渡し守
水円 岳
第一話 渡し守
今日も天気は薄曇り。風もない。
川は、流れているのかどうか分からないくらい、ゆったりと水をたたえている。水面には、小さな波紋以外何も見られない。とても広い川幅。三百メートルはあるだろうか。
私は、船着き場に係留された小舟の中に立っている。竿を川底に突き、それに寄りかかるようにして、ぼんやり対岸を見やっている。
船着き場は、川岸から川に向かってに木杭が四本打ち込んであるだけの、簡素な作りだ。舟の舳先が岸に乗り上げるような形になっていて、そこから乗り降りする。
私は小舟に乗ったまま、今度は薄曇りの空を見上げた。
風が止んでいるので、ほとんど物音がしない。川の水音、草木のざわめく音、鳥や虫の鳴き声や動き回る音などは、全く聞こえてこない。草木が生えていなければ、ただの死の世界だ。
竿を船に引き上げて、ゆっくりと小舟を下りる。
尻ポケットに突っ込んである携帯電話を取り出す。着信もメールもない。お母さんもそろそろお疲れなのかな。まあ、何か連絡があったところで急ぎってことはないし。
携帯を畳んで、今度はシャツの胸ポケットに放り込む。さくりさくりと草を踏んで土手を上がり、草むらに腰を下ろす。
こちらにも、向こう岸にも、丈の高い木はない。灌木がところどころに茂っていて、地面は一面草で覆われている。
こちら側と向こう岸とで違うのは、花の量だろう。ここでは、探さないと見つからないくらい花が少ないが、向こう岸には花園と呼んでもいいくらい、花が溢れている。景色に色目の乏しいこの辺りでは、それが唯一の彩りになっている。
体を倒して、仰向けになる。濃淡のない、一様な薄雲が空を全面覆っている。明るくも、暗くもない。
穏やかな。変化のない。静かな毎日。
◇ ◇ ◇
私の仕事は渡し守だ。こちら側から客を乗せて、対岸まで運ぶ。向こう岸から客が乗ることはない。私は必ず独りで戻る。それが決まりだ。
もう随分長いことこの仕事をしているように思えたが、考えてみれば、客が来たのはここ数週間だけだ。もう千人以上運んだことになる。ものすごく忙しいように思えるが、自分では何かに急かされたり、慌ただしかったような記憶はない。
客は老若男女問わず、みな寡黙だった。誰がやって来ても、大声で騒ぐわけでも、泣く喚くわけでも、不満をぶちまけるわけでもない。誰もが川岸に立って、しばらく静かに対岸を見続ける。そして振り返ると、必ず私に聞く。
「向こう岸には、何があるんですか?」
私は、いつも同じ答えを淡々と繰り返す。
「さあ。私は、この舟を降りて向こう岸に行ったことはないので分かりません」
「そうですか」
それを聞いて、誰もが軽い落胆と諦めの表情を浮かべる。
私が舟に上がると、客は私が促すまでもなく、みんな静かに舟に乗り込んでくる。私はもやい綱を解くと、竿を川底に突いて、ゆっくりと舟を出す。
ぽちゃん。竿が水を掻く時の小さな水音と波紋だけが、川面に残る。
舟は水面を滑るように進む。わずかな揺れだけが、川の上にいることを感じさせる。舟では誰も口を開かない。身動きもしない。目を合わさない。みな静かに、目をつぶって俯いている。
舟は二十分ほどで対岸に着く。向こう岸についた舟から客が降りる時は、誰もが柔らかな笑顔を見せて、私に同じ言葉をかける。
「ありがとうございました。どうか、お元気で」
私は無言で、舟から一礼を返す。
客は足早に船着き場を離れると、花園に分け入って、そのまま何処にか姿を消す。足音が絶えて、船着き場に静寂が戻る。私はそれを見届けて、踵を返す。そうして、ゆっくりと渡し口に舟を戻す。
まるで、同じフィルムを再生するかのように、毎回変わらずに繰り返される情景。私は、ここしばらく、そうやってたくさんの人を対岸に渡してきた。
それが私の仕事。渡し守としての、私の仕事。
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