第一章 文明の消滅

第2話 人として新たに生を受ける

 私が暗闇から抜け出すと、強い風がうなりを上げていた。

 暗闇を抜けたはずだが、依然として暗い。

 暗いのは同然で、私はまだ目が開いていなかった。

 異世界へ生まれ変わることになるとは思っていたが、本当に赤ん坊から、いや胎児から始まるとは思わなかった。

 私が認識できるもっとも初歩の感覚は、母親の体内から排出される瞬間だったのだ。

 いや、冷静に考えると私の魂が新しく宿ったにのが、産れる瞬間では遅すぎる。その前にいたはずの魂はどこに行ってしまったのだろう。あるいは、私の感覚がなかっただけで、時間の感覚がおかしいのだろうか。


 とにかく、私はせき込んで肺の中の羊水を吐き出し、閉じたままの目をゆっくりと開けた。

 知らない顔が近くにあった。

 異世界に出たばかりである。知っているはずがない。

 たくさんの顔が覗いていた。どうやら、私はかなり望まれて産れてきたらしい。

 どの顔も、喜んでいることが如実に解る表情をしているのだ。

 締まりがないともいえる。

 ただ、あまりにも多くの人に囲まれているため、どれが親なのかわからないのは困ったものだ。


 私が目を開け、周囲の顔を見回していると、私を覗き込む顔がだんだん不安そうになってきたのがわかる。

 自分が赤ん坊であることを忘れていた。

 しかも、産れたてである。

 産れたばかりの赤ん坊に特有の反応を示さなければ、不安になるのは当然だ。

 だが、この世界は、私の力を必要としているはずだ。私がただの赤ん坊では困るのだ。

『ここはどこですか?』

 私は声に出してそう聞いてみたつもりだった。だが、私の耳に「まーーまーー」という声が入った。どうやら、私の声らしい。どうも、声帯が未発達で話すことができないらしいのだ。

 将来話せるようになるのだろうか。

 不安は尽きないが、私の顔を覗き込んでいた人々の顔が、一様に安どしたものに変わった。喜ぶ人々の顔をみるのは、いつの世もじつに気持ちがいい。

「はいはい、ママはこっちですよぉ」

 知らない言語だったが、私には理解できた。私の視界の一隅に『知覚魔法 言語習得』と表示される。まるで、私が死ぬ直前にはまっていた家庭用ゲーム機の表示だと思い、おかしくなった。浄財界で私を案内した美しい姿の者が、理解を助けると言ったのはこういうことか。

 しかし、『魔法』? この世界では、魔法というものが存在しているらしい。

 私がこの世界にいると、バランスが崩れると言っていた。

 魔法が使える世界では、私は危険なほど力を持ってしまうのだろうか。

 将来のことはとにかく、いまの私は少し笑っただけで、いかにも赤ん坊らしく笑ってしまうらしい。

私が笑うと、人々が笑った。笑いには良い効果があるとは、常々言われていたことだ。だからと言って、私がこの世界に来た理由が、人々を笑わせることだとは思わないが。


 私は抱き上げられた。ずいぶんと久しぶりの感覚だ。95年ぶりぐらいだろうか。

私を背後から抱き上げた人物が誰かわからないが、私が見せられたのは、消耗した顔をして、汗びっしょりになった美しい女性だった。

比較的しっかりとしているようだ。安産だったのだろう。この女性が強いのかもしれない。

『母上、お疲れさまです。おかげで無事この世界に現れることができました』

 私は丁寧に言ったつもりだったが、声から出たのは、相変わらず「まーーまーー」という意味をなさない声だった。理解できる言葉にして伝えてくれる魔法は存在しないらしい。だが、効果は絶大だった。

「まあ、賢い子ですね。誰がママか、解っているみたい」

「もう目が開いているの? 早すぎますよ」

「でも、泣かないわね」

 周囲の大人たちが勝手なことを言っているが、ただ安心させるという目的のために、みっともなく泣くということはしたくない。

 だが、何を言っても「まーーまーー」となってしまう。

 私は黙って、私をあらためて産んでくれた恩人の女性に感謝の意を評そうとした。

 胸に手を当て、小さくお辞儀をしてみた。

 背後から抱き上げられたままだったので、これは上手く行かなかった。

 私の所作がどう受け取られたのかはわからなかったが、悪い心証は与えなかったらしい。目の前の衰弱した女性が、私に向かって両腕を伸ばしていた。

「私にも、抱かせて」

「ええ。もちろんです。首が座っていませんから、気をつけて」

 なるほど。私は気をつけないと、首をまっすぐに立てていられないらしい。

 さすがに、一〇〇年前に赤ん坊だった頃の記憶はない。私は気をつけて、二人目の母上の腕に抱かれた。一人目の母は、五〇年ほど先だって他界している。

『母上、ありがとうございます』

 私を産んでくれたことに対して、改めて礼を述べた。今度は、しっかりと「ママ」という言葉が出た。

「はい。ママですよ」

 私の母上は、衰弱しているのか、大人しい声で私に語り掛けていた。体温が通常より下がっている他は、とても温かい体だった。

「……産れてきてくれて、ありがとう」

 私の耳元で、私にだけ聞こえるように、母上は言った。私は三度お礼を言おうしたが、それがままならないことを思いだす。

 どうすれば伝わるだろう。

 私は考え、答えが出ず、ずっと母上の顔を見つめることになった。母上は笑顔で、私をしっかりと抱き直した。

 とりあえず、今は赤ん坊らしくしているのが一番なのだろう。

 私は脱力し、母上に自分の体を投げ出した。

 力強く抱かれるとは、こんなにも安心するものかと、私は思いを新たにした。


 少し眠ってしまったようだった。

 目を覚ましたのは、粗野な大声で話す声が聞こえたからだ。

「産れたのか!」

「あなた、そんな大声で。この子が起きてしまったではありませんか」

 私を抱いているのが相変わらず母上だとしたら、目の前にいるのは私の父上だということになる。

 いまになって気づいたが、私はずっと揺れる部屋の中にいた。

 馬車にでも乗っているようだ。

 実際に馬車なのかもしれない。

 母上は、こんな条件の悪いところで私を産んだのかと、いまさらながら、感謝の念がたえない。

 目の前の父上らしい男は、揺れる部屋に飛び乗ってきたのだ。

 しっかりとした体つきで、母上よりだいぶ年齢が上だろう。鋭い目つきと身のこなしが、歴戦の兵士のような印象を与えていた。

「男の子よ」

 そうか。私は男に産れたのか。

「でかした! ああ。この子が一〇年早く産れていれば、立派な王になったものを!」

「あなた、いくらなんでも、一〇年で立派な王になるのは難しいわ」

 私を挟んで、何やら勝手な会話が交わされている。

 揺れる小部屋の中には、私の他は両親しかいないらしい。

「お前と俺の息子だ。一〇歳で、そこらの将軍よりよほど役に立つようになっているかもしれないぞ」

「そんなに期待しては可哀想よ。それにまだ、あなたの国が無くなったわけではないわ」

 私の父は王であるらしい。『国が無くなったわけではない』というのは、無くなるかもしれない状況にあるということだろう。想定していたこととはいえ、なかなか難儀な境遇に産れついたようだ。

「しかし、領土は失った」

「国は領土だけではないでしょう。まだ、あなたを慕う人が大勢いるのですから」

「俺を慕っているのかどうかは、わからないな。俺に従っているのは、ただ自分の身を守るためだけかもしれん」

「そうだとしても、あなたにはまだそれだけの価値があるということでしょう」

「ああ……どれ、俺にも抱かせてくれ」

 私としてはもっと世界の情勢を知りたかったが、父から赤ちゃん言葉で話しかけられ、それは叶わなかった。

 柔らかい母の腕から、武装したままのいかつい父に抱かれた。

 父は私を笑わそうと必死だったが、私はただ黙ってその様子を見つめていた。

「この子、笑わないな」

「笑いますよ。ただ、泣いたのはまだ聞かないわ」

「目は開いているが、ちゃんと見たり聞いたりできているのか?」

 どうやら、私は赤ん坊としては失格らしい。

 少し考えて、私は笑うことにした。

「……声が出せないのか?」

 声を上げて笑うことは、私は少し恥ずかしかったのだ。

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