第七頁 声

 水曜日は軽々とジルビを抱え、ふわりと床の上にジルビを下ろした。ジルビはその黒目を呆然と見つめていた。水曜日もジルビを見つめ返した。ジルビの目尻に見る見るうちに涙がたまって、零れる。水曜日はそれを無表情に見つめていた。ジルビは怖いと思った。宝石を得るために、人の身体を暴く海賊が怖いと思った。

 不意に、水曜日が僅かに眉を潜めた。目頭の下で、皺のようなくぼみができる。水曜日が何かしらの感情を顔に出したのは、ジルビが知る限りではこれで三度目だった。水曜日は血色の悪い唇を開けて、息を吸い込み、唇を動かしてひゅうひゅうというくぐもった音を出した。宝石を入れた首の膨らみが上下する。水曜日ははっとしたように音を出すのをやめた。彼はゆるゆると指で自分の首をなぞった。その爪には青い色が塗られている。

 ジルビも目を丸くした。今の一瞬、水曜日は自分が声が出ないことを忘れていた。否、初めて、ジルビと出会って初めて何か声を掛けようという気になったのだ。

「ごめんなさい」

 ジルビはへにゃりと笑った。

「私、唇の動きだけじゃ、まだ言葉がわからない」

 水曜日とハダリーは、よく似た唇の動きをする。ミヒオはまた違う。自分とアルビもてんで違う発音の仕方をしている。ジルビには、音が届かない水曜日の声は伝わらないのだった。それが苦しいのか嬉しいのかわからなかった。だって言葉がわかるということは、自分たちの中が花弁で満たされていて、宝石があるということで。

 人間じゃないということで。

 水曜日は目を逸らして、舌打ちをした。それがジルビには意外だった。そして同時に少し気持ちが楽になった。やはりこの青年は、意外と短気で感情豊かなのだ。

「話さなくていいよ。話そうとしなくていいよ水曜日さん」

 ジルビは床に座り込んだまま、擦れた声で笑った。

「あなたと言葉が通じないということは、私にとってあなたが唯一の人間だという証だわ」

 ごまかしともいうけれど。

 水曜日はますます眉間に皺を寄せた。ジルビの言うことが理解できないのだろう。ジルビにだって、頭の中がぐちゃぐちゃでわからない。けれどジルビは、水曜日の声を聞きたくないと思った。この人はしゃべらなくていい。かつてあなたがしゃべりたくなくなって、宝石を埋め込んだように。私もそのままのあなたの方が苦しくない。

 ぐすっと鼻を鳴らしながら水曜日の黒いコートを握りしめて立ち上がる。そのままジルビは宝石の仕分けを始めたハダリーの傍に駆け寄った。

「ねえ、姉さんとミヒオは?」

「あ、やっべ忘れてた」

 ハダリーはばっと顔を上げた。心の底からの焦り――確かにそれは、一瞬だけハダリーの青い瞳に揺れた。けれどハダリーはすぐに表情を消して、気だるげに言い放った。

「あー……でも放っておけばいいんじゃね? そのうち戻ってくるだろ。鮫はこの船に括り付けたままだしな」

「心配じゃないの? 探しに行けばいいのに」

「あ? オレ達が下手に行って鮫が花に感染したらどうすんだよ。その方が問題だわ」

「行ったら感染するって決まってるの? 根拠がどこに。私は姉さんが心配なの。ただでさえ姉さん、船酔いとか酷いし……」

 ジルビの強い声音に、ハダリーはうっとうしそうに顔を上げた。

「根拠なんてねえよ。根拠があったらもっとこの世界で生きやすいわ」

 ハダリーは宝石を一つ踏みつぶして立ち上がった。オレンジ色の宝石がぐちゃりと潰れる。雫が木板に跳ねて染みを作る。

「あのなあ、そういうのの研究をすべきお偉いさんやブレーン共はこぞって青い海の夢に逃げ込んだ。だからオレ達は、一体どうしたら感染するのか、症状が早まるのか、経験的にしか知りえねえんだよ。だけどな、これだけは言っておこうな。ジルビ、花に感染する方法はただ二つ。注射器で種をこっそり肉の合間に埋め込まれるか、俺達感染者の血肉を飲み下すこと。あるいは傷口から取り込むのでもいいぜ」

 ハダリーはにやりと笑った。ジルビは一歩後ずさった。ハダリーの顔は笑っているのに、激烈な感情がその目に燃えているのだ。

「ここで言う血肉ってのは、花びらそのものでもいいし、宝石でも構わねえんだぞ。一旦それを体内に入れたら、ハイ、感染。そして感染を止めるためには宝石を常に身に着けるか食べるか……食べるのが手っ取り早いけどな。麻薬と一緒だろうがよ、ええ?」

 ハダリーは突然ジルビに手を伸ばした。ジルビはもう一歩後ずさった。けれどハダリーの手はジルビの耳を掴んで離さなかった。「痛い!」とジルビは叫ぶ。ジルビの耳の下で、紫色の宝石が揺れる。

「カニバリズムなんか常識人のすることじゃねえだろ。まだ手遅れじゃねえ奴らに、人らしい食事をさせたいって願って何が悪い?」

 ハダリーは唇をジルビの耳に寄せ、低い声でそう言った。ジルビはハダリーの肩を叩いた。「おお、怖いねえ」とおどけながら、ハダリーはジルビからぱっと身体を離す。そのままハダリーは宝石の詰まった籠からぐずぐずに腐ったようなものを掴み取った。黄色の実は、ハダリーが少し拳に力を入れただけであえなく崩れてその指の隙間からぼたぼたと果汁を垂らした。

「これ見てみろよ、ジルビ。よーく見てみろ」

「な、にが」

「種、無いだろ」

 ハダリーはどこか疲れたように言った。

 ジルビはハダリーの掌を覗き込む。そこにあるのは宝石がそのまま液状になったかのような美しい煌めきだ。一様に黄色で、花の種らしきものはとても見当たらない。

「ここのどこかにな」

 ハダリーは呟いた。

「本当は何千、何百って種が紛れ込んでんだよ。でもオレ達人間の肉眼では見えようがない。オレらの血管にはこの熟れきった果汁と花弁が流れている。血液、って言うくらいだからな、オレ達の血だって液体さ。その液体は果汁で、見えない種がいくつもいくつも混じってる」

 ハダリーは静かな目でジルビを見下ろした。

「そんなオレらの血が、万が一にでも落ちたら? そこに種は芽吹くだろうさ。決まってんだよ。だからオレは、ミヒオに全部やらせてんだ。ミヒオが選んだ道だ。お前がとやかくいうことじゃねえよ。姉貴が心配なのはわかるけどな。それで死ぬならそこまでだ。冷酷上等。海賊はそういうもんだろ」

 ハダリーは深く嘆息して、籠を抱えると、それをどん、と音を立てて水曜日の足元に置いた。

「なんっか興がそがれたし、あとはお前がやっててよ」

 その声は少し拗ねたようにも聞こえて、ジルビは振り返った。ハダリーは振り返ることなく左手を腰に当て、右手の指をひらひらと降りながら船長室へと歩いて行く。ばたり、と扉が閉められた途端、水曜日が嘲るような顔でその扉を見つめながら鼻を鳴らした。それが、ジルビには少しだけ気にかかった。ジルビがハダリーの消えた扉をじっと見つめていると、ごそごそと音がする。水曜日がその場に座り込んで、胡坐をかいて宝石の仕分けをしていた。軟らかいものと、固いもの。風が吹いて、黒いフードを水曜日の頭から払ってしまう。黒と透き通るような青の色が混ざった短い髪が、風に揺れる。

 取り残されたジルビは、船の縁に手をかけて、海原を覗き込んだ。鮫の屍は砂に沈んだり浮かび上がったりを繰り返しながら、船の横を並走する。船の縁を掴んだまま、ジルビはその場にずるずると崩れ落ちた。色んなことが一気に伸し掛かって、頭がぐちゃぐちゃだ。何を信じたらいいのかわからない。お姉さん。早く帰ってきて。無事で帰ってきて。お姉さんがいないと、苦しい。寂しい。心細い。ここにはあたしの本当の味方がまだいないの。

 木板に額を押し付けて、砂埃の積もった床を焦点の合わない目で見つめて。どれくらいの時間がかかっただろう。不意に、僅かに船が傾いた。わずかな差だけれど。鮫のいる方角に傾いた。ジルビははっとして立ち上がった。

 ぎしぎし、と綱の張る音がする。ジルビは海を見下ろして、きゅっと唇を噛んだ。ぽたぽたと大粒の涙が勝手に零れて、海の方へ吸い込まれていく。

「おっ? 雨っすかね、めずらし……あ、ジルビさんすか。あれ? 泣いてる?」

 水曜日のそれよりもキラキラと黒曜石のように輝いた目が、ジルビをまっすぐに見上げた。ぼさぼさの漆黒の髪が、風に揺れて砂まみれだ。

「アビルさーん」

 ミヒオは下を見下ろして笑った。

「妹さんのお出迎えっすよ!」

「わ、わかったから、は、早くのぼって……!」

 少し下の方で、細い赤毛が揺れたのが見えた。もう、たまらなくなった。

「うああああああああああん!」

「えっ、ちょっ、どうしたっすか!」

「ミヒオさん、早くのぼって…!」

「あ、はい、はい」

「なんでどうしてそんな血まみれなのお」

 ジルビはわんわんと泣いた。ミヒオは顔の半分が額から流れる血で染め上げられている。腕には太く白い骨が刺さっていて、未だ傷口からはどくどくと赤黒い血が零れて砂表に染みをつけている。そんな体で、ひょいひょいと綱を手繰り寄せのぼってくるのが信じられない。

「どうしてそんなに無理するのお」

「あーっと! 悪かったっす悪かったっす! ちょっと身のこなし間違えちまって」

 身軽に船の上に飛び乗ったミヒオが、ジルビを宥めようと腕をぶんぶん降る。その血がべちゃりとジルビの頬に張りついた。

「あ」

 ミヒオは間抜けな声を出した。ジルビは少し我を取り戻したのか、涙を堪えて顔中に皺を寄せながらぐすぐすと鼻を鳴らした。

「ジルビ? あんたこそけがは……」

 よいしょ、よいしょ、という小さな声と共にようやく船の上に姿を見せた姉の顔を見たら、ジルビはまた泣きだした。

「うわあああ……もう俺どうしたら」

「うわああああああん、お姉、怪我してないいいいいいい、よかったああああああ」

「え、俺の立場は……」

 ミヒオがきょとんとしたまま自分を指さす。アビルはジルビをそっと抱きしめてぼさぼさの赤毛を指で梳いてやると、ジルビの額に自分の額をこつんとぶつけた。

「ただいま。心配かけた」

「心配したああああああああ」

「はいはい、女の子なんだからもっと綺麗に泣きなさいよ、せっかく私より可愛い顔してるんだから」

「いや、アビルさんも可愛いっすよ」

「あの、今そういう話してない……」

 アビルはほんのり首を赤くして俯いた。

「騒がしいなあ、んだよ、帰ってくるなり毎度毎度うるせえんだよミヒオはよ」

 部屋に籠ったはずのハダリーは、部屋の扉から顔を覗かせて気だるげに怒鳴った。

「ええ、今のってほとんどジルビさんが泣いて――あ、なんでもないです」

 アビルがじっと見つめると、ミヒオは顔の前で大きく両手を振って手を腰の後ろに回し、にかっと笑った。ハダリーは外に出て、腕を組んで壁にもたれた。

「傷の手当ちゃんとしとけよ」

 ハダリーは眉根を寄せて、低い声で呟いた。

「ったく、出血過多だと人間死ぬんだぞ、知ってっか」

「知ってます!」

 ミヒオはぐっと怪我していない方の手で拳を握って見せた。ハダリーは半眼になる。

「じゃあなんで怪我するし」

「けがの手当ては……私がするのでいいですか?」

 アビルが恐る恐ると言ったようにハダリーに尋ねた。ジルビはアビルにしがみ付いてまだ鼻をぐずらせていた。ハダリーは顎をあげる。

「おう。包帯とかの在り処はミヒオが知ってっから、聞いてやれ」

「いや、俺一人で大丈夫っすよ――あ、なんでもないです」

 アビルが涙目で頬を僅かに膨らませ、ミヒオを睨んでいた。ジルビはそんな姉の姿を、珍しいものを見るような心地で見上げて、鼻の下を指で擦った。

「あー……えっと! そう! すっげえ報告があるんすよ船長!」

 ミヒオが誤魔化すように両手をぱん、と鳴らす。腕の血飛沫が、今度は水曜日の頬に飛んだ。ジルビは思わず「あ」と呟いた。水曜日は見たことが無いような不快そうな顔で、手に持っていた宝石で血を拭った。青い宝石が紅く染まる。ハダリーは眉尻を下げて溜息をついた。

「おう……お前は早くその腕をどうにかしろっつうんだよ……で、なんだよ」

「あの鮫、雌でした! キャビアっすよキャビア! 世界三大珍味! 俺他の食べたことないっすけど!」

「フカヒレはいつも食ってるだろうが。てか俺たち食べないし関係ねー! 興味もねー!」

 目を輝かせるミヒオと対照的に、ハダリーは仰け反って空に向かって吠えた。それを、他の船員たちがきょとんとして顧みる。

 ジルビは、急に騒がしくなった船上の様子を呆然として見ていた。不意に姉が小さな吐息を漏らした。姉の淡い緑の目を見つめると、アビルはジルビの頭をもう一度撫でてくれた。

「ジルビ、あとで話がある。私ちょっと思いついたことがあるの」

「奇遇だね、姉さん。あたしも話さなきゃいけないこと、いっぱいできた」

「そう」

 アビルはにっこりと笑った。そう言ってアビルは、目を細めてミヒオを見、黙々と仕分けの作業を進める水曜日を見、頭を掻いて深い溜息をつくハダリーを見遣った。

「この船は、おかしいわ。この船に乗っている人たち、みんな」

 ジルビはゆっくりと目を丸くした。

 姉の静かな声は、砂の風に溶けていった。


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