◆老公爵

 朝、目覚めたエリザベトの寝室には、すでにリュリュによって完璧な紅茶の用意がされている。

「これなのよ。暖かい部屋に、陶磁器に、香り高い紅茶。リュリュにだってできる簡単なことじゃないの」

「ご主人様さりげにリュリュ下げひどすー」

「だって、リュリュの故郷の北方ではまだ白樺のお茶でも飲んでいるんでしょ」

「北方スレード貴族の前でそんなん言ったら外交問題になりまっそー」

 熊の毛皮のガウンにくるまれたままエリザベトは目覚めの一杯を飲み、ソフィネの毛づくろいを眺める。

「ソフィネが、……冬の女王のほうのソフィネがそう言っていたもの。ソフィネは北方のことも、東洋のことも、海の向こうの南の大陸のことも、何でも知っていたわ。クラナッハは船をいくつも持っていたから。彼女はヴェステンをまだ出たことがなかったけれど、外国から入ってくる書物をよりどりみどり読んでいたし、大人になったら海を渡って新大陸を目指すんだって夢みていたわ」

 エリザベトが朝の着替えを終えるころ、父の執事がやってきて扉を叩いた。

 用事を取り次いでリュリュがエリザベトの前に腰をおる。

「ご主人様、パパ公爵さまがのんびりお呼びでござまー」

「至急ではないのね。すぐいくわ」

 バルヒェット公爵は、十八になるエリザベトの父としてはいくぶん年が離れていた。父より十五ほど年下だった母はエリザベトを生んですぐに亡くなっている。父は二年前に卒中を起こして倒れ、今は邸のいちばん静かな一角で、ほとんど寝台に寝ついた生活を送っていた。

「お父様、ごきげんよう」

「……」

「お加減が悪くなったのかとびっくりしましたけれど、そうじゃなくてほっとしました。少し足が遠のいていましたかしら……。お父様から受け継いだバルヒェットの公務に時間を取られてしまって」

 厚いカーテンのおろされた寝台の真ん中から、痩せた老人の顔がエリザベトをしげしげと見つめている。

「……」

 父は何か言いたいようだった。

「何ですか?」

「リュ、リュ」

「リュリュも連れてきましたわ。お父様に拾われた子ですもの。北方の雪深い森の中で飢えて骨と皮になっていたリュリュだって、こんなに生意気な口を利くようになるんです。お父様だってそのうちだんだん回復いたしますわよ。そう励まされていただくために、たまに元気な姿を見せませんと」

「ども、公爵さま。おひさー」

 父の目元が緩んだ。

「リュ、リュ。エリザ、なにたく、らん」

 息絶え絶えに力をふりしぼって父が発した言葉にエリザベトは目を剥いた。

「お父様?!」

「さすが公爵さま、するどー。エリザベトさま、企みごと絶好調ー。バルヒェット公爵代理の仕事なんぞ片手間ー。王様さしおきゲオルク閣下に超夢中ー」

「リュリュ!!」

 エリザベトは慌ててリュリュの口を塞いだ。

「はげ、しく、遺憾」

 父が精一杯の威厳でエリザベトを睨んでいる。

 エリザベトは父の傍らに控える家令のハンスに視線を移した。

 どうやらエリザベトの外出はいちいち報告されているのだ。

「面倒なバルヒェット公爵の仕事はわたくしにやらせて、邸の支配権はまだお父様が握っているんですのね。不公平なこと。……けれど、何でもありませんわ。わたくし、ゲオルク・ブルーメンタールに夢中なんかじゃありません。夢の中になんか送ってやるものですか。あの男が落ちるべきは地獄の業火の中よ!」

「おち、つけ」

 呆れたように父がエリザベトを眺めている。ふとその目がエリザベトの左手の包帯をみとめた。

「無茶を、しては、ならん」

 エリザベトはふと父の声に、かすかだが単なる叱責とは別のものを聞きとり、戸惑った。

「それは、バルヒェットだからですか?」

 父は、曖昧な顔をして黙り込んだ。

「違うのですか? 違いませんでしょう? バルヒェットだから、クアドラートだから、王を支える四大公爵家の筆頭だから。堕すな、動くな、干渉するな、が我が一族の家訓ですものね?」

 部屋の戸口でちりん、とベルが鳴った。

 来客が告げられる。

「とおせ」

 父の一言からまもなく、エリザベトもその顔をよく見知った一人の老人が、かくしゃくとした足取りで姿を現した。

「ケーニ……、レーンベルク公爵閣下」

 父の大親友でもある老公爵の姿に、エリザベトは少しだけ眉間をよせた。

 予告のない急な訪問だ。

「そろそろ、くるころと」

 悟ったような重い口調の父の言葉に、老公爵は頷いた。

「体に触るといけないから、長居はしまい。手短に話をさせてもらおう。バルヒェット公爵」

 老公爵はこのとき、親友をあえて名前で呼ばなかった。

「クアドラートの禁則を私は破ろうと思っている」

「……」

 寝台の中で父は病人の特権を用いるように、静かにひとり、目を瞑っていた。

「ご令嬢に上手く乗せられた、というわけではけしてない。もう少し私が若ければ、エリザベト嬢ではなく私が指揮をとってクアドラートを動かしただろう。若くない私は、せめて老いぼれの最後の意地をふりしぼって、あの若造の王を刺し殺してやろうかという妄念にとりつかれはじめていた。そこにエリザベト嬢の救いの声が降りそそいだのだ」

「……」

「私はクアドラートの禁を侵す。すなわち、王に反逆しようと思う。許可をとは言わない。許せとも言わない。馬鹿め、と思っておいてくれればそれでよい」

「馬鹿に、しおって」

 目を開けた父が、家令のハンスにぎこちなく手を振った。

 ハンスが恭しく捧げもってきたものを、老公爵は怪訝そうに眺めた。銀盆に、白布の袋にしまわれた横長のものが置かれており、一輪の白百合が一緒にそえられていた。

「リヒャルト、これは――」

「わしは、君から、最愛のいもうとを、奪った。君が、わしにとっての妻と同じ、運命の女を手に入れたとき、わしは嬉しかった。心から、友のしあわせが」

 懸命に言葉を紡いだ父は枕に横顔をうずめて咳きこんだ。

「お父様っ」

 駆け寄ったエリザベトを指の先で父はあしらう。

 白布のシンプルな袋から、黄金に輝く宝剣が姿をあらわした。

 黄金の柄には三連のサファイアが嵌められ、黄金の鞘には六連のルビーがならぶ。裏を返すと鞘から柄まで九連のエメラルドが――。そのすべてが、一粒で人の人生を狂わせられるほどの価値をもつ大きさなのは言うまでもない。

「まさか――」

 それを手にした老公爵はとっさに刀身を鞘から抜きはらった。

 空中に晒された刃は、それもまた黄金――鋼の刃に特殊な加工によって純金を塗布してあるゆえに、剣としても用をなすものだ。

 王家の宝剣、だった。

 老公爵は、うつむいた瞳のきわに、光るものを浮かべた。

「復讐、なのだろ」

 親友の言葉に、老公爵は顔をあげ、年齢を忘れた毅然さで頷いた。

「ああ」

 老公爵はエリザベトのほうを向いて、手にした切り札を翳す。

「エリザベト嬢。これは先日お話しした、私が加担した罪の、まぎれもない証拠品だ。五年前に、私はアレクサンデル王太子の密命を受けて、レーンベルク公爵家に任された宝物管理官の地位を使い、宝物庫から持ち出したこの宝剣をゲオルク・ブルーメンタールに届けた。その時は、この宝剣の価値がブルーメンタールを経由して何を引き起こすのか、私は全く理解していなかった。ブルーメンタールは王家だけに許された高度な鋳造法による純金製の宝剣を国外で売って莫大な資金に替え、奇病の研究を進め、死の病を王都にばら撒くことに成功した」

 すべては、先王とアレクサンデル王太子も承知のことだった。

 王家の紋章入りの宝剣は、〈魔女の呪病〉に関わる陰謀への王家の関与をしめす、決定的な証拠だ。

「なぜ、お父様がそれを持っていたのです」

「王の、命令だ、った」

「つまり、秘密裏にブルーメンタールへ金を流す必要があったが、王家の宝物が流出することは避けねばならなかった、というわけか。ゆえに、先王は信頼するクアドラート筆頭のバルヒェット公爵に、宝剣を買い戻させた。そうすれば、ブルーメンタールが王家の宝剣を売ったという証拠は残らない。ブルーメンタールはそれを知っているのか?」

 父は首を振った。

「それならば、奇病の蔓延に王家の関与があったことをブルーメンタールが後から公表しようとしても、証拠が残っていないゆえに、難しい。ブルーメンタールは梯子を外されたかたちだ。なるほど、賢いな、この賢さはアレクサンデルの入れ知恵であったろうよ。あの秀逸なる小僧のな」

 エリザベトは父が窺うように自分を見つめていることに気づいた。

 問われていることは察しがついた。

〈おまえの敵は、アレクサンデルなのか?〉

 ……あるいは。

〈おまえに、アレクサンデルを敵とすることができるのか〉

 エリザベトはかたく唇をむすび、両瞳を開いて父の顔を見つめかえす。

 病床の父は、わずかにはっと瞼をふるわせ、娘の表情を受けとめた。

 病人は死の影に敏感だ。

 エリザベトに纏わりつく、とある死の思い出を、その目が見逃すことはなかった。

 そして気づいたはずだ。

 ――はじめから

 はじめから、エリザベトが心から憎んだ相手の名は……。

「この黄金が、私の愛した女を殺したのだ……」

 老公爵の震える声が、露に濡れた白百合を哀しく咲かせる。


 復讐のそのときは、聖王国議会の召集される七日後に迫っていた。




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