藤田真理乃:色々恵まれて充実していた少年は、変態魔神の魔法によって、自分好みの気弱で従順な美少女に

 暮れ始めた空をよぎるその飛行物体を見出した時、清水誠三郎は高校生活初日を終えて帰宅の途につくところであった。

 中学時代にサッカーで鳴らした誠三郎は、上級生たちに三顧の礼で迎えられ、清水共栄でもやはりサッカー部に入部した。初日ではあったが上級生に混じって練習を行ない、周囲の賞賛を得るとともに自分自身も手応えを掴むことができた。

 帰ろうとした時にはマネージャーとして入部した同級生から次の日曜日のデートの誘いも受けた。なかなか可愛い子だったので、もちろん断るような真似はしない。

「清水君ってさ、ひょっとしてこの学校と関係あったりする? 名字が清水だし、入学式の始まる前にも先生に呼ばれてたでしょ」

「それは総代挨拶の件だったんだけど、ま、関係はあるよ。俺のお袋がここの理事長してるんだ」

 てらいなく誠三郎は口にした。

「じゃあ、あの挨拶も理事長さんの子供だから?」

「いや。普通に、入試の点数が一番だったからだってさ」

「ほんと? へえーっ、清水君ってすごいのね! サッカーがうまくてかっこよくて、頭もいいなんて!」

「大したことないよ」

 謙虚なことを言いながら照れ臭そうに頭をかく。

 すると目の前の女の子はさらに感心したように言ってくれた。

「それに全然いばんないんだね。清水君って素敵!」

 ――女って本当にバカで無邪気だな。ま、それくらいが扱いやすくて好きだけど。

 そんなことを考えながら、誠三郎は少女をあしらう。

 と、まあ、彼の高校生活はバラ色の享楽的なものになるはずだったのである。

 マネージャーと別れた後、ふと空を見上げたその瞬間までは。


 むやみにジグザグな飛行をしている様子から、初めは高高度から飛行機かヘリコプターが墜落しそうになっているのかと思った。しかし爆音やプロペラ音は一向に聞こえない。

 そのうちに物体の高度が下がり、誠三郎はその輪郭に唖然とした。

「か……怪物?」

 蝙蝠のような羽を広げ、頭に角を生やし、長い尾が蠢いている。口は爬虫類のように突き出てその中から牙を剥いており、手足には巨大な爪も備わっていた。しかも全身は黒光りする金属的な鎧に覆われ、手には身の丈ほどもある矛を携えている。

 その怪物を、後方から光弾が襲った。

「!」

 天を振り仰いだ誠三郎は、その光を放った者を見た。

 少女が空を翔けていた。

 亜麻色の長い髪を風にたなびかせ、軽装ではあるが金色の鎧に身を包み、その背からは光が翼のように迸っている。凛々しい瞳がひたと怪物を見据えていた。

 少女は空中に浮いたまま手にしていた杖を構え、その美しい唇を動かす。と、杖の先端から光弾が生じ、再び怪物を包んだ。

「シギャアアアア!!」

 黒い鎧が砕け散り、怪物は喚きたてながら落ちていく。その先は、彼が出てきたばかりの清水共栄に面している裏山。

 誠三郎が今歩いているのは、学院から歩いて二分の我が家へ通じる裏道だ。人っ子一人歩いていない。

 今見たものが夢かどうかを確かめるべく、誠三郎は裏山へ向かうことにした。


「誠三郎君じゃない?! 何してるのよ、こんなところで!!」

 舗装路から山道へ入ろうとした時、鋭い言葉に呼び止められた。

「げっ、冴子さん!」

 振り返れば、小池冴子が立っていた。

 冴子は誠三郎の三つ上の兄・孝二郎の中学時代からの恋人で、誠三郎にとってはもはや姉のような存在だ。孝二郎が中学卒業と同時にいきなりアメリカへ留学してしまったにも関わらず清水家へは頻繁に出入りしていて、母や姉と仲がいい。

 しかし誠三郎は冴子が苦手だった。頭が切れ、押しが強く、男勝りという言葉がよく似合うこの女性は、呑気で心優しく優柔不断気味な孝二郎とはベストカップルかもしれないが、誠三郎の好みとはかけ離れているのだ。

 だが今は、そんなことさえ気にならない。

「冴子さんも見たんですか? あの怪物と女の子?」

「……何のこと? 子供はさっさと帰りなさい」

 三歳の年齢差に過ぎないが、確かに冴子には誠三郎を子供呼ばわりできるだけの風格がある。しかしその言葉には、いつにない動揺も窺えた。

「そんなつれないこと言わないで下さいよ。冴子さんだって物々しい装備しちゃって、スクープ写真を撮ろうとか思って来たんでしょ?」

 清水共栄では新聞部に君臨していた冴子だが、今日も取材道具一式の詰まっていそうな大きなバッグを肩に負っている。確か、大学でもそういう関係のサークルに入ったと母か姉から伝え聞いていた。

 あれだけ異様な光景なのに他に野次馬が押し寄せないのが不思議と言えば不思議だが、この辺りは清水家の敷地が大きく広がっている。たまたま人目につかなかったのだろう。

「これは、キヨミズの部室に置きっぱなしにしてたのを引き取ってきただけよ。私があいつを追っているのには別の理由があるの」

「別の理由って? 俺もつきあいますよ。ボディガードくらいはできると思いますし」

 夕焼け空に浮かび上がっていた映画のような光景に、誠三郎の心は浮き立っていた。好奇心に駆られ、本気で迷惑そうな冴子の視線もはねのけて自分を売り込む。

「あなたに関係は――」

 断ち切るような迫力ある言葉に、途中でブレーキがかかった。

「ないことも、ないわね。……わかったわ。ついて来なさい」

 ため息をつくように言うと、さっそく歩き出す。誠三郎も慌てて後を追った。


「あなた、キヨミズの成り立ちはどんな風に聞いているの?」

 若草の萌え始めた林の中に分け入りつつ、冴子はいきなり誠三郎に訊いた。

 怪物と少女の話をしようと思っていたのに出鼻をくじかれた誠三郎は、やむなく答えることにした。

「どんな風にって……俺の曾祖母さんの清水万里って人が、親から受け継いだ遺産で大正時代に創立したって聞いてますけど……ほんとは違うんですか?」

「いいえ、大体合っているわ」

 冴子は薄く笑うと続けた。

「違うのは、創立者は藤田千造って人だったことと、そのための資金は親からの遺産ではなかったこと」

「……え? じゃ、その藤田って人が金を出して、曾祖母さんはお飾りだったとか?」

 婿を尻に敷き、百歳を超えるまで矍鑠と生き、多くの教え子に慕われ、没後数年が経つ今でも教育界で尊敬の念とともにその名が語られるという清水万里である。そんな曾祖母が誰かの操り人形に甘んじていたとはとても思えない。

 だが冴子は大きくかぶりを振った。

「千造さんはとても頭がよくて優しい人で、生まれついての教育者とでも言う人だったようだわ。ただ当時の学校教育の方針とはどうにも考え方が合わなくて、あちこちを首になった挙げ句、自分で学校を作るしかないと決意した」

「…………」

「けれど学校を作るのなんて簡単にできることじゃないわよね。金策に苦労して……その時、関東大震災が起こった」

「……それで? もしかして、火事場泥棒でもしたんですか?」

「いいえ。ただ、壺をもらっただけ」

「壺?」

「華族様のお屋敷の後片づけに駆り出された時に、手間賃代わりにばかでかくて汚い壺を渡されたという話。向こうにしてみれば場塞ぎなガラクタを厄介払いしたつもりだったのかもしれないけどね」

「で、それが何なんです?」

 さっきから冴子の話は一向に行方が見えない。苛立ちつつ、誠三郎は問う。

「その壺を磨いていたら、魔神が出たのよ」

「マジン?」

「ええ。魔神」

 真面目な表情を崩さずに、冴子は言ってのけた。

「アラビアンナイトのランプの精とか、そんな感じの奴?」

「ええ。かつてソロモン王に封印された、アラビア世界最強の魔神・マリードの一人。ゲームや漫画によく出てくるイフリートやジンよりも位は上ね」

 笑おうとした誠三郎だが、冴子がこんなつまらない冗談を真顔で言うわけがないことも知っている。

「……なんでそんなものが日本にあったんですか?」

「エルサレムにあったものが、やがて王朝の盛衰に伴ってバグダッドに流れ、バグダッドからイギリス人がロンドンに持ち帰り、明治時代にロンドン留学していた華族のボンボンが買い取って故郷へ持って来た……という話だわ」

「それで……その魔神様が、壺から出してもらったお礼に学校を建ててくれた?」

「話が早くて助かるわね」

「……そのおとぎ話が事実としても、うちの曾祖母さんはどこで絡んでくるんです? て言うか、あの女の子や怪物とその話がどう関係してくるんです? だいたい、どうしてそんなことを冴子さんが知ってるんですか?」

 冴子は直接問いに答えず、代わりに一層変なことを言い出した。

「そのマリード、女好きなのよ。しかもサディスティックで倒錯気味」

「……はあ?」

「学校を開きたいという千造さんの願いは叶えた。けれど代わりに言ったのよ。『魔法によって創り出したものを維持するには、魔力を持つ守護者が必要だ』って」

「…………」

「もちろんそんな人、簡単に見つかるわけがない。そこでマリードは、困っちゃった千造さんに持ちかけたの。『お前が受け入れるなら、お前に私の魔力を貸し出しても良い』。そして千造さんは、一種の罠とも知らずに受け入れてしまった」

「…………」

「アニメで魔法少女ってあるでしょ? あんな感じで、千造さんは魔力を得た代わりに女の子にされちゃったのよ」


「…………」

「で、しかたないから名前も変えた。清水万里って名前にね。魔法の力で戸籍も周囲の記憶も改竄できたみたい」

 立て続けに妄想めいた素っ頓狂な話を聞かされてきた誠三郎は、いきなり身内の名前が出てきたことに驚いた。

「あの……冴子さん。どこからそんな作り話考えついたんですか? いくら何でも怒りますよ、俺」

 少し語気を荒げ、誠三郎は訊ねる。自分の曾祖母が元は男だったと聞かされて愉快な気分になれるわけもない。

 しかし冴子はきっぱりと言ってのけた。

「あいにくだけど、これは事実よ。私だってこんな出来損ないのゲームみたいな話、裏づけもなしに信じるわけないじゃない」

 そうまで言われると誠三郎の心にも揺らぐものはある。辛辣だが根は生真面目で、嘘の苦手な冴子のその言には重みがある。

 あるいは冴子は、突拍子もない妄想の虜になっているのかもしれない。だがそれなら、今はそれにつきあう以外なさそうである。

「……裏づけって?」

「当のマリードと魔法少女からじかに話を聞いたのよ。その魔法少女が、さっきあなたも見たあの子。一年の時から同じクラスだったんだけどどうも挙動不審なところがあって、一年ほど前にようやく正体突き止めたの」

 冴子に一度マークされたらたいていの情報は調べ上げられ、プライバシーも何も隠せるものではないと聞いたことがある。この話が事実としたら、むしろその魔法少女の方が気の毒だと誠三郎は内心思った。

「……じゃあ、さっきの女の子は俺の曾祖母ちゃんだってんですか? けど俺が小学生の時に葬式――」

「魔法少女だって不老不死じゃないわ。生娘でなくなった時点でマリードに引退させられるしね」

 生娘、という死語に相槌が遅れた。

「万里さんが結婚した後は頻繁に代替わりをして、あの子は当代の魔法少女。名前は藤田真理奈」

 その名字を聞き、誠三郎は最前の話を思い出す。

「藤田ってことは……その、千造さんの子孫か親戚ってことですか?」

 その質問に冴子は力ない笑みを浮かべた。

「ええ。真理奈は千造改め万里さんの直系の子孫。本名使うわけにもいかないから、先祖の昔の名字を借りてるのよ」

「直系って、ええと……」

 万里がまだ千造だった時に作った子の子孫ということか? しかし、生娘でなければ魔法少女にはなれないという設定だ。それとも男時代の行為はリセット扱いされるとか? いや待て、『昔の名字を借りている』ということは、本当は藤田姓の人間ではない。やはり清水の家の人間なのか?

 曾祖母の長男は? 誠三郎の祖父である。祖父の子供は娘ばかりだがその長女は? 誠三郎の母である。

 だが誠三郎には女のきょうだいは姉一人しかいない。その姉は大学を卒業してすぐの三年前に早々と結婚している。

 何かはまだ判然としないがものすごく嫌な予感に囚われ出した誠三郎に向かい、冴子は立て板に水としゃべりまくる。

「万里さんは理事長と教師を兼任しながら十年。それ以後は、在校生がスカウトされては卒業するまでの数年間ずつ担当してきたそうよ。で、元の男に戻る人が七割。男に戻るよりは女のままでいたいと決めた人が二割。在学中に男に戻らない決断して処女を捨てた人が一割。……っていう数字はマリードからの受け売りだから、どこまでほんとかはわからないけど」

「……あの……男に戻る戻らないって……」

「だからさっきも言ったでしょ。あのマリードの奴は倒錯趣味の女好きだって!」

 そこまで冷静に語っていた冴子は、ここへ来ていきなり吐き捨てるように言った。

「男の子が女の子になって、戸惑ったり悩んだり泣きべそかいたり強がったり開き直ったりする姿を見物するのが大好きだって、それはもううれしそうに語るのよ、あの性根の爛れたサディスト変態魔神は!」

「じゃあ、歴代の魔法少女はみんな……」

「そういうこと。さっきあなたが見た女の子は、あなたのお兄さんの孝二郎。ついでに言えば、あなたのお姉さんも、あなたのお母さんも、魔法少女にされるまではれっきとした男子だったという話よ」

「…………」

 その言葉は、薄々話の行方に感づき始めていた誠三郎をもしたたかに打ちのめした。

「……嘘だろ」

 敬語も忘れ、呟いてしまう。

「こんなとこだけ嘘ついてもしかたないでしょ! あなただって思わなかった? 孝二郎が長男なのに『二郎』なのは変だって?」

「まあ、時々……でも、姉さんは昔から姉さん――」

「だからそれは、マリードの魔力による記憶の改変。だいたい、あのお姉さんの思い出にしては妙に男っぽくない? その記憶」

「……う、うん」

 絵に描いたような大和撫子の姉・真理恵だが、小さい頃はやけにお転婆だったように覚えていた。その話をするたびに、当人は顔を赤らめて黙ってしまうのだったが……。

「さすがにすべてのエピソードを丸々作り直すのは難しいみたいね。あの人の昔の名前は信一郎って言ったらしいわ」

 そう教えられても、誠三郎の記憶の中の姉は姉だった。

 途方に暮れながら足を運び続け、そしてそもそもここに来るきっかけとなったもののことを思い出す。

「冴子さん、そっちの話はひとまず置いといて、さっきの怪物は一体――」

「終点よ」

 誠三郎のその問いに答える代わりに、冴子は言って指を差す。

 その先で魔法少女と怪物が対峙していた。


 両者の周囲は、ドーム状の薄いガラスめいたもので覆われている。

 二人の接近に気づいた怪物が口から黒い炎のようなものを吐いたが、誠三郎が驚くよりも回避するよりも早く、炎はドームに弾かれて霧散する。まるで漫画やアニメに出てくるバリアのようであった。

「真理奈が魔法結界で周囲を包んでいるようね。あいつの攻撃がこちらにまで届く恐れはないわ。もうだいぶ弱っているようだし、いよいよ年貢の納め時かしらね」

「……あれは何なんですか?」

「私も直接見るのは初めてだけど、悪の組織の親玉よ。もう少し正確に言うと、人の悪意を養分に成長する魔法生物。変な知恵がついたせいで、自分で人の悪意を養殖すれば餌がたくさん手に入ると知ったのね。で、仲間をこしらえたり、人間をスカウトしたりして、その活動を組織化してたわけ」

「的確な説明ありがとう、冴子」

 バリアの中から少女が冴子に声をかけてきた。その目は隙なく怪物を見据えているが、口元は形良く笑みを浮かべている。

「許さんぞっ、許さんぞおっ、チャーミーマリナ! 貴様がおとなしく先月卒業しておれば、わしはいつものように力を回復し、組織を再建できたものを……!! たとえ地獄に堕ちようと、わしは貴様を呪い続けて……」

 怪物は、その姿にふさわしい地の底から響くようなドスの利いた声で、呪詛を並べ立てている。

「冴子さん、あの、『チャーミーマリナ』って……」

「今時の魔法少女には二つ名が付き物だってマリードが主張するのよ。最近じゃネタ切れで安直な名前しか思いつかないようだけど」

 冴子が忌々しいと言わんばかりの表情で答えた。

「それに卒業って……」

「卒業時にマリードがその人から魔力を取り除く契約が、二代目以降の魔法少女には結ばれているの。三月から四月にかけて勢力を立て直したこいつと新しい子が改めて戦い始める、そんないたちごっこがここしばらくは続いていたみたい」

 そんな外野の会話を受け、真理奈は微笑みながら、怨嗟の声を漏らし続ける怪物に話しかける。

「そう、わたしたちが三年生の三学期になると姿をくらますのがあなたの昔からの手。おかげで母さんも姉さんも他の方たちも、あなたを仕留めきれずに次の世代へバトンタッチするしかなかった……」

 少女はしばし感極まったように目を伏せ、そして毅然とした視線を怪物に向けた。

「でもそんなループも今日で終わり! あなたの野望はここで完全に潰えるんだから!」

 凛とした声で宣言するように言うと、杖を構え直して怪物に向けた。

「邪まな法理によって産み出された哀れなる魂よ! 聖なる光に浄化され、願わくは次なる生を幸福のうちに全うせよ!!」

 少女が言い終えると同時に、杖の先端から溢れんばかりの光が生まれ、怪物の全身を包み込む。

「ギャアアアアアアアアア!!」

 断末魔の悲鳴が止む。光も途絶える。

 と、そこには黒い怪物の代わりに、小さな白い子猫が一匹いるばかりだった。

「真理奈ったら最後の最後まで優しいわね」

「……優しくなんかないわ。下手に殺したら悪霊化するかもしれないって考えただけよ」

 真理奈が冴子にそっけない返事を返しているうちにバリアは消え去った。真理奈の鎧もたちまち形を失い、その服装は清水共栄の制服に変わる。また手にしていた杖は光りながら形を変えて、真理奈の首にペンダントとしてぶら下がった。

 一方、どうやら魔王のなれの果てらしき子猫は、ニャアと一声鳴くと無邪気な足取りで彼方へ走り去っていった。

「……ふう」

 子猫を見送った魔法少女は、肩を落として大きな吐息をつく。しかしその姿は、弱々しさよりはむしろ艶かしさを思わせ、誠三郎は自分が妙な感情を抱きそうになるのを恐れて口を開いた。

「あんた……ほんとに、兄貴なのか?」

「そうよ、誠くん」

 少女――藤田真理奈を名乗っているが、本来は誠三郎の兄であるところの清水孝二郎であるらしい――は、姉の真理恵と同じように誠三郎を呼んだ。

「この場にいるってことは……冴子から、全部聞いたのかしら?」

「全部かどうかはわからないけど……とりあえず、うちの家族が変態揃いなのはよくわかった」

「母さんや姉さんをひどく言うもんじゃないわ。この生活も慣れればそんなに悪いものでもないし。……まあ、私は愛する冴子がいるから元に戻るけどね」

「恥ずかしいこと真顔で言わないで」

「事実だから、しかたないでしょ」

 それにしても女の子らしい口調以上に意外なのは、そのきっぱりさっぱりした態度。本来の兄の性格とはかけ離れていて、まるで冴子が二人いるみたいだ。

「ああもう! 最後の最後まであんたと話してると調子狂うわ。さっさと元に戻って!」

「じゃ、最後の儀式よろしくね」

「わかってるわよ!」

 頬を染めた冴子が、バッグの中から筒を取り出した。それは誠三郎もひと月ほど前に手にした覚えのある、卒業証書を収める筒。

 中から丸まった卒業証書を引き出すと、冴子はそれを真理奈に手渡した。そして真理奈は芝居がかった仕草で恭しく受け取る。

 すると、真理奈の全身から光が溢れ出し、それが首に掛かったペンダントに収束する。

「眩しい!」

 山中での珍妙な卒業証書授与をぼんやり見ていた誠三郎は、思わず腕を掲げ光を遮る。

 やがてその光が収まると、そこには三年前よりもかなり大人びた孝二郎が学生服を着て立っていた。

 その場にいた三人とも、しばらく動けずにいた。もっとも、たちの悪い冗談の総仕上げを見せられたような気分の誠三郎と他の二人とでは沈黙の意味は違っていただろうが。

「あ……その……た、ただいま」

 昔とまるで変わらない緊張気味の口調で、孝二郎が冴子に言う。

「おかえりなさい、孝二郎」

 いつになく優しい声で応じ、かつて見せたことがないほど幸せそうな表情で、冴子は孝二郎に抱きついた。


《おうおう、なかなか感動的な光景じゃねえか、なあ?》

 恥かしげもないカップルの抱擁シーンをまざまざと見せられていた誠三郎は、誰もいないはずの横合いから突然声をかけられた。

「だ、誰だ?!」

 声のする方向を向くと、そこにはペンダントがふわふわ宙に漂っている。それはさっきまで真理奈の首に下がっていたものに相違なかった。

《活きがいいねえ。こりゃあ弄り甲斐があるってもんだ。じゃ、これから三年弱よろしく頼むぜ》

 どうやらペンダントから発せられているらしい声はそんなことを言うと、避ける間もなく誠三郎の首に掛かった。

 その瞬間、誠三郎の全身を激しいショックが走り抜けた。

「あんっ!! ……え?」

 自分の上げた甲高い悲鳴に驚いた誠三郎は喉元に手をやり、新たな驚愕に見舞われる。

 指で触れている喉仏がどんどん引っ込んでいき、あっという間につるつるの喉になってしまったのだ。

「な、何、これ……」

 そう呟く声も、さっきまでの自分の声とはまるで違う可愛らしい声。アニメに出てくる美少女の――それもローティーンの――声みたいな、どこか作り物めいた声だ。

 うろたえている誠三郎に、孝二郎が気の毒そうな視線を向けて言う。

「誠三郎、あの、すぐ終わるから楽にしててな。……って、冴子ちゃん、何カメラ構えてるのさ!」

「だって私、孝二郎の変身シーンは見てないもの。マリード、どうせならスローテンポでじっくりやってくれないかしら?」

《お安い御用》

 冴子のリクエストにペンダントが答えた。どうやらこれは、アラビアの魔神マリードの宿った代物であるようだった。

《ならまずは顔を済ませるぜ》

 そんな声と同時に透明な何かが顔を撫で始める。と、シャッターを切りまくりながら冴子はヒュウと口笛を吹いた。

「どうせならビデオも持って来るんだったわね。ま、これなら連続写真でも充分一部始終が収められるけど」

「え? え?」

 パニックに近い状態に陥った誠三郎に、冴子は胸ポケットからコンパクトを放る。

 思わず開いて覗き込むと、鏡の向こうから愛くるしい美少女が誠三郎を見つめ返した。

 つぶらで大きな瞳に、小さいが形の良い鼻と唇。にきびもそばかすもないきめ細やかな肌。さらに髪の毛もいつの間にか品のある栗色に変わっている上、肩口まですらりと伸びていた。

 首から下は学生服であり、体格も身体の構造も男のままであるのだが、今の誠三郎の顔は完全に美少女のものになっていた。

「これが……わたし? って、ええっ?!」

《お前さんのお好み通りに言語中枢と性格設定いじらせてもらったぜ。うん、確かにこういうロリ顔にはほんの少し背伸び気味の『わたし』が一番しっくり来るわな》

「わ、わたしの好みって、何言ってるんですか?!」

《大昔は色々俺様の趣味を押しつけてたんだけどな、どうもそれじゃ後がよくねえんだ。女の生活に馴染めずにおかしくなったり、不幸を一身に背負ったような精神状態になっちまうことが多くて、見てて楽しくない。かと言って心までこっちの思うがままに完全に変えたらそりゃ単なる粘土細工に過ぎないからやっぱりつまらない。なもんで、そのうち俺様は考えを改めた。そいつ自身の意志を尊重して、そいつが理想とする女の子に変えてやろうとな》

「……理想の女の子?」

《心理学用語で言うところのアニマに近いかな。お前さんみたいにおとなしくて素直で従順な少女を求める奴もいれば、孝二郎みたいに気が強くて頭が切れる女こそ肌に合う奴もいる。そんな各人の理想像を反映させてやると、これがいい具合に新生活に順応した状態で煩悶してくれるんだな》

(おとなしくて、素直で、従順……)

 マリードの言葉に、誠三郎は呆然とする。それは、自分はそういう女が好きだ。だからと言って、そんな女に『なりたい』わけではない。

(こんなの嫌! 嫌! 嫌!)

 しかし、内面で荒れ狂う感情は、なぜか表情や言葉となって噴出しようとしない。これがすなわち性格の変化なのかと焦るが、その焦りもまた表面には容易に顕れず、誠三郎は内気な少女のようにおろおろするばかり。

「あの、マリード、解説もいいけど、手早く終わらせてやってくれないかな?」

 そんな有り様を見かねたように、孝二郎が声をかける。

「冴子ちゃんも、あんまりいじめないでよ」

「それもそうね。あの誠三郎君が当人の理想の女の子になるってのが、それだけで笑えると思ったけど……何だか、可哀想になってきちゃった」

 昔から冷戦状態にあることが多かった冴子が、今や自分を憐れんでいる。そのこと自体が現在の惨めな境遇を雄弁に物語っていて、とても辛い。

《了解了解》

 マリードが応じると同時に、変化は誠三郎の全身を襲った。

「ああんっ!!」

 胸の双丘が意外なほど大きく膨らみ、シャツがブラジャーに変形して乳房をぴったりと支える。ごわごわしていた学ランが滑らかな空色のブレザーになって、全体に小さく華奢になった体格を可愛らしく飾る。

 下半身では男性の象徴がすっと体内に吸い込まれるのが感じ取れた。またお尻がなだらかに大きくなっていくのもはっきり伝わってくる。

 そしてトランクスはパンティーとなり、股間の変化を見事に受け止めた。またズボンはスカートとなり、ふわりと広がったかと思うと、ほっそりと生まれ変わった両脚を優雅に包み込むのだった。

 見下ろせば、ついさっきシュートを決めた大きな両足は嘘みたいに縮んでしまい、汚れたスニーカーはきれいで小さな革靴になっていた。

《よし、完了。じゃあ、改めてよろしく頼むぜ、真理乃》

「真理乃……?」

 清水誠三郎だった少女は、ペンダントを見下ろして問いかける。その声からは誠三郎であった時の傲慢さや強引さが影を潜め、実に繊細で可憐。臆病と表現してもよさそうだ。

《藤田真理乃。真理奈の妹ということにでもしておくさ。ある意味事実だろ? ちなみに魔法少女に変身してる間はプリティマリノと名乗れよ》

 マリードはそんな変化を面白がるような笑い混じりの声で言った。

「で、でも……悪者は、お兄ちゃんがさっき倒したばかりでしょ? わたしがやることなんて何にも……」

《わかってねえな、あれは副業みたいなもんだ。あの身の程知らずがつまらんことを企んでたからやむなく戦っていただけさ。それくらい、冴子から話聞いた時点で理解しろ》

「ご、ごめんなさい」

 少女――真理乃は叱責されたみたいに首を竦めた。

《俺が本当に楽しみたいのは、体育の授業でブルマを穿いて男子の嫌らしい視線に恥ずかしい思いをする姿とか、スクール水着を着てクラスメートと胸を比較して小さいのを嘆いたり大きいのを恥じらったりする姿とか、家庭科の調理実習で作ったケーキを男子に食べさせて不思議とうれしい気持ちになってしまう姿とか、部活動で芽生える女同士の友情とか、バレンタインの告白とか、そんな平凡な学園生活よ》

 マリードが機関銃のようにしゃべり倒す。

「あの……ならマリードさんがご自分で女子生徒に変身したら……」

《お前はバカか? 俺が楽しみたいのは、男から女になったお前が、それらのイベントに戸惑ったり馴染んだりする姿なんだよ! アイドルのことが大好きで四六時中密着していたいストーカーだって、自分がアイドルそのものになりたいってわけじゃねえだろうが。ちっとは考えてからものを言いな!》

「ご、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」

 真理乃は再び首を竦め、ひたすらに謝りまくった。

「ある意味適応が早いと言うか……」

「あの性格ならマリードの思うがままよね、可哀想に……」

 真理乃とマリードの漫才を眺めながら、孝二郎と冴子はため息をついた。

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