第五頁 屍者と蝶

 急回転する船体に、ジルビはひどい眩暈を覚えた。胃の奥からせり上がってくる気持ちの悪さに身体を二つに折る。その間、誰かの温かい手がずっと体を支えてくれていた。ジルビはその手を、黒目の青年だと疑わなかった。朦朧とした意識の中、砂埃で霞んだ視界で目を凝らしながら船の影を睨んでいるうち、やがて空気を震わせる耳障りな音が聞こえてきた。

 バタバタバタバタ。バサバサバサバサ。

 何の音だろう? ジルビは眉根を寄せた。船がまたぐらりと傾いて、ジルビの背中は少しだけ柔らかく、またほんの少し硬い何かにぶつかった。温かったから、衣擦れの音がしたから、きっとそれも黒目の青年の胸なのだろう。ありがとうと言いたかったけれど、とめどなく押し寄せる嘔気にそれどころではなかった。船に繋ぎとめられた鮫がどうなっているかなんて考えたくもない。姉さん、無事でいて――それだけを心に唱え続ける。

 目が痛くなるほどの砂飛沫。羽音のような、紙束が散らばる音のような奇妙な音は、船の影が濃くなるにつれ更に激しくなった。やがて砂煙を突き破る様に、木板で作られたもう一つの船首が顔を出した。鳥のような羽をつけた裸体の彫像。瞳のないその像の白い目を、ジルビは怖いと思った。

 バサバサバサ。

 頬に何かがぶつかる。ジルビは思わず「いたっ」と叫んだ。口の中に砂が飛び込んでくる。砂風の強さに閉じていた瞼を辛うじて開くと、蠢く黒い何かが見えて、ジルビの喉からは悲鳴が漏れた。思わず屈みこむ。揺れる船の上では、まるで床に這いずるような格好になった。

 それはたくさんの蝶だった。黒と青、赤の滲んだ模様を湛えた四枚の羽根を、千切れんばかりにはためかせる蝶の大群。それはハダリーが相対する船の甲板から飛んできているようだった。まるで渡り鳥の大移動だ。竜巻だ。蝶達はうねりを作って、海賊たちにぶつかる。ぶつかった勢いではじかれて、甲板にひっくり返った蝶達は羽がひしゃげ、四本の細い足を弱々しく蠢かせた。気持ち悪いとジルビは思った。蝶の身体を、黒目の青年はためらいなく踏みつぶした。その悍ましさに、ジルビの喉から再び悲鳴が漏れる。足がすくんだまま立ち上がれもしないジルビの身体を、黒目の青年は両腕で抱え上げて引きずった。二つ折りのような恰好のまま、ジルビはどうにか青年の服にしがみ付いて頭を持ち上げた。ハダリーは、ぐらぐらと揺れる船首で海賊刀を器用に水平に回旋させていた。ジルビと黒目の青年がちょうどハダリーの隣に来た瞬間、ハダリーは忌々しげな舌打ちを零した。

「まぁたあいつか。気に入らねえな」

 ハダリーは蝶の竜巻の始点を睨みながら海賊刀を回すのをやめ、ぶん、と振り下ろした。

「おい、野郎ども、かかれ!」

 獣の咆哮のような声の渦が押し寄せる。ジルビは思わず首をすくめた。見開いたままの目から、ぽたぽたと涙が零れた。ジルビは両の頬に指を這わせた。頬は涙を吸った砂でざらりとした。声の渦はジルビの背中へと迫り、脇をすり抜け、人の形をした影となって蝶のひらめく砂霧の中へと潜っていく。

 右の頬に、つう、と生温かいものが一筋流れて、ジルビは指でそっと撫でた。さっき蝶にぶつかられて、切り傷がついたらしい。爪の奥に赤い血が紛れ込んでしまった。

「痛いか?」

 不意に、飾り気のない声が降ってきた。ジルビはゆるゆるとハダリーの顔を見あげた。頭の中で彼の声を反芻して、ゆっくりと首を縦に振る。

「そうか。蝶羽も立派な凶器だよなあ。オレも痛えや。ははっ」

 頬を掻いて、ハダリーは笑う。ハダリーの顔の周りにひらひらと淡い黄色や淡い紫色の薄く瑞々しい花弁が舞っていた。ジルビはしばらくそれに見惚れて、はっと我に返った。この花弁は、ハダリーの血なのだ。そういうことなのだ。

 いつの間にか、黒目の青年もジルビを残して砂霧の向こう側へいなくなってしまっていた。ハダリーは人影と蝶の影が蠢いて見えるだけの砂のヴェールの向こう側を瞬きもしないで睨みつけていた。ジルビもまた、睫毛にかかる砂粒の痛さも忘れてハダリーの目に見入っていた。青い透き通った眼は爛々と輝いている。瞳孔が、少しずつ小さくなっていく。

 やがて、ハダリーはにたりと笑った。次の瞬間には、ハダリーは海賊刀を逆手に持ち、砂煙の向こう側へ飛び込んでいた。誰もいなくなった船で、ジルビは一寸立ち尽くし、船員の誰かが置いた渡し板の上をほとんど手をつく形でよろめきながら歩いた。

 怖いと言う気持ちと、彼らが何をしているのか見たいという好奇心。肌の傷から花弁を零すハダリーは綺麗で、宝石で染めた金髪は絹糸のように美しかった。血の通わない彼らの戦いはきっと惨くない。ジルビが知るそれのように、血飛沫が飛び散り、恐怖心を呼び覚ますようなことはないはずだ。ジルビはやがて自分の顔が紅潮していくのを感じた。争いなんてもう二度と見たくないと思っていたはずなのに。

 ジルビは姉たちとは少々性質の違う子供だった。姉二人は大人しく内気で、その割に畑仕事や力仕事は黙々とやりこなす性分だった。反対にジルビは、肉体労働は嫌いで家に籠ろうとするくせに、好奇心だけは強く、いわゆるお転婆だ。その性質に気づいていたのは肉親と、幼馴染の男の子だけだった。

 今は、何も見えない砂煙の向こう側で、刀と刀がかち合うキンとした音を聞いているだけ。何が起こっているのかわからないのがもどかしくて、知りたいのだ。自分を拾った海賊が、一体何をやっているのか。

 渡し板を渡り切り、船に降り立ったジルビを再び蝶が襲ってきた。今度はジルビはそれを手で叩きながら目を庇って前に進んだ。花の芳香が鼻腔をつく。そこが惨状だと誰が一目でわかるだろう。ジルビの靴底はなめらかで柔らかいものたちを踏んだ。たくさんの花弁だ。船の床一杯に積もっている。

 海賊たちが人間達の首を、背中を、腰を、腕を、刀で切り刻む。その度彼らの傷口から勢いよく色とりどりの淡い色合いの花弁が噴き出して、肢体はぐにゃりと歪み、潰れた風船のように頽れた。辺りには身体をばらばらにされた蝶の羽根も散らばっていた。海賊たちは空中でくるくると飛び回りながら、船上の人間いきもの達の命を絶っていく。命が花弁になって噴き出す。辺りに優しい匂いを残して。

 ジルビは、不思議に思った。海賊が襲う彼らは誰一人彼らにまともに抵抗しようとしないのだ。武器は携えているはずなのに、人間の動きとは思えないぐにゃりとした動きで彼らの刃を弱々しく受け止め、己の体重を支えきれずに倒れる。まるで、死にかけの人間のようだとジルビは思った。彼らの肌は白くて薄く、その下に隠れた花弁の色を透かしていた。ハダリーや黒目の青年の肌色は、まだジルビ達とあまり差異はないというのに。

 花弁まみれになり、床に倒れ込む彼らの屍はどれも、色鮮やかな美しい服を身に纏っている。それが戦うための服でないことくらい、ジルビにはわかるのだった。男も女も、子供もいた。ジルビと同じ年頃の子だって。皆めかしこんでいる。それなのに、その目に光は元から宿っていないのだ。のろのろと逃げ惑い、海賊に切られ、花弁を肌から噴き出して、死ぬ。ぴくりとも動かなくなる。まるで、床に散らばったままごとの人形のようだとジルビは思った。花びらに塗れているせいで、彼らの死に様はみすぼらしくはない。

 ジルビは屍に見惚れていた。否、何かを考えることができなかった。そのままぼうっとして突っ立っていたら、不意に誰かの身体が吹き飛ばされて、ジルビにぶつかってきた。ジルビは弾き飛ばされ尻もちをつき、その誰かの下敷きになる。

「わり」

 ハダリーだった。ハダリーは自分の尻で潰されたジルビをちらと見遣って呟いた。ハダリーの腕や首からはらはらと花弁が零れていく。ジルビが手を伸ばそうとした時には、ハダリーは既に身を翻し、再び板を蹴って何かに駆けていた――蝶の集合体に。

 ジルビの喉から、思わず悲鳴が漏れた。蝶の集合体は人の形をとってゆっくりと動いていた。腕の形、指の形、頭や首、肩、腰――上半身の輪郭を模ったそれは、足だけは形をとる間もないのかざらざらと膜のように蠢いている。その腕はハダリーの刀を難なく受け止め、かわしていた。ハダリーはそれに切り込みたいようだった。何度も蝶の大群に吹き飛ばされては、突っ込んでいく。ハダリーが舞う度、ハダリーの肌にも傷がついていく。ハダリーの動きを止めようと、蝶達は激しく羽を羽ばたかせ、彼を取り囲み襲う。不意にハダリーは、蝶の集合体の腕を交わしながら首の横を手で押さえて隠した。ジルビはつられるように自分のそこに手で触れて、ぞくりとした。

 そこに、首の太い血管が通っていること。拍動する太い血管。知っている。それを切られたら、人間は血飛沫をあげて、まもなく死ぬことも。それまでどこか夢心地だったジルビは、ようやく悟った。あの美しい花吹雪は、血の通う人間の血飛沫と何ら変わらないのだ。体内の花弁を大量に失ったら、彼らは生きていけない。きっと、そうだ。

 脳裏に、幼馴染の少年が胸からまき散らかした血飛沫の影が蘇った。いやだ、もうあんなものは見たくない。同じ思い出を抱く人たちが、血をまき散らかして死んでいくのはもういやだ。

「待って! やだ!」

 ジルビは叫びながら、走った。誰かが服の裾を掴んだけれど、それを振り払って駆けた。ハダリーはまだジルビが向かってくることに気が付いていないようだ。ハダリーが船の柱を駆け上り、身を翻して蝶の集合体の脳天目掛けて飛び降りてくる。ジルビは蝶の集合体の足元にしがみ付いた。それは驚いたようにぐらりとよろけた。

「何やってんだ!」

 ハダリーの声が降ってくる。蝶がバタバタとはばたいてジルビにぶつかってくる。頬がひりひりするし、腕の中でぐちゃりと何かが潰れた感触もあった。ごめんなさい、ごめんなさいと心の中で呟きながら、ジルビはただひたすらに瞼をぎゅっと閉じていた。不意に、頭にかかる重さが軽くなった。頭上にあった蝶の羽音も空へ昇って行く。ジルビが抱きかかえていた蝶達も、ジルビの脇をすり抜けばらばらの方向へ逃げていった。

「けど、でかしたぞ! へへっ」

 ハダリーが口の端をつり上げ、ぎらぎらした眼差しで自分が切ったそれを見つめた。

 ジルビはぼんやりと頭上で歪んだ影を見上げた。蝶の集合体は、頭部からの致命傷は避けたものの、ジルビが足元にしがみ付いていたせいで逃げ遅れ、足をハダリーに切られてしまったのだ。ぐらりとその身体が傾いて、ジルビの顔に水色や黄色や桃色の花弁が吹きつけられる。不意にそれは、腕を伸ばした。ジルビは思わず肩をすくめた。それは確かに、ジルビの頭を蝶だらけの手で優しく撫でた。

 はっとして、ジルビはもう一度目線をそれの頭へと戻した。蝶と蝶の隙間に、きらりと茶色の何かが光る。それは柔らかく細められ、蝶の纏わりついた体はそのまま船から転げ落ち、砂の海へ落ちていった。

 声にならなかった。ジルビは思わず、両手で口を覆った。鼻腔に花の香りが漂う。あれは確かに、人の眼だった。茶色い、生きた人の眼。

「おい、お前ぼろぼろだな」

 影がまた、ジルビの上に伸びてくる。ジルビは床に座り込んだまま、動けなかった。ハダリーはジルビの隣に屈みこんで、にやりと笑った。傷と花弁だらけの手で、がしがしと赤い髪を掻きまわす様にジルビの頭を撫でる。ハダリーが指を動かす度、ジルビの髪からは、はらはらと花弁が零れ落ちた。

「そうしてると花の精みたいだぜ。ま、花なんてこの砂海じゃあ気味悪いものでしかねえけどな。あーあ、おまえ、顔中花弁だらけじゃん」

 ハダリーはくすくすと笑ったまま指を伸ばした。ハダリーは、あの茶色の眼差しのように、優しい目でジルビを見つめていた。傷だらけのジルビの頬から花弁を剥がそうとして――頬に触れる前にふっと指を丸めてしまった。ハダリーは表情を消し、ぼんやりと自分の爪を眺めて、立ち上がった。ジルビは自分の指で顔の花弁を剥がした。綺麗な色だったはずの花弁は、ジルビの血で赤く染まっていた。ジルビの脇に温かいものが突っ込まれる。黒目の青年が、ジルビの身体を立ち上がらせたのだった。ハダリーは今はジルビに背を向けて、腰に手を当てていた。やがて伸びをして、息を吐き出すのと同時に言い放った。

「さーて。お宝頂戴していきますかっと」

 ジルビの背中で衣擦れの音がする。黒目の青年が頷いたらしかった。海賊たちがわらわらと船の奥へと走っていく。ジルビは黒目の青年の顔を見あげた。彼はハダリーの後姿をじっと見つめている。まるで彼が動き出すのを待っているかのように。

 やがてハダリーは深い溜息を吐き出して、気だるげに歩き出した。ジルビも黒目の青年に背中を押され、歩いた。



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