第48話 激動(1)
帝王軍内に銅鑼の音が鳴り響く中、突如として発せられた出陣の号令。
これには多くの帝国兵たちが動揺を見せる。
しかし黒狼卿が姿を現す直前までは準備が進んでいたこともあり、それほどの混乱が起こることなく、兵士たちは出撃の支度に取り掛かる。
だが誰もがキーマィリと黒狼卿の一騎討ちの行方が気になっていることは明白だった。
それでも帝国四軍師筆頭である閃光のアルタナの命令に従い、着々と動き出す帝国兵たち。
そんな中、この状況に一番の驚きと戸惑いを感じていたのは、間違いなく周囲に目を向けるヴィンセントだった。
「どうやら黒狼卿の時間稼ぎもここまでのようだ」
対峙していたキーマィリはそう言って、握っていた剣を鞘に納めると、ヴィンセントに向かってこう続ける。
「もうここに用はないだろう。すぐに仲間と合流して引くといい」
敵将からの意外な言葉にヴィンセントは思わず尋ねる。
「……見逃してくれるのですか?」
「このまま君と戦うのは私の本意ではない。余興はここまで。あとは戦場で相見えようじゃないか」
「……」
笑顔を浮かべたままのキーマィリの言葉に、ヴィンセントは疑うような眼差しを向ける。
「ぐずぐずしている暇はないんじゃないのかな? そろそろ動き出すぞ」
キーマィリが言う様に、すでに平原に布陣する5万の帝王軍が動き始めている。
それを理解し、ヴィンセントは無言で手綱を返すと、ひとり黒馬を走らせる。
その後ろを姿を見送り、キーマィリは先ほど投擲した自らの長槍を拾うと、帝王グラムのいる本陣へと引き返す。
グラムの天幕までやってくると、ちょうど出陣の号令を発したアルタナが帝王の前で膝を付いたところであった。
「この度の身勝手な号令。真に申し訳ありません。いかような処分でも甘んじてお受けいたします」
「そのようなことをしている場合ではないでしょう」
アルタナの背後からキーマィリが口を挟む。
これを見て、グラムがレイべ山脈の方へと目を向ける。
「キーマィリ、なぜ黒狼卿を逃がした?」
「あのまま一騎討ちを続けていたら勝てるかどうか分かりませんでしたから。いや、あれは強い、本当に強い」
敵国の英雄であるヴィンセントを素直に称賛するキーマィリ。
だからこそ、こうも続ける。
「ですので、これから部隊を引き連れ黒狼卿の首を取りに行ってまいります。なに一騎討ちで勝てないのならば、数で勝てばいいだけのことです。それに疲れ切った黒狼を狩るには今が絶好の好機かと」
飄々としたキーマィリの物言いに、帝王グラムは可笑しそうに笑い出す。
「いつも感じるが、貴様には騎士としての誇りがないと見える」
「勝てぬ騎士の誇りに何の意味がありましょう。我々は戦争をしているのですから、勝たなければ意味はない」
「実に貴様らしい言葉だな、名将キーマィリよ」
「そういう訳ですので、一時こちらを離れてもよいでしょうか、閣下?」
「行くがよい。ただし予定通り明日にはここを出立する。期限はそれまでと心得よ」
「御意。……そういう訳だ、アルタナ。今から帝王軍から3000ほど動かす。そんなところで跪いてないで、さっさと部隊編成の指示を出してくれ」
変わらぬ口調のキーマィリの物言いに、顔を上げたアルタナがグラムを見る。
「今、己がやるべきことをせよ」
「御意」
今一度、帝王に向けて首を垂れたアルタナは、立ち上がるとキーマィリと並んで歩き出す。
その視線の先にはレイべ山脈の隙間を塞ぐ石壁の砦、マルデュルクス砦があった。
***
一方、帝王軍の前から踵を返したヴィンセントは、近くの森の中で待機していた黒狼軍と合流すると、すぐにマルデュルクス砦に向けて出立する。
ヴィンセント率いる500の騎馬隊はしばらく進んだ所で停止、状況を確認する為に周囲に偵察を出す。
その間、休息の為に黒馬から降りたヴィンセントに向かって、ルゥは思わず声を掛ける。
「大丈夫なの、ヴィンセント隊長?」
「問題はない」
しかしそう答えるヴィンセントの表情には疲労の色が濃く表れていた。
さらにルゥはヴィンセントをここまで乗せていた黒馬にも心配そうな目を向ける。
偵察はすぐに戻ってきた。
手頃な岩の上に広げた周辺一帯の地図を見ていたヴィンセント、ロウタ、ルゥの三人は、偵察からの報告を聞き、難しい表情を浮かべる。
「予想通り、連中は軍を広く展開しながらマルデュルクス砦に向かっているようだな」
平原に布陣した5万の帝王軍。そこから2万の軍勢が動き出し、横に広がったままマルデュルクス砦へ向けて進軍している。
地図を見ながらロウタが見解を述べる。
「こちらの戦力は俺たち黒狼軍が500と先にマルデュルクスへと出立したタイラー率いる皇国軍がおよそ1200。……やはり足止めは難しいな。どうするヴィンセント、いっそのこと玉砕覚悟で平原に残った帝王の首でも取りに行くか?」
「良い考えかもしれないな」
ロウタの冗談にそう笑って合わせるヴィンセントは、地図を見下ろし、自分の意見を口にする。
「これからゲリラ戦を仕掛ける。少しでもいい、ブラームス卿がマルデュルクス砦を陥落するまでの時間を稼ぐ」
「まあそれしかないだろうな」
肩を竦めるロウタが隣にいるルゥに目を向ける。
「ルゥ嬢ちゃん。赤竜卿様からの『マルデュルクス砦を落とした』っていう報告を持った伝書鳩はまだ飛んでこなさそうか?」
ジッとレイべ山脈の方に目を向けるルゥは首を横に振る。
「まだみたいなの」
「急いでくれよ、頼むから」
ヴィンセントの時間稼ぎによってかなりの猶予ができたはずであり、これから出立した2万の帝王軍がマルデュルクス砦へと到達するまでにはまだ数刻ある。
赤竜卿にはなんとしてでもその間に、マルデュルクス砦を奪還して貰わなければならない。
「俺たちもすぐに動くぞ」
「待ってほしいのヴィンセント隊長」
出立を口にするヴィンセントに口を挟んだのはルゥだった。
「どうした、ルゥ?」
「ヴィンセント隊長は少し休んだ方がいいの」
先ほどまで5万の帝王軍の前で50人の騎士と一騎討ちを繰り広げたヴィンセントは明らかに疲弊していた。
「すべてが終わったらゆっくり休むさ」
そう答えるヴィンセントは、休み事を拒み、すぐに戦いに赴くことを曲げようとはしない。
「ヴィンセント隊長。……分かったの、ならその代わりにミストルティンから私のリィラに馬を乗り換えてほしいの」
「? どうしてだ?」
「ミストルティンは少し休ませた方がいいの。いくらミストルティンとはいえ、これ以上の無理はさせるのは勧められないの。最悪潰れてしまうの」
ルゥの言葉にヴィンセントは自分の相棒である黒馬に目を向ける。
ミストルティンは息を荒くしながらこちらをじっと見ている。
「しかし……」
「馬のことなら、ここにいる誰よりも分かるの。これから状況が厳しくなっていく中でヴィンセント隊長が全力で戦うにはミストルティンにも活躍して貰わなければならないの。だから今は少しでいいから休ませてあげたいの」
遊牧の民であるルゥの言葉に、ヴィンセントはじっとミストルティンを見る。黒馬の瞳からは自分と同じ戦う意思は消えてはいない。
だが先ほどまでの帝王軍前で一騎討ちのことを思い出し、ヴィンセントは決断する。
「俺がリィラに乗ったらルゥはどうする?」
「私はミストルティンと残るの。近くに水場があるから一度そこまで移動するの」
「分かった、ルゥの言葉に従おう。いいなミストルティン?」
主の問いに、黒馬はただ一度だけ頷く。
ヴィンセントの言葉に人間のように反応する黒馬に、ロウタが驚きを通り越して呆れた表情を浮かべる。
「本当に賢い馬だな。しかしルゥ嬢ちゃんの弓が抜けるのは
ギロリ
黒馬に殺気の籠った眼光を向けられ、ロウタは溜息を吐く。
「……自分の面倒を見るならルゥ嬢ちゃんじゃなきゃ嫌ってか。ったく、本当に大した馬だよ、お前は」
こうして話が纏まり、ヴィンセントたちは出立の準備を始める。
この半年以上の間行ってきたゲリラ戦術を用いて、マルデュルクス砦へと向かう2万の帝王軍の足止めにするべく、ヴィンセントたちは500騎の黒狼軍を二つに分けた。
一つをルゥの白馬リィラに乗るヴィンセントが率い、もう一つを副官のロウタが率いる。
二手に分かれた黒狼軍は、これから別々に帝王軍へと攻撃を仕掛けて行く。
そして、ひとり残るルゥは黒馬ミストルティンを休ませるべく別行動を取ることとなった。
「では後ほど集合場所で落ち合おう」
ヴィンセントの言葉にロウタとルゥが頷き、三者がそれぞれが動き出す。
しかしこの時、ヴィンセントたちは知らなかった。
黒狼卿の首を取る為に、帝国の名将キーマィリ率いる3000の帝王軍が新たに出陣したことを。
***
『ついに帝王軍が動いたか』
山道内から攻め立てる赤竜卿率いる皇国軍を追い払った鉄仮面の軍師フォウは、マルデュルクス砦の石壁の上からその様子を眺め、『ふぉごふぉご』とくぐもった笑い声を漏らす。
『後は援軍がマルデュルクス砦へと到達するのをただ待つばかりだな』
しかしフォウが思うほど事はそう上手く運ぶことはなかった。
「急報! 山道より再び皇国軍が押し寄せて参ります!」
天眼の軍師のもとに、その報がもたらされたのはすぐのことだった。
***
天眼の軍師の計略により一時撤退を余儀なくされた皇国軍であったが、赤竜卿ブラームスは部隊の再編成を急ぎ終えると、すぐさま進軍を再開する。
「もう小細工はなしだ。一気に数でねじ伏せるぞ」
全軍を指揮するブラームスの命令に、赤い甲冑を纏った騎士たちが敬礼する。
彼らは皇国最強部隊である赤竜軍の者たちである。
赤竜兵は一人一人が選りすぐり騎士である。ひとたび戦場に立てば死すら恐れぬ勇敢な兵士となり、また他の部隊を率いて戦う際は、多くの兵士たちを指揮する有能なる隊長となる。
この赤竜兵に誘われるようにして山道内を突き進む皇国軍は、犠牲を返りに見ない強引な突撃を慣行する。
だがそれこそが、皇国軍の現状において最も適した攻撃となった。
先の山道内の戦いにおいて、初めて目の当たりにした火薬による爆発で、多くの皇国兵たちの中に芽生えた恐怖の感情。
しかしそれも赤竜兵たちに命じられての怒号を上げての突撃によって、強引に拭い去られることとなったからだ。
一心不乱に突撃する皇国軍は、第一防衛線の残骸を越え、燃えカスと仲間の死体で埋まった溝を越えると、一気に帝国兵たちが守る第二防衛線に向かって雪崩れ込む。
その一方で、この突撃を受け止めることになった帝国兵たちだが、その動きは明らかに悪かった。
先ほどの天眼の軍師の奥の手による大勝の喜びはあったものの、その勝利の余韻によって逆に気が抜け、昨夜から続く疲労が一気に体を襲い始めたのである。
両陣営の兵士の状況に、元々あった兵数の差が加わることで、場は均衡することもなくあっさりと傾き、先ほどの鮮やかな勝利が霞むかのように飲み込まれていく。
結果、第二防衛線は驚くほど簡単に突破されることとなった。
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