Log1 "Hello, Another World"
再び生まれ落ちる感覚というものがあったら。
もしもそんな感覚を味わえたとしたら、きっとこんな感覚なんなんだろうなと瞬は思った。
気づけば、瞬は柔らかい腐葉土らしきものの上に仰向けに倒れていて、小鼻に落ちてきた冷たすぎる水滴に一瞬で意識が覚醒する。
半ば飛び起きるようにして、辺りを見回すと、
「…………?」
まぶたを揉んで、もう一度、
「………………これって、違……う?」
語尾が上がったのは確信を持てなかったからだ。たしかに自分は森の中のぽっかりと開けた場所、その中心に位置する大木の下にいた。しかし、
――こんなに広かっただろうか。
思わず、生唾を飲み込む。胃の底のあたりに嫌なもやもやがうずまき始める。
倒れる前のこの場所はキャッチボールができそうな広さだったが、今の広さは野球もサッカーも悠々こなせそうなスタジアムクラスといっても過言ではない。
冷静に考えようとして無理だ、そんなのできるわけない。
変わったものが多すぎる。場の空間の広さはもう言った、次は何だ、何に驚けばいい。震えそうになる身体に――そこではたと、気づいてしまう。
夏だった。
そう、夏だったはずだった。
この場所に来るまで、いや来てもだ、季節は夏だった。夏に決まっている。今朝の天気予報でもアナウンサーが連日の決まり文句として、外出の際には熱中症にお気をつけくださいと読み上げるのを聞き流したばっかりだったはずだ。
じゃあ、どうして今、肌寒さを覚えているんだ。
寒さによる震えだけじゃないことを自覚しつつ、自分の身体を抱きしめた瞬はそれこそわらにもすがりそうな必死の形相で、変わってない物を探そうとする。
あれほどうるさかった蝉が鳴いていない。果てのなかった蒼穹は厚い葉に遮られまったく仰ぐことができない。背中にわき出た汗がシャツを貼り付ける。喉もカラカラになってくる。眼すらも渇きを訴えまばたきの頻度が上がる。
よろよろと我知らず歩き始めていた瞬は、何かにつまずき、派手に転んだ。
「痛つ……」
打ちつけた膝をさすりつつ、転んだ原因に眼をやると――
「……なん、で」
見慣れた大石が、落ちていた。
こんなところにあるはずがない。こんな場所に置いたわけがない。ついさっきまであの根元にあったはずじゃないか。
あの場所に置いたときだって、一苦労だったのだ。ずっしりとした質量はとてもじゃないがあの頃持てる代物じゃなくて、汗だくになりながら少しずつ押していったのを未だに思い出せる。
だから、
「なんなんだよ……ッ、ここ!!」
たとえば電車で居眠りしているうちに目的地に着いていたとかなら話はわかる。そりゃそうだ、むしろ乗り物に乗っていて現在地から動いてなかったら乗車賃を返せって思う。
けれども、ここは乗り物なんかじゃない。
ちゃんと瞬は大地に立っているし、立っていたのだ。それがどうしてここまで世界が様変わりしているのか。
ここまで混乱に苛立つ頭の中で考えて、
「そうだ……」
思い当たる節があった。
「僕は……ここで、倒れてた、はずだ」
突発的に睡魔に襲われた覚えはない。ならば、と記憶をたどっていく。
この際だ、前のこの場所をA、今のこの場所をBと仮定してみる。すると、まずはAについた自分は何をした。
「あの石の前に立ったんだよね……」
そうだった。そして石の前に座り込んで色々と気持ちを吐き出していると、
「なんか途端に辺りが変になって……」
まるで天変地異でも起こったのかと思うような事態が発生した。とっさにあの石を抱きしめて、
「……痛っ」
頭痛が走った。額を押さえながら、
「なんか……変な……光に、包まれたと……思ったら」
じくじくと頭の中でリズムを刻んでいる痛みが思考を邪魔してくる。何度絵を浮かべようと挑戦しても、集中をかき乱してくる。荒い息のままに瞬は、
「……だめだ」
頭を振って、
「ここまでしか、覚えてないよ……」
苦い顔で諦めるも、仕方ないと一旦そこまでの記憶を横に置く。
「とにかく……」
気を失って、倒れていたんだ。そして、再び意識を取り戻すといつの間にかBにいた。じゃあ、
「この場所が?」
しかしAがBにそのまま変化したとは、とうてい思えなかった。かといって、別々の場所AとBを瞬間的に行き来したと結論づけることも、とてもじゃないができない。
「……あ~~、もう……っ!」
このままじゃ埒が明かない、それだけは確かだ。とりあえずはこの場所を離れよう。可能性は非常に少なそうだが、この場所だけがよくわかんない現象でおかしくなっているということもないわけじゃない。と思いたい。
「それに……あれがあるなら、安心できる」
そうつぶやくと服についた葉っぱや土を払い、逸る気持ちに従って駆け出した。軽く息を切らせながら、再び森に入ろうとしたところで、後ろ髪を引っ張られた気がして足が止まった。
「あの石……」
放っとくのは忍びない。そこら辺に落ちている路傍の石とは思い入れが違うのだ。大切なものなんだ。少なくても位置だけは元あった場所に戻しておこう。うん、決めた。瞬は少しだけ、笑顔を取り戻して、振り返り、
その笑顔が凍る。
――少し離れてみないとわからないことというのは往々にしてあり得る。
巨大すぎるものの足下にいては決してその全景を窺い知ることはできないのだ。極端な話、蟻ん子は象さんの頭からケツの先まで知ることはできないのだ。
つまりはそういうことで、袴田瞬にとっては残酷な仕打ちだったといえる。
膝をついて崩れた瞬の視界には、収まりきらない巨大な樹の幹が途中まで映っている。
× × × × × × × ×
結論から言おう。
なかった。
例の石が置いてある場所に向かうには森の入り口からかなり歩くために、目印代わりに赤い紐をルート上の木々に結びつけて、それを頼れば迷わず到着することができるようになっている。
自分が巨樹の根元にいたことに衝撃を受け崩れていた瞬は、ゆうに20分はそこでそうしてから、ようやくふらつきながらも立ち上がった。まだとうてい正気に戻ったとは言えず、また血の気も引いたままの青い顔で、何かに取り憑かれたようにたどたどしい足取りで森に入っていく。
そこから更に30分以上、その巨樹のあるエリアを中心に外周をくまなく探し回っていた瞬は瞳に光を取り戻し、
「……ない」
繰り返すが、そう結論づけた。
あの赤い紐がない。
雨風にさらされて劣化して千切れた? ――ボロボロなら行きがけに気づいたはずだ。そしてそんなに都合よく一斉に千切れることなんてあるわけがない。
頬を強くひねってみる。
「……
はなして、
「――そりゃ、そうだよね…………」
非常に残念なことだが、夢ではないらしい。
がっくりとうなだれると、すかさず腹の虫が鳴く。昼は後で適当に取ろうと計画していたのが完全に裏目になってしまった。
おあつらえ向きに毒々しい紫色した林檎のような実が隣の草むらにたくさんなっているが、口にする勇気はどうしてもわかない。散策していたせいで喉も涙目で渇きを訴えている。
「どうしよう……」
とにかく、現在、瞬がいるこの森は、今までいたあの森ではない。詳しくはわからないものの、よく似ているが絶対に違う謎の森にいる。先の紫色の実も瞬の14年の人生をさらってもどの媒体でもお目にかかったことがないものだ。
ここで決断しなければならないだろう。
巨樹の根元まで戻り、空腹と戦いながら膝を抱えて事態が勝手に打開するのを待つか。
それとも、せめて水場がないかを探しながら当てもなく森をさまようか。
是非もない。
事態が勝手に解決するようなことがはたしてあるのか。
「――ないない」
誰に向けるでもなく。瞬は顔の前で手を振る。
非常に危険ではあるが、結局この場から離れてみないことには始まらないだろう。
意を決した瞬は、落ちていた木の枝を手に取り、地面に軽く立てる。
「頼むよ、何でもいいから、今ここで助けてくれる神様お願い」
天命を信じて、手を離せば、自然と棒は倒れる。その棒が倒れた方向へ瞬はゆっくりと視線をやり、
「あっちはさっきの樹の方だって……」
脱力しながら、もう一度棒を立てるのだった。
× × × × × × × ×
どれほど歩いただろうか。
棒が倒れた方向へひたすらまっすぐ進んできた。昔テレビか何かでジャングルで遭難したときは下手に方向を変えたりせず、一意直進せよというのを海外の冒険家のおっさんが言っていたのが頭の片隅に残っていた。
それを信頼して、こうやって歩いてきて、今もなお進行中というわけだ。
とはいえ、疲れは無視できないほどにたまってきていた。
たしかに休憩はこまめに取った。だが、未だ水と食料を確保できていないという現状は心の一休みを許すことはありえない。心身という言葉があるように、心と身体は一つであり、片方が
「くそ……くそ……ぉ……」
悪態ばかりが口をつく。他に出るものといえば、
「なんでカバンまでなくなってたんだよ……」
愚痴だ。
瞬が目を覚ましたときに身につけていたはずの肩掛けカバンは周囲に落ちていなかった。あの中には道中の口の寂しさを紛らわすためのお菓子や、途中の自販機で買ったミネラルウォーターだのなんだのが入っていたのに。
あれさえあれば、こんなことにはなっていなかったろう。
そんなどうしようもない仮定に心がささくれ立った。
思わず天を仰ぐと、
二つの光点。
それが眼であることに気づくのに少し時間がかかった。ガラス玉と見紛いそうなそれはちっちゃな頭の真ん中に収まっており、目を見開く間抜けな瞬の姿をしっかりと映していた。
また、そいつがなんであるかを判別するのにまた時間がかかった。
サル、でいいのだろうか。
サルのような気はするものの毛の色は燃えるようなえんじ色だし、木の枝にひっかけぶら下がっているしっぽは根元から三つ叉になっているしで確信が持てない。
さて、そのサル、のような生き物だが、問題は、
「――キキ?」
身体に、どっかで見たことのあるカバンを巻き付けていたことだ。
「そ、それ!?」
物体に認識が追いついた瞬間、瞬は大声を上げた。街中でこんな声をあげようものなら冷たい眼を向けられるか悲鳴をあげられること請け合いで、そのサルもどきもおそらくは悲鳴の、
「キ――ッ!!??」
という超甲高い鳴き声で反応すると、獣らしい俊敏さで樹を飛び移った。
「あ、ま、待ってッ!? それ、僕の!!」
逃げ去ろうとするサルもどきを瞬は慌てて追いかけ始める。
――くそっ、あいつがカバンを取ったんだ!
「道理でないわけだよッ」
木の根や柔らかい土に足を取られそうになりながらも、瞬は速度をゆるめず視線を上にし続けることをやめない。
なら今しかない、
そう判断した瞬は攻めに転じる。
走りながらも一瞬だけ身を低くし、足下に転がっている小石を拾う。そのまま、振りかぶって、
投げた。
野生の勘が告げたのか背後より迫る小石の脅威を感じ取ったサルもどきは、
「キ――ェッ!?」
とっさに身体を反らしどうにか避けることに成功するが、次の樹に飛び移る瞬間だったために跳躍に失敗。自由落下に身を任せる羽目になった。
「よし――ッ!」
ガッツポーズを決めようとして、
「――って、」
ヤツも賢い。
頭上を行くことを諦めたのかすぐさま地面に実に軽やかに降り立ち、そのまま四足で駆け出す。
「あ~~、もう!!」
スピードをゆるめようとしていた足を再度むち打ち、瞬も再加速した。
× × × × × × × ×
チャンスを逃した。
悔しさが脳内を転がる。同時に「まずい」という予感も芽生える。
あれで駄目ならどうする。もう一度狙ってみるか。
「キ」
今度は背後を確認しつつ、サルもどきはジグザグに走行し始めていた。
――無理だ。
さっきは結局の所、直進するサルもどきの進行上を狙って
おまけに疲労も蓄積している。万全の状態ならまだどうにかなったかもしれないが、それを言ったところでどうにもならない。持って2、3分がこの追いかけっこの限界だろう。
と思っていたら、だ。
いきなり、サルもどきが止まった。
急停車は事故の元である。
人間であっても当然それは適用され、瞬も可能な限り停止しようとしたが慣性の法則には勝てず、つんのめって正面から倒れることよりも腰を落として背面からスライディングすることを選ぶ。
木っ端を吹き飛ばしながら滑り込むと,上手い具合に股の間にサルもどきが収まった。
今度こそ、
「捕まえた!!」
両手でしっかりと掴んだ。これならばおよそ逃すことはあるまい。しかし、喜色に染まるはずだった瞬の顔はしかめ面だった。
なんか変だ。おかしい。
まず、なんでこいつはいきなり逃げるのをやめたのか。今まであんなに手こずらせたのにも関わらず、抵抗もしないで易々と捕まったのか。
そして、何故こいつは今とある方向を凝視して震えているのか。
怪訝に思いつつ、その視線をたどると、
「…………あ、……」
悲鳴が出なかったのが不思議だ。
ズ……ズズ、という巨体を引きずる音。凶悪極まりない目つき。大の男数人が悠々入れるに違いない胴回り。てらてらと光る皮。
ヘビのバケモンがそこにはいた。
尋常じゃないデカさに完全に腰が抜ける。
鮮やかな黄色に浮かぶ尖った瞳孔から目を離すことが出来ない。ヘビに睨まれたカエルという表現はまったくもって嘘なんかじゃないことが痛いほどよくわかった。
今すぐ逃げなきゃ駄目なのに。悲しいことに身体が微動だにしてくれない。
大蛇の口から舌がチロチロのぞく。獲物を前に舌なめずりしているようにしか瞬には見えなかった。
まったく、ツイてないにもほどがある。僕が何をしたっていうの。
神様の怒りを買うようなマネした!? 全然そんな心当たりはない。きわめて真っ当に生きてきた自負すらあるよ――
命の危機としか思えない状況に思考だけがめまぐるしく変わる。
イヤだ。こんな所で死ぬのはイヤだ。まだ、まだ、僕は伝えなきゃいけないことがたくさんあるのに――
願いが通じたのかようやく足が言うことを聞いた。座したまま、がむしゃらに土を蹴り飛ばし必死の形相で後退する。
瞬が動きを見せた瞬間、大蛇はシュルルと息を吐いた。明確な
脂汗が頬を伝う。徐々にではあるが、大蛇は確実に距離を詰めてきている。
「…………キィ」
そこで、手に握ったままの小さな存在を思い出した。
相も変わらず震えている。
それもそうだよねと内心瞬は笑いそうになるが、すぐにお互い様かと思い直す。
でも、
「お前は逃げな」
大蛇を刺激しないように気を払いつつ、瞬は後ろに手を回し、サルを解放した。
今となっては荷物なんかどうでもいい。そりゃ勝手に持ち去るなんて腹立たしかったけど、その件とこの状況はまったく別の問題だ。たとえサルを追ったせいで墓穴を掘ることになったとしても、怒るのはなんか違う気がしたのだ。
それに、たぶんあの人も同じ状況になったらこう――、
「あは、それはない、かな」
そういうことをするような人じゃない、か。
泣き笑いのような表情を浮かべた瞬の背後で、一目散に地を蹴っていく音が聞こえた。どうやら余計なことをせず、逃げてくれたらしい。
一安心。というわけにはいかないが、気分的にマシなことがあったというのは少し嬉しかった。
へその下に力を込める。
問題はこっち。大丈夫だ、きっと動ける。後ろに回していた手は既に落ちていた木の枝を握っていた。まさに気休め程度かもしれないが、徒手空拳よりはいくらかマシだ。
「悪いけど、そう簡単に食われるわけにはいかないんだ」
もう1メートルかそこらで向こうは間合いに入り何らかのアクションを起こすだろう。すると目安は大蛇手前の赤い花、そこが
方針は、こちらに躍りかかってきた際の
大蛇の鼻先が赤色の花のラインを越え――た。脳が警戒と命令を発令しようとして、
「伏せろ!!」
とっさに反応できたのは声のせいじゃない。巨大な熱量を感じたからだ。横合いから飛び込んできたそれはまるで炎の津波で、伝わってくるあまりの熱から反射的に身を横に倒してうずくまるのが精一杯だった。
――いったい何!?
声のあらん限り叫びたかった。もうこっちはとっくのとうに
顔の前にかざした腕の隙間からは熱風が吹き込んでくる。まともに眼を開けていられないが、それでも
冗談じゃない。このまま横になっていたら、巻き添えをくらう。
そう思ってしまったのがいけなかったのか。大蛇が思い切り身体をしならせ手当たり次第に周りの木々にぶつかり始めた。死にものぐるいのその勢いに大して太くもない樹は容易く幹の中ほどで折れてしまう。
巻き込まれないよう瞬は身体を地面に張り付くようにし、可能な限りの速さで大蛇から離れることを第一とする。
燃える大蛇が暴れることによって、木々にも火が移っていく。熱気とまぶしさに苦しみながら、ひたすら腕を動かし
「もう一度!!」
どうやらもう一発同じことをするらしい。嘘でしょと身構える間もなく、先ほどを超える勢いの熱風が再度吹き荒れる。努力の甲斐も空しく、冬の枯れ木に残った木の葉のように瞬は風に煽られ吹き飛んだ。
受け身を取れず背中から落ち。肺の空気が衝撃で押し出される。
むせ返り、ロクに呼吸する事が叶わない。
――もう……ワケが、わからない。
赤に染まった灼熱の世界を前に、瞬の意識はとうとう限界を迎えた。
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