第6話

土曜日。お昼過ぎ。

 空には鉛色の雲が広がっていた。太陽は厚い雲に隠されて日差しを弱めている。いつ雨が降り出してもおかしくない天気。智樹は折りたたみ傘をショルダーバッグの中に突っ込んで一ノ瀬のマンションの下に立っていた。

「うわー、すごい高いねえ」

 智樹の隣でマンションを見上げながら川口がそう呟いた。

「なんでわざわざついてきたんだよ」

「だってこれから一ノ瀬さんと二人でペットショップに行くんでしょ?」

「そうだよ。一緒に行ってくれって頼まれたからな」

「わたしもちょうど犬の餌切らしてたから買おうかと思って」

「だからってなんで一緒に」

「迷惑かな? だって、智樹くんが一ノ瀬さんと二人で行くっていうから、それはって思って」最後のほうは口の中でもごもご言って智樹は聞き取れなかった。

「迷惑ってわけじゃないけど」

 智樹は頭を掻いた。

 川口はその言葉にほっと胸を撫で下ろす。

 智樹は横目で川口を見る。川口はいつもの制服姿と違って、当たり前のことではあるが、私服姿だった。ポーチを肩から斜めに提げて目を細めてマンションの上の方を眺めている。

 智樹は小さく溜息を漏らした。一ノ瀬と川口は小学生の時に少しの面識があるといっても殆ど初対面と変わらない。そして一ノ瀬と川口の性格を考えるとどう積極的な見方をしても意気投合するようには思えなかった。

 智樹はマンションのエントランスを見る。一ノ瀬の姿はまだなかった。

 そもそも土曜日に一ノ瀬と出かけることになったきっかけは一ノ瀬が急に猫の餌を買いに行くと言い出したからだ。一ノ瀬の部屋で猫を見かけたことがなかった智樹は当然のように怪訝な顔になる。

「ユウくんはいっつもママが持ってっちゃうから」

 どうやらユウというのが猫の名前らしいが、それにしても放浪が代名詞とも言える猫を持っていくというのはどういう意味なのか。犬のように散歩をする猫もいるのか、そもそも出先に猫を連れて行っていいのかなど疑問があったが、智樹は訊ねなかった。

 聞いたところで自分の満足しか得られないことは分かっていたからだ。

「それにしても遅いね」

 隣で苛立つように川口は腕時計を見た。

「まあ、そんなもんだよ」

 そもそも智樹は一ノ瀬が時間通りに現れるとは思っていない。それどころかいつ部屋の中に突入して家からたたき出そうか考えているところだ。少なくとも隣に川口がいなかったらとっくに実行に移していただろう。

 エントランスホールのドアが開いた。中から一ノ瀬が出てくるのを見て智樹は驚いた。まだ十分程度しか遅刻していない。しかしその智樹の驚き以上に一ノ瀬は智樹の隣にいる人物に驚いていた。一ノ瀬は自分を守るように腕を胸の前にもたげ、川口と距離を取りながら智樹の近くに行った。一ノ瀬は少し背伸びして智樹の耳元で訊ねる。

「だれ?」

 当然の疑問。

 一ノ瀬に対して露出度の高い服を着ている川口は仁王立ちして腕を組んでその様子を眺めていた。心なしか眉にしわが寄っている。

「同じクラスの川口唯香」智樹は説明した。

 一ノ瀬は智樹と川口を交互に見たあと、納得したようにこう言った。

「なるほど、彼女ですか」

「違う」智樹は即答した。

 川口が悲しそうに智樹を見据える。事実を言ったまでだ。

「なんでここに智樹の彼女さんがいるの?」

 さっきの否定の言葉はもう忘れられたのだろうか。

 一ノ瀬は智樹の後ろに隠れて顔を覗かせて川口を窺っている。

「だから彼女じゃなくて友達だって、なんか一ノ瀬とペットショップに行くって言ったら一緒に行くって言ってきたんだよ」

「えっと、なにかなその言い方? もしかして迷惑だったりするのかな?」川口が詰め寄ってきた。

「いや、そういう意味じゃないけど」智樹はかぶりを振った。

 いつもの柔らかい雰囲気とは違って刺々しい態度の川口の様子に戸惑った。

 その様子を一ノ瀬は眺めて「ふーん」と意味深長に呟いた。

 一ノ瀬は智樹から離れて歩き出した。とすぐにマンションの近くの植え込みに足を取られて転びそうになった。智樹が手を伸ばそうとしたら「大丈夫」と言って一ノ瀬はまた歩き始める。

 その後姿を見つめながら川口が言った。

「何か変な子だね」

「学校にも来てないからな」

「それが学校に来なくなった原因なの?」

「さあ、よくわかんないけど」

「一ノ瀬さん細すぎじゃない?」

「そうかもな。あんまり飯も食わなかったし」

「えっ? 一緒にご飯食べたことあるの?」

「たまたまね」

「ふーん」

 川口は不快そうな顔をした。智樹は一ノ瀬を見る。何度か植え込みやら段差やらにつっかえて転びそうになっていた。

 足下がふらついていて、後ろから見ると酔っているようにも見える。

「あれはなにかな? ドジっ子アピールかな?」口調に苛立が含まれているのが分かった。

「川口だってなにもないとこで転ぶだろ?」

 川口の顔がぐるりと回って智樹を見た。口許は笑っていたが目は笑っていなかった。

「わたしが? いつかな?」

「いや、小学生のときとかよく転んで泣いて」

 話終わる前に言葉を被された。

「わたしがドジっ子アピールしてたって言いたいの?」

「いや、そうは言ってないよ」

 智樹は嫌な汗をかいた。

 突然の変化は苦手だ。この川口にどう接していいかわからない。

 暑さとはべつの理由で手が汗ばんでくるのが分かる。

 智樹はその場にいることが辛くなり、足を進めた。

 一ノ瀬が先導する形となり、その後ろを智樹と川口が並んで歩いている。川口は観察するように一ノ瀬から視線を外さなかった。その視線が不快さや嫌悪を滲ませるたびに智樹の背に嫌な汗が流れた。

 そんな智樹の気も知らずに、一ノ瀬はなにかの童謡に使われていた歌を口ずさんでいた。転がっていた枝を拾い上げ地面をばしばし叩きながら歩いている。たまに躓きそうになる一ノ瀬に智樹は心配し、川口は苛立っているようだった。

 駅を通り過ぎ坂を下っていった場所に小さめのペットショップがあった。定期的に利用する人が多い場所なのか、十台ある駐車場はすべて埋まっていた。

 自動ドアが開くと中から冷たい空気が流れて汗を冷やす。体温が下がっていく感覚が心地良かった。先に店内に入っていた一ノ瀬が駆け寄ってくる。

「智樹、智樹猫がいるよ!」

 興奮を抑えきれないといった様子で一ノ瀬は笑っている。

「そりゃあペットショップなんだから猫ぐらいいるだろ。そういえば一ノ瀬が飼ってる猫はなんていう種類なんだ?」

「わたしんちのは確かシンガプーラとか言うやつだよ」

 こんくらいの大きさなんだと一ノ瀬が手で表した大きさは掌に収まるぐらいのものだった。

「そんなちっちゃい猫がいるのか?」

「うん! ユウはすっごい可愛いよ」

 一ノ瀬はそう言ったあと我慢ができないと言った様子でケージに入れられている猫に駆け寄っていった。

「うわー、仕草がわざとらしすぎるよ」川口がぼそりと言った。

 川口の声は智樹の耳に届いたが、智樹は気づかない振りをした。

 苛立っているなら何故ついてきたのだろう。

 川口の行動の意図がつかめなかった。

「えっと川口は犬の餌買いに来たんだっけ?」

「あ、うんそうだね」

「んじゃああいつが猫見てる間にさっさと買っちゃおうか」

「う、うん」

 川口のぎこちない返事が少し気になったが、質問をするほどではなかったので智樹は視線を巡らせて犬用の餌を探した。並んでいる棚の上にいぬと書かれたパネルが掲げられているのを見つけた。行くと大小様々な袋に様々な種類のパッケージで彩られた餌が陳列されていた。

 智樹はその種類のあまりの多さに驚いてしまった。

「どうしたの?」横から川口が訊ねる。

「いや、犬の餌ってこんなにあったんだな」

「そりゃあそうよ。小型犬や大型犬じゃ食べる餌が変わるし、年齢にも犬の種類にも食べ物ってのは左右されるんだから」川口が説明口調で言った。

「へえ」智樹は並べられている餌の一つを取り出した。「けっこうペットもいいもん食べてんだな」

「そりゃあ最近は犬用の服もあるし、もうペットというより家族の一員だよね。それは一ノ瀬さん見ても分かると思うし」

 川口が顔を横に向けているのに気づいて智樹もその視線を追った。一ノ瀬がガラスに顔をくっつけて中の猫を眺めている。その顔は至福で満たされていた。

「一ノ瀬さんと智樹くんってけっこう仲いいよね」

 川口が突然そう呟いたので、思わず智樹は否定してしまった。

「いや、全然そんなことねーよ」

「だって一ノ瀬さんを見る智樹くんの目、なんか親しい人を見る目だったもん」

「気のせいだろ。誰があんなめんどくさいやつ」恥ずかしさで心にもないことをつい口走ってしまった。

「じゃあなんで毎日のように家に行ってるのかな?」

「そりゃあ、学校から頼まれたことなんだから断れるわけないだろ」川口と視線を合わせずに言った。

「なるほど、いやいやってことか」

 智樹は黙っていた。それを肯定と受け取ったのかそれとも否定と受け取ったのか、川口は頷きながら智樹を眺めていた。

「それより、どれ買うんだよ」話題を変えたくて智樹はいい加減に手に取った餌の一つを川口に見せた。「これとかいいんじゃないか」

「どれでもいいよ、そんなの」

 そう言って川口は近くにあった袋をたいして確認もせずに手に取った。

 犬種ごとに餌の種類も違うって言ってなかったか。だいたいどれでもいいなら自分が手に持ってるこれでもいいだろ。智樹はそう思ったが口には出さずに自分の取った袋を棚に戻した。

「川口は買うのそれだけ?」

「そうだね。他に必要なものは今のところないかな」

 そうか、と言って智樹は向きを変え一ノ瀬に歩み寄った。後ろから声を掛ける。

「一ノ瀬。川口もう買うもん決まったらしいからお前もさっさと買って帰るぞ」

「あと、ちょっとだけだめ?」振り返らずに一ノ瀬は言った。

 額を張り付かせて覗いているのはトラ模様の小さな子猫だった。気になって首を傾けて値段を見たら十六万と書かれている。値段の高さに驚いた。動物を買ったことがない智樹にとってそれは想像以上に高いものだった。

 智樹は視線を一ノ瀬の後頭部に戻す。どう見てもすぐに動きそうにはなかったので、智樹は語気を強めて言った。

「おい、あんまゆっくりしてたら川口にも迷惑掛かるだろ。さっさと選べ」

 一ノ瀬の肩が一瞬飛び上がった。怯えたような顔でゆっくりと振り返る。なにかを我慢しているような顔。智樹は一ノ瀬の反応に戸惑ってしまった。慌ててなにか言おうとしたら肩を叩かれる。

「なんでわたしの名前出したのかな?」

 肩越しに振り返ると川口が顔をしかめて立っていた。

「いや、それは」

 口篭っていると智樹の脇を通り抜けて一ノ瀬は猫の餌売り場に向かっていった。

「なに? どうかしたの?」川口が智樹と一ノ瀬を交互に見て言った。

「なんでもないよ」少なくとも智樹はなにもしていないと思った。

 一ノ瀬が持ってきた猫の餌は思った以上に大きかった。一ノ瀬は自分で持つと言ったが、店から出て坂を登っているときに何度も袋を地面に降ろして息を荒げるので、結局智樹が代わりに持つことになった。

「ごめんなさい」一ノ瀬は頭を下げた。

「謝ることじゃないだろ」

 智樹は両手で抱えるように持って坂を登った。駅近くで川口とは別れ、そのあとは二人で帰路を歩いた。

 空に赤みが増していく。アスファルトの上を伸びていく自分の影を見つめていたら、一ノ瀬がか細い声で言った。

「智樹、まだ怒ってる?」

「えっ?」驚いて智樹は足を止めてしまった。

 まだもなにも今日一日で智樹は怒った記憶がなかった。智樹が立ち止まったことに気づいて一ノ瀬も足を止めて俯きながら振り返る。

 気付かなかったが一ノ瀬の肩が小刻みに震えていた。肩をすぼめ、親から怒られている子どものように視線を地面の上に彷徨わせている。

 智樹はいったい一ノ瀬がなんのことを言っているか分からなかったし、なぜ一ノ瀬が怯えたような表情をしているのかも分からなかった。

「いや、まったく怒ってないけど」

「ほんとに?」疑うような素振りで一ノ瀬は確認した。

「ああ、全然そんなことないよ」

 智樹は呆気にとられた顔でそう言った。

 そっかと言って一ノ瀬はほっとしたような表情になる。

「もしかしてペットショップ出てから一言も喋らなかったのは僕が怒ってると思ったからか?」

 一ノ瀬は焦ったように視線を泳がせたあと小さく頷いた。

「なんだ、そうだったんだ」

 智樹は呆れたような溜息をつく。

「てっきり僕は川口に苦手意識でも持ったのかと思ったよ」

「そ、そんなことないよ」一ノ瀬は顔の前で否定するように両手を振る。「川口さんはわたしのこと嫌いかもしれないけどね」

 一ノ瀬は悲しげな笑顔を見せた。

「いや、そうでもないだろ」一ノ瀬を傷つけないために本心ではないことを言った。

 一ノ瀬は智樹の言葉をどう受け取ったのか、小さく笑う。

「そっか、そうだね」

 再び歩き始める。智樹はその後ろを追った。地面に伸びる影がどんどん輪郭をぼやけさせていった。

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