千年の満月
康平
血の涙<チノナミダ>
血の涙
翁、嫗、血ノ涙ヲ流シテ惑ヘト、甲斐ナシ。
何セムニカ、命モ惜シカラム。誰カ為ニカ。何事モ用ナシ。
今の時期が一番筍の美味しい季節だから、早く採りたくて仕方がないのだ。
木が集まっているところなんかには、根元に良い香りのするきのこも生えている。
それら美味いものを、早く早く、おっかあに食べてもらいたい。
おっかあに、笑ってほしい。
―ききんとはやりやまいで、いきていくのがむずかしいねえ。
最近村のおとなたちが口にする言葉は難しくて、佐吉にはよく分からない。だが、「いきていくのがむずかしい」というのはぼんやりと分かっていた。
現に、佐吉のおっとうは、「いきていくのがむずかしい」のせいで、休む間もなく働いて、倒れてそのまま亡くなったのだから。
今は佐吉の八つ離れた兄が出稼ぎに江戸へ行っていて、それだけが生活の支えであった。
おっかあは生来病弱で、近頃はさらに頬がこけてきている。
おっかあは、佐吉がこどもながらに畑仕事を手伝って帰ってくると、いつも佐吉の頭を撫でてくれる。森や林できのこやら栗やらを採って帰ると、一寸心配そうな顔をして、でも、頭を撫でながら褒めてくれる。笑ってくれる。
その時のおっかあの笑顔が、佐吉はこの世で一番好きなのだ。
笹の葉の間から真っ白い月が見える。
―あんちゃん、先っぽがとんがってる、ほそっこい雲が浮かんでいるよ。
―なアに言ってんだい、佐吉。アリャア雲じゃない。お月さんだ。
―嘘だい。お月さんは暗い時にでるもんだ。白いお月さんなんてあるもんか。
―いいや、あれはお月さんだよ。雲があんなにきれいな形をつくれるもんかい。
昼の三日月は白くうっすらとして何だか弱そうなのに、夜の三日月は鋭く尖っていて、いつも使っている鎌よりも、お侍が持つ刀よりも、よくよく斬れそうで怖かった。
あの白い月があるうちに帰らないと危ない。
村の猟師の
それよりも、目の前に出ている筍のほうが気になってしまう。明日になったら竹になってしまうんじゃあないか。それくらいに立派で、そわそわしてしまう。
おっかあも、喜んでくれるに違いない。
夢中になって掘った。笹の緑のにおいや土の甘い香りが鼻先をくすぐる。
気が付くと、辺りは段々と赤く染まってきていた。竹の細い影も長々と伸びてきている。佐吉は急いで走った。
ふと足元を見ると、目にも鮮やかなやわらかい緑の、ふきのとうがひとつ、ちょこんと生えていた。
思わず佐吉はしゃがみこんで見惚れた。おずおずと、包み込むように手を伸ばす。
急に手元が暗くなった。
手元だけではない。
佐吉に覆い被さる様に、影が伸びている。
佐吉は後ろを振り返った。
真夜中のことだ。
お
それを目にして、お七は泣きたくなっていたことも忘れ、唯々呆然と、目も口もかっ開いて眺めることしかできなかった。
変わり果てた伜の佐吉が、猟師に抱えられていた。
無残にも全身を引き裂かれ血だらけになって、一見するともはや誰かも分からない。しかし、最後に残ってしまったままの、恐怖で見開かれた目は、確かに佐吉のものであった。
怒りもなく悲しみも沸かず、ただ途方もない虚無感だけがお七に広がる。
「あ…ああ…」
何が言いたいのかも分からない。叫ぼうとしているのか泣きたいのかも分からない。
口からはただもう音しか漏れずに、全身から力が抜けてしまった。
衝撃のあまり気を失ってしまえたら、どんなに良かったことだろうか。目が、佐吉を逃すまいとして、倒れることもできない。
お七は佐吉と同じような目で、呆けてへたり込んでいた。
どれほど怖かっただろうか。
振り向いたとき、自分よりはるかに大きい獣がそこにいたのだ。
佐吉は、逃れられない痛み、死に、運命に、どれほど絶望しただろうか。
どれほどの恐怖を、佐吉は味わったのだろうか。
薄暗くなっていく竹林の中でひとり、何を思って舞い散る自らの血を見たのだろうか。
嗚呼、できることなら、自分がそこにいればよかったのに。
守ってやれたかもしれないのに。
いいや、守ることはできなくとも、ひとりでその恐怖を味わわせることはなかったのに。
あの瞬間の佐吉を抱きしめてやりたい。
怖くない、ひとりではない、母がいると。
ひとりきりで自分の死に耐えるには、佐吉はあまりに幼すぎた。
―佐吉は私を喜ばせるために、
昨日は考えなかったことが、今日になって浮かんできた。いや、考えなかったのではない。そう思いたくなかっただけだ。
しかし今日ははっきりと分かる。
畑仕事の後。山で何やらを採ってきた後。
母の顔を覗き込むあの顔。
そして、撫でたときの、日の光のような、あの笑顔。
佐吉は、この母の所為で、死んだのだ。
―どうして佐吉が、あんな幼い子が、死ななくてはならなかったのだろうか。
―いいや、自分が死ぬべきなのだ。
お七の気持ちを読んでか、村の人々は絶えることなくお七を訪ね、慰め、佐吉を弔った。
そうしてお七が自ら死なぬよう見張っていた。
佐吉、佐吉。
母の声が聞こえますか。
どうしてあなたのような、かわいい幼い子が、死なねばならぬのですか。
神様でも仏様でも、お天道様でもお月様でも誰でもよい。教えてください。
佐吉、母の望みを聞いてください。
どうせ届くことはないのだから、たくさんの望みを言わせてください。
あなたの声が聞きたい。あなたが母を呼んでくれる声が聞きたい。あなたの頭を撫でてやりたい。
そしてあの時のあなたの恐怖を、安らかなものにしてやりたい。
強く抱きしめて、あなたを恐怖から放してあげたい。
あなたの見開いた目が、いつもの、無邪気に笑う瞳に、変わるよう…
佐吉。
さいごの母の願いです。
母は今、
途方もなく、
死にたいと思っています。
お七はふらりと、病弱な身体を動かして、竹林へと向かった。
それはまるで死期を悟った猫のように、きまぐれで、突然で、何も考えてはいなかった。ただ、身体だけが動いた。
竹林の中はあまり人の通らない場所だから、自然のままに荒れている。誰も手をつけないから竹林の中はあの時のままだ。
お七には、あの時佐吉がいた場所がすぐに分かった。
暗い竹林の中で紅色の血が飛び散っている。ちいさな佐吉の体の中に、よくぞこれほどあったものだと思うほどの量である。
ここはずっと、この世で一番きれいな死に場所だ、とお七は思った。
佐吉の死後、急いで帰ってきた長男の
お七は彼に、自分の所為で佐吉が死んだのだと話した。自分が殺したと言った。
順吉は泣きながら怒っていた。
「佐吉はおっかさまの所為で死んではおりません。佐吉はそのようには思っておりません。」
それでもお七が同じことを繰り返し言うものだから、順吉は静かに言った。
「おっかさま。この世に、親に殺される子ほど、不幸な者がありましょうや。佐吉が大事ならば、これ以上、佐吉を不幸にするのはお止めくださいませ。」
順吉のその力強い目は、亡くなった夫の目にそっくりだった。
夫が畑の中に立っている。土とお日様に塗れた黒い顔に汗が滴る。
見上げると、視線の先に佐吉がいる。
目が合って微笑んでやると、佐吉は嬉しそうに駆け寄ってくる。
夫が佐吉を抱き上げる。
順吉もそれを見て鍬を捨てて駆け寄る。
その光景を見ながら自分が言う。
そろそろ、日が傾いて参りましたよ、と。
ふと気が付くと辺りは真っ暗で、竹の間から星が見える。月が見える。
今宵は満月のようだ。
金色に輝く満月を見て、本当にきれいだと思った。
本当にこの場所はきれいだ。
辺りに散っている血を、愛おしげに指でなぞっていく。
自分は今、悲しいのだろうか。苦しいのだろうか。嬉しいのだろうか。
一瞬一瞬が過ぎるたびに、自分が佐吉に近づいているのだと思う。
お七は鎌の刃を首筋に向けた。
怖くはない。上手くいくかの不安もない。刺さればいいのだ。その後にどれほど苦しかろうが別段構わなかった。
鎌を持つ手が震える。
先程は分からなかったが今は分かる。
自分は今、嬉しいのだ。
愛おしいものへ近づいていることが、この上ない喜びなのだ。
お七の喉元に、鋭い冷たさが伝わった。
お七は静かに目を閉じた。
どういうことだろうか。
お七は目を閉じれば、闇が広がっているものだと思っていた。
月明かりもなく、無の黒の中で佐吉を探すものだと思っていた。
だがどうだろう。
自分の目の前には目映い金の光が満ちている。
月の中に入ったらこんな感じだろうかと、ぼんやり考えた。
辺り一面に満ちた光の中で、微かに何か、輪郭の様なものが現れ始めていた。それは二つの
他には誰もいないが、もし周りに人がいたなら、その人はそれをただの光の粒の集まりだと言うだろう。
しかし、お七には分かる。
あれは紛れもなく、見慣れた、けれど、懐かしい人たち。
佐吉と夫だった。
佐吉は母を見つけて嬉しそうに駆け寄る。
夫はそれを優しく見守る。
お七の前に立ち止まって、佐吉はあの目とは、見開かれたあの目とは違った、可愛らしい瞳で、じいっと母を見ていた。
―佐吉、
呼びたいのに、声が出ない。
伝えたいのに、口は呆けたように開いただけで、動いてくれない。
喜びと驚きと愛おしさと悲しさともどかしさと虚しさに、涙が細く流れ出た。
それをすくうように、佐吉は母の頬に手を当てる。
その時、お七の耳に、風の如く入ってきた音があった。
それは鈴の音とも鳥の声音とも川の音とも、似ているようで似つかない音だったけれど、お七には、それは佐吉の声で、佐吉の言葉となって流れた。
―おっかあ、かぐやひめさまって、ほんとにいるんだな。
それ以上は、聞こえなかった。
お七が佐吉の手に触れようとした瞬間、佐吉はわあっと光の細かい粒にはじけて、その光は、満月の方向へ散って行った。
消え際、夫がその優しい目で、妻に向かって微笑んだ。
気が付くと辺りは元の闇で、満月はどこへ行ったのやら、見当たらなかった。
しかしお七は空を見ていた。さっき満月があった場所を、仰ぎ見ていた。
涙が止まらない。
伝えたいことはたくさんあった。言ってほしい言葉もたくさんあった。
そのどれの一つもできずに消えた。
でも今は、穏やかでやわらかいあの声と、優しいあの目で、胸がいっぱいだった。
これで満足と言えば嘘になる。けれどもなんだか、安堵したような、体から力が抜けるような、そんな感覚に、心が緩んで涙が止まらなかった。
泣き疲れて眠ってしまったのか、気が付くと家の布団の上にいて、順吉が心配そうにお七を見ていた。
「よかった。おっかさまにまで逝かれては、私はどうすればよいかと思いました。」
心底安心した顔でお七を起こした。
「でもおっかさま、何故あのような所にいらしたのですか。」
「―お月さんが、綺麗だったものですから。」
順吉をこれ以上心配させまいと、お七は嘘を吐いた。
しかし予想外にも、順吉は不思議な顔をした。
「確かに綺麗でしたが、三日月を見に出るなんて、危ないですよ、おっかさま。」
お七は呆然とした。昨晩は、満月ではなかったのだろうか。
けれども、何か思い出す節があったのか、くすり、と笑ってやわらかく微笑んだ。
「三日月と言えばおっかさま、佐吉が前に、昼に出ていた三日月を見て、あれは雲だと言っていたのをご存じですか?―あの時私は佐吉を笑いましたが、今は、あれが雲であればいいのにと、時々思うのです。」
「…どうして?」
「だって、夜の三日月というのはとても鋭くって、恐ろしげでしょう。雲のようにやわらかければ、恐ろしいこともない。いつの月も満月の様に優しいように見える。…なあんて、結局私も、こんな馬鹿げたことを考えるんですけれどね。」
「―三日月も、存外、やさしいようですよ。」
順吉が首をかしげる。それ見てお七はまた笑った。
「佐吉と、我が夫に、どうやら会わせてくれたようです。」
順吉は口をきゅ、と結んだ。
しかしすぐに微笑むと、口を開いた。
「そうですか…佐吉の奴、何か可笑しいことでも言っていましたか?おとっつあんも、私をどうしようもない男だとでも言っていましたか?」
「いいえ、何にも。」
「―そうですか。」
「でも一つだけ、佐吉の言葉が、風になって、私の耳に。」
「…佐吉は、何と?」
「かぐやひめさまって、ほんとにいるんだな、と。」
順吉も、今度は笑みを崩さなかった。
「なるほど、じゃあ、それでは、佐吉はきっと今も、幸せでしょうね。」
お七は黙って頷いた。
微笑んでいるのに涙が出てくる。
母子二人で、父の優しい瞳と、佐吉の小さな可愛らしい命に、ずっと涙を流していた。
一度死んだ者の魂は、月へ還るという。
地上に生まれ、また月へ還ったかぐや姫は、その魂たちを癒すのだろうか。
そう思うと、何故だか安心してしまうのだ。
夫もそばにいる。急がなくとも、佐吉はそこに、幸福で、いるはずなのだ。
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