第21話 初日(5) 黒狼卿、敗走す
ネルが叫びを無視し、ヴィンセントは黒馬ミストルティンを走らせながら、黒槍を掲げる。
「ルゥ」
先ほどロウタたちが向かった方角に槍を向ける黒狼卿の指示を理解し、ルゥも即座に残った黒狼軍に指示を出す。
「負けると思い、部下を動かすか! 卑怯だぞ、黒狼卿!」
この一連の黒狼卿と黒狼軍の動きを見て、双月の騎士ネルが大声で叫ぶ。
そして馬の頭を巡らし、逃げ出すように見える黒狼卿の姿に驚く帝国軍の兵士たちに向かって激を飛ばす。
「帝国の兵士たちよ、我らに手を貸してくれ、共に逃げる黒狼卿を討ち取ろうぞ!」
これに合わせて、フォウは全軍突撃の太鼓を打ち鳴らす。
ネルの呼びかけと突撃の命令に、残っていた3500以上の帝国軍兵士たちが「おおぅ!」と吠え、一気に動き出す。
これを見て、黒狼卿は、黒馬の腹を蹴る。
「逃がすか!」
動き出した黒狼卿を追撃しようと思ったネルとノートン。
しかし……
「なっ!」
「なんて速さだ……」
まるで疾風のように、黒狼卿と黒馬の姿はあっという間に草原から森の中へと消えて行った。
これにはネルとノートンも目を見張る。
それでも追いかけようとしたネルを、ノートンが槍で制する。
「兄さん、まずは役目を」
ノートンの言葉に、ネルは「はっ」となって馬を止める。
そして黒狼卿の逃亡によって、緩やかに動きを止める始めた帝国軍の兵士たちに向かって、高々と叫ぶ。
「我ら、双月の兄弟、黒狼卿を追い払ったぞ!!」
「これぞ皆の勝利である!」
ネルとノートンの激に、その場にいた帝国軍兵士たちが怒号を上げる。
それも仕方のないことだろう。
狼の遠吠えと共に戦場に現れ、数多の帝国兵士たちを蹂躙してきた黒狼卿が、こうも見事に逃げ出したのだ。
それもたった二人の騎士との戦いでだ。
「黒狼卿は、必ずや我ら双月の騎士が討ち果たしてみせよう!!」
「そして皇国の砦を陥落するのだ!」
双月の騎士の激に、帝国軍兵士たちは雄叫びを上げる。
***
その様子を後方の布陣で眺める、天眼のフォウとカリナ。
腕を突き上げ、腹の底から叫ぶ兵士たちを眺めながら、カリナは思わず呟く。
「本当に見事ね。ここまで完璧にあなたの思い描いた通りにことが動くなんて」
この一連の出来事を仕掛けたのは、鉄仮面の軍師フォウ。
双月の騎士ネルとノートン、そして老将バラクーダを使い、見事に黒狼卿の敗走を演出して見せたのだ。
黒狼卿たちは逃げ出してなどいない。しかしこの場にいる帝国軍兵士たちの瞳にはそうとしか映ってはいないのだ。
そして各所からネルとノートンを賞賛する声も聞こえてくる。
「あの二人があんな風に称えられるなんて不思議な光景ね」
双月の騎士ネルとノートンは、云ってしまえば卑怯者である。どのような目的や考えがあったとしても、それが双子の騎士の行いに対する世の評価だ。
一騎討ちだと思わせ二人で襲い掛かること。
巧な言い逃れをしているかもしれないが、それは根本的に騎士道に反する行いだからだ。
本来ならば、この戦いもそう捉えられてもいいはずだ。
しかしその相手が黒狼卿であったが為に、二人の行動まったく違うように見受けられた。
圧倒的強者に、たった二人で立ち向かう勇敢なる双子の騎士。
二人は力を合わせ、ついには黒狼卿を追い払った。
まるでおとぎ話である。
一匹の巨大な竜に立ち向かう勇者たちは、これを討ち果たした。
この解釈の中に、卑怯にも勇者たちは複数人で、不意を突いて襲い掛かることは強調されないし、それが恥ずべき行いであるとも描かれない。
それは仕方がない。なぜなら竜とはおよそ人が対等に戦うことなどできない存在なのだから。
それと同じ。
それほどまでに、世に吹聴される黒き死神・黒狼卿という存在は恐ろしいモノだったのだ。
今日、黒狼卿という黒き死神は、双子の騎士によって敗走した。
事実はどうあれ、帝国軍の兵士たちにはそう見えたはずだ。
黒き死神は、恐れ逃げる存在ではない。
討ち果たすことのできるただの人間であると、誰もが思ったはずだ。
「我々全員の力を持って、黒狼卿を倒し、皇国軍の砦を陥落させようぞ!」
「「「おおおおおぅ!!!!」」」
黒狼卿は双月の騎士に恐れをなして逃げた。
その双月の騎士がいる限り、自分たちは黒狼卿に狩られる存在ではない、黒狼卿を狩る側になったのだと。
この場にいる帝国軍兵士たちは誰もがそう思っている。
その様子を見ながら、フォウは呟く。
『これでやっとまともな戦が出来るな』
***
一方、そんな草原から離れた森の中で合流を果たしたヴィンセント・ルゥ軍とロウタ軍。
「大丈夫か、ロウタ? 追いかけていた部隊は?」
「あの爺さんの部隊なら、草原の方から聞こえてきた太鼓の音で逃げていったよ。それよりそっちはどうなった? あの双子との決闘はどうなった」
そして草原での一連の出来事を聞き、ロウタは舌打ちする。
「なるほど、そういう攻め方をしてきた訳か。こいつはやられたな」
「どうするロウタ?」
「普通なら、帝国軍はこのまま勢いにのって軍を推し進めてくるだろう。俺たちは一端、マルデュルク砦近くまで引いて相手の出方を見るべきだな。勢いに乗っている連中は厄介だ」
***
しかしロウタのこの予想に反し、フォウは帝国軍を三つの拠点まで撤退。
この度の功績を三つの拠点中に伝え、まるで大勝利を収めたかのように、盛り上げた。
「ねぇ、なんであのまま皇国の砦まで行かなかったの? この勢いなら十分だったでしょ」
中庭で盛り上がりを見せる帝国兵士たちの様子を見ながらカリナの至極もっともな疑問をフォウにする。
『此度の策略は見事に成功している。だがこの策も、たった一つの結果で全て台無しになるのだ』
「それは?」
『ネルたちが黒狼卿に負けることだ。仮にあのまま追いかけて、万が一ネルたちが討たれるようなことになれば、黒狼卿の恐怖はさらに大きいものとなってしまっていただろう。希望があるから人は立ち向かう。しかし絶望の中見出した希望が消えた時、人はさらに絶望する』
「なるほど。だから昨日、ネルたちにああ言ったのね」
――此度の策において、絶対にしてはならないことを伝えておく。
それは負けることだ。
フォウは頷く。
『それにまずは、黒狼卿が倒せる相手であるという、この空気を大事にしたかった。それを出撃した4000の兵だけではなく、三つの拠点に残っていた帝国兵たちにも伝染させることを優先したのだ』
「なるほど、お見事ね」
皇国のマルデュルク砦を巡る帝国軍と皇国軍戦い。
その戦場となる地形、兵数、政治的な背景等。
さまざまな要素があるが、この盤面において帝国軍が皇国軍を打開できないはずはない、というのが天眼のフォウの見解だった。
しかしなぜそれが叶わなかったのか?
その一番の理由は、黒狼卿の存在だ。
確かに黒狼卿の強さもある。
だがそれ以上に厄介だったのが、世に轟く黒狼卿の噂である。
――逃げよ、逃げよ、戦場で狼の遠吠えが聞こえたら、迷わず逃げよ。黒き死神・黒狼卿がやってくるぞ。
黒狼卿とは、もはや誰もが敵わない存在と化していた。
その意識を取り払うことこそが、今回の計略の目的である。
その為に帝国軍兵士たちに黒狼卿が逃げたかのように見えるように演出をしたのだ。
たったそれだけの意識の変化。
されど8000人の兵士の意識の変化は強大な力となる。
たとえ真実がどうであったとしても、それは今、目の前にある目的を達成するには十分な力となりえる。
『これで皇国の砦を陥落させる準備は整った』
その時、部屋の扉がノックされた。
やってきたのは、初日の立役者である、双月の騎士ネルとノートンだ。
『見事な活躍だったぞ』
フォウの労いの言葉に、二人は礼をする。
ネルはフォウの隣に立つカリナに笑顔を向ける。
「オレの活躍を見てくれていましたか、カリナ様!」
「ええ、とってもかっこよかったわよ」
嬉しそうに微笑むネル。
だが不意に、その足がよろけ、慌てて隣のノートンがそれを支える。
「大丈夫、兄さん?」
「ああ。さすがに疲れたようだ。フォウ様、申し訳ありませんが、先に休ませていただきます」
『明日もある。しっかりと休んでくれ』
「かしこまりました」
一人先に退出するネルを見送ると、フォウは尋ねる。
『ノートン。お前から見て黒狼卿はどうだ?』
どこか暗い表情を浮かべながらノートンは答える。
「とてつもなく強い方です。なんとか粘るので手一杯でした」
『正直に答えよ。お前たち二人で黒狼卿は討ち取ることは可能か?』
「……」
『ノートン、我は強き騎士であるからお前たち二人を評価しているのではない。自らと向き合い、結果を出そうとするその姿勢を評価しているのだ』
それでも答えを躊躇う、ノートンにフォウはこう断言する。
『蛮勇など要らぬ。必要なのは、確実に勝つための手段を見出すことだ』
***
中央砦内の自室に戻ったネルは、その場に膝から崩れ落ちた。
その原因は疲労。
だが身体の震えは恐怖からだった。
「とんでもない化け物だった」
黒狼卿と対峙した時のことが脳裏から消えないのだ。
自分一人だったら、即座に殺されていた。
自分一人では絶対に勝てない。
「……大丈夫だ、わたしは負けていない。ノートンと一緒ならどんな男にも決して負けない」
疲労からの眠気を覚え、ネルはベッドに倒れ込むべく、金色の鎧を脱ぐ。
そのネルの胸元には微かなふくらみがあった。
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