太っていて何が悪い

unia

第1話

 「たいへんだ!」

 夢か現実か。大音量の声が聞こえた気がして目が覚めた。寝ぼけ眼をこすりながら時計を見る。まだ5時半だ。

 しんと静まり返る部屋を包むのは仄暗い早朝を思わせる雰囲気だ。

 鳥の囀りがかすかに聞こえる中に聞き慣れた声も混じっている。間違いなく父さんが下の階で騒いでいる。三階のこの部屋まで聞こえてくるというのはかなりの大声だろう。

 すっかり目が覚めてしまっていたので、僕は下の階までエレベーターで降りていく。

 「あら、セリム、おはよう」

 母さんが驚いた様子で挨拶をしてくる。珍しく息子である僕が早起きしてきたからだろう。

 「おはようじゃないよ。朝っぱらからなんなの。なんの騒ぎ」

 別に怒っているわけではなかった。心底と父さんの身に起きたであろうことに心配の念を抱いていた。そんな僕の様子を察した母さんがゆっくりとした口調で説明してくれた。

 「実はね。お父さんの体重がまた減ったの。今日は160キロだって」

 その体重を聞いて驚きはしたが、最近の父さんの働きを知っていた僕はそれが過労からくるものではないかと思っていた。過労によって体重の減少が起こりうることは何かの本で読んだ気がする。

 「父さん、ここのところ働き過ぎなんじゃないかな。きっと疲れてんだよ」

 僕の言葉を聞いてるのか聞いてないのか、その間も父さんは真っ青な顔で体重計を何度も登り降りしている。もちろん結果は変わるはずもないが、信じたくないのだろう。

 父さんは出版社で編集の仕事に携わっている。担当する本の量や内容によって仕事の負担が大きく変わるために帰りが遅くなる時はとことん遅い。今まさに負担が大きい時であるらしく、朝は6時には家を出て夜は深夜2時過ぎに帰ってくるという生活を連日続けているようだ。

 「仕事のことは僕にはよくわからないけど、体重のことを話せば周りも協力してくれたりできるんじゃないの」

 父さんはかなり責任感が強い人だ。それはよく言えば頑張り屋さんではあるが、ノーと言えない部分に付け込まれて様々な仕事を引き受けてしまっているようだ。たまに父さんから聞かされる仕事の話から僕はそう確信していた。本当に仕事に責任を持つというならばできないことはできないと言い、確実に与えられた任務を遂行すべきなんじゃないのか。生意気にも僕はそう思っていた。もちろんそんなことは父さんに言えない。まともに父さんに意見などしたこともなかったし、今この場でかける言葉として適切だとは思わなかった。

 「自分が引き受けた仕事だからね。やると決めたら頑張らないと」

 思った通りの答えが父さんから返ってきた。

 「責任感が強いのはよくわかってるけどさ、体重が減るなんて無理をしすぎだよ」

 「心配ご無用。セリムは自分の勉強を頑張れ」

 そう言うと父さんはそそくさと仕事に行く準備と部屋に戻ってしまった。

 じゃあこんな朝早くから大声出して騒がないでよと思ったが、母さんも僕達のやり取りに苦笑いしていた。

 「母さんから言ってあげなよ」

 「そうだね。ちょっと話してみる」

 母さんは案外そんなに心配してないのかもしれない。やっぱりこちらも何事もなかったかのように朝食を作りにキッチンに戻ってしまった。まぁ、本当に何かあるなら母さんも黙っちゃいないかと僕も部屋に戻りもう一度ベットに入る。

 この国の福祉はしっかりしている。体重が減るということは国益に関わる懸案事項として扱われるのだ。一人の労働者の生産性を計るバロメーターのような役割をしているのが体重であって、増えることは良くても減ることは何かしらの問題発生の合図だ。そもそも僕達の体重はよほどの重労働をしたとしても減ることはないのが常識だ。だから体重が減ったとなれば大変なことで、会社に申請すれば会社からはもちろんのこと、国からも相応な補助がある。父さんもそれは理解してないわけはない。きっと変な責任感が変に作用してしまったのだろう。あの感じだと会社には黙っているに違いない。

 僕はベットの中であれこれと考えを巡らせていた。

 そう。体重が減るなんてよほどのことだ。減る可能性に関しては書物にもある。だが実際問題として目の当たりにするのは初めてのことだったし、母さんがあれほど落ち着いているのほうが不思議でならなかった。長く連れ添う二人にしかわからないこともあるのかと心の通った二人を羨ましく思いながらうとうと二度寝に入っていく。


目覚まし時計が鳴る。僕はいつも7時半に起きる。外はすっかり明るく、カーテンの隙間からたっぷりの陽射しが部屋に入り込んでいる。四季はあっても朝と夜は一年通してずっと寒い。でも実はその四季も天候も気温さえもすべて人工的にコントロールされているというのがこの国の少し変わった特徴らしい。らしい、というのは、他の国のことを僕は文献や講義でしか知り得なかったからだ。もう20年もこの国で暮らしているというのに、朝起きるとまず初めに思うことがこの造られた世界についてだった。

 カーテンを全開にすると、太陽が燦々と輝き、その光をいっぱいに感じることができる。僕は毎朝のこの瞬間が好きだ。だからこそ感じるものがあるのかもしれない。この太陽すらも偽物であると。雲ひとつない澄んだ青い空が延々と続いている。目にしている輝く太陽、どこまでも透き通る空すらもフェイクだなどと、言われなければ誰が気がつくだろうか。

 この国はいわゆる地底都市といわれるものだ。山奥にあり、その山、谷、崖、洞窟、あらゆる大地が生み出す自然の摂理にまぎれて造られた。最初はその程度の未開部族なような暮らしから始まったと言われている。でも今は高度に発達した技術を駆使することで、完全に大地の恵の中に人工的に都市を造り上げてしまった。洞窟の中で暮らしているようなものだが、ここはまぎれもなくひとつの都市であり国として存在している。

 そして今や、本来四方八方を囲まれ太陽や空を見ることができないはずの空間をも掌握するほどに至った。天はすべて特殊な液晶で覆われ、地上の天を再現して映し出す。実際の天と同じ時間を流れ、詳しい仕組みは知らないが、そこにある偽物の太陽は本物と変わらない赤外線や紫外線などの太陽光線を僕達に浴びせている。

 もちろん天候までもコントロールされているとはいっても、ずっと晴れということではない。極端な気象現象が起きないだけで基本的には外の世界と同じように変わるようだ。四季もあり一年を通して様々な景色を楽しむことはできる。

僕はこういう考えを抱いてしまうけれど何不自由のないこの国のことは好きだったし、別に文句があるわけではない。ただなんとなくいつもそう物思いに耽る癖があるのだ。

 外の世界に興味がある。でもこの考えはこの国では少数派だ。というか僕以外に外の世界に興味がある人を見たことがない。どういうわけかこの国の人たちは自分の国が大好きだ。大好きなのは僕も同じだし、それはそれでいい。けれど、外の世界に行きたいとか以前に外の世界そのものへの興味関心が誰しもゼロだったりする。友達、家族、誰に聞いても別に気にならないという。様々な外の世界に関する文献や映像などはそろっているにもかかわらず、どうして誰も関心を向けないのだろう。普通ならこれほど閉鎖的な国で暮らしていたら外の世界に自然と目が行くものではないのか。僕は自分の考え方がおかしいとはどうしても思えない。

 僕は外の世界について調べることが好きでよくその手の文献を読み漁っている。読めば読むほど、知れば知るほどこの国はかなり変だと気づく。他の国との交流のない国なんてありえるのか。おそらくこの国しかない。なのにこの国の人は誰もそれらのことが不思議なものと思わないらしい。

 いつもの悪いくせでまた長々と考え込んでしまった。

 たっぷりと太陽の光を浴びたらすぐさま着替えて下に降りる。下の階に行くエレベーターに乗るときに隣の部屋の妹が慌てた様子で飛び出して来た。

 「あ、お兄ちゃんおはよう。朝練なのに遅刻だよー」

 「おはよう、クレア。ご飯は?」

 「食べながら行く」

 遅刻だと慌てているものの、妹は高校生ながらばっちりと完璧に化粧をしていた。髪もおそらく丁寧に時間をかけなければあんなふうにふわっとカールしないだろう。スッピンを知っている僕としてはその変わり様には驚く。目はぱっちり二重になり、頬には軽く薄紅色のチークが乗っている。唇は艶っぽくなる何かを塗っているのか、妙に色っぽく見える。服装こそ規定の制服を着ているものの高校生にはあまり見えない。身長はもちろん僕よりは低いが、体格はあまり変わらない。おそらく今朝の父さんよりも重いのではないだろうか。ここのところ食欲旺盛で健康的だ。

 外の世界の文献を読んでいれば当然に気がつくことだが、外の世界にはあまり太っている人はいないらしい。逆にこの国は太っている人しかいない。不思議なことに太っている人しかいないにもかかわらず、太っているという概念は存在する。太っているという状態がどういうものかも理解できる。だが比べる対象の痩せ型などが存在しないからか、小さい人と大きい人という区別はあっても痩せている人と太っている人という区別はない。外の世界の人と比べれば一目瞭然なのに、それを知る僕でさえ他の誰かを見てもあの人は太っているという感覚はまだあまりわからない。国民全員が太っていることに対して最近になって少しずつ違和感じみたものを覚え始めてきている程度でしかない。だから妹を見ても太っているだなんて思うことはない。

 エレベーターは数秒で一階に着く。一階は小さな窓が多くあちこちから光が差し込みとても明るくなるように造られている。設計したのは父さんの知り合いの建築士だと聞いているがなかなかセンスがあるといつも感心してしまう。エレベーターを出て左に曲がればそこには広いダイニングキッチンがあり、たっぷりな朝食が母さんによって用意されている。

 基本的に朝はパンだ。数種類のパンの他にベーコンエッグ、サラダ、シリアル、ヨーグルト、フルーツ、ジュース、カプチーノがところ狭しと並んでいる。こんなに美味しい朝食を食べないで出かけていく妹を少々憐れむ気持ちで見送りながら僕は妹の分までしっかり食べようと意気込んだ。

 父さんは朝早く出勤してしまうため、いつも僕、妹、母さんの3人での食事だが今日は2人だ。おしゃべりな妹がいないと場も静かなものだがたまにはこういうのもいい。母さんに改めて早朝の父さんのことを聞こうかとも思ったが、いつも通りの母さんを見ていると余計な心配は本当に無用に思えたから適当な世間話をしながら朝食を食べた。

 つい先ほどの妹の容姿と母さんを見比べてしまう。母さんは妹と比べるとほとんど化粧をしない。しなくても綺麗だと思う。自分の親ながら母さんは美人だと僕は思っている。長い黒髪が美を象徴しているような品のある女性だ。いつもモノトーンで統一された服を着て、料理するときは決まって星柄の淡いオフホワイトのエプロンを付けている。母さんは決して慌てたりせずいつも落ち着いてゆっくり行動する。料理は何を作らせても本当に美味しい。これはたまに家に遊びに来る友達らもみんな口を揃えて褒めていたほどだ。そんな母の愛がこもっているであろう美味しい朝食を食べ終え、いつものように大学に行く。


 玄関を開けると広がるのは、真っ白な一面アネモネの花が咲き誇るいつ見ても美しい光景だった。風の花という意味を持つらしく、そよぐ風に揺れる姿が画になる。アネモネは母さんが好きな花だ。家の周りをアネモネで彩ることが夢だったという。アネモネに由来する話で、美の女神アフロディテにまつわる逸話が好きとの理由を昔に聞いたと思うが、どんな話だったか覚えていない。また機会があったら聞いてみよう。

 大学までは地下鉄を使う。すでに地下みたいなこの国のさらに地下を走る電車だ。国の端から端まで歩くことや、ぐるっと一周することもその気になればできる。もちろんやろうと思うチャレンジャーはなかなかいないだろうが。でもこの国で暮らす人々はみなどこに行くにもこの電車を使う。電車は4両編成でひとつの座席は3人掛けだ。完全オートメーションで分秒の狂いなく動くことから、短い距離ながらかなりの本数が走っている。そのため通勤通学のラッシュもあまりなく、通勤通学でストレスなど感じることもない。

 今朝もなんら待ち合わせすることもなしに電車で大学の友人に会う。

 「セリム、おはよう」

 「やあやあ、アポロ。今日もオシャレだね」

 アポロは僕の幼なじみだ。幼稚園からずっと一緒に遊んでいる。彼はいつもオシャレな服装をしていて、大学に行くときも遊びに行くときもおしゃれを忘れない。彼のモットーはいくつになっても恋する気持ちとオシャレをする気持ちを忘れないだ。365日すべて違う服装なんじゃないかと思うほどの手の込んだコーディネートを徹底している。恋に生きる男は女性顔負けなほどに身だしなみには気をつけるようだ。

 今日はいつもと比べるとかなり落ち着いた印象だ。色は全身を黒で統一しているようでいて差し色に淡い薄ピンクのシャツが僅かに胸元に見える。大学の友人らもみんな彼のようにオシャレになろうと雑誌などで勉強しているが、やはり元々の持って生まれたセンスが違うんだろうなと、周りと比べれば比べるほどにアポロのスター性がより一層と際立って見える。

 僕は彼の隣に座る。座先はゆったりの三人掛け。そのはずだが実際に三人で座っているのを見たことはない。やはりみんなの体が大きいのだろう。アポロは小柄で身長はあまり高くないし、体重も今朝の僕の父さんよりももっと軽い140キロしかない。この体型はもはや女の子だ。そのため車内の三人掛けシートにアポロと座るとかなりゆったりと腰を落ち着かせることができる。そこにすぐもうひとり大学の友人であるカーラが乗ってきた。

 「あ、おはよ」

 カーラは控えめな女の子だ。挨拶するのも恥ずかしそうに僕たちに聞こえるぎりぎりの小さな声だった。オシャレなアポロと比べると誰でも見劣りはするが、カーラは僕から見てもあまりオシャレに気を使わないようだ。本人には口が裂けても言えないがいわゆる女子力というやつが低い。今日も今時の女の子とは思えない地味な格好をしている。彼女がスカートを履いている姿は中学高校での制服以外に見たことがない。お決まりのダボダボのグレーのチノパンに、上はこれまたいつも目にする黒のカーディガンを無地のTシャツに重ねている。目はくりっと真ん丸。鼻はちょっぴり大きいがバランスはとれていて、お世辞にも美人とはいえないがかわいらしい雰囲気を身にまとっている。本人は嫌がっているが自然にまとまるウェーブした茶色い髪は明るい色の服を着れば絶対にもっと映えると思うのに。昔はいろいろと容姿のこともよく言っていた。彼女とは中学からの付き合いでその頃はお互いにいろいろとデリカシーに欠けていたし、性格もかちっと型にはまっていなかったので思ったことをすぐ口に出していた。だが最近カーラはどんどん控えめに拍車がかかっていて、考え方もネガティブになり気味だった。そのため彼女に対して安易に何かを言うことが難しい。言葉をよく選ばないと傷つけてしまいかねない。まぁ良くも悪くも三人とも大人になったんだなとは思う。大学では多くの時間をこの三人で過ごしていた。

 カーラを見るなりアポロはすぐ席を譲った。体にレディーファースト的な精神が刷り込まれているのだ。こうした気遣いの他にもアポロは女の子のあらゆる変化に敏感だ。今もまたカーラのわずかな変化に気がついた。

 「あれ?カーラ、髪切った?」

 「え?よくわかるね。前髪をほんの少しだけ自分で切ったんだけど、親すら気づかなかったよ」

 アポロのこういうところは本当に感心する。女の子にモテるためにと彼は日々ストイックとも言える態度でもって振る舞っている。根っからのスター気質には違いないが本人の努力とも相まってかなりモテる。彼とは違って積極的に女の子にモテたいとはあまり思わないが、モテモテの人生は羨ましくもある。

 僕はといえば、いつも会ってるはずなのにカーラの変化にまったく気づかなかった。こんなんではモテることはないなと自嘲気味で微笑む。その僕の変化すらもアポロは見逃さなかった。

 「セリムも髪を切ったの気づいてたよ」

 いきなりアポロがそう言った。

 「え、そうなの?二人ともすごいね」

 アポロは自分がモテることをあまり鼻にかけることをしない。それどころか周りの男子を今みたいに立てることも積極的にする。それが結果的に自分の株を上げることになっているのは計算なのかわからないが、ともかくいいやつなんだ。

とはいえ急にそんな展開にもっていかれたことには少々困った。本気でカーラの変化には気づけなかったし、話を合わせるにも下手な演技じゃすぐバレてしまうかと思った。僕はただ静かにニコニコしているので精一杯だった。

 隣に座ったカーラはとても小さい。身長は中学から変わっていないようだし、体重も小柄な女の子体型のアポロのそれよりもさらに軽い。僕からしてみれば健康に害がないか心配なレベルだった。

 僕は健康そのものというか、この国の平均的な体格をしている。身長は175センチあり、体重も193キロだ。だからこの三人でいるとどうにも自分だけ大きく映ってしまうようだが、決してそんなことはなく標準体型だ。毎朝のことなのに二人を見るとどうしても体型のことをいつも考えてしまう。もちろん嫌な感情ではない。毎朝太陽を浴びてからの物思いと同様で昔からずっと、ただ自分の中にあるものだ。


 大学に着き、学生証をかざしてセキュリティを解除し自己認証を終え、体重計に乗る。今日も193キロとなんら誤差なく健康レベルも良好と表示される。アポロも問題なく終え、講義の教室に向かう。カーラは女の子だからこの時ばかりは別室に別れる。

 そのとき後ろが少し騒がしくなっていた。どうやら誰かが規定体重を下回ったようだ。大学に限らず中学高校、社会人になってもこの体重による健康診断は毎日行われる。だが今までにそのチェックに引っかかった人を見たことがなかった。この国では体重は非常に重要な役割を担う。今朝の父さんのように体重が減ることは生活になにかしらの支障をきたしているサインと捉えられる。社会人ならばある程度は自己責任で、与えられた体重の下限の許容範囲を下回らない限りは注意勧告ですむ。しかし学生の場合は少し異なる。許容範囲こそ社会人の規定と変わらないものの、ひと月にして5キロ以上の減少はメディカルチェックに回される。これは国民の健康を考慮しての国の取り組みであって罰でもなんでもない。でも滅多にひっかかることがないため、何か悪いことをしたような気持ちになる空気がある。当の彼も信じられないといった表情でかなりうろたえている。彼はこのまま国の中枢にある施設に足を運び、より精密な検査を受けたりしなければならない。

 「初めて見たよ。見た目じゃなんの問題もなさそうなのに」

 アポロが心配そうに声を潜めて話しかけてくる。

 「僕も初めて見た。僕よりも大きい体してるのに。何があったのかな」

 体重が大事にされるけれども実際に体重が減ることはないのがこの国の常識だった。この国に暮らす人の体重は基本的に減ることはない。小学生くらいに教わることだ。だったらなんで毎日体重を計る必要があるのか。僕は高校生くらいから気になってはいたが、周りはやはりあまり気にならないらしい。

 この国の技術レベルで機械の誤作動なんてのは考えられなかった。本当に彼の体のどこかには問題があるのかもしれない。僕はただそう思うしかできなかった。

今までに例にない光景を目の当たりにして、僕もアポロも少し不安になっていた。特に僕は今朝の父さんのこともあったから余計だ。なかなかないこととはいえ、明日は我が身かもしれない。共に口数が少なくなりながら教室に向かうなか、カーラと合流した。アポロがそうであるように僕も青ざめた顔でもしているのだろう、カーラはすぐに僕たちの異変に気がついた。すぐに噂など広まるとも思うがネガティブ思考の彼女には言わないほうがいいと思い、ちょっとドジ踏んで先生に怒られてたんだとなんとかその場はごまかした。

 その日以来、測定に引っかかった彼の姿を見ることはなかった。


 それから一週間が過ぎた。

 不思議なことにあの事はあまり広まっていないのか、その後もみな変わらない様子で生活している。僕とアポロだけがまだ少し引きずっているくらいだ。

授業が終わり、ひと休みしているとアポロがやってきた。

 「なんか釈然としないんだよな。あの手のことを誰も気にしてないなんて」

 「アポロもそう思う?僕も少し引っかかってるんだよね。あの場には少ないながらも学生は何人かいたはずだし、もっと騒がれてもおかしくないと思う」

 「あの部屋にいたひとりを覚えてたから聞いてみたんだ。世間話程度に怖いよねってさ。そしたらなんのことか知らないって」

 「どうゆうこと?」

 僕は鳥肌が立っていた。僕とアポロはあの時もう部屋を出ていて、僕には中が見えなかった。でも数人いたことはわかっていたし、アポロには見えていたらしい。だから気になって話しかけたんだろうけど、アポロもそんな返事がくるなんて思ってなかっただろう。

 「あの部屋にいた全員が誰かわからないから確認のとりようがないんだけどさ、もしかしたら部屋の中にいた人間の記憶が消されてるんじゃないかと思って」

 アポロは周りに聞こえないように顔を近づけてかなり小さい声で話していた。突飛な考えではあるけれども確かにつじつまは合う気がする。幸いにして僕たちは部屋の外にいた。だからこそこの事件のことを覚えていると。

 「でもどうしてかな?記憶を消す必要なんてある?もしそうなら僕たちも危ないのかな?」

 自分で言っておいてすごく怖くなってきた。

そうだ。僕たち二人は真実を知っている。だとしたら何かしらのアプローチがあってもよさそうなのに。

 「わからない。二人くらいが言い回ったところで信じる人間がいないと思ってるのか。俺らが目撃してたことが知られていないのか。もしくは」

アポロから緊張している様子が伝わってくる。おそらくこの一週間ずっと考えていたのかもしれない。

 「もしくは?」

 聞きたくないような気もしたけど、逃げることもできない。

 「俺ら二人とも完璧に監視されている」

 授業のチャイムが鳴る。

 あまりのタイミングの良さに二人してビクっとなった。

 「また後で話そ。なるべく、いや絶対かな、誰にも言わないようにしておこう」

 アポロはそう言い残して自分の席に戻る。

 僕は授業どころではなくなっていた。いっそのこと記憶がなくなったほうが幸せに暮らせるんじゃないかとすら思った。まったく集中できないでいる。授業は各自の席に設けられたパソコンのモニターサイズの液晶端末で行われるため、寝ていようが弁当を食べていようが注意されることはない。各自が持つデバイスで録画もできるため、後でもう一度録画した授業を受けようと思った。それをいいことにただぼけっとまとまらない考えを頭の中に漂わせていた。カーラに言わなかったのは本当に良かったと思う。これからどうしたらいいのか。考えたところで何もできないだろう。おそらくは、何もしないが正解だと直感が働いていた。普通にしていよう。もう忘れて関わらないようにしよう。絶対にそのほうがいいはずだ。アポロにもそう伝えてみよう。


 考え事をしすぎたせいか大学が終わる頃には心身ともにぐったりだった。なんとか残りの授業をこなして帰る。アポロと二人で話がしたかったが、カーラがいたためにできなかった。だがカーラといることでいくらか気持ちも紛れていく自分がいた。

この国にはいわゆる都市伝説みたいなものが七不思議と称して存在する。アポロがいきなり七不思議の話をしだして冷や汗が出た。友達と話してて久々に思い出して興味が出てきちゃったんだとアポロは自然にカーラと話をしている。僕としても今回の件がそのいずれかにつながる類のものではないかと思ってはいた。でももう余計な詮索はしたくなかった。しかも今はカーラの手前もあって安易な発言はできない。アポロがなぜこのタイミングでそんな話をするのか理解できなかった。まさかカーラまで巻き込みたいとは思っていないはずだ。アポロも精神的にかなり追い詰められているのかもしれない。本当はもう終わりにしたかったが、気づけば、気になるなら明日図書館にでも行って調べてみようと僕はアポロを誘っていた。


 家に帰ると珍しく父さんがもう帰っていた。やはり体重の件でなにかあったのかと心配になる。表向きは体重が減ったことで国から多くの援助が出ることにはなっているものの、大学での出来事を考えると、父さんまでいなくなってしまうんじゃないかと気が気でない。

 「父さん、どうしたの?こんな早い時間にいるなんて」

 「ああ、セリム、おかえり。たまたま仕事に一区切りついたんだ。だからできるときに家族サービスでもと思ってね」

 「そっか。でも自分のために時間を使ったらいいと思うよ。自分のために使える時間なんてほとんどないでしょ」

 不自然だっただろうか。どこか父さんと話すのもぎこちなくなってしまう。それでも僕はそれとなく父さんに聞いてみることにする。

 「体重が減ったこと会社に言ったの?」

父さんは少し怪訝な顔になったように見えた。たぶん僕が普段自分から仕事のことについて話したりしないからだろう。

 「言うわけがない。幸いにして許容範囲に収まっているからね。自分の中だけに問題を留めてるよ。他の人にだらしない姿は見せたくないからさ」

 それを聞いてほっとした。父さんならそうするとも思っていたが、これならしばらくは何も起きないだろう。僕から会社には言わないほうがいいなんて言ったら変に怪しまれそうだしとりあえずはよかった。

 ちょうどそこに妹も帰ってきた。年頃とあって父親を毛嫌いする傾向にあるものの、まともに会うのは久しぶりとあってか嬉しそうだ。

 「パパ、なんだかずいぶん久しぶりに会う気がする。同じ家に住んでるのにね」

 「クレア、元気そうだ。起きてるクレアを見るのは本当に久しぶりだ」

 僕もクレアも顔を見合わせた。なんか今の言葉おかしくないか。だがクレアは確信していた。

 「どういう意味?まさか夜な夜な部屋に来て寝顔でも見てるとか言うんじゃないよね」

 父さんは嘘が苦手だ。表情に、はいそうですと思いっきり書いてある。

 和やかだった空気が一変してしまった。妹のクレアは父さんを本気のグーで腕を殴り、大嫌いと大声で言い放って上の部屋に行ってしまった。

 父さんはなんとも渋い顔で母さんに助けを求めている。

 母さんは仕方ないですよと言わんばかりの顔でにこにこ楽しそうにしている。僕もなんのフォローもできないでいる。無理もない。年頃の女の子だ。親心とはいっても今のは完全に父さんが悪い。

 上の階からドアが閉まる音が聞こえた。三階から下の階まで聞こえるなんて相当な勢いで閉めたに違いない。荒れに荒れているのか上の階からしばらくの間かなり騒がしい音が響いてきた。これはしばらく絶交だろうな。一家の大黒柱のなんとも情けない様子に僕は苦笑いをするしかなかった。

 ご機嫌斜めのクレアは部屋に引きこもりっぱなしだったため、晩ごはんは久々の家族全員とはいかなかった。

 父さんはすっかり意気消沈といった様子だ。僕もあまり元気というわけでもなかったが無理に明るく振る舞った。

 「最近読んだ小説が面白くてさ。外の世界を旅する話なんだけどすごいわくわくする内容でさ」

 「冒険小説か。若いうちは冒険しないとな。セリムも頑張れ」

 父さんが何に対して頑張れと言っているのかよくわからなかったが、素直に頑張るよと答えておいた。

 「この作者も外の世界に興味を持ったのかな?」

 僕はそれとなしに聞いてみる。

 「いいや、違うだろう。それは外の世界が危ないという警句を込めた作品なんじゃないか?」

 やはり外の世界には良い印象を抱かないみたいだ。

 「父さんや母さんは子どもの頃とかに外の世界に行きたいとか思わなかったの?」

 父さんと母さんが顔を見合わせた。

 「思わなかった。なぜと聞かれるとうまく説明はできないがそもそもあまり意識がむかないというか」

 父さんが困ったような表情でそう言った。

 「私もそうね。私たちの頃はあまり外の世界に関する文献もなかったし。それ以前に知りたいとも思わなかったかも。他にやりたいこととかたくさんあったからかな」

 母さんは昔を思い出しているのか少し楽しそうに頬を緩ませている。

 別に二人の答えに何かを期待していたわけではなかったが、やはりこの国の人たちは外の世界に興味関心が向かないらしい。僕はどうして興味関心を持ったのだろうか。考えようとして父さんに遮られた。

 「セリム、うまいことクレアの機嫌をとってくれ。あれじゃもう父さんが何を言っても逆効果しかない」

 「え?いや、無理だよ。時間が解決してくれるのを待つしかないよ。それか、なんかプレゼントだね」

 父さんの浮かない顔を見ていると助けてあげたい気持ちにもなったが、僕まで妹に嫌われてはと思い宿題をすると嘘を言ってリビングを後にした。


 翌日は約束通りにアポロと図書館に行った。図書館は大学にある。というよりもこの国に図書館はひとつしかなく、それが大学内にある。だから一般の人も利用し、いつもかなり混み合っている。だけど今日は特に込んでるような。普段頻繁に図書館を利用しているわけではなかったのではっきりとはわからないがなんとなくそんな感じがする。みな静かに読書、調べもの、勉強とそれぞれに精を出していて、ピンと張り詰めた空気が緊張感を増幅する。気のせいか空調が妙に効きすぎて寒い。そして誰も見てないのになぜか見られているような感覚になる。

 「やっぱりここはなんだか落ち着かないね」

 僕は正直な気持ちを言った。アポロも同じように感じているようだ。もともとじっとしていられない活発な性格のアポロにとっては図書館は気疲れするだろう。

 「うん。不慣れな場所はアウェー感がすごいな。これじゃ静かでもあまり集中できない。急ぐことでもないし日を改めようか」

 そうしてその日はすぐその場を後にした。

 「そういえばアポロ、なんで昨日カーラの前で急にあんな話をしたの?」

 カーラに感づかれることはないだろうが万が一ってこともある。アポロを責めるつもりなどはないので、それとなく聞いてみる。

 「ううん。ごめん。俺もよくわからない。なんでかあんなこと話しちゃってた」

 やっぱりアポロも少し気が病んでるのかもしれない。

 日を改めて何度か図書館には訪れたがいつも変わらぬ館内の状況に僕たちはうまく馴染めずにいた。気づけば二人とも当初の目的を忘れて平穏な暮らしに戻っていた。今思えばあの図書館の雰囲気もなにか策略というか僕たちに対する力が働いたのではないかと思わなくもないが。でも結果として今こうやって何事もないならもうそれで満足だった。危ない橋を無理に渡ることはない。


 いつもの日々が繰り返し続いていた。毎朝太陽を肌に感じるごく当たり前の生活。家族も友人もいたって普通にしている。でもこの当たり前の連続こそ奇跡の賜物であると大事にしなければならないと思う。

 いつもように大学の教室で席に着く。大学はこの国にひとつしかないこともあり、生徒の数はこの大教室にちょうど収まるくらいしかいない。ざっと300人くらいか。そのため毎朝ホームルームのような先生方からの連絡事項の伝達が行われる。担当する先生はその日よって異なり、今日は文学を教えている先生だ。

 僕は文学は履修していないためその先生とはまったく関わりがないが、なにかと有名だったから顔は知っていたし、これまでにも何回か朝教壇に立ったことはある。歳は50くらいだろうか、頭はすっかりツルツルで髪の毛がまったくなく、光沢のあるようにさえ見える立派なものだ。体格は僕の二倍くらいありそうだが、遠目からでも高級そうとわかるようなグレーのスーツを着こなしている。性格は軽い明るいと評判の良い先生だけあって生徒もすんなり静かに落ち着く。

 「みなさん、おはようございます。」

 見た目とは違うトーンが高めの通る声だ。不思議と聞いていて嫌な感じはしない。

 「さて、今日まずお伝えしようと思うのは、ひとり留学生が来ることになりました」

 教室がざわつく。この先生は毎回つかみに何かジョークを言うことでも有名だった。いままでも実はまだ僕たちとあまり年齢が変わらないとか、この見た目は仮の姿で実は背中にファスナーがあって中に入って動かしているとか、すぐに嘘とわかるものばかりだった。今回の留学生もまずありえない。

 この国は外から見えない。国の内側からは外の世界を、本当の空を見ることができるポイントは数カ所あるが、そこも外からはカモフラージュされていて見えないようになっているという。国の上空付近を飛行したところで下に広がるのは一面決して人が入り込む余地すらないほどの険しい山岳地帯になっているのを写真で見た。

 この国は他の国との外交を一切していない。完全に孤立した国であり、あらゆるすべてを国の中でまかなっている。というか、外の国々はこの国の存在を知らないという。同様にこの国に住む国民もまた外の世界をまったく知らない。知らないとはいっても見たことがないというだけで外の世界に関する文献は多くあるため、知識はある。ただ関心はない。

 国の構造上の理由もあるのだろうが、外に出ることは不可能だ。外に通じるポイントは断崖絶壁がほとんどで出たら生きて帰ることは難しい。それ以前に国外に出ることはこの国の数少ない法律で禁止されている。なので中の人々が外の世界を知っているかといって外の人間にこの場所を伝えるということは絶対にできない。

ただひとつ例外はあるらしい。これは七不思議にも関する噂に近いものだが、国による正式な書類と様々な審査のもとで認められた人間に限り外の世界に行くことはできるらしい。ただ一度国外に出たら二度と戻ってきてはいけないという。なぜかはわからないが、この国に不満を持つ人はいないし、外に行きたいという人もいない。なので噂の範疇を出ない。

 生徒のざわつきが収まると先生は話を続けた。

 「詳細はまた到着したときに詳しく紹介するとします。では、別途連絡事項を」

 生徒たちは誰もが留学生が来るのはありえないことを理解している。またいつものジョークだと小声で小馬鹿に話している。

 「たまには本当にかわいい女の子とか来たりしないのかなぁ」

 「すごいかっこいい人とか白馬に乗ってこないかなぁ」

 あちらこちらからそんなありえない希望の声が聞こえてくる。不満はなくとも未知なる体験に胸踊らせるくらいにはみんなまだ感受性は豊かで創造性もある生徒がほとんだだった。でもここでもやはりなぜその感受性、創造性を外の世界に対して誰も向けないのかと頭の片隅に疑問が湧いた。


 最近はかなりいろいろあってバタついていたと思う。ようやく落ち着いて平穏な生活に戻っていると思い、久しぶりに本当の空が見たくなった。

 僕は空を見るのが好きだ。この国の造られた空でも十分に好きにはなれる。でもやはり本当の空はなにか違う。晴天でただ青い空が広がっていたり、わずかに雲が漂っていたり、一面灰色の雲で覆われていたり、はたまた雨や雪が振っていたり、行くたびにその姿は異なる。外の国に行きたいとは強く思わないが、ただ本当の空を見たいとは思う。普段はけっこうな頻度で見に行っていた。週に一回は必ず行く。なんともいえない癒やしがそこにはあり、心が落ち着く。大学のこと家のことで頭がいっぱいで思考がそちらに向かなかった。冷静に考えればむしろそんな詰まった状況であるからこそ空を見に行くべきだったと思う。

 大学の授業を終え、家から一番近い外へのポイントに行く。近いとはいっても国境みたいなもので国の端だ。そして高台にあるため電車では行くことができず地道に歩いて行かなければならない。ただ僕はのんびりと歩くのも好きだったためなんの苦も感じない。友人を誘うこともあるが、多くは疲れるしめんどうだからと付き合ってくれない。そもそも外に興味がある人がいないのだ。そんなこんなで必ずひとりで見に行く。

 地下の国なのに自然も豊かなのはその優れたテクノロジーの所以だ。山や川、不思議なことに海までもある。僕が今歩いているのはそんな山のひとつ。緩やかな傾斜ではあるものの二時間ほど山道を登らねばならない。季節は春とあって木々や花は春を感じて咲き誇り気持ちが良さそうに思える。これらが人工的に育てられたとはいつ見ても信じられなかった。この美しい自然の光景が偽物であるならば外の世界にある自然とはどんなものなんだろう。知りたいとは思う。知識を増やすために見てみたいとは思う。なのにどうして外に出たいと積極的に思うことができなのだろう。何か引っかかる。何かきっかけがあれば飛び出したいと思える気がする。思わずまさかこの思考すら偽物だったりするのかなんて馬鹿な空想に浸る。

 物思い、空想、妄想、そういった行為が好きというかふと自然にしていることもあって、よく小説でも書いたらなんて言われる。頭にただ浮かぶのとそれを文字に起こして表現するのではわけが違うと思い、自分にはまずできないよといつも言っている。本を読むのは嫌いじゃない。特に外の世界について書かれた文献を読むのはむしろ好きといえる。それでも小説は人並みにしか読むことはなく、とてもあの手のものを自分が書くということは妄想はできても実現できるとは到底思わない。

 一時間ほど登っただろうか。木々のトンネルの中をようやく抜け、一気に視界が開けた。そこからはこの国が一望できた。この国は綺麗に真ん丸の形をしている。そしてその中心には何があるのか詳しく知られていない施設が高くそびえる。元老院などと大層な名前で呼ばれている、政治家みたいな人々が出入りしていること以外はほとんどわかっていないものだ。そこから真北に、国境と元老院のちょうど真ん中くらいの位置に大学を中心とする学校施設が固まっている。幼稚園、小学校、中学校、高校、すべてがそこにある。

 元老院から南は大きな商業施設がいくつもあって、国民が遊びに行くのはここに決まっている。ありとあらゆるレジャー施設が存在し、ここでできないことはないんじゃないかというほどだ。その商業施設らをさらに南に行くと海がある。一般人は沖まで出ることはできないが、立派なビーチとして夏は賑わいをみせる。沖合では漁船が群がって漁業に勤しんでいる様子が見える。

 元老院から東側は主に住宅街となっている。基本的に国の東西南北のどの位置にも住居を構えることは可能であったが、一番安価な地域が東側で多くの人々が住んでいて、商業施設に足を運ぶまでもなく商店街などが充実している。僕やアポロ、そしてカーラの家もここにある。

 僕が今いるのが元老院から西に位置する山々だ。山はどの方角にもあるが、西側地域が一番豊かな自然が広がっている。住んでいる人はごく少数で、いつでも静かな雰囲気が魅力的な場所だ。

 南東と北西の一部分に広がるのは工業地帯だ。この国のありとあらゆるものがそこで生み出される。研究を中心に行ったり、ビジネスの取引などで賑わうのが南東で、ひたすら製造、生産にフル稼働するのが北西だ。

 国を眺めながら休憩するのはいつものことだ。そのたびにどこか国に変化が生じてないか探すのが癖になってしまった。今日もまた国を丁寧に観察していると小鳥がたくさん寄ってきた。どうやら僕が食べているクッキーに釣られているようだ。僕はクッキーを砕いて地面に投げた。するとどこからか小鳥たちがどんどんと群がってくる。その様子は微笑ましく平和を象徴しているようでとても心が落ち着いた。

 小鳥たちに別れを告げて僕はさらに上を目指す。ここから先はさらに勾配が上がる。道も少し険しくなり、再び生い茂る木々のトンネルの中を行く。太陽の光は薄く体感温度もひんやりとする。汗ばんでいる僕にはちょうどよく気持ちがいい。あまり目にしない様々な植物などが僕を迎えてくれる。何度も通った道なのに歩いていていつも新しい発見があるから疲れよりも好奇心が勝ってしまう。

 山の頂上に行くにはさらに上に登ることが必要で、頂上には天体観測をする施設がある。でもそれは一般人に対するものではないので頂上に行く人はあまりいない。その施設で働いている人たちはそこに住み込んでいるらしいが、自然に囲まれたこの空間で働けるのは羨ましく思う。僕は頂上に行く道とは反対の脇道に進む。ほどなくして見えてくるのは人工的に設えられた洞窟だ。ここには誰でも訪れることができるのにいつも誰もいない。ここで人を見かけたことはまだ一度もない。僕にはなぜみなが外の世界にまったく興味を持たないのか理解できないでいる。それはここに来る度に頭をよぎることだ。でもそのおかげでここは僕だけの場所だ。秘密でもなんでもないがいつだってひとりになることができるこの場所は僕だけの避難場所としても機能していた。

 洞窟の中は等間隔に電球がポツポツと灯っていて、暗くはない。ほんの50メートルほど直進するともう行き止まり。僕の身長より少し上の辺りから穴が大きく開いていて、そこから本物の外が見える。空いている穴にはガラスがはめ込まれているはずだが、限りなく透明に近いのか何もないように見える。

 今日は晴天だ。雲ひとつない綺麗な青い空がどこまでも広がっている。このまま見ていればきっと段々と色を変えて青色から茜色に至るまでのグラデーションを拝むことができる。

 この空は無限を思わせる。毎朝家の窓から見る空は本物そっくりではあってもそれは有限の空だ。今見ている空にも果てはあるのかもしれないが、どこまでも澄み渡るその光景はとても果てがあるようには思えなかった。

 黒い鳥が遠い空を舞い踊るのが見えた。ぐるぐるとかなりの高度を飛んでいる。陳腐だが鳥が空を自由に飛び回る姿はその自由を可能な限りに体現しているように思える。

 ゆっくりとその黒い鳥は降下してくる。何か下に獲物でもいるのだろうか。同じ場所をずっと回りながら降りてくる。そして何か違和感を覚えた。その違和感とほぼ同時にスピードを上げて降りてくるものが鳥ではないことに気がついた。

 近づくにつれてその轟音も近づいてくる。これほどの音量になぜ気付かなかったのか。小型だがそれは紛れもなく飛行機だ。どんどん降下してくる。まるでこちらの姿が見えているかのように僕の方へ真っ直ぐ向かってきているようだ。目視では正確な距離はわからないが、飛行機が自分の指先と同じくらいの大きさになったところで外に人影らしきものが飛び出した。飛行機はそのまま降下したあと急速に上昇、そしてそのまま遠くに飛んでいってしまった。自動運転の機能でもあるのだろうか、おそらくあれは一人乗りだ。その間も飛び降りた人影は空を舞っている。間違いなく人間だと認識したとき、向こうからは見えてないはずにもかかわらず、そして変わったヘルメットを被っているにもかかわらず目が合った気がした。パラシュートを開き勢いを殺す。でも慣れていないのかキョロキョロと慌てている様子だ。いや、それ以前に着地できる場所なんてあるのか。気づけばもう目と鼻の先。危ない、ぶつかる、と思ったのと僕の体に衝撃が走ったのはほぼ同時だった。

 僕の意識は朦朧としていた。何が起きたのかわからなかった。

空を見上げていたポイントから数メートル離れたところに倒れている。僕の上には誰かが乗っかている。

 数秒前に意識を向ける。僕は近づく人間がガラスにぶつかると思ったんだった。なのにまさかの素通り。そのためにその人間は僕にダイレクトにぶつかってきたんだ。そこにガラスなんてものはなかったのか。空洞だったというのか。じゃあどういう仕組みで外からの景色を誤魔化しているんだと疑問に思うも、今は考えるべきことはそこじゃない。

 「大丈夫です?」

 どうしていいのかわからないもののまずはその安否は確かめるべきだろうと声をかける。

 「うう、痛たたた」

 外から来た人間が話す言葉が理解できた。痛いと言っている。それならこちらの言葉も理解してくれるだろう。

 「大丈夫ですか?怪我してませんか?」

 「生きてる。よかった、私まだ生きてるのね?着地できるところなんてなくて断崖絶壁に衝突すると思ったのに。どうして?」

 「空からはここが崖に見えてたんです?」

 「そうよ。かなり尖った岩肌むき出しの崖。絶対死んだと思った」

 話し方、声からして女の人のようだ。よくもこんな無茶をするもんだと驚き、僕はその後が続かなかった。

 「どこなのここ?こんな穴なんて絶対になかったのに」

 入ってきた穴から空を見上げて僕に疑問を投げてきた。

 「ここはチッチョです」

 「は?チッチョ?何それ、聞いたこともない」

 「この国の名前です」

 彼女はようやく立ち上がって、首をかしげている。

 「そんな国の名前は聞いたことない。私これでも賢いほうなんだから」

 立ち上がった彼女を見て初めて気づいた。彼女は痩せている。この国の基準でとかでなく、めちゃくちゃ細身の体だ。外の世界には痩せている人種がいることは知っていたが初めて生で見た。信じられないくらい細い。僕のズボンの片足におそらく彼女二人は入れる。

 そんな驚きの眼差しで見つめる僕に気がついた彼女はそこでヘルメットを外した。

 「そっか。こんなのいつまでも被ってたら変な目で見たくもなるよね」

 どうやら僕が彼女の体のスタイルに釘付けになっていることには気づいてないみたいだ。

 ヘルメットを外したその素顔はとても幼い少女のようだった。妹よりも顔立ちだけで判断すれば幼く見える。でも僕に対する口ぶりからしてもそこまで幼いのではないのかもしれない。もしかしたら同年代くらいかも。さらさらな黒い髪は肩の上くらいに切りそろえられ、瞳の色も黒だ。肌の色はとても白い。黒い髪がとてもよく映える感じだ。見惚れるほどの美しさというものはないかもしれないが、外の世界の人間とあってどこか未知なる感じの印象を僕に抱かせた。肌の色、瞳の色、髪の色にいたるまでこの国は様々な組み合わせを持つ人がいることもあって彼女の容姿は特別珍しいものではない。ただひとつ、どうしても珍しいと思うのはやはり痩せていることだ。

 「何?私なにか変?」

 ジロジロと見すぎたようだ。ごめんなさいと謝りつつなぜこんなことになったのか聞いてみる。

 「どうして飛行機から飛び降りたのです?崖だったんですよね?」

 「うん。でもなんか気になっちゃって。小さな頃からこの辺りの上空を飛んでたんだけど、なんでかいつも気になるの。地図で見たり、実際に目にすれば絶対に人が入り込める場所ではないってわかるんだけど。それでも何かあるんじゃないかって気がして」

 ただの好奇心ひとつで飛んだのか。危険すぎる。とても女の子のやることじゃないだろ。口には出さないまでも顔にそう出てしまってしたらしい。

 「昔から好奇心だけはすごくて。どんな男の子なんかよりも気になったものに関しては徹底して調べてたの」

 「でも間違ってなかった。こうしてあなたと出会ったってことはこの辺りには人が住んでいるってことでしょ?飛び降りて正解だった」

 言葉が出ない僕を置いてきぼりにして彼女は一人で話し続ける。

 「いや。でもそれは偶然じゃ。死ぬ確率のが圧倒的に高いようにみえたはず。自分でも言ってましたよね、死ぬかと思ったって」

 彼女は僕の顔を何を馬鹿なこと言ってんだ的な顔して眺めている。

 「好きなことして死ぬなら別にいいじゃん。後悔だけはしたくないんだ」

 その笑った顔が鮮明に脳裏に焼き付くようだった。彼女は僕とは文字通り違う世界の人間だと感じた。だからこそなのかもしれない、彼女ともっと話がしてみたい。僕の中の好奇心もかなり高まってきていた。

 「そこで何をしている?」

 後ろから急に大きな声が聞こえた。振り返ると銃を構えた大男が二人こちらに向かって来ている。おそらく警察官だ。

 二人ともかなり大きい。警察官になるには身長と体重が決まっていたと思う。その基準を満たして選ばれたとあってすごい体格をしている。見た目の雰囲気も相まって僕よりもひと回りもふた回りも大きく映る。

 「少し話を聞きたい。一緒に来てもらおうか」

 二人の警察官は僕たちの答えなど待たずに銃を向け先を歩くよう促す。抵抗するつもりなど毛頭ないが彼女が心配で彼女の様子を気にしてしまう。

 「抵抗するな。話の内容次第ではすぐに帰らせる」

 ほんの少し彼女を見ようとしただけなのに不審な行動ととられたようだ。彼女の方も今はおとなしく従っている。警察官たちは洞窟の前にスクーターのような特殊な移送車を止めていた。それぞれの車の後ろには一人乗るくらいのスペースの席が取り付けてある。僕たちはそこに乗せられ、山を下る。僕はどうして警察官がこんなところまで来ていたのか不思議に思っていた。いや、巡回ならばありえないわけでもないが、タイミングが良すぎる。まるで僕と彼女がいることがわかっていたのかのような手際の良さだ。二人分の席が用意されているのもそのことを裏付けているように思えた。まだ彼女の名前も聞いていない。彼女はどうなってしまうのだろうか。僕は自分のことよりも彼女の心配をしていた。自分も何かしらの罪を疑われているかもしれないが、彼女の立場のほうが深刻だろう。空はゆっくりと茜色に移ろいゆく時間で、普段美しいとさえ思えるその色が今はなぜか不気味で不穏なイメージを突き付けてきていた。

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