ひとつめは、謝りたい。

 曲がり角には光はなく、互いが互いにどうにか視認はできる程度に薄暗い。

 足元は汚水に満ちていて、その臭いは常に鼻をひん曲げる。

 とても気が滅入りそうな場所だった。

 気が滅入っている人を更に落ち込ませるには充分すぎる場所だった。

 その効果も狙ってここを選んだのだろうか。

 ともすれば、相手はある程度考える頭はあるのかもしれない。


「……お前がこの群れのリーダーか?」

 一つ目の団長は怒気を一切隠すことなく言う。

『リーダーなんてものを名乗った覚えはないが……まあ、そうかな』

「そうか」

 一つ目の団長は端的に返事をして、足を動かす。

 その目は怨敵をみる目に変わっていた。

「お前を潰す。理由は、分かってるだろう」

 汚水がはねる音が等間隔に続く。

 ペリュトンに近づいた一つ目の団長は拳をつよく握り、振りかぶる。

 ムチでものを叩いた音がした。

 少なくとも拳で殴った音ではない。


「な……に……?」

 サヘルの尻尾に顔をはたかれた一つ目の団長は、少しよろめきながら後ずさり、少し赤くなっている頬を丸太のような指でなぞった。

 信じられない。そう表情で語っていた。

 サヘルは自身の尻尾をもてあそぶように動かしながら、もう一度近づいてきたらまた叩く、と言わんばかりに尻尾の先を一つ目の団長に向けた。

 鱗に覆われた縦細い黒目をした気怠げな目は、一つ目の団長の顔を見ている。

 心底疲れきった、なにも信用しきっていない表情だった。

 もはや、一つ目の団長の顔をしっかり視認しているかどうかも怪しい。

 その拒絶の表情はまるで幽霊に怯える子供のようでもあった。

 恐い。恐い。恐い。


「近づかないで」

 サヘルは震える声で言う。

 ――私が嫌われても、構わない。

 そんなことを一つ目の団長は宣言していた。

 嫌われたって、構わない。

 それはつまり、彼はどこかで『まだ自分はサヘルに嫌われていない』と思っていたのだろう。

 嫌われていなくて、まだやり直せるのだと、そんな風にどこか甘く考えていたのだろう。


「近づかないで」

「……」

 続けて、今度は耳をふさぎながら言う。

 彼の甘言を遮るように。

「今更なにしに来たのよ。今更、今頃」

 今頃――そうサヘルは言う。

 それはつまり、最初はまだ彼の来訪を待っていたのだろうか。


「謝りに来たっていうの? 許されにきたっていうの? 今までなにもしてくれなかったのに!?」

「……」

 悲痛だった。

 自分自身も傷つけながら他人も傷つけるような、そんな無意味な叫び。

 それに叩かれたショックも相成って一つ目の団長は動けなくなってしまった。

 ――私は。

 自分は。

 彼女に一体なんて話しかければいいのだろう。話しかけるべきなのだろう。

 考えていたはずだ。思っていたはずだ。

 それなのにどうして、口に出ない。


『無くして初めて大切なものだと気づいた』

 一つ目の団長ははっと、その声の主であるペリュトンの顔を見る。

 ペリュトンの顔は面白そうに歪む。


『そういうつもりだったのではないか?』

「…………」

『なるほどなるほど、人間明かりを失い暗闇に晒されることで初めて光にありがたみを感じる。そういうこともある』

『当たり前は実は幸福であり、普通は実は幸せなのである。当たり前を噛みしめれないものは不幸であり、普通ではないものは不幸でしかない。お前はそういうことを言いたかったのだろう? そういって当たり前でもないし普通でもない彼女に許されたかっだろう?』

「……っ! 違うっ!」

 一つ目の団長は怒りを顕にしながら拳を握るも、彼の怒りからペリュトンを守るように、サヘルは両手を横に伸ばした。

 その顔はさっきよりも曇っているようにも見えた。


「私は幸せなの……」

「……なにを?」

「私は今が幸せ。あんたは失って不幸になったのかもしれないけど、私は失って幸せになった。ここなら誰も私をからかわない。イジメない。石を投げられることもない。傷つく必要もない。幸せなの、私は」

 違う、と一つ目の団長は否定しようとした。

 それは不幸ではないだけだと。決して幸せではないと断じようとした。

 しかしそれはすぐにひっこんだ。

 そんなことを言ってどうなる。今の彼女を傷つけるだけではないか?

 彼女はまるでヒビのはいったガラス細工のようだった。

 触れれば、壊れる。

 彼女は今にも泣きそうな顔ですすり泣くように言う。

「私は幸せになれた。幸福になれた。だからお願い。もう二度と私に関わらないで。私はもう誰とも関わりたくない。私はもう――不幸になりたくない」

「――な」

 話しかけようとした。

 とにかく会話をしようと試みた。

 一つ目の団長の手は自然と前にのびる。

 その手を――サヘルははねのけた。

「関わるな、来るな、近寄るな、嫌だ、嫌だ、消えろ、いなくなれ、いなくなれ、いなくなれ。いなくなっちゃえ。いなくなっちゃえ。あんたなんて、いなくなっちゃえ!!」

 声を詰まらせながら、泣きっ面の彼女は叫んだ。

 ぐしゃりと音をたてて、一つ目の団長は潰れた。


***


 ペリュトンは『負』を力の源にしているのだとルーミアは言っていた。

 だからこそ今のエマ・サヘルは彼らに取り憑かれているのだと。

 なるほど確かに。それならば彼女の近くにいるペリュトンの巨大さにも納得できるし――彼女の叫びとともに姿を現したペリュトンの強大さにも納得できる。

 一つ目の団長の指が丸太のようであれば、その強大なペリュトンの場合は体の節々が大木のようだった。

 まるで人を押しつぶすためだけに存在しているような見てくれで、実際、彼らが姿を現してからとった行動は『一つ目の団長を圧し潰す』だった。

 五匹の力を使って、潰す。

 潰して、潰す。

 一つ目の団長はぐしゃりと潰れ、汚水はその余波で激しく波だっている。

 エマ・サヘルは息を荒げながら、潰れた一つ目の団長の前に立っている。

 涙を流しているその顔はぐしゃぐしゃで、愛憎入り混じっていて、明らかに混乱している様子だった。

 喜んでいるのか、悲しんでいるのか、恨んでいるのか、憎んでいるのか、怒っているのか、分からない。

 分からない。

 それはサヘル自身もそうだった。

 頭の中が混乱していて、息は荒くなり肩は静かに上下する。


『これでお前を悪く言うやつはいなくなった』

 そんなサヘルを翼で抱きしめるようにしながら、ペリュトンは顔を彼女に近づけて囁く。


『もう苦しまなくていい。大丈夫だ。お前を苦しめるやつはみんな潰してしまえばいい。そうすれば――』

「殺すの? サヘルさん」

 声がした。

 サヘルはぐしゃぐしゃな顔を持ち上げる。

 曲がり角の入り口に人影があった。

 それは今のサヘルとはあまりにも対象的な存在だった。

 混乱もしてないし、混濁もしていない。

 目の前で人が潰されたというのに、眉ひとつ動かしていない。


「殺すの?」

 クマが目立つ目をした少年は、強調するようにもう一度言った。


「……え?」

「殺すの?」

 それはまるでそれしか録音されていないテープレコーダーのようだった。

 同じ言葉しか言わない死体――不楽に、サヘルの心臓の拍動ははやくなる。


「ど、どういう意味?」

「僕は団長さんが危なくなったら助けるためにここにいる」

 ただね、と不楽は続ける。

「団長はそれを拒んだんだ。これは一人でやるべきことだと。結局折衷案として死にそうになったら助けるになったんだけど」

「……なんで?」

 まだなにかを言おうとしていた不楽を遮るようにして、サヘルは言う。


「なんでそんなことを言ったの?」

 話を遮られても特に不満そうな顔一つせずに、不楽は首を傾げる。


「そんなの、僕には分からないよ」

 確かにその通りだった。

 人の気持ちなんて、言わない限り分からない。

 それは不楽の場合特に顕著だ。

 言われたって分からない。

 彼が人の心を察するなんて夢のまた夢だろう。


「ただ、それまでは邪魔をしない。そういう約束だった。だから僕は邪魔をしていない」

 確かに不楽の足は曲がり角には踏み込んでいない。

 一歩だけ、後ろにいる。


「殺すの? サヘルさん」

 話すことは全部話したのか、不楽は再び同じことを言う。

 しかしはじめの時と違って、その意味は理解できた。

 つまり『殺さないのなら邪魔をしない』『殺すのなら邪魔をする』。

 なんならサヘルを殺してでも一つ目の団長の救助を行う。彼の役割は『一つ目の団長の救助』であって『サヘルの救助』ではないのだから。

 そして、彼の意見を鵜呑みにするならば、潰れている一つ目の団長は、まだ生きているということか。

 生きている。

 それを理解したとき、サヘルは自分が少し安堵していることに気づいた。

 安心している。ホッとしている。

 そんな自分がいることに気づいて、驚いた。

 そんな訳がない。そんな訳がない。

 そんな訳が……。


「ねえサヘルさん」

 不楽は言う。

「サヘルさんは団長のことが嫌いなんだよね」

「……だったらなに」

 ――そうだ。

 ――私はこいつらが嫌いだ。

 ――気づいてくれなくて、分かってくれなくて、理解してくれないこいつらが嫌い。

 ――嫌い。嫌い。嫌い。嫌い。嫌い。嫌い。嫌い。嫌い。嫌い。

「だったらどうしてこんなにも時間がかかってるのかな。嫌なら、嫌いなら、ゴキブリを新聞紙で叩き潰すみたいに、躊躇なくやればいいのに」

 いや。

 ゴキブリを叩き潰すことに躊躇する人も、この世には一定数いるし(例えばルーミア)、人を――奇っ怪なるものを潰すとなれば、誰だって一瞬は躊躇する。

 一つの命を潰す行為は、怨みさえも消失させる。

 躊躇しないとするならば、きっとそれは死体か死人か、はたまた操り人形か。

 そのいずれもであり、感性が死んでいる不楽ぐらいだろう。

 潰せと言われたら潰す。

 しっかりと、きっちりと潰す。


 しかし普通で普通な、奇っ怪なるもので下半身が蛇で目の周りや両腕が鱗で覆われているだけの十四歳の少女に、その即決を求めるのは酷というものだろう。

 感情的になったり、それが見ず知らずの他人であれば、若さゆえの軽率さで、もしかしたら潰せたかもしれないけれど、そこに倒れている男は、あまりにも近しくてちかしい存在だった。

 近くに来てくれなかった相手なのに、親しい。と感じてしまっていることに、彼女自身は気づいていない。


「う、うう……ううう……うううう……っ」

 考えれば考えるほどに、最後の一手は遠のいていく。

 ――嫌いだ。嫌いなんだ。私はこいつが、こいつらが、あんなにも近くにいてくれたのに気づいてくれなかったこいつが嫌い。嫌い。嫌い。嫌い。嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い!!


「約束が違うじゃあないですか。不楽さん」

 痛む頭を抱えこむようにしていたサヘルは、その泡ぶくかかった、潰れた喉の痛々しい音を聞いて、顔をあげた。

 潰されていた一つ目の団長が立ち上がっていた。

 生まれたての子鹿のように、体を震わせながら立ち上がっていた。


「私が死にそうになるまで邪魔はしない。そういう約束のはずです」

「死にそうだけど」

「まだまだですよ」

 一つ目の団長はガッツポーズをとってみせるも、その巨躯をもってして、弱々しく見えた。

 誰もが見上げる巨体は、しかしこの場の誰よりも小さく見えた。


「別にね、私は許されなくてもいいと思ってるんだ」

 ムリヤリ体を駆動させながら、一つ目の団長は言う。

「悪いのは私なのだから、もちろん謝るけれど、許せとは言わない」

 のそりのそり、と一つ目の団長はゆっくりとサヘルに近づく。

 周りにいるペリュトンはそんな彼に追撃をしかけたりはしなかった。

 自身を強化している力が揺らいでいることに気づいたからだ。

 ぐらぐらと、ゆらゆらと、揺らいでいる。


「私はね、お前が幸せだったらそれでいいんだ。私のことが許しがたいのなら許さなくていい。ずっと怨まれていたって構わない。私を潰したいと思うのなら、潰されたって構わないさ。私はそれだけのことをしたのだから」

 一つ目の団長は、サヘルの顔に手を伸ばした。

 今度ははねのけられることはなかった。

 筋肉は姿を隠し、丸太のようなぶっとい指は、普通な手に戻る。

 血まみれの手はサヘルの頬に触れる。

 血がつくが、それでもサヘルはどかそうとしなかった。


「私はお前が幸せだったら、それでいい」

 一つ目の団長は優しく微笑む。

 サヘルの顔を覗き込みながら、彼女の頬を流れる涙を拭う。


「だからもっと、幸せそうな顔をしておくれよ――エマ」


 エマの顔は、涙でぐしゃぐしゃだった。

 ぐしゃぐしゃで、ぐしゃぐしゃで、ぐしゃぐしゃで。

 とてもとても、幸せにはみえなかった。


「もっと笑っておくれよ。それだけで、私はいいんだ」

 ニコリと笑って、一つ目の団長は今度こそ地に伏した。

 汚水ははね上がって波紋は広がり、サヘルの頬から一つ目の団長の手はずり落ちる。

 彼女の頬に、三本の赤い線がはしる。


「……だん」

『ようやく倒れたか』

 巨大なペリュトンはエマを落としながら、立ちあがった。

 エマは床で腰をうち、小さく声をあげる。

 ペリュトンは倒れている団長の前にたち、不楽の方を見た。

 不楽は、一歩も動いていない。


『動いていない。ということは、まだ生きている。ということか』

 ペリュトンの呟きにまたしてもホッとしている自分がいることに気づいたエマは眉をひそめる。

 なんで、どうして。意味が分からない。


『なによりも約束を先決する、か。聞こえはいいが、こうしてみるとただの非情だな。いや無関心というべきか。どちらにせよ俺にとっては無価値な存在だな……さて、エマ・サヘル』

「……?」

『言え。こいつを潰せと』

 心臓がはねあがる。

 頬にはしる三本の赤い線が、温かみをもったような気がした。

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