イーミャの空

桜田駱砂(さくらだらくさ)

序章 竜嵐

 急峻な崖から続く海には、波一つない穏やかな日でした。

 はるか水平線の先に浮かぶ雲のいくつかが視界に入るものの、明るい青の支配する空です。

 前方で回転を続ける九気筒星型エンジンはたいへん機嫌もよく、咳ひとつしません。最上部のシリンダー一本が他より長い形状をしているものですから、ユニコーンエンジンなどと、ロマンチックなあだ名を冠されておりますそのエンジンさん、絶好調といったところでありましょう。

 私は複葉、上下二枚の翼を持つ愛機、エウラスを左に旋回させながら、今一度、海の様子を確認します。海面下から頭を突き出す岩礁の頭頂部は白く輝き、波に洗われていないことを教えてくれます。波高もほとんど高さなし、一メートル未満、と。目視で得られたデータを、太ももに固定した観測帳へ書き込みます。

 左九十度、九時の方角から接近してきた、黒いゴマ粒みたいな空の点が、見る間に大きくなって、一つの形を取ります。黒い艶のある羽。大きくて立派なクチバシ。鴉です。

 コックピットに収まる私の耳へ、どこからともなく声が届きます。

「イーミャ、イーミャ! もっとゆっくり飛べ! 絞るんだよ!」

 絞る。スロットルを、ということでしょう。

 私の頭部に装着されている通信用のヘッドセットから、アマデオ班長のがなり声が、というわけではないんですよ。

 声の主は、そう、接近してきた黒い鴉、バルトローベです。彼はシャベリガラスという非常に珍しい種類の鳥で、その名の示すとおり、たいへんなお喋りです。

「イーミャ、機速を落とせって! 追いつけないだろ。」

「あら、ごめんなさい、バルト。ちょっと待ってくださいね。」

 私は、必死に羽ばたきを続けるバルトを視界の端に捉えながら、左手にあるスロットルをゆっくりと手前に引きます。

 対気速度を示すメーターの針が、少しずつ下がります。

 30ノット。時速にして、およそ55キロ毎時という失速寸前にまで速度を落とし、ようやく、バルトが私の膝の上に飛び込んで来ました。

「ふぃー。やっと追いついた。観測中はゆっくり飛んでくれって、いつも言ってるだろ。」

「あんまりゆっくり飛びすぎると、失速(ストール)しそうになるものですから。バルトの飛翔力なら、少々速度を出しても大丈夫だと思って。」

 にこやかに微笑んでみます。

「お、おう? おだてても無駄だぜ。だいたい、エンジンで飛んでるこいつに、生身で勝負できるかっての。」

 そんなことを言いながらも、バルトは照れくさそうに羽の裏側をくちばしで突つくのです。 

 私はバルトを促しました。

「それで、どうでした?」

「それよ。鱗雲(うろこぐも)が出てやがる。」

「鱗雲が?」

 私は思わず聞き返しました。先ほどからひとつところを旋回しつつ、雲の様子を観測しているのですが、鱗雲は見当たりません。

「どこに出ていますか?」

 首を回して周囲を見ながら、バルトに尋ねますと、

「違う違う、そっちじゃない。五時の方角。」

 雲の位置を教えてくれます。

「五時・・・。」

 機体を右に旋回させ、目を凝らしますと、確かに。太陽による逆光でカモフラージュされ、ひどくうっすらとではありますが、空に浮かぶさざ波のように、細かな雲が敷き並べられています。

「・・・本当ですね。」

 私はコックピット正面に据えられている、丸い缶詰様のコンパスで方位を確認してから、”Cc”と観測帳に書き込みます。鱗雲を示す略称です。

「イーミャ、嫌な予感がするぜ。」

 バルトは私の肩に飛び乗りながら、一緒になって雲を睨みます。

 私は急いで、気圧計を確認しました。バルトの言う、嫌な予感、というものに、私も賛成です。

「そうですね。観測は中断し、基地へ帰投します。」

 操縦桿と足元のラダーペダルを繰りながら機首を巡らせますと、ロドリア城塞への帰路に着きます。空はいまだ好天を保っているのですが、気圧の目盛りがそろそろと下がり始めていました。

 降って湧いた、という、まさしくそんな形容がふさわしいでしょう。始め、薄灰色の靄(もや)にすぎなかった空の雲幕が、どんどんその色を濃くします。私とバルトの見ている目の前で、靄は黒い雲塊と化しました。

「まずいぜ、イーミャ。竜嵐(りょうらん)だ。」

「ええ。」

 私はうなずくのが精一杯でした。風が出てきたのです。翼は左右に揺さぶられ、東へ流されたかと思えば、すぐ西へ。頻繁に変わる風向きが、機体を翻弄し始めました。翼を水平に保つべく、ひっきりなしに操縦桿とラダーペダルを操作しなければなりません。

「迂回したほうがいいんじゃないのか。」

 バルトが耳元で言いました。

「できればそうしたいのですけれど・・。」

 迂回、といいましても、黒い雲の塊はすでに眼前を壁のように覆っています。ロドリア城塞へと向かうには、どうしてもその雲の下を突っ切らなければなりません。

「・・・風雨が激しくなる前に、最短距離で飛びます。」

 私は言いながら、スロットルを押し倒しエンジンを全開とします。ユニコーンエンジンさんの各シリンダーは咆哮を上げ、プロペラの回転数が一気に上昇します。

 機体の破損による不時着に備え、高度を低めに飛んでいるのですが、風に煽られ木にでも激突すれば、目も当てられません。ゴーグルを下ろして目を風から守りつつ、早送りの映写機で見るような、流れる地形を睨んで操縦を続けます。

 緑の丘陵地帯でまばらに生える木々の葉が、風で激しく揺さぶられています。

 なんという変わり様でしょう。ほんのすこし前まで、あんなに晴れていた空が、まるで嘘のようです。豹変、とはまさしくこのことをいうのかも知れません。

 突然の暴風。到来の予測不可能とされるこの大嵐。まるで空に棲む竜が、地表近くで暴れまわるようなこの気象現象をして、人はいつしか、こう呼ぶようになりました。

 竜嵐(りゅうらん)、と。

 ゴーグルにぽつりと雨滴がひとつ、当たります。

「雨・・・。」

 まばらに落ちる滴は、瞬く間に密度を増し、視界を遮るスコールのような雨となりました。腿に固定してあった観測帳を濡らしてはたいへんです。片手で素早く外すと、フライトスーツの懐へ押し込みます。

「ちっ。降ってきやがったな。」

 バルトはぼやくように言って、私の座る座席の下の籠に、その身を潜めます。

「イーミャ、気をつけろよ。」

「分かっています。」

 と、口では答えたものの、気をつけるも何もありません。操縦を一手、過(あやま)てば、墜落しちゃうのです。

 濃密に叩きつける雨は視界を奪い、羽布へと少しずつ染み込んで行きます。翼の端で機体左右の傾きを制御するエルロンの効きが、急速に悪くなっています。

「ちょっと・・・重いですね。」

 風と雨に翻弄される機体はあたかも、入り組んだ岩の岸辺で波に翻弄される、木の葉のようなものです。暗い空の奥では紫色の電光と、それに続く雷鳴が止みません。主翼に叩きつける雨が、ばらばらと激しく音を立てます。

 突然の横風で、機体が大きく傾ぎました。

「おい、イーミャ! 大丈夫か!」

 私のお尻の下で、バルトが不安げな声を張り上げました。

「大丈夫です。」

「さっきから、機体がふらついてるぞ。俺は飛んで逃げられるからいいけどな、お前はそうもいかないんだぜ。」

「逃げるなんて、そんなことを考えていたんですか、バルト。」

「もしもの時にはって話だよ。」

「逃げてもいいでしょうけれど、この激しい雨では、バルトだって無事に飛べるかどうか。外へ飛び出すのは、控えた方がいいでしょう。」

「分かってるさ。こんな雨の中飛ぶなんて、無謀もいいとこだ。だいたい、イーミャ。俺がお前をおいて、ほんとに逃げると思うか?」

「逃げないのですか? 私はてっきり、飛んで逃げてから機体の残骸まで戻ってきて、お悔やみ申し上げてくれるのかと。」

「何がお悔やみ申し上げてくれる、だ。俺をそこいらの薄情なカラスと一緒にするな。」

 そこいらのカラスが薄情なのかは、とりあえず置いて。

「バルト。少し静かにしてもらえますか。今、佳境です。クライマックスなのです。」

「そう言うわりに、余裕そうにも見えるけどな。」

「・・・・・。」

 実際、そんな余裕はありません。

 視界が悪く、急に盛り上がる地上の丘に、冷や汗をかきながらの操縦です。絶え間ない風雨は機体の進行を妨げ、姿勢を立て直してはコンパスの指し示す進路へ戻す、の繰り返しで、もう手一杯なのです。

 コックピットはガラスの風防で覆われているわけではありませんから、雨の中、ほとんど野ざらしに近い状態です。フライトスーツの内に着る、シャツとネクタイがじっとりと湿ってきました。

 私の沈黙に、不安を感じたのでしょうか。

 バルトは座席の下からもぞもぞと這い出てくると、私の肩に足でしっかりとつかまりながら、周囲の地形に目をこらしています。

「バルト。危ないから、下にいてください。」

「こいつ(エウラス)が落ちたら、どこにいたって危ないだろ。ほら、集中しろよ。」

「まったく。振り落とされても知りませんよ。」

 とは言え、バルトが肩にいてくれると、心強いのも確かです。彼は鳥類であるだけに、優れた視力を持っています。

「前方に丘。立ち木がある。ちょっと逸らせ。」

「承知です。」

 ね。

 私よりも少しばかり早く、前方の障害物なんかに気づいてくれるのですから。風に流されるまま、機体の進路をちょっぴりずらしたその脇を、立派な巨木がびゅんと過ぎ去りました。

 吹きすさぶ風と雨は一向に収まる気配はなく、むしろ、悪化するばかりです。激しい波浪に揉まれる漂流船さながら、喘ぎならの空の道行き、ようやく、流れる雨滴の隙間から待ち望んだ光が見えました。

「イーミャ! 城塞の灯だ!」

 バルトも目視しているようです。

 ちらちらと雨にかすむか細いものではありますが、あれは確かに、ロドリア城塞の灯火です。接近するにつれ分かるのは、城塞中の灯火を点灯、全灯状態にあるということでした。

「灯かりが全部ついているみたいですね・・・。」

 嵐の中、帰る場所を見失わないように、という配慮でしょう。心配してくれる皆さんの顔が、灯火ごしに見えるかのようです。発電用の燃料費も馬鹿にならないこのご時世ですのに、皆さんの優しさが身にしみます。

「どうする、イーミャ。着陸できそうか?」

「いくらなんでも、それは無茶です。」

 ほんとに無茶なんですよ。例えるなら椅子の上に片手で逆立ちしながら、ティーカップのレモンティーを飲むくらい、それほど、この強風下での着陸には無理があります。

「待ちます。」

「待つって、もつのか? 機体が。」

「もたせます。今はこの機(エウラス)を信じるしかないでしょう。」

「信じるのはいいけどな、空中分解とかは勘弁だぜ。」

「空中分解などと、不吉な。大丈夫です。信じなさい。」

 なんだか神父さんみたいな物言いになってしまいましたが、実際、今の私にできることは、風に抗わず、それでいて機体のバランスを保つという、曲芸じみたコントロールのみです。あとはもう、翼がもがれませんようにと、祈るしかありません。

 機体の骨格にあたるフレームが、さっきからミシミシと嫌な音を立てています。城塞の周囲を大きく旋回しつつ待機となりますが、怖いのは追い風です。

 機体後部からの風によって対気速度が低下し、翼面を持ち上げようとする力、揚力も落ちてしまう・・・。えーと、つまり、拳ひとつ分の幅しかない橋の上で、背中をぐいぐい押されるようなもの、とでもしておきましょう。それはやばいです。落ちる可能性大です。

 ぐるぐると、獲物を狙うトンビのように旋回を続けること三十分。

「イーミャ、大丈夫なのかよ。燃料は?」

 さすがにバルトも、不安げな声を上げます。

「燃料もそろそろ尽きそうですね・・・。まぁ、不時着時の火災の危険性が減るということで、よしとしましょう。」

「よしとできる状況じゃないと思うんだが。ポジティブもそこまで行きゃあ、立派なもんだけどな。」

 なかば呆れて返すバルトです。

 こうなればもう、強行着陸しかありません。普段であれば目を閉じてでも降りられるお馴染みの城塞滑走路ですが、吹きすさぶ風と雨によって、着陸難度はSクラスに跳ね上がっています。ラインダンスを踊る空母に着艦する方が、まだマシというものでしょう。空母はダンスを踊りませんがね。

 ロドリア城塞前の滑走路から一旦距離をとるべく、東に進路を取ったときです。それまで激しく叩きつけてきた雨が、嘘のように止まりました。

「・・来ましたね。」

 私の言葉に、バルトも、おう、とうなずきます。

 このときを待っていたのです。頭上にぽっかりと開ける青空。周囲360度では、厚く塗り込めたような黒色の雲が、壁として立ちはだかっています。

 竜嵐の中心地、いわゆる竜の目です。この気圧中心地では空も晴れ、束の間、雨も上がります。竜の目がロドリア城塞近辺を通過するかどうかは、いわば賭けのようなものだったのですが、限界まで待った甲斐がありました。

 この機を逃す手はありません。

 滑走路への着陸進路へ機体を向けます。いえ、向けようとしたのです。

「・・? おい、どうした、イーミャ。」

 バルトが異変に気付きました。

 ヘッドセットからも、割れた音声でがなり声が入ってきました。

「イーミャ、何やってる。着陸できるのは、竜の目に入ってる今しかないんだぞ。どこに行くつもりだ。」

 城塞からの無線通信です。

「アマデオ班長。私も着陸したいのはやまやまなのですが、エルロンの調子が悪く。」

「なんだとぉ!」

 そう耳元で怒鳴られても、困ります。私だってどうにかしたいのですが、機体は城塞に背を向けて、どんどん遠ざかって行きます。翼を制御するワイヤーの破断でしょうか。いえ、この何かに詰まったような感触は、どちらかというと・・・。

「イーミャ、あれ!」

 バルトが叫びました。

 見れば、上部主翼右側の補助翼(エルロン)可動部分に、木の枝が挟まっているではありませんか。なんという偶然でしょう。風で飛んできた枝が、あんなところに挟まるなんて。

「班長、枝がエルロンの隙間に挟まって、スタックしています。」

「なにぃ? 揺すって外せないのか。」

「揺すろうにも、その機体傾斜(バンク)ができません。」

 ヘッドセットの向こう側で、アマデオ班長の息を呑む気配がします。どうすべきか考えてくれているのでしょうが、こればっかりは、機上(げんば)でどうにかするしかありません。

「俺、外してみる。」

 バルトが言って、翼の上に飛び移りました。私はバルトが作業しやすよう、スロットルを限界まで絞り、速度を落とします。

「気をつけてください、バルト。班長、バルトローベが対処します。」

「よし、急げよ。竜の目はすぐ通過するからな。」

「はい。」

 バルトは二、三回器用に羽ばたくと、挟まった枝のあるところまで行って嘴でそれをつかみます。

 そのまま、身体を捩じらせたり激しく羽ばたいたり、色んな試みをするものの、枝はがっちり固定されてしまったのか、びくともしないようです。

「だめだ、イーミャ! 外れねぇ。」

 再び風が出てきました。竜の目が離れつつあるのでしょう。

「分かりました、バルト。こちらへ。」

 戻るバルトも焦っています。

「どうするんだよ。」

「少しの間、操縦をお願いします。」

「な、なに? 操縦って、おい。」

 私はバルトの返事を待たず、座席ベルトを外すと上部主翼の上によじ登ります。

「危ないぞ、イーミャ! まったく、鴉に飛行機の操縦なんてやらせるなよ。」

 泣き言みたいな文句を言いながらも、バルトは操縦桿の上にとまって操作を担ってくれるのです。枝がスタックしているものですから、ほとんどコントロールはできませんが、それでもバルトの器用さに頼るしかありません。

 風で飛ばされないよう、四つん這いになって、どうにか枝のところまで行きますと、両手でつかんで思いっきり引っ張ります。

「むむ、固い、ですね・・!」

 これでは、バルトが外せなかったのも無理はありません。

 むぅ、とさらに力を込めますと、

 ガコっ、

 という音と共に、枝が抜けました。拍子に、翼から落ちそうになります。

「イーミャ!」

「わ、と、と・・!」

 間一髪、翼の端に手を掛けて、転げ落ちずに済みました。危ないったらありません。飛行中の機体の翼上から、パイロットが落下するなんて、前代未聞の事故だけは回避できました。

 急いでコックピットに戻り、バルトから操縦を引き継ぎます。

「城塞へ戻りましょう。」

「頼むぜ、イーミャ。」

 風は再び増し、細かな雨もぱらぱらと落ち始めています。

 全速力で引き返しますと、前方に滑走路が見えます。ようやく、帰ってこられたのです。ランディングギア、降着装置のタイヤは固定脚として機外に出たままです。

 強まり始めた風に抗いつつ、着陸態勢に入ります。

「おい、イーミャ、ちょっと速すぎないか?」

 バルトが言うのは、着陸速度として速すぎる、ということでしょう。

「急な追い風に備えてますから、これ以上絞れません。」

「そうは言ったってなぁ。」

 滑走路が見る間に近づきます。自分で言っておいてなんですけれど、確かに、速すぎですね。今まで、こんな速度で着陸なんてしたことありません。せっかくここまで耐えて来たのに、最後、滑走路のオーバーランで大破、では残念すぎです。

 滑走路手前側の端が、あっと言う間に眼下を過ぎます。

 私は、機体を地面へ押し付けるように、ドスンと着地しました。

「エンジンカット。」

 止まってくださいよと、あとは心の中で念じるのみです。少しでも抵抗を増やそうとラダーをきり、機体を滑走路脇の芝生上へとつき入れます。ガタガタと揺れる激しい振動で、機体が軋みます。

 バルトが、羽で目を覆いながら、

「わぁ、イーミャ! ぶつかる、ぶつかる!」

 と、叫びます。

 目の前へ、格納庫の扉が見る間に迫ってきました。

「おっと、いけませんね。」

 機体を扉方向から逸らしますが、間に合いますかどうか。

 と、機体に突然、急制動がかかりました。

 機体の左右から、わぁ、とか、引けぇ、などと、騒然とした声が上がります。見ると、整備班の皆さんが両脇からロープを引っ張っています。というより、なかばずるずると引きずられています。

 ぴんと張ったロープを、機体(エウラス)の主脚に引っ掛けて止めてくれたのです。

「た、助かったぜ・・・。」

 へにょ、とバルトが息をつきました。

「ふぅ。間一髪でした。」

「イーミャ! 無事か!」

 と、雨風の中、カッパを着てやって来るのは、髭面の岩みたいに固そうなおじさん、アマデオ班長。

「はい。皆さん、すいません。ありがとうございます。」

 整備の方々、笑いながら口々に無事でよかった、よくこんな嵐の中を飛べたものだと言ってくれます。

「よーし。機体をすぐに格納庫の中へ入れろ。また風が強くなるぞ。」

 私は機体から降りると、皆さんへ指示を出すアマデオ班長のところへ行きます。

「班長。ただいま帰投しました。」

「おう。風で吹き飛ばされたんじゃないかと、心配したぞ。相変わらず、この嵐は唐突だな。いきなり起きやがる。」

「ええ。被害が大きくならなければいいのですけれど。」

 わずかにのぞいていた空はもはや完全に雲で蓋をされ、再び、風と雨足が強まっています。全身濡れ鼠のようになっている私を見て、班長は言いました。

「濡れただろう。時間にはまだ少し早いが、風呂が沸いてるから、入っておけ。」

「はい、ありがとうございます。でも、機体の状態が気なりますので、そちらを確認してから・・・。」

「整備の連中にやらせておけばいいだろう。」

「ええ。でも、自分の目で確認しておかなければ、落ち着きませんので。」

「そうか。なら、せめて身体は拭いておけ。風邪をひくぞ。」

 アマデオ班長、強面で声も大きく、よく怖い人だと誤解をされるのですが、根はとても優しい人物なのです。踵を返すと、滑走路を走り回る兵の方々へ、次の指示を出しています。

 ふぇっくしょん、などと、妙に人間じみたくしゃみをするのは、肩に乗っかっているバルトです。

「なぁ、イーミャ。先に風呂に入ろうぜ。風邪引いちまうよ。」

「機体の状態だけでも確認しておかないと。重大な損傷はしていないと思いますが、もしそうであれば、明日から飛べなくなってしまいますからね。」

「観測に行けなくなってしまうってか? 一日くらい、いいじゃねぇか。」

「ダメです。気象観測において重要なのは、継続性です。一日だって欠かすことはできないんですから。」

「はいはい。イーミャは真面目なこって。」

「真面目とか、そういうことではなく、必要なことなんです。」

 バルトもこういうところが、つまり、気象観測の重要性というものが分かっていないのです。

 飛行場を吹き荒れまくる嵐。この竜嵐がいったい、どれだけの人的、物質的被害をもたらすのか。

 ヒトは天候をコントロールすることはできません。しかし、いつ、どれくらいの雨が降り、あるいは風が吹くのか。太陽と雨の恵みを背景に生きる私達人類にとって、それを知ることは、明日における世界の情景を理解するに等しい行為です。私の所属するロドリア城塞、気象観測班に課せられた使命は、それだけ大きいものだと、バルトにも分かってもらいたいのですけれどねぇ。

 ハンガーに向かうと、すでにエウラスの機体整備が始まっていました。通りがかった整備班のディーノに様子を聞きます。

「ディーノ。機体の状態はどうでしょう。」

「イーミャ。この嵐の中、よくここまで飛べたもんだね。吹き荒れるアネモイの息吹に、翻弄されたことだろう。アネモイの息吹・・・、いや、アネモイの怒り・・? 逆鱗とでもした方が・・・。」

 ディーノ、ぶつぶつ言って、何やら考え込み始めてしまいます。

 私の肩に乗ったままのバルトが囁きました。

「おい、あねもい、って何だ?」

「風の神様の総称ですよ。ディーノの、いつものアレです。」

「ああ、アレか。」

 そう、アレです。この若い青年、整備の暇を見つけては、ノートに詩を書くのが趣味という、ちょっと変わった方なのです。

 今も、吹きすさぶ風に、創作意欲を刺激されているようです。外の叩きつけるような雨を見据えながら、天の底が抜け、だとか、神々の涙がどう、などとノートに書き記すべき言葉の候補をあれこれ。

 私は、あっちの世界へ行ってしまっているディーノへ、もう一度言いました。

「ディーノ、機体の状態はどうでしょう。」

「あ、ああ。機体な。うん。ざっと見た限り、大きな損傷はなさそうだ。明日には飛べるようになるさ。嵐が収まれば、だけれど。」

「そうですか。よかったです。何か、手伝えることはありませんか。」

「今のところは大丈夫さ。それより、イーミャ。まるで名にし負う雨下(うか)の薔薇だ。風呂にでも入って来なよ。」

 再び、バルトが囁きます。

「ウカノバラって、何だよ。何が言いたい、こいつは。」

「私が雨に濡れているということを、言い表したかったのでしょう。」

 私はディーノにお礼を言います。

「お気遣い、ありがとうございます。忙しいところ、お引き留めしてすいません。それでは。」

「うん。風邪、引かないようにね。」

 雨下の薔薇・・・。薔薇よりも百合の方が、語呂がいいかな、とつぶやきながら、ディーノはまた歩き始めました。

 バルトはちょっとあきれて、

「あいつの頭の中には、いっつも裸身の神様やら、お花畑が広がってんだろうな。」

 と、そんなことを言います。

「そうですね。ご本人もそれで楽しまれているようですし、悪いことではないでしょう。」

「悪いとは言わないけどな。せめて分かる言葉で話してほしい。」

「慣れれば意図も汲み取れますよ。」

「汲み取る必要のない物言いをして欲しいってもんだ。」

 笑って受けながら、私は細く開いたハンガーの扉前に立ちました。外をのぞくと、昼というのに真っ暗な空を、風と雨が吹き荒れています。アネモイの怒り、ではありませんが、そう言い得るほどに、激しい嵐です。ハンガーの建物自体も、ミシミシと家鳴りがしています。

 また、橋が落ちるなどの被害が出るでしょう。畑は水に浸り、増水した川に巻き込まれて亡くなる方も出るかも知れません。

 どれくらいの時間、そうして立ち尽くしていたでしょうか。バルトがそっと囁きました。

「イーミャ、ほんとに風邪引くぜ。行こう。」

「・・・ええ。」

 おーい、そろそろ閉めるぞ、とハンガー内に大きな声が響きます。

 細く開けられていたハンガーの扉を、閉めきるということでしょう。私が一歩引いた目の前で、扉の隙間がゆっくりと狭まります。決して忘れ得ない、嵐の到来に蓋をするかのごとく、外の世界と内の世界が隔てられて行く。

 私にはそんな風に見えて、仕方がありません。

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