【022】「ウマかったろ?」

「現実に戻れ、ない……? そ、それはダメだろ……?」

「何がだ?」


 だってAWOはゲームのはずだ。

 ゲームの世界から現実に戻れないなんて、そんなことはあってはいけないはずだ。


「か、身体はどうするんだよ! ずっとログインし続けたら食事もトイレもいけないじゃないか!」

「そんなモン、22世紀には全部、自動化出来ている。今までは『人間的な生活』とやらのための単なる慣習になってただけだろ。だいたいログアウトして、何してるんだよ」


 鍋太郎は言葉を続けながら、肉を取る。卵黄らんおうが肉に絡まり、肉汁がとき卵に融けていく。そしてそれを一口に頬張った。


「あぁ、ウマい。……あのな、イーワン。考えてもみろよ。一日にトイレと飯、寝る為だけにログアウトして、目が覚めたらまたログインしてひたすらゲームだ。飯は遺伝子配合された麦を練って固めただけの万能固形食。味付けは全部、化学調味料。いつ食っても同じ味しかしねェエサだぜ、ありゃ。生きるためだけに食うエサだ」


 鍋太郎はそこで言葉を区切り、肉を咀嚼そしゃくし、ごくりと喉を鳴らし、嚥下えんげした。

 確かにまともな食事など現実世界で取ったことはイーワンもない。配給される万能固形食は栄養バランスが完全に計算されており、それを食べてさえいれば死ぬことはない。

 味を変えることは可能だが、それだって化学調味料で脳が味を感じていると錯覚させているだけだ。

 美食が味わいたいなら、食事機能が実装されたVRサービスに行けばいい。そこでは味覚が解放され、嗅覚が解放される。

 合理化の果てに滅びた美食がアーカイブとして残されており、それを味わえば満足のいく食事をとることが出来た。無論、栄養にはならない。栄養は万能固形食のみで十分だ。

 美食は文化からただの娯楽になり果てて久しい。


 困惑するイーワンの前に鍋太郎が金の取り皿を差し出した。

 悪趣味なギラつきを放つそこには溶き卵が注がれ、タレの染み込んだ肉と色彩の豊かな野菜。熱そうな湯気を立てる焼き豆腐が盛られている。


「食えよ、イーワン。腹減ってるんだろ?」


 言われるがままにイーワンは皿を受け取った。

 手元から漂う甘く、香ばしい香りが鼻腔を刺激するのが分かる。肉のウマさをイーワンはもう知っている。

 口の中で唾がわき出るのを感じた。それを意識した途端に胃袋が空腹を訴えてきゅるる、と小さく腹の虫が鳴く。

 気がつけばイーワンの手には鍋太郎が用意した純金の箸が握られていた。ゴクリと唾を飲み込んだのは無意識だ。


「遠慮すんなよ。俺様のおごりだ。気にせずに食え」


 鍋太郎の言葉が耳に染み込むと、イーワンは箸で肉を摘まんでいた。黄色の卵に肉を絡め、口に運ぶ。


 とても、おいしかった。


 一口、食べてしまえばもう止まらなかった。空っぽの胃袋と食の快楽を知った脳が次を要求する。

 甘辛いすき焼きのタレが肉の風味を際立たせ、おいしかった。肉は柔らかく、口の中でとろけるようだ。ネギを噛めば熱い芯が飛び出し、舌をやけどしたがそれに構わないほどネギの甘みと香りが口の中で肉汁と調和する。卵のこってりとした甘さが醤油の塩辛さと混ざり、その強烈な旨みが脳に届くのを感じた。春菊の苦みが肉と甘みでくどくなった口の中をさっぱりとさせ、焼き豆腐の熱が喉をするりと落ちていき、体の内側から熱を放つ。

 美味しい。

 美味しいのだ。肉を噛み、野菜を飲み込む度、胃に重みが溜まっていくのを感じる。


「イーワン、こんな話知ってるか?」


 取り皿のすき焼きがなくなった頃合いを見計らい、鍋太郎が口を開いた。

 コイツがこういう時に持ち出す話題はロクなものがない。


「ギリシア神話に古事記、その両方に死んだ女を連れ戻しに行く話がある。死者の国まで言って自分の女を連れ戻す話だ」


 身体の奥に溜まった熱が心地よく、それがひどくイーワンを不安にさせた。


「ま、結局どっちも失敗するんだけどな! クハハハッ、骨折り損のくたびれ儲けってヤツだ。俺様はゴメンだね」

「……何が言いたいんだよ」

「単純な話さ。その失敗した理由がどっちも『死者の国の食い物を食った』からだ」


 鍋太郎の言葉に我を取り戻し、イーワンは慌てて口を拭う。視線が自然と下に落ち、自分がたった今、平らげた『食事』の痕跡が視界に入った。

 本当に、コイツは。


「どうだ、イーワン。ウマかったろ? 『こっちの飯』の味はどうだ?」


 ニヤニヤとその金歯をチラつかせながら鍋太郎は値踏みするような視線をこちらへと送ってくる。

 鍋太郎の例え話はイーワンにも覚えがある。イザナミとペルセポネの神話だ。

 東西の神話ではあるが、そのどちらもが死後、死者の国で食事をした為に連れ戻しに来た男神から離れる事となった。


「……お前、本当に悪趣味だな。このタイミングでそんな話をするか、普通」


 鍋太郎が何を言いたいかは明白だ。

 AWOからログアウト出来ない。しなくなったことはいわば肉体の放棄を意味するに等しい。ならばこのAWOの世界はどうか。

 精神だけが囚われ、戻ることのできないこの世界はなんだ。『死者の国』だ。

 イーワンがそんな忌避感を感じている事を察した上で食事を勧めてみせたのだ。この男は。

 しかもイーワンが食欲に負け、皿を空けた頃合いを見計らって話を切り出す辺りが本当に悪趣味だ。嫌われ者の面目躍如である。


「クハッ、腹も膨れてちったァ落ち着いたろ?」

「ぐっ……」


 否定できないのが腹立たしい。

 いきなり現実世界への回帰を断たれ、イーワンは少なからず動揺していた。その動揺が今はいくらか落ち着いたことには違いない。


「落ち着いて考えても見ろよ。向こうの世界に何の未練がある? 画一的な無菌室に代わり映えしない食事と排泄。ただ老いていくだけの現実だ。なぁ、イーワン。それに何の意味がある?」

「それは……」


 イーワンは咄嗟に答えることができなかった。

 どこかで同意してしまっているからだ。イーワンにとって、現実はただひたすらに苦痛でしかなかった。

 わずらわしいトイレも、無味乾燥の食事も煩わしくて仕方がなかった。


「この肉の味を噛み締めただろ? どうだった? あの万能固形食とは大違いだろ。現実じゃ絶対にもう味わえない味だ」


 まともな食文化はもはや記憶媒体の中にしか残っていない。料理する材料も、技術も、人もいなくなってもう何世紀も経ったはずだ。

 残ったのは無限に生産される遺伝子配合によって栄養価と生産性を高められた麦と排水を濾過ろかした水だ。完全に機械化され、人間の管理下を離れたそれは延々と見知らぬ場所で生産を繰り返す。

 それがどこでどんな風に行われているか、イーワンは見たこともなかった。


「俺様たちが求めているモノは全てこっちの世界にあるんだ。なぜ好き好んでクソみたいな現実に戻る必要があるんだよ」

「それは……」


 イーワンには自分の違和感を言語化することができなかった。

 言葉には出来ない。言葉にできないが、違うのだ。

 生理的に、イーワンの本能が違和感を訴え続けている。

 この忌避感きひかんはイーワンが『女』だからか。分からない。イーワンには何も分からない。


「テメェ、まさか女も抱いてないのか?」

「ひゃっ!? な、何言ってんだよ……!?」


 鍋太郎が唐突に話題を変えたせいで、思わず答える声が上擦った。鍋太郎が聞いたことはだ。


「なんだよ、その女みてェな声。つーか、お前その童貞くさい反応……マジかよ? あの『女好き』が?」


 信じられない、という鍋太郎の声が聞こえてくるかのようだった。


「し、仕方ないだろっ! こっちだって、その……色々大変だったんだよ!」

「うーわ。うーわ。マジかよ、ドン引きだわ」


 鍋太郎が誇張抜きに引いていた。すごく納得がいかない。


「で、どうすんだよ。童貞」

「童貞って言うな、やめろ! お前、次言ったらブン殴るからな!?」


 はいはい、と鍋太郎は聞き流す。退屈そうに指で耳の穴を掃除し始める始末だ。

 本当にコイツが嫌いだ。


「ったく。ありえねェ……ED勃起不全かよ。いい薬、売ってやろうか?」

「いい。この話はやめろ」


 男の下の話など聞きたくも、付き合いたくもない。何が悲しくて女なのに精力剤のお世話にならないといけないのか。


「まぁ、お前のナニの話はともかく。あの女好きがねェ……テメェなら相手にゃ困らねェだろうに。その様子だとマジで童貞みたいだな」

「お前、いい加減にしろよ。本気で怒るぞ。PvPするか? 今ここでやり合うか?」


 いつでもこの男の金歯を殴り砕く為に、拳を固める。白銀の腕甲からバチバチと雷が散る。昇雷打しょうらいだを放つ用意は出来ている。


「お前相手に誰がやるかよ。一文にもなりゃしねェ。そうじゃなくて、女の話だっての。……お前、マジで損してるって」


 2人きりの部屋だと言うのに、鍋太郎はなぜか身を乗り出し、イーワンの耳元で囁く。


「女、抱いてみろよ。すげェぞ? アレだけでも俺様は現実世界に戻る気が失せるね。なんだったらウチの娼館、紹介してやろうか?」

「……お前、娼館にまで手広げてるのかよ」

「当たり前だろ。こっちじゃ合法だ。それにお前が想像しているようなのとはウチのメイン路線はちと違う。プレイヤー向けの高級娼館だ。ぶっちゃけた話、女のプレイヤーも結構ヤツが多くてな」


 呆れ半分、納得半分。考えてもみれば鍋太郎が金を稼げるような商売に手を出さない筈がない。そういう意味では不思議でもなんでもないのだが。


「へ、へぇ……? そ、それがどうしたんだ、鍋太郎?」

「テメェ、ランカーなんだから金持ってんだろう? 何なら今からでも行くか? うん?」


 娼館。つまりはアレが出来るということである。

 今のイーワンは男であり、まあ。そういうことが出来るわけだ。

 しかし、そこではたとイーワンは我に返る。


「お前。オレのこと、カモだと思ってるだろ?」

「当たり前だろ。お前みたいに金持ってて、何が欲しいか分かり切ってるヤツなんてカモ以外になんていうんだ」

「ははは、ブッ飛ばすぞ」


 コイツがこういうヤツだということを忘れていた。鍋太郎はこういう事を平然とする男である。


「しかし、じゃあファイにも手出してないのか。俺様はてっきりもうおいしくいただいたもんかと」

「お前それ絶対にファイちゃんの前で言うなよ……?」


 そんな事を言われたファイがどんな反応をするか、火を見るより明らかとはまさにこの事だ。イーワンはまだ燃やされたくない。


「お前は……どうなんだよ?」

「あん? 何がだ」

「ログアウト出来なくなることに、その……抵抗とかなかったのか?」


 イーワンは、思い出せない。

 自分がどんな選択の末にこの世界を選んだのか。そもそも自分は選んだのだろうか。それすら確信が持てないのだ。


「なかったな。現実にはもう金はない。昔はあったが、今はもうない。食うに困らず、寝床に困らず、女も抱かない。そんな世界じゃ金はいらねェ」


 鍋太郎は躊躇いなく、そう吐き捨てる。

 人類の永遠の問題に思えた食糧問題は遺伝子の万能配列が発見されると驚くほど呆気なく解決した。VR技術が発展すれば、人は狭い自室から出る理由を失った。子供は遺伝子配合で健康な胎児のみが親無しで生まれるようになった。性欲はVR技術でいくらでも満たされた。

 人類があれほど望んだ満ち足りた裕福で平和な時代は、人類からあらゆる活力を失わせるのに十分だった。

 人は満足した。

 あれほど金を巡って、何億人もの人々が血と泥濘に沈んだのに人類はあっさりと不要になった金を捨てた。

 高度に成長した科学文明は対価を必要としなくなった。一度、システムが出来上がったならあとは人類はその恩恵を享受きょうじゅするだけで生きていくことができた。


「イーワン、俺様は金が好きだ。金が大好きだ。だから――」

「だから?」

「ここから先は有料だ。聞きたければ金を払いな」


 してやったり、まさにそういう声が聞こえそうな笑みで鍋太郎は言葉を打ち切った。

 まったく。どうしてこの男は徹底してこうなのだろう。

 とことんまでブレないこの男が大嫌いだが――時々羨ましくなるのはどうしてだろうか。


「だいたい俺様に聞くのが間違ってるだろうが」

「……なんで?」

「俺様もテメェもランカーだろうが。このゲームに入れ込み過ぎた廃人だろ。とっくの昔に現実なんてモノよりこっちを選んだんだ。お前はそうじゃないのかよ? それとも何かあるのか、向こうに」


 サーバーランク第十位。

 それがイーワンの強さだ。プレイ人口6000万人のAWOにおいて、十指に入るということは当然ながら生半可なことではない。

 様々なものを神に捧げるように捧げてきた。時間も、努力も。

 見たくないものから目を背けるように、AWOに打ち込むことを選んだ。


「……どうだろう」

「なんだそりゃ。しかし、テメェがファイに手出してないなら好都合だ。いや、安心したぜ」

「……何のことだ?」


 どうして、ファイの名前がこの流れで出てくるんだ。

 鍋太郎は平素と変わらない口調でそのままに、言葉を続ける。


「あん? まだ話してなかったか? 俺様がクーメルに来た理由は『タータマソ鉱山』を潰す為だぞ」


 平然と鍋太郎はそう告げた。

 

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