一人目、二人目、三人目:(後)ちっちゃな名投手が鮮烈デビュー、オカルト少女は絵図を描く

 野次馬を掻き分けるようにして現れたのは今の弥生よりも背の低いポニーテールの女の子。中学時代のものと思しい赤いジャージに身を包んでいる。

 そのむやみに明るい顔に見覚えがあった。

「あなた、今朝の」

「君も一年生なんだね。僕は宇野梓」

 名乗りながら手を差し出されると弥生の返事は自動的に決まる。

「……森弥生」

「よろしく!」

 弥生の手を握り、ぶんぶん振り回した。梓の手は、高校生の小柄な少女のものとは思えないほど大きくて、握力も予想をはるかに上回る強さだった。

「さっきのバッティングかっこよかったよ! あれを見てたら、僕もがんばらなくちゃって気分になれたんだ!」

「昨日追い出された女が、何の用だ?」

 横でしばし呆然としていた白石が、不快感も顕わに問い質す。

「また入部申し込みに来たんです。宇野梓、ポジションはピッチャーです!」

 近くに転がっていたボールを手に取ると、梓は挑むように言った。

「弥生ちゃんが今から無理矢理受けさせられるところだったピッチャーのテスト、代わりに僕に受けさせてください」

「意味と内容を理解してないのか? 合格しなければそれっきりだぞ」

「さっきの話だと、先輩たち九人を打ち取ればいいんでしょ?」

 そして梓は、弥生が耳を疑うような台詞をさらりと言ってのけた。

「簡単です」

 その一言が、新たな燃料となった。

「なめんなチビ女!」

「そんなに泣きたいなら相手してやらあ!」

 怒号がグラウンドのあちこちから響いた。

「……こちらとしては、しつこい希望者をふるい落とせて大歓迎だ」

 白石はそう言うと、ギャラリーの中から自分以外の八人のバッターを見繕った。

「あ、キャッチャーは弥生ちゃんにやってもらいます。いいですね?」

「いいだろう。急造捕手に何ができるかは知らんが」

 弥生の意見も聞かずに、梓は白石の了解を得た。

「わたくし、あいにくキャッチャーも未経験ですわ」

「それでもいいよ。君ならわざとパスボールすることはないでしょ?」

 他の人間ならやりかねないと言っている、その判断は正しいだろう。さっきの一言で梓はこの場にいる野球部員全員を敵に回したのだから。

 ――けど、もし野手がわざとエラーしたりしたら、どうするんだろう?

「じゃ、サインは僕が出すね」

 弥生の疑問など知らぬげに、梓は右手の指をパッパッパと広げてみせた。

「一がストレート、二が縦に落ちるカーブ、三がシュートで四がスライダー、五がチェンジアップね。ストライクゾーンの中に必ず収めるから、後ろへ逸らすのだけ気をつけて」

「ちょ、ちょっと!」

 小声で打ち合わせると足早にマウンドへ上がろうとした梓を、弥生は引き止めた。

「あなた、そんなに球種がありますの?」

 それどころか、カーブなどは他にも何種類か覚えていそうな言い方だ。

「まあね。……時間はたっぷりあったから」

 弥生には意味不明な呟きを最後に残して、梓は小高いマウンドに向かった。


 派手に振り回された七人目の打者のバットはものの見事に空を切り、彼はそのまま地面に倒れ込んだ。

「……ストライク。バッターアウト」

 審判をしている三輪の、覇気のない宣告。

 最初のうちは騒いでいた野次馬も、寂として無言。

 弥生が案じていた守備陣のサボタージュによるエラーなどとは、無縁の展開。

 七人連続三振。

 県下一の名門野球部に属する二年生や三年生が、小柄な一年女子の投げる球を、当てることすらできずに次々三振していくのだ。

 ついさっき二年生ピッチャーから粘り勝ちのヒットを放った弥生でさえ、その光景には唖然とする他なかった。

 ――こんな奴が今までどこに隠れてた?

 野球がうまい女子として弥生の脳裏に思い浮かぶのは、リトルリーグで対戦した田口の他に数人。そして田口以外は全員、中学以降はソフトボールなどの野球とは異なるスポーツに進んでいる。その中に宇野梓という少女はいなかった。

 八人目は、最初からバントの構え。もはや当てることしか考えていない。

 梓は何の変哲もない右のサイドスローから球を投げる。ランナーはいないがセットポジション。そして、その投球フォームからは球種の違いをまったく判別できない。

 今回の初球は右打ちの打者の胸元へと切り込んでいくようなシュート。ぶつけられるかと恐れたバッターは慌ててのけぞるが、それは打者の近くでの曲がりが大きくキレがあるからで、ストライクゾーンはぎりぎり掠めている。まずワンストライク。

 若干腰が引けた相手をからかうように、次は外へ外へと逃げていくスライダー。これもゾーンを通過していてツーストライク。

 そして最後は、やや高めの軌道から、二球目のスライダーと似た横の変化を見せつつ下へも落ちていく、落ちるカーブ。打者は体をよろめかせて結局バットに当てられず、しかも判定はストライク。バッターアウト。

 八人連続三振。

 弥生は、ほぼ勝利を確信した。単なる目先のピッチング勝負だけでなく、自分と梓を包んでいた空気を打ち破れる手応えを感じた。

 場の空気はマウンド上の小さい少女に掌握されつつあった。新入生だから。女だから。そんな偏見は、優れた投球の前には無価値な呟きに過ぎないと、誰もが悟りつつあった。

 だが。

 風を切り裂く素振りの音が、沈黙に満たされたグラウンドの大気を震わせた。

 九人目のバッター――白石の一振り。

「球は軽い。当たれば飛ぶ。違うか?」

 昂ぶるでもなく、つまらなそうに、白石は梓に問う。

「そうですね。芯で捉えればの話ですけど」

 平然と答える梓。

「二十四球、見せてもらった」

 それが回答だと言わんばかりに、白石は左バッターボックスに立った。

「タイム!」

 弥生は審判役の三輪に告げると、マウンドに駆け寄った。慣れないプロテクターのせいでやけに動きづらい。

「宇野さん」

「何?」

「彼が只者じゃないことは、おわかりですわね?」

「そうだろうね。たぶん今は治りかけの怪我の大事を取って、部員勧誘の仕事に回ってるんじゃないかな。本来は一軍のレギュラーだと思う」

「そこまでわかってらっしゃるなら――」

「もう少し、本気で行くよ」

 弥生の言おうとしていたことを先回りするように、梓は答えた。

「ここからはノーサインで。捕球がますます大変になるとは思うけど……よろしく」

「身体を張ってでも、止めてみせますわ」

 弥生は即答した。

 梓は「できる?」とは聞かず、ただ「よろしく」と言った。それは、難しくてもやってくれという意味だ。

 たかだか二十四球を受けた関係に過ぎないが、それでもある程度は自分を信頼してくれての、梓の言葉。

 ――その心意気に応えずして何が野球選手か、ってなもんだ。

 今後の高校生活三年間のかかった理不尽な勝負のさなかにあって、弥生は総身が奮い立つのを感じていた。

「プレイ!」

 弥生がしゃがんでミットを構えると、梓は投球動作に入った。これまでと違う構え。

 上半身を横に倒して、ボールを持った右手はほとんど地面すれすれの位置。

 ――アンダースロー!

 低い低い位置から放たれた球は、投げ下ろす形のオーバースローやサイドスローとは違い、浮き上がるような軌道を描いてミットに向かってくる。弥生は辛うじて捕球した。

 その投法は白石にとっても予想外だったようだ。スピードはさほどでもなかったが、手を出さずにストライクゾーンを通過する球筋を見送った。

「ストライク!」

 間髪を入れずに二球目。再びアンダースロー。同じフォームから同じスピードで投じられるボール。

 だがその浮き上がる球は、今度はバッターの近くでスッと沈み込んだ。下手投げと相性の良い変化球、シンカーだ。

 弥生さえぼんやり予測していたくらいだ。さすがに白石も狙っていた。沈むところを叩こうと、バットは低目に振り抜かれていた。

 しかし梓のシンカーは、そのさらに下をかいくぐっていた。弥生の予想よりもはるかに低く、弥生は両膝を地面につけ、倒れ込みそうな姿勢になって何とかボールを確保した。

「ストライク、ツー!」

「タイム」

 今度は白石が間合いを取る。バッターボックスを離れ、素振りを何度となく試みる。

「……つまらん小技をいくつもいくつも……最後は何が……」

 そんな呟きを聞きながら、弥生もラストボールが何かを考えてしまう。

 フォームを変えることで目先を変えることには成功した。変化球のキレの良さで二度目も巧くかわすことができた。だが後は何が残されている?

 変化球を何種類も操る梓の巧みなピッチングには、しかし明白な弱点がある。球威に乏しいと思われる点と、スピードに恵まれない点だ。

 もとより打たせるつもりがないのだから、前者については問うまい。けれど、後者は空振りをさせる上で重要な要素――緩急をつけられないことになり、致命的だ。そこいらの高校生ならまだしも、甲子園に出るようなバッターを相手にするとなっては。

 ――まともなキャッチャーなら、それでもどうにか料理してみせるんだろうが。

 弥生は自分が無力なことを痛感させられつつも、じっとしていられずにマウンドへ再度足を運んだ。

「あの……ボールになるスローボールを投げてみては?」

「それなら四球目、普通のスピードでも多少は緩急がつくね」

 弥生の思いつくことなど梓はすでに考えていたようで、あっさりあしらわれた。

「でも、当てられて内野まで転がったら終わりだし。スローボールの方が、今は怖いよ」

 言われて、弥生は自分たちの追い込まれている状況をまだ理解しきってないことに気づかされた。内野ゴロを打たせても、それは打ち取ったことにはならないのだ。

 目を向ければ、一塁手が腕を組んで棒立ちしている。二塁手が憮然とした表情でマウンドを睨んでいる。三塁手が白石に小声で声援を送っている。

 これほどのピッチングを見せても、まだ彼らは梓を認める気にならないようだった。

「大丈夫」

 弥生から不安でも読み取ったのか、励ますように梓が言った。

「打たせないように最善の球は投げるから。二人でどうにかして野球部に入ろうね」

「……あなたと一緒にプレイできるなら、こんな部に入らなくても構わない気もしてきますわ」

「うれしいけど、野球は九人いないとできないよ」

「そりゃそうですわね」

 弥生が定位置に戻ったところで、白石の方もバッターボックスに入り直した。

「プレイ!」

 梓が足を上げる。今度は本来のサイドスロー。そして放たれるボール。

 速くもない、コーナーをぎりぎり突くわけでもない、打ってくださいと言わんばかりのボール。弥生が不安とともに待ち構える手前で、白石がスイングにかかる。

 すると。

 宙に浮いている球が、揺れた。

 水に浮く小船がちょっとした波にゆらゆらと揺れ動くごとく、空気の微細な流れに影響を受けるようにボールは不規則な変化をしながら、ストライクゾーンに飛び込んでくる。

 ――まさか、ナックル?!

 指先で弾くように投げる変化球、と言ってしまえば簡単だが、つまり投げる瞬間までは主に親指と小指でボールを保持する握りになる。中学時代、弥生のチームメイトが試しに投げようとしてポロリポロリとボールを取り落としていた姿を思い出す。半端でない握力が要求されるのだ。

 しかし効果は絶大だ。何せ投げた本人にもわからないランダムな変化。プロの一流選手でさえ芯で捉えるのが困難な変化球。

 白石も、ものの見事に空振りした。

 だが喜んでもいられない。臨時キャッチャーに過ぎない弥生にとって、ナックルの球筋は見極めるのがあまりに困難だった。

 ――でも。

 弥生は捕球をあきらめる代わりに、全身でボールの予想進路を塞いだ。

 ――後ろにだけは、逸らさない!

 プロテクターに当たってボールが地面にこぼれる。白石がバットを放り出して一塁へと走り出す。三振振り逃げだ。でもこれなら一塁に投げてアウトにできる。

 即座に拾って投げようとした時、梓の声が飛んだ。

「投げないで!」

 本来ならありえない台詞。しかし、すぐに弥生もこの勝負のルールに気づく。

 九人をアウトにする必要はない。打者一巡で点を与えなければ、梓の勝ちなのだ。

 駆け寄って来た梓と二人、ホームベースの上に立つ。一塁に到達したところで自分の言葉を思い出したらしい白石は、戸惑ったように動きを止めている。

「この勝負、宇野さんの勝ちですわね」

 弥生が言うと、白石の顔が朱に染まる。

「それともそこから無理矢理ホームを目指します? そんなみっともない真似、まさかなさらないとは思い――えっ!?」

 白石が二塁へと走った。ベースを蹴って、さらに三塁へ。

「弥生ちゃん、来るよ!」

「梓さんは下がってらして」

 手にボールを握りしめ、弥生は身構える。

 ――なめんのも大概にしやがれ。

「わたくし武道の黒帯持ってますの。暴走ランナーの一人や二人、通しやしませんわ」

 正確には、黒帯を与えられたのは『弥生』の身体の修平だったわけだが、弥生とて六年前までは道場通いしていた身である。どうにか食い止めてみせると心に決めた。

 だが白石が三塁に到達した時。

「そこまでだ、白石。それ以上の醜態を晒すな」

 低く重い声がグラウンドの彼方から発せられた。

 見れば、いつしか三塁側ファウルゾーンの一角に、ロードワークから帰って来たらしいユニフォーム姿の連中が十数人立っている。弥生たちと対戦した連中の多くとは比較にならない風格を漂わせ、聞くまでもなく野球部一軍の連中だろうと見当がついた。

 その後ろから現れたのは、年の頃は四十半ば、細く引き締まった身体をキヨミズ野球部特注のウインドブレーカーに包んでいる男。サングラスと髭のせいで表情は窺えない。

「あらましは見物人から聞いた。その勝負はお前の完敗だ」

「監督……」

「しばらく三軍で頭を冷やして来い」

「……はい」

 命じられた白石は、うなだれて、その場を去って行った。

 だが、ようやく状況が好転したかと喜びそうになった弥生に、監督は宣告した。

「練習の邪魔だ。君たちも消えてくれ。野球部に女子選手を入れるつもりはないのでな」


「……今の宇野さんのピッチングをご覧にならなかったのですか?」

 ここまで来て監督ごときにびびってもいられない。弥生は挑戦的に問い質した。

「ナックルだな。それ以前のボールも、動画に撮っていた部員にさっき見せてもらった」

 携帯電話の画面をかざしながら、落ち着いた口調で応じられる。

「他の変化球もキレはいい。サイドスローとアンダースローをうまく使い分ければ、そう簡単に打たれはしないだろう」

「なら、どうして――」

「私がこの部の監督に就任したのは、勝つためだ」

 弥生と梓を等分に見ながら、監督は話す。

「前任者の吉野先生は教育の一環として部活動を捉えていた。その考えを否定するつもりはないが、結果として昨年夏の甲子園では準優勝に終わった。ましてや昨年秋は関東大会で敗戦。どちらも学校関係者にとっては不満の残る成績だ」

 いったん唇を湿らせると、男は長広舌を続ける。

「ゆえに前監督が急病に倒れた半月前、私が四国から招聘された。この夏こそ清水共栄を甲子園で優勝させるために」

 そこまで言われて弥生は思い出した。目の前にいる男――確か真田という名だった――が、各地の高校を渡り歩き野球部を甲子園常連に仕立て上げてきた名監督であることを。

「しかしそれは、選手に通常の高校生活を犠牲にすることを強いる。単刀直入に言えば、野球以外つぶしの利かない人間を作り出すことになる」

 姿を見せて以来ほとんど変化のない、いかめしい表情のまま真田は言った。

「だから、実を結ばない花に用はない」

「少し言葉足らずですわね。『金になる実を結ばない花』でしょう?」

 相手の思考法を掴んだ気がして、弥生は口を開いた。

「それと、もう少しわかりやすくおっしゃる方がよろしいんじゃありませんかしら? そこに居並ぶドテカボチャの中には今の比喩が通じてらっしゃらないお歴々もおいでのようですし」

 弥生の台詞に居並ぶ野球部部員がざわめきそうになるが、真田の言葉が遮った。

「ならば言い換えよう。プロになれる見込みのない選手に用はない」

 場が一気に静まった。

 想像はついていたが、ストレートに言ってのけられると、思いの外弥生にも堪えた。

 昨日の修平との口論ではそこまで話題が広がらなかったが、こうして『元の身体』へと戻った今、弥生も『弥生』として将来のことを考えないわけにはいかない。

 高校野球のレギュラーくらいは『弥生』の身体でもなれるかもしれない。しかしさすがにプロは無理だと思う。野球をいずれはあきらめなければならない時は来る。

 今はこれまでと同じように野球を続けたい――そんな願いの裏には、新たに生じた不安からの逃避も含まれていたのだろう。だが見ないようにしたかった不安は、突然目の前で真田の宣告という具体的な形を取った。

 高校の三年間を、将来につながらないことに費やす。それは徒労と言わないか?

 むしろ事前の選別で不安を解消してくれる真田の態度は、一種の優しさかもしれない。

 そんな風に自分を納得させそうになり、しかし、弥生は思い直す。

 ――俺は無理でも、梓はものが違う。

 もし選別がこの部活に必要なものだと仮定したとしても、男女の性差は決して基準にならない。そんなもので、この小さな天才投手を切り捨てさせてたまるものか。

 そう思い、何とか反論しようと口を開いた横で、梓が先にしゃべった。

「プロになる気がなくて、でも甲子園で優勝したい人は、この部活にふさわしくないってことですか?」

 弥生と同様、真田にとっても予想外の質問だったらしい。絶句しているところに、梓は畳み掛ける。

「僕は将来のために野球をしてるわけじゃありません。今のために野球をしてるんです。野球しかしないで後悔する方が、野球できずに後悔するよりよっぽどマシです」

 百五十センチあるかないかの身体で、梓は真田を見上げる。だが彼女の真摯な問い掛けには、体格の差も年齢の差も感じさせない力がこもっていた。

「僕や弥生ちゃんから、競う機会まで奪わないでください!」

 気圧されていた真田が肯きそうになる。だが、まるで何かに取り憑かれたように大きく身を震わせると、結局はかぶりを振った。

「……女子は存在自体が男子の妨げになる」

「何、わけのわからないことを……!」

 激昂しそうになった弥生が前に一歩踏み出す。と、真田の背後にいた選手の一人がせせら笑った。

「男はケダモノだって言うだろ? 俺らに犯されてもいいのか、ああん?」

「黙っていろ渡辺!」

「言ってることはおんなじでしょうが。俺の方が少しばかり率直なだけですよ」

 渡辺と呼ばれた選手がおどけると、取り巻きらしい数人が追従笑いをする。その瞬間、弥生には、一軍メンバーであるはずの彼らがひどく矮小な連中に成り下がって見えた。

 梓の様子を窺えば、顔を真っ赤にして立ち尽くしている。何を言えばいいのかもわからなくなっているようだ。

 もっともそれは弥生も同じ。ここまであからさまな物言いをする輩には、プライドを刺激する手も効かないと思われる。

 その時、事態を打開し、さらに弥生には思いも寄らなかった方向へ導く人物が現れた。


「ここの野球部に入れてもらうには手詰まりっぽいね、梓」

 背後から聞こえた声に振り向くと、三つ編みに眼鏡で背の高い女子が立っていた。その隣には温和そうな顔立ちの女子。こちらは新聞部の腕章をかけている。

 周囲から「新聞部だ」というざわめきがさざ波のように立った。

「正義の新聞部様が何のご用だい? あいにく野球部の方針は監督に一任されてるからなあ。外からジンケンシンガイとかジョセイサベツだとか騒いでも効き目はないと思うぜ」

 渡辺のその言葉に、温和そうな女子が反応した。

「渡辺くーん、今年の新聞部は少し方針変更してるんですよお。やたらと喧嘩は売らないで、読者の皆さんに面白がってもらえる記事をたくさん載せるんですー」

 声もしゃべりも見た目を裏切らない、よく言えば温厚な(悪く言えばネジが一本外れたような)ものだった。

「ということでー、新聞部企画で面白いことしませんかー?」

 一瞬場が沈黙し、何となく近くにいた弥生が訊いてみた。

「……『面白いこと』とは、何でしょう?」

「男子野球部対女子野球部の試合さ」

 三つ編み眼鏡の女子が答えた。野暮ったい出で立ちとは違い、その歯切れのよい口調は彼女の鋭さを感じさせた。

「ただの練習試合じゃ面白くない。夏の甲子園大会県予選出場の権利を賭けた、校内代表決定戦ってことで、どう?」

 その問いは、射抜くような視線とともに、真田へと投げかけられた。

「女子野球部など、あったのか?」

「今から作る。エースはこの宇野梓。野手はそこの森弥生に、あたし村上美紀、他六名」

 村上美紀と名乗った女子は、梓と弥生を優雅に指し示した。

「女子の即席チームが男子と試合? 馬鹿馬鹿しい。我々にはどんなメリットがある?」

「特にないね。けど試合を拒否した場合のデメリットはけっこう大きいと思うよ。女子の挑戦に対して尻尾を巻いて逃げたって風評は避けられない」

「先ほどまでの監督さんたちと梓さんたちのやり取り、集音マイクでばっちり録音させてもらってますー。お話伺う限りでは、男子の皆さんが負けるわけなさそうですよねー」

 新聞部の女子が合いの手を入れると、渡辺の子分の一人が血相を変えて怒鳴った。

「永井! 何そんなもん勝手に録音してやがる!」

「勝手にと言われましてもー、ここはお外のグラウンドですよー? 人様に聞かれたくない内緒話がしたかったら、それにふさわしい場所があったんじゃないでしょうかー?」

 永井と呼ばれた新聞部の女子は不思議そうに小首を傾げた。

「……試合に応じなければ、さっきの会話が記事になる、ということか」

「甲子園優勝を目指す男子野球部が負けるはずのないお遊び企画につきあわないのはなぜか? 色々な角度から検討してみたくなるんじゃないかな、部長」

「そうですねー」

 村上と永井は阿吽の呼吸を見せ、真田にプレッシャーを与えていた。

「いいんじゃねーっすか、監督。そこでぶちのめせば、もうこいつらも逆らわないみたいなんすから」

 渡辺が面倒臭そうに言うと、周囲の者たちが賛同の意を表してざわつく。

「………………よかろう。時期は、六月十五日。県予選抽選の一週間前でどうだ」

「いいね。どちらが勝つにせよ、気分よく予選に乗り出せる」

「それまでに女子野球部が九人揃わなかった場合は、こちらの不戦勝だな?」

「もちろん。人数足りないのに試合しようなんて無理難題までは言わないさ」


「……何だか、急転直下って感じですわね」

「そ……そうだね」

 試合の話がまとまるとともに、弥生たちはグラウンドから叩き出された。それは、まあ当然かもしれない。彼女たちは入部希望者どころか対戦相手になってしまったのだから。

「けれどまあ、これはこれでいいですわね。わたくしはすっきりしましたわ」

 ボロボロのユニフォームから制服に着替え終わった弥生は、大きく伸びをした。

 あんな腐った連中と一緒に野球をするくらいなら、梓や見知らぬ女子たちと組んだ方がよほど気持ちよくプレーできるはずだ。

「村上さんに永井さん、でしたわね? お礼を申し上げますわ」

「いや、礼には及ばない」

「そうですよー。私の方は企画が成功すれば新聞部の評判が上がってうれしいってだけですしー、美紀ちゃんは美紀ちゃんで何か企んでいるだけでしょうからー」

 なかなか失敬な言い草だが、村上美紀は特に反論もしなかった。

「それにしても絶妙のタイミングだったね、美紀姉ちゃん」

 美紀とは知り合いらしく、梓は親しい口調で美紀に話しかけた。

「まあね。最近の野球部についてちょっと聞き回ったらよからぬ噂が色々飛び込んで来たもんで。だから永井さんを引っぱり出してみたのさ」

「梓ちゃんってお人形さんみたいにちっちゃくて可愛いですねー。ポニーテールなんか、こんなにふわふわしてますよー」

 会話していることを無視して、永井は梓の頭を撫でたり髪を弄んだりしている。

 梓が軽くため息をつくと、美紀が訊ねた。

「……野球部、まだ入りたかった?」

「ううん。あそこまで言われちゃうとさすがに引いたから、美紀姉ちゃんの提案はちょうどよかったんだけど……戦って勝てるのかなって思って。負けたら意味ないし」

「そりゃそうだね。そこはまあ、残り六人次第のところもあるけれど……キヨミズはなかなか大した学校だよ。とんでもない奴が隠れていても、不思議じゃない」

 美紀は不敵に笑ってみせた。

「ところで、村上さんは新聞部なのでしょうか?」

「いや、あたしは帰宅部。ちょいと顔が広いもんで、あちこちにコネがあるんだわ」

「……野球のご経験は?」

 弥生が訊いた時、なぜか梓が若干顔を強張らせた。

「……ぼちぼち。ま、大丈夫。本番じゃ足引っぱるような真似はしないから……たぶん」

 のっけから不安に駆られる弥生だが、すでに確保できた人材にけちをつけてる場合でもない。

「美紀姉ちゃんは、何人くらい当てがあるの?」

 永井のいじくりから逃れつつ、梓が訊ねてきた。

「三、四人ほど。普通の一年はまだよくわからんので、そこは梓と森さんにお願いしたいんだが」

「弥生で結構ですわ」

 すらりと口をついて出た。美紀は「ならあたしも美紀でいいさ」と応じた。

「じゃ、僕と弥生ちゃんで二、三人くらい見つけられればいいってこと?」

「新入生名簿、お貸ししますねー」

 学校作成のものとはとても思えないほどきれいに読みやすく印刷され、プライベートにもかなり踏み込んだ記述が満載の小冊子を、永井が手渡してくれる。野球部とのやり取りを見ていても思ったことだが、この学校の新聞部は半端じゃなさそうだ。

「私も美紀さんの挙げた候補に一人心当たりがあるのでー、これからちょっとアプローチして来ますねー。よい結果が得られたら報告いたしますー」

 にこやかに言うと、永井は去っていった。

「あたしも早速一人スカウトしに行く。たぶんすぐ食いついてくるはずなんでね」

「では……わたくしと梓さんは今日はひとまず名簿をチェックするくらいですわね。本格的な部員集めには明日から取り掛かるということで」

「がんばろうね、弥生ちゃん!」

 夕陽に照らされた梓の明るい笑顔に、弥生の顔もほころんだ。

「ええ。梓さん、美紀さん、これからよろしく」

 六年ぶりにできた女友達に、弥生は力強く微笑んだ。


 弥生が二人と別れた帰り道、修平が静かに隣にやって来た。

「こんな時間まで何してたんだ?」

「あの後気が変わって野球部の見学に行ったの。結果的には見物だったけど」

 弥生が問うと、修平は唇を尖らせた。

「なんで女子野球部ってことにしちゃったのよ。おかげであたし、裏方でしか手伝えないじゃないの」

「修平は『修平』らしく野球部へ入るんじゃなかったのか?」

「あんな根性の曲がった連中に『修平』がつきあうわけないでしょ」

「なるほど」

 修平はわざとらしく、大きく息を吐く。

「『弥生』のイメージすっかり台無し。何なのよ、あのお嬢言葉の乱発と喧嘩腰の物言いは。これで明日っから高飛車な女って評判になっちゃうわ」

「バカな振る舞いをしたのも、バカな女と思われるのも俺だ。お前が気に病むな」

 弥生が毅然と答えると、修平は恨めしそうに弥生を睨んでみせた。

「こんなことになるってわかってたら、あたしももっと好きにやるんだった」

「俺はアレがお前の好みだと思ってたんだがな」

「……!」

 言われた修平は言い返そうとして、でも自分でも思い当たる節もあるのか何も言えず、しばらく口を開けたり閉じたり。

 春の生暖かな風を浴びながら、二人は黙って歩く。

 やがてそれぞれの家へ続く分かれ道にさしかかった時、修平はぽつりと言った。

「義務感なんて重石は要らなかったってことよ。それって大きな違いでしょ?」

「そりゃそうだ」

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