六回裏
優はマスクの下で舌打ちした。
――そろそろやばい。
二番の三輪はショートゴロに打ち取った。しかしその打球は充分に鋭く、雪絵の反応が少しでも遅かったらレフト前に抜けているところだった。
啓子とともにマウンドに駆け寄り、梓と相談する。
「限界だと思うよ」
梓のスタミナに問題はない。球はキレがある。それでもなお、清水共栄男子野球部は食らいついてくるようになった。
「……もうちょっとだけ。このイニングだけは、今のバリエーションで行かない?」
梓はバッターボックスの横で素振りを繰り返す白石を時折横目で見ながら、優に言う。
「次のバッター抑えたら……ってことで、駄目かな?」
優はしばし思案した。
梓の気持ちはわかる。
今は六回。ここからパーフェクトでアウトの山を重ねたとしても最終回には再び白石に打順が回る。これまで二打席抑えてはいる。しかしさっきのライトフライは、正直かなり危なかった。さらに、こちらが逆転してからこの方、梓のピッチングをベンチから食い入るように観察している。
この試合に負ければ、夏の甲子園を目指す権利を失う。それは両チームの誰もが認識しているが、白石の執着は群を抜いていた。
仮にここで梓がピッチングを切り替えるとして、その実物を間近で見せた後三イニングの猶予を与えた場合。今の白石にかかったら九回裏には梓のこの切り札さえも攻略可能としてしまうかもしれない。
もし今ホームランを打たれても、まだ一点残っている。
ここをしのげば最大の山場は越えられる。
理屈はわかる。
「全部ナックルで行けば、フォアボールやヒットはあっても、ホームランはないでしょ」
だが……微妙に、不安もあった。
つい、啓子に窺うような視線を向けてしまう。優にしてみれば一歳下の――けれど、はるかに深い野球に関する知恵を持つ――三年生は、一瞬咎めるような顔をした後、静かに首を振ると言った。
「どっちにも理はあるね。小笠原さんの判断で」
今のは失敗だったと自分でもすぐに思った。これは戦術レベルの話。現場にいる自分が決めるべきこと。それを啓子に委ねてしまうのは筋が違う。
こんな風にふらついてしまう自分の感覚よりは、梓を信じるべきかと思った。
「……わかった。けど四番からは出し惜しみなしで行こうね」
「うんっ!」
明るく肯く梓の笑顔にかすかな不安を慰められながら、優は本塁に戻って行った。
優は外角低めへとナックルを要求した。梓が肯く。
サイドスローから放たれる揺らめく球が、優の要求したコースへと投げ込まれる。
しかしそれを、白石は捉えた。金属音が鼓膜を叩き、ミットに収まるべき球はバットにさらわれていた。
弾丸のように飛ぶ打球の先には――梓。
ライナーを捕ってくれればツーアウト、などと思ったのは一瞬。梓の身体に打球が食い込み、その身をくの字に折ってマウンド上に倒れ込むまでのことだった。
「梓!」
顧問の保険医である矢野先生がベンチから駆けて来て、マウンド上で軽い触診をした。
「骨は折れてないわ。でも、お腹を打っているひどい打撲よ」
「……だいじょぶですよ、だいじょぶ」
立ち上がる梓だが、その顔には脂汗が浮いている。
「試合なんてできる状態じゃ――」
「自分の身体は、自分が一番わかってます」
強く言い切ると、梓は汗を拭って集まって来たナインに笑ってみせた。
「ワンナウト一塁。ゲッツー狙っていこ」
無理をしているのは明らかだが、優は梓を止められなかった。梓に代わって男子野球部を抑えられるほどのピッチングができる人間は、このチームにいないのだ。
「優ちゃん。あれは少し延期ね。ちょっと体力使うし、今やっても効果ないから」
梓のまだ少し焦点の定まらない眼差しに、優は肯くことしかできなかった。
自分たちが必死でフォローすればどうにかできる。そう思い込もうとした。
腹部打撲は、深刻な故障につながる負傷ではない。しかし試合の流れをひっくり返すには充分すぎるダメージだった。
痛みが集中力を削ぎ、コントロールが定まらない。変化球のキレさえ悪くなった。そのどちらも、梓にとっては致命的な問題だ。
四番渡辺が右中間を真っ二つに破る二塁打を打って、まず一点。三対二。
五番の長谷川に対しては、コースを突いたボールがことごとく外れてフォアボール。
六番堀内がライト線を破る、再逆転の二点タイムリーツーベース。三対四。
七番工藤の時に、初の暴投。三塁に進塁したランナーはレフト前のヒットで悠々生還。これでこの回四失点で、三対五。
八番の高橋も四球で出してしまい、一死一二塁。
九番のピッチャー阿部は気のない三振に倒れたものの、まだツーアウト。
そして打者一巡。一番に返って橋本。
「試合放棄した方がいいんでない? ピッチャーちゃんボロボロだよ」
妙に気遣う口調が混じり始めた橋本の言葉に歯噛みしたくなる。けれど相手チームからもそう見える梓の現状は事実。
観客の空気も再び変わり出している。痛々しい見世物を見ている時のような、哀れみや同情を含んだ好奇の視線。
ミットを構える優自身、心のどこかで勝負をあきらめそうになる。
けれど。たまに痛む腹を押さえながら、それでも瞳から強い光を失わずに一球一球投げ続ける梓を見ていると、自分が先に音を上げるわけにはいかないと思えた。
落ち損ねたフォークを橋本が引っかける。ボールは小フライとなって優の真後ろへ。
普段ならファウルになるのを見過ごしそうな遠いフライ。それでも今は、アウトをもぎ取れる数少ないチャンス。
優は必死に飛びつき、ミットの先端でボールを拾い上げた。
長かった六回裏の終了。
優はマウンドに駆け寄り、へばりそうになっている梓に肩を貸した。
まだ二点差だ。
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