シャーロット・L・ミラー:小学生の男の子は、同居している留学生と時間限定で入れ替わる

 小学校から家へ帰る途中、悟は父の謙蔵と行き会った。

「おう、悟。今日はもう帰りか」

 穴の開いたセーターに、よれよれのジャージ。原稿を仕上げたばかりで外に出たのか、上機嫌な言葉と対照的に謙蔵の身なりはぼろぼろだ。しかし当人はいつも通りその辺には無頓着である。

「う、うん。始業式だから早く終わったんだよ」

 往来で家族に――しかも父に――会ったのが恥ずかしくて、悟は早口で答えると早足で通り過ぎた。

「父さん偏神堂に行って来るけどすぐ帰るからなー」

 背中に、家の中で話してる時そのままの大きな父の声が響いた。悟は低い背(六年生になった今年も、クラスの男子で一番前になりそうだ)をさらに縮めるようにして、その場から遠ざかった。


 家に帰り、自室で漫画や野球雑誌を読んだりしているうちに、お昼が近くなる。

 階下の台所へ降りた時、ちょうど玄関のドアが開いた。

「タダイマー。パパさん、お昼ご飯ありマスカ? もうシャルはお腹ペコペコデス」

 陽気な声とともに、とても背の高い美少女が台所にやって来る。ショートカットの金髪が明るく輝き、大きな青い瞳は好奇心に満ちている。

 去年の秋から永井家に住むようになったアメリカからの留学生、シャーロット・L・ミラーである。

「お帰りなさい、シャーロット。父さんは出かけてるから、僕が作るね」

「悟も早いデスネ。そう言えば小学校は始業式デシタネ」

 清水共栄の空色のブレザーを無造作に脱いで椅子にかけ、シャーロットは冷蔵庫から牛乳のパックを取り出すとラッパ飲みした。

「姉さんは?」

「聡美は新聞部の新入生勧誘と取材に大忙しネ。編集会議もやるから帰りは夜になるって言ってたヨ」

「そっか……ピラフでいい?」

「オーケーオーケー。悟の料理ならシャルは何でも大好きヨ」

 父は翻訳家兼主夫で、母はテレビ局のプロデューサー。悟と聡美は同性の親によく似た人生を歩みつつあった。


 二人は昼食の後、いつものように悟の部屋で漫画を読んだ。

 シャーロットは小さい頃日本製のアニメや漫画に夢中になって日本が好きになり、ついに留学までするに至った子である。アメリカにいた時から日本語に接していたからか、まだ高校二年生なのに実に流暢な日本語をしゃべる(語尾がエセ外人的なのは、わりと意図的なもののようだ)。

「やっぱり『ドラゴンブレード』は漫画の方がはるかにいいデスネ。実写で映画にしようなんて考えたハリウッドの神経を疑いマス」

 数十年前に流行ったアクション漫画の愛蔵版を貪るように読んでいたシャーロットは、一息つくと悟に言った。

「そんなことがあったの?」

「大昔の話、歴史的な失敗作デスネ。確かラズベリー賞ももらったはずデス」

 ラズベリー賞が何かは知らないが、話の流れからろくなものではないのだろうと悟は推測した。

「何でもかんでも実写にして自分たちの理解しやすいレベルに引きずり下ろさないと気が済まない、わが母国ながらアメリカも困ったものデスネ」

「でも……日本は何でもかんでも漫画やアニメにしないと気が済まないみたいなところがあるよ」

 悟が言うと、シャーロットはにっこりと笑う。

「その通りデスネ。人のふり見てわがふり直せ。もって他山の石とせよ。そういう考え方を理解しているなんて、悟は賢いデスネ」

 いい子いい子と頭を撫でられるが、悟は恥ずかしくてその場を離れてしまう。

 大柄なシャーロットにそんなことをされると、まるっきり大人と子供みたいになってしまい、彼女と対等な立場になりたいと願っている悟にとっては屈辱的なのだ。

 シャーロットにとって彼は異国にできた弟みたいな存在に過ぎないだろう。

 それは理解しているのだが。

 悟の方は五歳年上のこの少女にひそかに恋しているのだった。

 ――僕とシャルの身長が逆だったらよかったのに。

 悟はそっとため息をついた。


 すぐ帰ると言っていた父が実際に帰って来たのは三時を回った頃。悟とシャーロットは居間でおやつを食べていた。

「偏神堂の主人と世間話になってな、スティーブン・クイーンの『ミスター・クリスの生涯』訳し終えたとこだって言ったら自分のことみたいに喜んでくれて……秘蔵の酒振る舞われたり、祝い品だって言ってこんなものまでもらったり……あー、父さんはひとまず寝るぞ。明日の晩飯までは、いないものと考えてくれ」

 赤ら顔して言いたいことを言うと、自分の部屋にこもってしまった。筆が乗った挙げ句に無茶な徹夜をしてやがて反動に襲われるのは、謙蔵が満足のいく仕事をした時のいつもの癖である。

 後に残されたのは二つの小箱。それぞれ赤と青のビロード張りの、見るからに上等な箱である。さっき言ってた『祝い品』だろう。

 悟は箱を開けてみた。

「腕時計、かな?」

 中に収められていたのは金属――黄金でも白銀でもない、白銅とも呼ぶべき穏やかな輝き――の装身具だった。時計のような文字盤と針がついているし、手首に嵌めるとちょうどよいぐらいの大きさだ。

 しかし針は一本しかない。箱と色を揃えた赤と青の針で、今は零時を指している。

「ストップウォッチ、でもなさそうデス」

 つまみで針を操作することはできるが、スイッチの類はない。一回りさせると零時のところでそれ以上針は進まなくなった。戻すこともできたが、何となく進めきったところに針をセットしておく。

 小さな紙に素っ気なく印刷された説明書があったが、ラテン語らしくてシャーロットにも読めなかった。

「青のほうが少し大きいデスネ」

 言いながら、シャーロットは二つを手にして見比べる。確かに対を成すようによく似ているが、赤の方がいくらか小さい。

「こっちの方が女の人用なのかな?」

「そうデショウネ。今の悟にはそっちの方がぴったりデスガ」

「ふん」

 すねてみせるがシャーロットのからかう通りで、背の低い自分が恨めしくなった。

 シャーロットは手首に青のブレスレットを嵌めて、感触を確かめるように腕を動かす。

 釣られるように、悟も赤のブレスレットを嵌めてみた。

 その時。

「?!」

 一瞬立ちくらみのようなものを覚え、悟は頭を抱えて目をつぶってしまった。


「な、何? 今の?」

 呟いて目を開けた時、見える景色に違和感があった。

 さっきと同じ、居間である。しかし視界に入っているのはテレビやピアノ。それらはさっき、自分の背後にあったものばかりだ。

 そしてその視界の中心には、小さな男の子が座っていた。

「何デスカ? 今の変な感覚は?」

 どこかで見たことのある男の子はそんな言葉を呟いて、きょとんとした表情をしてこちらを見上げる。

 その時になって、悟は自分の視点がやけに高くなっていることに気づいた。

 一瞬のうちに、背が伸びている。

 身体を見下ろす。

 大きく膨らんだ胸が、Tシャツを持ち上げていた。

「…………」

 ぼんやりと、手首に嵌めたブレスレットを見る。

 零時の位置を示すその針は、青い色をしていた。

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