まあね。いつものことよ」
夏だから涼しくてちょうどいいくらい、と私は付け足したが、結衣は肩を落として悲しそうに私を見てきた。
今この世で、私のことを本気で心配してくれる数少ない一人だ。
結衣はクラスでも大人しい性格で、私に同情はしても常に助けることはできない。
一度私を本気で助けようと声を出したこともあったが、結衣にイジメの火が向かいかねなかったので、私は「あんたには関係ない」と突っ撥ねた。
結衣も自分のことが如何に無力かを思い知ったようで、それ以降は表立って私には関わらないようにしている。
私にとっては、たった一度でも、いつも大人しい結衣が助けようと懸命に声を出してくれたことが有難く満足だった。だからこれ以上私に関わることで、くだらないイジメが結衣に向くことは、何が何でも防がねばならないことだった。
結衣は、私の様子をもう一度見てから、思い付いたように声をかけてきた。
「そうだ!今日私の家に来ない?ママがおいしいパンケーキ焼いてくれるの!」
「パンケーキ・・・?」
私には聞き慣れない言葉だ。
「あ、えーっと、とにかくおいしいパンだよ!」
「へぇ~。食べてみたいけど、今日私用があって」
「そっかぁ、残念。とってもおいしいから今度また食べにおいでよ!」
「わかったわ。ありがとう」
そう言って、二人は別れた。
友達のいない私にとって、ありがたい招待を断る理由は一つしかない。
私にはもう一人だけ学校外に友達がいる。今日はその子と会う大事な日なのだ。
家にも帰らずに、私は
普通なら迷ってしまう程の道であるが、小さい頃から通い詰めている道なので慣れた足取りで私は目的の場所へと到着した。
ちょっとした小屋ほどの大きさもある錆びた鉄の塊がそこにはあった。長い間そこに放置されており、蔦や木の根っこに巻かれている。錆だらけのその鉄の塊は、かつては何かに使われてたのだろうが、それが何であったのかはもはや知る術もない。
「来たよー!」
私は結衣と話してた時とは打って変わって、元気で大きな声をその鉄の塊に向けて発した。
しばらくしてから、その鉄の塊が開く。どうやらそれは扉のようだ。
中から一匹の犬、いやオオカミが姿を現した。
「おう、心結」
喋ったのはそのオオカミだ。
私は嬉しくなってオオカミのもとへ走り寄り、抱きしめた。
「元気だった?ウォル?」
「元気も何も三日前も会ったばかりだろう」
「えへへ。だって早く会いたかったんだもん」
人の言葉を話すこのオオカミこそ、私の親友であるウォルだ。いつからウォルと知り合いだったのか、私には思い出せない。物心ついた時には、ウォルを知っていて、人間の友達を持たない私にとって唯一の心の拠り所であった。人の言葉を話せることを他の人に言うことは、ずっとウォルに口止めされていた。小さい頃はなぜ他の人に話してはいけないのかわからなかったが、小学五年生ともなるとその理由はよくわかる。
数年前までは、ウォルにまたがり山を駆け巡ったものだが、そのウォルももう年でほとんど動けなくなっていた。
「濡れたのか?」
私の服はもうほとんど乾いてあったが、ウォルにはどうやらすぐわかったようだ。
「またイジメられたのか」
「うん・・・まあね」
イジメられていることはウォルには打ち明けていたが、この話をするのは心結としても心地のいいものではない。
「先生とかには言わないのか?今年の先生なら助けてくれるんじゃ・・・」
「言いたくないよ。どうせ私なんかに関わりたくないだろうし。目を見ればわかるわ」
ウォルは、気の毒な目を私に向けた。
「玲奈には?あいつなら何とかしてくれるぞ。あいつは人間としてはいい奴だ」
玲奈とは私の母に当たる人である。
「いい奴?玲奈が?絶対言わないよ。あ、そうって流されるに決まってる」
私は母のことを玲奈と呼ぶ。玲奈自身がそう呼べと躾けたからだ。
「まああいつは確かにだらしのないところもある人間かもしれないが、心結が思っている以上にいい奴だと思うぞ」
玲奈の話をするといつもこうだ。特に玲奈と話をしたこともないくせに。私は無視することにした。
いつも通り私の様子を伺ってから、ウォルは散歩に行こうと提案した。
もうウォルは走れない。だから今はこうして山の中を一緒に散歩する。
少し景色のいいところで、ウォルと話す。
「あ、ウォルに今日も持ってきたよ。食パン」
「おお、すまんな。ありがとう。これは大好物だ」
ウォルは尻尾を振りながら食パンにがっつく。人間にとっては特に味のついていないパンでも、オオカミにとってはかなりおいしいらしい。
給食を持って帰ることは禁止されているが、ウォルと会う時はいつもこっそり持ち出していた。人の目を盗むなんてどうってことない。
ウォルのパンを食べている姿を見ながら、ふと私は質問した。
「ねぇ、ウォルは私の小さい頃から友達でしょ」
パンを食べるのを止めて、私の顔を見る。
「あぁ、そうだな」
「なんで私と友達になろうと思ったの?」
ウォルは質問の意図がわからず、私の目を覗いてくる。
「ほら、その・・・、私って不気味じゃない?恐いとかキモいとか思わなかったの?」
あぁまたその話か、とウォルは答えた。
「不気味ね。まあ人からしたらおれの方が不気味だろう。おれのほうが心結より毛だらけだ」
「あはは」
「何度も言うが、おれは心結のことを不気味だとか思ったことは一度もないな。おれにとっては唯一の家族、そう思っているよ」
「家族か・・・」
私は嬉しかった。いつ聞いてもウォルは私のことをこうやって肯定してくれる。それだけで、学校でいくらイジメられようが、苦しくてどうしようもないということはなかった。
「この前、学校に友達ができたって話したでしょ」
「花村さん、だったか」
「花村さんも何でか私のことを不気味だと思わないんだって。何でだろう」
「さぁな。だが良かったじゃないか」
「うん。今日ね、ここに来る途中に花村さんにパンケーキ食べに来ないかって誘われた」
「パンケーキ?知らない単語だな」
「そう、私も知らなくてね。なんかすっごいおいしいパンらしいの」
「おいしい・・・パン・・・」
ジュルっとウォルの口が鳴った。
「ウォルも食べてみたいよね!だから今度食べさせてもらった時に、お土産用でもらってくるよ」
「おぉ、それは嬉しいな!」
ウォルとの話もそこそこに、日が暮れる前に山を出た。暗くなっては、いくら慣れた山とはいえ、物騒である。
山から十分ほどの道のりに我が家がある。ボロアパートの二階だ。
「ただいまー」
ドアを開けると真っ暗な部屋でテレビが点いていた。玲奈が点けっぱなしで寝てたようだ。
「・・・あら、心結、おかえり。ふぁぁ」
「玲奈、今日仕事は?」
「夜からあるわよ」
玲奈は水商売で働いている。娘の私が言うのもなんだが、玲奈はそこいらの女性よりずっと美人だ。
なぜ、この美人から私なんかが生まれたのか、いつも不思議に思う。
父はいない。結婚してたのかどうかも私はよく知らなかった。
「玲奈ってパンケーキって知ってる?」
「当たり前じゃない。あんた知らないの?」
「そんなの食べさせてくれたことないじゃん」
私は、ちょっと膨れた。
「今度、友達の花村さんがお家で食べさせてくれるって。楽しみ~」
「あら、そう。良かったわね」
玲奈は興味もなさ気に、台所へと歩いて行った。Tシャツに、パンツ一丁。玲奈の客が見たら卒倒するだろう。
「ご飯、何がいい?」
「焼きそば」
玲奈がお湯を沸かす。ご飯とは言ってもインスタントである。玲奈がご飯を作ることは、東京で雪が降るのと同じくらいレアだ。
学校でイジメられ、結衣とウォルと遊び、家で玲奈と何気なく過ごす、これが小学五年生の私の日常であった。
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