第3話 赤ん坊としての生活
私が産れた時に乗っていた馬車は、馬が曳く幌付きの荷車だった。
四頭の馬が曳くしっかりとしたもので、人間が何人乗ろうともびくともしない。
馬車がしっかりしているのはいいが、その上で出産され、私は産れてから一度も降りることがないというのは、尋常ではない。
言葉を理解できても発することができないため、私は大人たちにいいように扱われた。
馬車内での生活は、実に一か月に及んだ。
私としては非常に恥ずかしいことに、尿意や便意を感じても、止めることができなかった。どうにも、下半身の筋力が未発達らしい。
意識して鍛えたほうがいいだろうか。私は未熟な下腹部を母や周りの女性にさらしながら、ずいぶんと思い悩んだ。
私の下腹部を覆う、いわゆるおしめが濡れても、私は泣かなかった。濡れるのは仕方ない。だが、泣いてもどうにもならないことだという私の判断は、少しばかり違ったようだ。
泣けば、濡れた衣服はきちんと取り換えてくれる。
しかし、私は泣かなかった。
世界も人間も大変な状況であるのに、私だけがわがままを言ってはいけないのだ。
もっとも、母をはじめとする大人たちにとっては、私に泣いてほしかったようではあるが。
空腹を感じても、私は泣かなかった。
ただ、決まった時間に母は私に向かって乳房を晒し、乳首を私の口に含ませた。
破廉恥な、とは思っても、主食が母乳であることはいかんともしがたいので、私は遠慮なく母から栄養を分けてもらった。
周囲の大人たちの話を聴く限り、栄養状態が悪く、満足に母乳が出ない母親が増えているらしい。
その点では、私は恵まれているのだ。だが、その恵まれない赤ん坊に私が母からもらえる分を与えてくれと伝えるだけの力が、私にはなかった。
声帯が発達するまで、まともには話せない。
文字であれば伝えられるのだろうか。
この世界の文字は知らないが、言葉と同じように魔法で理解できるようになるかもしれない。
私は筆記用具を求めて手を開閉させたが、母は私に母の指を持たせた。しかたなく私が母の指を握ると、母は嬉しそうに笑った。
普通に話せるようになるまでに、普通の赤ん坊の成長速度を考えると、一年はかかるだろう。
私は泣きこそしなかったが、声帯を鍛えて少しでも早く会話ができるよう、積極的に声をだすようにした。
馬車内での生活が終わったのは、私が乗る大型の馬車が通れる道がなくなったことによるらしい。
私は母の腕にだかれ、馬車から外に出た。
強い風が吹く、荒涼とした大地が広がっていた。
母に抱かれたままだったので、ほとんど空しか見ることができなかったが、首を横に向け、視界の隅に入れた光景は、想像を絶した。
みすぼらしい身なりの人間が、険しい荒野を延々と行列を作っていた。
馬車が向かうとした先に、馬車がやってきた後ろに、あまりにも長い行列ができていた。
人々は背に山のような荷物を背負い、ただもくもくと歩いている。
「王妃様、お持ちしましょう」
「いいえ。この子は私が」
母を『王妃』と呼んだのは、私がこの世界に生を受けた日、私を最初に抱きあげた女だった。
「そうですか? でも、これも背負っていただかないといけませんが」
女は荒野に置かれた、山のような荷物を手で示した。母は高貴な身分にありがちな、華奢な体つきをしている。力仕事などしたことはないのだろう。
これからどこまで歩くつもりかはわからないが、私を抱きかかえて歩くだけで精いっぱいのはずだ。
「わかっています。でも、この子だけは、私が抱いていきます」
「わかりました。ご無理はなさいませんよう」
母は荷物を背負い、私を抱いたまま、歩きだした。
行列がどこまで続くのか、どこまで行くのか、私にはわからない。
周囲の大人たちが、誰も口にしないからだ、
岩肌が露出した険しい荒野には、草すらろくに生えてはいない。
植生から、かなりの高地なのだろうと私は推測していた。
馬車を曳いていた馬は、行列を護衛しているのだろう、たくましい男達が騎乗に利用していた。
母が歩きだして一時間もせず、母は隊列から少し離れた。
周囲の人々と、同じペースでは歩き続けられなくなったのだ。
後ろに続く人々の邪魔にならないよう、母は隊列から少しずれたのだ。
王妃と呼ばれようとも、少しもわがままを言わず、母はじっと耐えている。
むしろ、他の人間から辛くあたられているようにも感じた。
人間ができているのだろうし、それ以上に、厳しい現実と向き合っているのだろう。
王族が延々と荒野を行くのであれば、もはや国などないものと考えていい。
私は、少し産れてくるのが遅かったようだ。
それは仕方がない。
母に、どうしてもう少し身ごもってくれなかったのかなどと、追及するわけにもいかない。
母が遅れ出してからしばらくして、馬に乗ったたくましい男が正面から近寄ってきた。
父だ。これで、少しは母の負担が減るだろうか。
私は、母のそばで馬を止めた父を期待して見つめたが、父は苛立った声を上げた。
「列を乱すな」
「ごめんなさい」
母の声は震えていた。単純に、疲労によるものだと感じた。
短く恫喝のような言葉だけを残して、父は去った。
母の歩くペースが上がるが、とても他の人々と同じ速度とはいかない。
母を追い抜く人々のあまりにも迷惑そうな顔が、私の目に焼き付いた。
王妃として生活をしてきた母に、歩き続ける体力があるはずがない。
私を出産して、食事も細かった母が、体力をとりもどしているはずがない。
どうにかできないだろうか。
真剣に悩みだした私の脳裡に、いくつかの選択肢が浮かび上がった。
『生命魔法―身体強化』
『生命魔法―体力回復』
『基礎魔法―浮遊』
本当に選択肢として思い浮かんだ。ゲームのようでありながら、どうやらゲームより便利なようだ。ゲームであれば、私が存在も知らない、使おうとも思っていない機能を選択肢として考えることはあり得ない。
私が『魔法』と表記される力を使ったのは、産れた初日の『知覚魔法―言語習得』以来だった。
どういう条件で魔法の選択肢が出るのかも、私には理解できない。いや、理解しようとするべきものでもないのかもしれない。
この世界を構成する力に身をゆだね、目の前の事態に向き合うことが肝要なのだろう。
とにかく。私はすべての魔法を順番に選択した。
魔法を選ぶ方法自体は簡単だった。ただ、念じればいいらしい。
かつて、『知覚魔法―言語習得』を使った時は、念じさえしなかったような気がする。選択の余地が無い場合は、自動で魔法が発動するのかもしれない。
『生命魔法―身体強化』を選び、私は母の筋力を一時的に向上させた。
私が魔法を使った直後の次の一歩で、明敏な母は事態の変化に気づいた。
表情が驚きに変わり、歩き方が速くなる。荷物に潰されそうにうつむいていたのに、突然背筋をまっすぐに伸ばして歩きだした。
次は、『生命魔法―体力回復』だ。
母が流していた汗すら、ぴたりと止まった。逆に、暗い顔をしてうつむきながら歩く周囲の人々に気遣う余裕を見せ、優しく面倒見が良い王妃の姿を見せつけた。
最後に『基礎魔法―浮遊』を使う。
母が背負っていた大量の荷物が、重さを失う。ただ、宙に浮かんだりはしなかった。魔法がかけられていない母の背中とつながっているためだ。
荷物はただ重さを失っただけで、もともと身体能力の強化をほどこされていた母は、変化にあまり気づかずに歩き続けた。
魔法の選択肢は、私の脳裡から消えた。
だが、私はもう一度念じた。
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