第6話 赤子を抱いた聖女
私を腕に抱いたまま、母は構えた杖を振る。
「炎よ!」
母の目の前、伏せて震える民衆の頭上に、赤い炎の塊が生み出された。私は何も力を使っていない。単純に、母の力だ。
「すべてを飲み込む旺盛な食欲を我が敵に向けよ」
さらに杖を振ると、炎が力強く輝く。人々は震えながら、母を羨望のまなざしで見上げている。
私は、別の意味で感心していた。
魔術師は火、水、風、土の四大元素を操り、敵を討つ術者だと教えられていた。
世界が四つの元素だけで成り立っているはずがない。人間が理解しやすいように分類したのだろう。
母が炎を生みだした時、私が世界の理だと感じている力に、影響を与えたのがわかった。
世界の理に働きかけ、自然を使役し、人間に従わせる。
これが魔術師の力なのだろう。
だが、同時に私は、なぜ炎なのかと疑問を持った。高地で寒冷な場所で、炎を従わせるには大きな力がいるはずだ。なのに、母はあえて炎を呼び出した。
『なんだあれは? 人間に、こんなことができる奴がいたのか?』
緑色の魔物が、キーキーと声を発する。
「我が命に従い、敵を討て!」
母が炎を放つ。赤く輝く火の玉が、魔物に向かって飛ぶ。
人狼もどきが咆哮した。
ひるまずに向かってくる。
炎が魔物を直撃し、爆発した。
人々の歓喜の声が、悲鳴に変わる。
魔物は炎の爆発を受けても、ただ皮膚を焼かれただけだった。
緑の魔物が、筋肉の塊からずり落ちる。気絶したようだ。
制御を失った荒々しい魔物だけが、民衆に襲い掛かる。
『母上、魔法を』
「無理よ。私には、あれ以上の魔法は出せない」
魔術の才能があると私に語った母が、絶望したとしか思えない声を出した。魔物が人々の輪に達しようとしていた。
「王妃様、お助けを!」
民衆が私の母にすがる。辛うじて母は杖を構えたまま、青白い顔で唇を噛んでいた。
『母上、風の魔法は使えませんか?』
「使えるけど、威力は炎が……」
もっとも殺傷力が高いのが炎の魔法なのだろう。だから、母は炎を呼び出したのだ。
おそらく、この世界の魔術師は、自分の力の原理をきちんと理解していない。
『母上、どうやら自然の力を使役するのが魔術師の力のようです。この地の炎の力は弱く、水も土も頼りにはできません。風の力をお借りください。人々を守れるのは、母上しかいないのです』
「……やってみる」
魔物のかぎ爪が、もっとも近くにいた少女に振り下ろされようとしていた。
「風よ!」
母が叫ぶと、炎とは比較にならないほど、強く力が働いた。王妃である母を中心に豪風が吹き、人々が魔物によるものとは別の悲鳴を発した。
「その力強い腕で人の子らを守れ!」
風の範囲が広がり、母を中心とした人々を守るように風が渦を巻く。
さながら、竜巻である。中心部は全くの無風でありながら、わずかでもその範囲を外れれば、人間など容易に吹き飛ばされるような強い風が吹きすさぶ。
しかし、筋肉の塊そのものの魔物は、地面に張り付くようにこらえていた。風の魔法が止むまで待つつもりなのだ。
『母上、素晴らしい魔法です』
「こんなに威力があるなんて、知らなかった。キールのおかげなの?」
『いえ。これは母上のお力です。母と、風の力の強いこの地のおかげです。あの魔物、倒すのですか? 命を奪うのは、私にはとても恐ろしいことに思えますが』
「殺さなければならないわ。人間を殺すことを、魔物が躊躇うことがない限り」
『解りました。では、この風を維持できますか?』
「そうね。もう少しなら」
「王妃様、誰と話しているのですか?」
私が産れてから、一番に抱いた女が母にたずねた。自分のことに一生懸命で、母を気遣う余裕もなかったはずだが、結局は近くにいたのだ。母を慕っていないということはないのだろう。
私はこの女を、覚えておくことにした。
「なんでもないわ。魔物を殺してしまわないと、後々大変なことになる」
「騎士が来るまで、待てばよろしいのでは? 王妃様は十分に役目を果たされました」
「ありがとう。でも、いつまでも、このまま維持するというのはできないのよ」
母の言葉に、女は顔色を失った。風がやめば、魔物は人間に襲い掛かる。私には、丘の向こうからもう二体の魔物がやってくるのが見えていた。
「でも、どうすればいいの?」
母は声を落とした。当然、私だけに話しかけるためである。
『朝、母上が食べていたドングリ、もうありませんか?』
「突然変なことを聞くのね。キールはまだ歯も生えていないから、喉に詰まるわよ」
『食べるわけではありません。残っていたら、私にお預けください』
栗よりも劣るからドングリなのである。しかも、生で食べて美味いはずがない。これを朝食とするだけで、王妃である母がいかに苦労しているかがわかるというものだ。だが、私の意図は別にある。
母が私にドングリを握らせた。私は、その小さな木の実を握りしめ、母に語った。
『風の魔術が終了したら、魔物のそばにお願いします』
「考えがあるのね」
風がやむ。母の足は震えていた。
私は『生命魔法―身体強化』を用いて可能な限り母の身体能力を引き上げた。
母は腕の中の私に笑いかけた。もはや、足は震えていなかった。
私を抱いたまま、母が地面を蹴る。
母の体が宙に浮いた。
同時に私は『基礎魔法―浮遊』で母を浮かせ続けた。
魔物が立ち上がる。母は魔物の前にいた。
「どうする?」
母が尋ねる。
私は『生命魔法―強制成長』を行った。初めての魔法だったが、何が起こるか容易に想像できた。できると知っていた。逆に、できないはずがないと思っていたのだ。
私の手の中で、ドングリが成長を始めた。栄養は私の魔力だろう。私がまとっている、世界の理の力だ。
成長の速度はすさまじいばかりだった。ドングリから芽が生えてから、樹木に育つまでが一瞬である。
木の成長速度は、魔物を吹き飛ばした。
だが、まだ起き上る。他にも、二体の魔物が近づいてくる。
『母上、この木に火を点ければ、炎も魔法も少し威力が上がるでしょう』
だが、母は私に笑いかけた。
「大丈夫よキール。あなたのおかげで、昔の勘を取り戻したわ。誰も巻き込まないところに連れてきてくれて、距離もできた。もう、大丈夫よ」
母はたくましかった。再び木の棒にしか見えない杖を取り出し、威厳をもって大気に命じた。
「風よ!」「風よ!」「風よ!」
母は杖を振りながら、三度同じ呼びかけを行う。母の周囲に風が渦巻いたが、私には激しく荒れ狂う三つの塊が見えていた。普通は見ることはできないだろう。なにしろ、空気の色はとても薄い。
「我が民を傷つける者に報いを。風に逆らいものに報復を。人間にあだなすものに破滅を」
さらに魔力が高まり、力が凝集するのがわかる。母の唱えている言葉は、法則を持たないようだ。ただ、魔術師自身の力を高めるために、自分の思いを吐露しているに過ぎない。
魔力の流れを感じ、世界の理を悟れるらしい私には、母の言葉と高まる魔力の関係は、ただ母の気分でしかないと断定できた。
世界の理を悟れる『らしい』としか言えないのは、私は前世では何も特別な力を持たなかったからだ。突然できるようになったことが、何を意味しているのか、赤ん坊の脳なりに考えた結果なのだ。
「我が敵を切り裂け!」
母が魔法を放つ。
空気の波動は見ることができず、魔物自身が、何が起ころうとしているのか想像もできなかったのだろう。
結果は一瞬だった。
巨大な無数の鉈で殴打されたかのように、三体の魔物が全身から血を吹き出し、ひき肉のようになってくずおれた。
確かに、守るべき民衆に囲まれていては使えない魔術だ。空気の刃は魔物に向かって移動した。母の前から魔物のいた場所まで、直線で移動したのだ。その途中に人がいれば、同じようにひき肉に変わったはずだ。
『母上、さすがです』
「キールのおかげよ」
母は、私に祝福した。赤ん坊の身としてうけるには、いささか不相応なほど、熱っぽい祝福だった。
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