十 比較神話学・1

 ――コレーという女神がいた。彼女が野原で花を摘んでいると綺麗な水仙が咲いているのを見つけた。コレーがその水仙を摘もうと近づくと途端に大地が割れ、その裂け目から冥府の王ハデスが現れた。ハデスは美しいコレーに一目惚れし、彼女を誘拐してそのまま暗い冥府へと連れ帰ってしまった。

 コレーが行方不明になった事を知った母神デーメテルはやがてハデスが娘をさらった事に気づき、それを最高神ゼウスに訴えた。しかしゼウスは「冥界の王のハデスならばコレーの相手として申し分なかろう」と述べる。

 これを聞いたデーメテルは激怒し、大地へ実りを与える事を止めた。

 大地が枯れていく事に弱ったゼウスはヘルメスを使者にやり、ハデスにコレーを解放する事を約束させる。しかしコレーはこの時すでに冥府のザクロの実を四粒ほど食べてしまっていた。

 冥府の食物を食べてしまったコレーは冥府の住民にならねばいけなかったがデーメテルが「四粒の実を食べたのだから一年のうち四カ月だけ冥府の住民になるのだ」と抗弁して助けられた。

 こうしてコレーは一年の三分の一を冥界で女王として過ごす事になり、デーメテルもその期間は悲しんで大地に実りをもたらさないようになった。これが〝冬〟の始まりである。

 そして冬が明けてコレーが帰ってくるとデーメテルは非常に喜び大地に実りを与えるようになる。すなわち〝春〟の始まりである――


「これがギリシア神話に名高いコレーの冥界入り神話だ。……いや、洒落じゃないぞ」

 二人は薄暗い海岸に座り込み、宮田が講釈を続けている。彼が慌てて訂正を入れたのを聞いてマヤはプっと吹き出してしまった。

 コホンと咳払いし、宮田は続ける。

「コレーは一般的にはペルセポネと呼ばれる事が多いな。コレーという名は冥界の女王になる前の名だともいう。さらにコレーはデーメテルが海神ポセイドンとの間にもうけた子だとも言い、その時にはデスポイナとも呼ばれていて……どうも羅列になってしまうな。分かるか?」

「はい。神様にはたくさん名前があるものですし。もっとも〝ぎりしあ〟という国はどこなのか分からないのですが……ヤマトの近くの国なのですか?」

「いいや、此処から見れば世界の果てと言って良いくらい遠くの国だ。ところで今の話を聞いて何か感じたことはないか?」

「あ、ちょうど言おうと思っていたところです。ヤマトのイザナミが黄泉で食事をして帰れなくなった――という話にどこか似ていますよね」

「その通りだ筋がいい。東京に来て勉強すれば女研究者がやれるかもな。家庭教師をしてやろうか」

 だいぶ気を許せるようになったのかくだらない冗談が宮田の口から出た。マヤはただ微笑するだけであったが。

「何故似ているのか、というとまァ一概には言えないだろう。有史以来人類は世界各地に広がり続けていったわけで、こういった類似した話を持つのは同じルーツをもつ民族だという者もいるし、精神医学などを用いて解明しようとする向きもある。もちろん広い世界に偶然似た話が生まれることだってあるだろう。だとしたら俺は実にくだらん空想に時間を割いている事になるわけだがな、ハハハ……」

 宮田はカラカラと笑いながら砂浜に仰向けに寝転んだ。黒い海は視界から消え、きらめく星空だけが視界いっぱいに広がる。

 顔だけを横に傾け隣に座るマヤの方に向けると、彼女もちょうど宮田の事を見ていて目が合った。

 一瞬の間の後、宮田が右手をすっと差し出すとマヤはこくりと頷いてその手を握った。寝転んで星を見上げたまま、宮田はぼんやりと話を続けた。

「コレー、いやペルセポネは冥府――つまり死者の国の女王だ。出会いこそ乱暴だったがハデスと彼女は冥界で仲睦まじく暮らしたなどとも言われる。まあそれはそれとして、ペルセポネにはもう一つの側面がある。つまり」

「――春の神! 豊穣の神! ……違いますか?」

「当たりだ、お見事」

 マヤが嬉しそうに、いや得意げにこちらを見ている。

「春や実りをもたらしているのは厳密にいえば母親であるデーメテルなわけだがそこはさして重要とは言えまい。古代人にとって重要な関心だったのは〝冥界からベルセポネが帰ると実りが始まる〟という点だ。ついでに言えばデーメテルとベルセポネは本来一柱の神であったものがギリシア文化による潤色でドラマチックな母子の物語に分離したのだともいうがね。――要するに古代のギリシア人にとっては死の国の女王と豊穣の神が表裏一体であったという事だ」

 四季でいうならば冬が一番〝死〟のイメージに近い事は論を待つまい。植物は枯れ動物も多くが力を無くし、種によっては冬眠という疑似的な死を迎える季節。人間にも死ぬ者が増え命を繋ぐ作物は育たない耐え忍ぶ季節。

 だが人間は、その冬がいずれ終わり、暖かく命に満ちた春が来る事を知っていた。

「この理にギリシア人は死の国に赴く女神とその国から帰ってくる女神の姿を見たわけだ。ギリシアの地層から出土する壺絵などはこういうイメージをより鮮明に与えてくれる。多くは地中から植物と共に現れる女の絵――おそらく神話でいうヘルメスによるペルセポネ救出の場面――だ。こういった死の国の女神と自然の豊穣を結び付けた信仰は広く見られるのだ。たとえばフレイザーという人類学者が十九世紀末に書いた大著『金枝篇』には、近代のヨーロッパに未だ〝春の神の帰還を祝う儀式〟が残っていた事を記述している」


  ……小ロシアではコストルボンコと呼ばれる春の神の埋葬を祝う事が復活祭の季節の風習であった。歌い手たちはひとりの娘の周りに円陣を作り、ゆっくりと回る。娘は死んだように大地に横たわっており、歌い手たちは歩きながら次のような歌を歌う。

   死んだ、われらのコストルボンコが死んだ!

   死んだ、われらの愛しき者が死んだ!

  この歌は、娘が突然跳ね起きると終わる。そして合唱隊は、大声で次のような喜びの歌を歌う。

   生き返った、われらのコストルボンコが生き返った!

   生き返った、われらの愛しき者が生き返った!


 また同書はこのような興味深い儀式をも記述している。


  ……シュパッヒェンドルフ(オーストリア領シュレジエン)では「死神」の像を藁と粗縄とぼろきれで作り、野蛮な歌を歌いながら村の外の広場まで運び、焼く。そして焼いている間にも皆は争ってその断片を取ろうとし、素手で炎に挑むのである。人形の断片を手に入れた者は皆自分の庭で一番大きな木の枝にこれを結びつけ、あるいは畑に埋める。こうすれば穀物がよく育つと信じられているからである。

   ――『金枝篇』――


 村にやってきた〝死神〟を殺害し、その身を引き裂いて撒き、豊作を祈願する。すなわち死神の死が新たな豊穣を約束する。

 こうした儀礼は明らかに死の国の女神に対する古い信仰の名残であろう。


「神の藁人形を……焼くのですか?」

 マヤが何か気がかりそうにそう尋ねた。何が彼女の琴線に触れたのかは宮田にはよく分からなかったが、ともかく答える。

「始まりの時から〝神殺し〟の祭だったのかはもう当事者にすら分からないだろう。少なくとも後世の人間にはそうとしか見なせなくなったという事だ。それこそ節分の鬼のように、本来は友好的に迎えられていた死の国からの帰還者が、死を運んでくる忌まわしい神に反転したのかも知れん。死神の死体である藁が豊作をもたらすと言われるのはそういう事なのだと俺は思う」

 マヤが宮田の手を握る力を強めた。そして確かめるようにこう尋ねた。

「それが神の姿をした藁人形の意味なのですか? 古い古い客人マレビトのような、そのペルセポネのような……」

 何かとても重大な事であるかのような口ぶりでそう問った彼女は、神妙な面持ちで宮田の答えを待つように目を見ている。

 宮田は握られた手をぐっと握り返し、薄く笑った。

「俺の憶説が何もかも言い当てるなんて事はないさ。だが収集し比較し考える事は決して無意味ではないと思う。直接の関係などなかったとしても、どこかに通じている精神性はあるかも知れない」

「……確実な事は分からないという事ですか」

「実際に見たわけでもない大昔の事に絶対の保障などできはせんさ。はっきり分かると言ってしまうような奴はまず山師だろう。こうやって傍証を集めながら元の姿を探していくしかない。勿論考古学などを援用して精度を高めていく事はできるだろうが……」

 どうにも弁舌が鈍る。彼女が求めているのはこういう話ではないのだろう。彼女は自分を祝女だと言った。そして奉じているニライカナイが分からないとも。

 神話や伝説が時と共に潤色されていったのは、一つには人間が理知的で疑い深くなっていったからだといえる。古代にははるかに素朴だったかのギリシア神話があれだけ長大複雑な物語に膨れていったのは、より辻褄が合うよう、整合するよう改変されていったからに他ならない。

 素朴に神霊を奉じた時代の人間と神の世界に合理を求め始めた時代の人間。

 彼女はさながらそういう過渡期に生まれた人間の精神性メンタリティでもって葛藤しているのだ。そう思えた。


 星の光だけが空に瞬いている。かすかだが空が白んできはじめた。夜明けは近い。

 マヤは傍らでずっと静かに話を聞いている。

 この娘は一体何者なのだろうか? ずいぶん通じ合った筈なのに、今更彼女の事が分からなくなってきた気がする。

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