エピローグ
終 夢は終わらず
金沢駅のプラットホームは、冬の早朝、特に雪の日ともなれば心底冷える。風雪を遮る屋根と壁があるだけ、他の在来線駅よりマシとは言えるが。
平日の始発とはいえ、新幹線に乗り込む客の姿は意外と多い。商用か、旅行か。一人もいれば連れ立って座る人々もいる。柔らかな顔や、むすっとした仏頂面が通路を過ぎていく。
それら全ての人にそれぞれ異なる人生があり、各々の理由から今ここにいるのだと思うと、不思議な気分になる。
彼らのうち、俺と同じような体験をした人間は何人いるだろうか。
自分の指定席に座りながら、静かな車内を人の気配が移動していくのを感じつつ、考える。
……結論から言うと、俺は大学を離れることにした。
富山での騒動によって退学を言い渡された、わけではない。どういうわけか警察の追及はまったくやって来ず、防波堤の大火など新聞に載るほどであったのに、今にいたるまで居心地の悪い平穏が続いていた。証拠品の大部分はバラバラになって富山湾に沈んでしまったため、俺個人を特定できていないのかもしれない。
自主的に大学を去る理由の一つは、俺自身がもう疲れ果てていたからである。
正確には休学届けを出したにすぎないが、戻るつもりは皆無に近い。
学校側は、もとより精神に問題を抱えていた俺に対し同情的であり、むしろ休養を勧めてくれるほどだった。それがどうにも心苦しく、申し訳ない気持ちになる。
しかし、これ以上大学に留まることは耐えられそうになかった。ここは貴重で楽しい思い出を育んだ青春の一ページであるともに、おぞましい記憶の生まれた場所でもある。これまでは気力だけで通い続けていたようなものだったが、全てが解決したあとに限界がきた。
もはや何もかもが憂鬱になり、全てから逃げ出したい気持ちが心のほとんどを占めていた。
かといって、このまますんなり故郷へ帰るのも憚られた。これは無様に逃げ帰りたくないという、ほとんど俺の無駄なプライドみたいなものであり、また一連の事件で被った穢れのようなものを持ち帰りたくない、そんな迷信じみた思いも強かった。
そんな折。またしても一仕事してみないか、という申し出が来たのである。
「二時間後には関東か……」
腕時計に視線を落としつつ呟く。
当面の金のこともあり、俺は無感動にその依頼を受けることにした。こうして朝早く新幹線に乗り込み発車の時刻を待っているのも、まあ、そういうことだ。
車内の暖房が冷えた身体をじわじわと優しく温めていく。いずれ睡魔が訪れるだろうが、今はまだ目蓋は重くない。
キヨスクで購入した水のペットボトルを開け、一口。それから俺は隣――窓側席に座り、外のプラットホームを珍しそうに眺める依頼人のほうを見た。
「新幹線は初めてか?」
返事は頷きと共に。
「ええ」
落ち着いた声音で、言葉が紡がれる。
「できてからは、まだ一度も、乗ったことはありません」
髪から覗く左半分の顔をこちらに向けて、理渡はそう答えた。
●
理渡と再会したのは、あの夜が明けた朝。
暗い海で気を失った後のことは、当然ながら何も覚えていない。
無意識からの帰還。暗い深淵から明るい水面に向かって、ひどくゆっくりと浮かび上がっていくような、目覚める前のおぼろげな幻。それが記憶に残る最初の感覚。
開かれた目に、最初に映ったのは、影になった黒い何か。
冷たい曙光を背にして、理渡が俺に口づけをしていた。
そこから意識は急速に覚醒へと向かう。主に苦痛によって。
口から肺腑へと空気が送り込まれ、それに比例して強烈な吐き気が身体を襲った。まるで固まる前のセメントを飲み込んだかのように、猛烈な異物感が嘔吐を誘発した。
ゲホゴボと咳き込み、仰向けになっていた身体が飛び跳ねる。硬いコンクリートの上で両生類のように這いつくばって、こみあげてきたもの全てをぶちまけた。
口からは壊れた水道管のごとく大量の水が溢れ出した。まるで臓腑の全てが溶解し、液体になってしまったかのように。
何分間もそうしていたように感じたが、やがて間もなく断続的に水を吐く程度には治まっていった。呼吸をすることで水以外のものが通ることを喉は喜び、空気を存分に味わう。
その時になって、ようやくわが身を振り返ることができた。身体はずぶ濡れで、寒さによって手足や耳や鼻など末端の感覚が麻痺している。
死体一歩手前といった有様で、あたりを見渡す。後になって分かったことだが、そこは蜘蛛と対峙した防波堤から、だいぶ離れた場所にある、まったく別の防波堤だった。
天にあるのは、静かな空気の層に隔てられた、薄い雲を引き伸ばした空。冷たい海風が塗れた身体と衣服を通り過ぎ、熱を奪う。
ミイラのように冷え切った筋肉で身じろぎしていると、視界に白い姿が映った。
防波堤の上に膝をつく、白い服に白のつば広帽の姿。
「り……渡……」
かすれた声に自分でも驚く。海水で喉を焼いたか、干からび、しわがれた音しか出なかった。
理渡は俺の身体に手をかけ、自らの膝の上に俺の頭を乗せる。
「おまえ……」
雑音のような、それも小さな呟きでは、名前を呼ばれたとしても波音にかき消されて気づかないだろう。
それでも理渡は、俺の声に応えるように、慈愛と暖かさを浮かべた瞳を投げかける。
「おかえりなさい」
そしてその目は、遥か水平線の彼方へと向けられた。
「……そう」
俺からは理渡の表情はよく見えない。
それでも、最後にこいつを見た時にあった、張り詰めた空気が消えていることはわかった。
理渡は、ただ、そこにいた。
何を思案することもなく、ただ、風に撫でられるまま。
「終わったのね」
最後にそう呟いた。
●
金沢駅で久しぶりに顔を見た理渡は、相変わらず白色で統一した出で立ちだった。以前は肌寒い時季とはいえ秋であったから、まだラフな格好だったが、流石に雪の降る頃ともなれば、暖かそうなふわふわしたコート……のようなもの、防寒を重視した服装に変わっていた。あいかわらず女性服方面には疎いため、そのセーターだかコートだかよくわからない上着の名前は思い出す前からそもそも知らない。よく見ると同色のスカートだと思っていたものと繋がっているようにも思えるので、もしかしたらワンピース状になっているのだろうか。女性のお洒落界隈は夜の闇以上に理解しがたい。
「真舘さんは?」
理渡が聞き返す。
「俺もこれがはじめてだ。いつもは夜行バスか特急を使う」
「昔は、寝台車があったと思うのですけど」
「廃止になったんじゃないか。新幹線があればすぐだし」
「少し、残念。私、時間をかけて夜を行く旅も、気に入ってましたのに」
料金的にも新幹線より安上がりだしな。そう思ったが、口には出さなかった。かわりに水を口にして言葉ごと飲み込む。
「俺は夜より昼間の旅がいい」
「……まだ、夜が怖いですか」
そう言われて、自分の発言に無意識が働いていたのをはじめて自覚した。
「どうだろう……。たぶん、今はまだ恐ろしい、のかもしれない。たぶんだが。ここ最近は、夜中に意識するようなことは無くなったんだが」
まだ胸に何かが引っかかっている。
そんな切りの悪い、わだかまりがあった。
「もう、アレはいませんよ」
理渡は、蜘蛛、という単語を使わなかった。こいつなりの気遣いだろうか。
「……本当に、蜘蛛は死んだのか」
それでも俺は、厄払いの意もこめて、あえてその名を口にする。
「ええ。真舘さんのおかげで」
「おかげ、ね……」
俺は水を一口飲み下しながら、あの夜のことを思い返す。
避けるように今まで当時の状況を考えないようにしてきたが、数ヶ月経ってようやく冷静に判断できるようになった、気がする。
「……確か、古き神は死なず、か。それなら、死んでしまったってことは、やっぱり蜘蛛は神ではなく、ただのケダモノだったんだな」
「それは、どうでしょう」
理渡のその声音は、淡々としたものであり、うっかり聞き逃してしまいそうなほど、大して感情が込められていなかった。話の流れに、ふと出てきたぐらいの、そんな普通さ。しかし、そこには得体の知れない異なる世界の普通が混ざっているように、俺には思えた。
「どう、とは」
「真舘さんのお話では、蜘蛛は海まで執拗に追ってきた、と」
俺は曖昧な頷きを返す。
「もし仮に、蜘蛛が単なる動物だったとして。同じ獲物を、何時間もかけて、最後には自分の苦手な海の中まで追いかけていくでしょうか? それはあまりにも、危うい行為のはず。ともすれば自滅するようなものは、もはや習性とは呼べません。現に、蜘蛛は命を落としました。であれば、それは本能にもとづくものでは無かった、と考えるべきでしょう」
「本能でないなら……理性、だとでも?」
「厳密には、人が持つ理論的思考とは、異なるものかもしれません。けれども、身の危険を顧みずに、一つのものに執着する。それは、果たして単なる動物がすることでしょうか」
「あいつには、意思のようなものがあったとでも」
「少なくとも、対象を明確に定め、どこまでも追いかける、執念のようなものは。怒りは原始的な感情の一つ。自分を傷つけ、己の爪から逃れた獲物に対し、尋常ならざる怒りを覚えていたとしても、不思議ではありません」
それは身にしみるほど、よくわかる。
俺は何度となく、蜘蛛から怒りにも似たものを感じていた。それはどこまでも追いかけてくる執念深さ、おぞましく蠢きこちらを狙う脚の荒々しさ、俺の血がべったりついた車を夜の海でバラバラに引き裂いた狂乱。そうした行動の端々に、獲物に対する恐ろしいまでの執着だけではない、激怒めいた振る舞いが表れていた。
「神ではないが、ケダモノでもない。ある程度の知能を持つ、たとえば、猿やカラスといった生き物と同じようなものか」
「世が世なら。あれが文明を築き、繁栄を謳歌するようになるほど、進化していた可能性も、皆無ではなかったでしょう」
それは、ぞっとする想像だ。
あんな化け物が群れ集まって黒い海原となり、大地の上を蠢いていく。
いや、もしかすると、太陽の光が届かない地底の奥底で、本当にそんな世界が広がっていたのかもしれない……。
そんな想像を頭からかき消すために、俺は冷たい水で喉を潤さずにはいられなかった。
「……まるで大昔のSFに出てくる、恐竜文明のようだ」
「あれだけの大きさなのですから。人間より大きな脳と、それに見合った知能があったかもしれません」
「それはどうかな。たとえば恐竜は体が大きいが、脳そのものは小さかった。見た目と中身が比例するとは限らんさ」
「ふふ。そうですね」
理渡は小さく笑う。皮肉げに、自嘲するかのように。
「実際には、そのような進化は、起こりませんでしたけれど。環境か、あるいは種としての限界か。現代では、もっと矮小なものに成り果てています。幸いなことに、零落する前の蜘蛛も、さほど強大なものではなかった。今回、真舘さんお一人だけで解決できたのも、相手が古き神と比べて、はるかに低級の人ならざるモノだったからでしょう」
「俺は何度も死ぬかと思ったんだぞ。あれでまだ低級というのか」
呻いてしまいそうになる。
命を落としかけながらも、なんとか滅ぼした相手が、取るに足らない存在だったなどと。
「……だが、考えてみれば、人間が武器なしで殺せる野生動物なんて、そうそういないしな。種類によっちゃ犬にだって負けるんだ。ましてや、あんな化け物相手に、車とガソリンだけで俺もよくやったよ……」
「ご苦労様でした」
理渡は小さく会釈するように、俺に頭を下げた。
「本当なら、それは私の役目でしたのに」
「むしろ、あれだけ致命傷を負って、よく生きてたよな、おまえ。神を殺せるのは同じ神だけ、だったか。だから神じゃない蜘蛛は、神の末裔であるおまえを殺せなかった」
「もう少しで、本当に死んでいたかも、しれませんけれど」
理渡はそう嘯き、ふふ、と笑う。
「神というのは出鱈目だな。串刺しにされて平気とは」
「いいえ、とても痛くて、苦しくて。まったくの平気とは、言えませんでした」
「……すまん」
「お気になさらず。もう、済んだことですから」
俺は隣に座る理渡の首筋を見る。
記憶が確かなら、あの夜、理渡の身体は蜘蛛の牙を杭のごとく打ち付けられ、貫かれていた。今は服で覆われているため胴のあたりをうかがうことはできないが、首筋も抉られていたはず。だが、そこに傷跡は見当たらなかった。
あの夜の全てが夢だったかのように。さも、生まれてこの方、傷など負ったことなど無いとでもいうように。初雪のような白い肌には何の痕跡も無く、ただ冷たい美しさを放つのみ。
「…………」
まじまじと眺めるのも気が咎めたので、誤魔化すように水を飲む。と、そこでペットボトルは空になってしまった。
二本目を取り出し、キャップをひねって開けようとした時。
「真舘さん」
理渡が声をかけてくる。
車内にわずかに漂っていた喧騒が静まった。
他の乗客の気配は消え、俺と、理渡だけが残る。
夢を見ている。そう悟ると共に、理渡が俺に手を差し伸べてきた。
「前回から少し時間が空きましたから。そろそろ乾いてきた頃でしょう」
「いや、大丈夫だ……」
俺は誤魔化そうとした。だが、喉の渇きは正直で、理渡の白い手指を見ただけで、生唾を飲み込まずにはいられず、それを隠すこともできなかった。
理渡はそんな俺を見て微笑む。
「さあ、どうぞ」
顔のすぐ前に手がかざされる。それは有無を言わさぬ欲求を引き起こすものだった。
俺はしばし抵抗したのち、屈した。
理渡の人差し指を食む。
手から指が溶け離れる。
俺の口の中に残った人差し指も舌の上で溶解し、冷涼で芳醇な液体が喉へと注ぎ込まれた。
飲み込む瞬間、思わず目を閉じてしまった。再び開けると、車内には目覚めの世界の空気が戻ってきていた。
ちらりと隣席の理渡の手を見るが、そこにはちゃんと五本の指が左右とも揃っている。
ここ数日続いていた喉の渇きはすっかり癒えており、さっきまで何本でも飲み干せると思っていた水のペットボトルも、今では邪魔な荷物にすら思えてしまう。
喉を手でさすりつつ、安堵感と一抹の不安感に包まれる。また、耐えることができなかった。
……俺が大学や故郷から距離を置いたもう一つの、そして決定的な理由が別にある。
あの日から、俺の体温は戻らなかった。
最初は海に落ちたことによる体調不良か何かだと思っていた。しかし一向に回復する気配はなく、また自覚症状もないほど肉体そのものは健康だった。時折、自分の顔を指で触った時に低体温を感じ、そういえば俺の身体は冷たくなっていたんだな、と思い出す程度である。
それだけなら、まだ極度の冷え性だと言えただろう。
真に尋常ではない変化は、喉の渇きとして現れた。
水。それも冷たい水を、思う存分飲み干したい。まるで真夏の日向を何時間も歩き続けて、ようやく水のみ場を見つけた時のような、どうしようもなく抑えがたい衝動。
異様なのは、どれだけ飲もうと渇きが癒えないことだった。人間の身体はこれほどまでに水を飲めたのか、というほど飲み続けたこともあった。それで一時は治まるが、やがて乾きはすぐに戻ってきてしまう。まるで自分が、水を汲めども汲めどもすくいあげられないザルになったかのように。
唯一、これを治せたのは理渡の水だけだった。
眠りの中で、理渡は時折俺の夢の中に現れた。そこで今しがたのように、理渡から水を与えられると、翌日には正常な肉体に戻っているのである。
これまでに三度、俺は理渡からの水を口にし、その都度、不安と後悔が心に蓄積していった。これではまるで、麻薬の禁断症状ではないか、と。しかし結局、渇きの欲求に抗うことはできなかった。そして今もまた……。
時々、俺は考える。自分はあの夜、本当は死んでしまったのではないだろうか。
今の自分は、理渡が尋常ならざる手段で蘇らせた、不完全な死者ではなかろうかと。
――おかえりなさい――
菊理媛の伝説。黄泉の国との境にて、生者と死者とをとりなした神。
生と死の境をも行き来できるなら、あるいは。
人間の世界から外れた存在になったのだろうかと不安に駆られるたび、そんなことを思わずにはいられなかった。
正気であれば、理渡の誘いは断るべきだったのかもしれない。関東方面へ出かけるから、ついては手伝って欲しい。それは、どう考えても、境界の向こう側に関する事柄のはずだ。
しかし理渡がいなくなった後、俺のこの身体は果たしていつまで持つのだろうか。そんな不安が、旅の同道を了承する要因となった。
それに。俺は理渡のいない北陸に残ることを恐れた。少なくとも理渡は、まだ人間に近しい存在だ。それから離れるより、なるべく傍にいたほうが、より安全であると、俺は考えたのだ。もしかするとそれは、狂人の理屈だったかもしれないが。境界の向こう側を見てしまった俺にとっては、理渡という少女が守護女神にすら思えていたのである。
「……俺のこの身体は、いつになったら治るんだ。そもそも、治るものなのか」
「今しばらくは、我慢してください」
理渡はそれだけ言って、目を伏せた。
今しばらくは。その後、完治するのか。それとも、慣れてしまって気にならなくなるのか。そのどちらだろうかと、俺は思った。
いずれにせよ。それは、これからも俺と付き合いが続いていくことを前提としている。
俺は、いつまでこいつと関わっていくのだろう。
「なんで、俺なんだ」
問いかけに、理渡は視線を返してきた。
「なぜ、俺に今度の依頼を持ちかけた?」
蜘蛛にまつわる一件は、原因である俺が関わるのは当然だった。むしろ、俺のほうから首を突っ込ませてもらったと言うべきだろう。
しかし。それが終わってなお、俺に新しい話を持ちかける理由がどこにある。
「俺は命を救ってもらったし、身体のことがあるから、おまえに協力するにやぶさかじゃない。だが、俺は単なる人間だ。おまえの用事を手伝える充分な力なんてない。蜘蛛を退治できたのだって偶然だ。なのになぜ、また俺を呼んだ」
「ご謙遜を」
理渡は静かに微笑をたたえて答える。
「真舘さんの、夢見人としてのお力は、現代では稀有なもの。あなたは、境のあちらとこちらを行き来できる方」
なるほど。それか。
境界を超えて、人ならざるモノの世界を垣間見られるのは、俺以外にはいないのだろう。
「その力をこれからも使う機会があると」
「かも、しれません。それに、私は外の世界には不慣れですから。真舘さんがいてくだされば、心強いです」
「どうにも、ていの良い捨て駒にでもされそうな気がするな」
嘆息交じりに呟くと、理渡は吐息をかけるように答えた。
「まあ、酷い。私、自分を好いてくれる殿方を無碍に扱うほど、薄情ではありませんよ」
「……は?」
一瞬、理渡が言い間違えたのかと思った。
「逆じゃなくてか?」
これまで度々、理渡は俺を誘うかのような口ぶりや仕草をしてきた。無論それはこちらをからかっての冗談にすぎないが。少なくとも、俺から向こうにそんな言葉を投げた覚えはない。
「もう、忘れてしまったのですか。最初に出会った時、あんなにも情熱的なことをおっしゃっていましたのに」
ますます意味がわからない。
最初にこいつと出会った時? 鶴来駅で? だが、俺には初対面の女性を口説くような趣味はないし、そんなセリフを口走った記憶もない。まして、あの頃は得体の知れない理渡のことを警戒すらしていた。毛先ほども好意的な言葉を口から出すだろうか。
こいつはいったい、何のことを言っている?
「いきなり私の名前を、お呼びになって。私、あんな言葉をかけられたの、はじめてだったのですよ」
「名前?」
理渡の名前。
理渡……そういえば、これは苗字のようだが、だとしたら下の名前は?
「おまえの名前……」
「ご存知でしょう。私、理渡 夢と申しますの」
リワタリ、ユメ。
夢。
こいつとはじめて出会った時。
――お前は、俺の夢なのか?――
「…………」
合点がいった。
だが、なんだそれは。
発音のイントネーションで、名前を呼んだわけではないと分かるだろう、普通。
それより文脈でおかしいと思わなかったのか。
「おまえ、あれは……っ」
そうした憤りにも似た感情をぶつけようとして、俺は、理渡がこちらに笑みを向けているのに気づいた。ニヤニヤと、ニマニマと。大きな目を半月のように細めて。眉を流れる雲のように上げて。小さな唇を湖面に映る夕陽のように弓なりにしならせて。イタズラをしかける少女のような、あるいは罠にかかった獲物を前にした蛇のような微笑みを。
「……分かってて黙っていたな、おまえ」
「ふふ、ふ。さあ、なんのことでしょう」
理渡は白々しくとぼけながら、愉快げに目を閉じた。
その理渡の向こうで、窓に映る景色が動き始めた。
「あら、まったく揺れませんでしたね」
「噂には聞いていたが、本当に出発しても気づかないんだな」
滑るように走り出した金沢の冬景色を、理渡はしげしげと見つめる。別れを惜しむ風でもなく、ただ見たことのない新しい光景に興味を引かれるように。
俺はそんな、珍しく見た目相応の少女のような理渡を見て自問する。
こいつの正体はいったいなんだ。
境の神。古き神の末裔。あるいは、人をおちょくる思わせぶりな女。氷のように怜悧で、水のように慈悲深い少女。
本当に、それだけか?
一つだけ、理渡に問いかけていない疑問がある。問いかけられない疑問が。
あの夜、蜘蛛を深海の底に引きずりこんだ存在。
生還した後、石川まで戻る鈍行列車の中で事の顛末を説明した折、それについて理渡は何も言ってこなかった。
その時は、疑問にも思わなかった。あれは、かつて家永が言っていたような、もう一つの怪異。蜘蛛と同じく、境界の向こう側にいる、富山湾に潜む人ならざるモノだと。同じく人外の世界の住人である蜘蛛に惹かれてやってきた、人智の及ばないものだと。
だが、それはあまりにも都合が良すぎないか。
あの夜、俺が蜘蛛を追い詰めた防波堤の近くに、たまたまもう一つ別の怪異がやってきていた。ありえなくはない。しかし、あの広い富山湾の、小さな一角に、二つの怪異が偶然集まるだろうか? 全てを偶然で片付けるには、あまりにも確率が低いように思われた。
少なくとも蜘蛛のほうは、俺が誘導したのだから、あの場所で海に落ちたのは偶然だ。ではもう一方、未知の怪異のほうは? それが蜘蛛と同じ場所に現れたことに、何かの必然性があったのではないか?
ではその要因は何か。思い当たる節は一つだけあった。理渡が俺に渡した御守。その中に書かれていたのは、
『もし私の身に何かあった時は、私の荷物を全て処分してください。できれば地元の手取川か海に投げ捨ててしまいますよう』
という一文。
実はこの指示は、予期せぬ形で実行されていた。蜘蛛が俺を車ごと海に放り込んだ時、後部トランクにあった理渡の荷物もまた、海の中へと失われたのである。
俺はこの文章を遺言だと思っていた。しかし本当は違う意味だったのだろう。
サメは数キロ先からでも海中に混じった血の匂いを嗅ぎ分けるという。蜘蛛にして、俺の血の匂いを追って山から海への追走劇を展開した。もし、理渡の荷物の中に、人ならざるモノを呼び寄せる何かがあったとしたら。それが海に投じられることで、切り札というべき富山湾に潜む何かを召喚できたのだとしたら。
蜘蛛に挑む前、理渡は「今夜は殺す準備が整っていない」と言っていた。御守の指示の中に『手取川に』という一文が入っていたのを見るに、富山湾の怪異は川を遡れるのかもしれない。理渡の言う準備とやらが、怪異を呼び寄せるためのものだとすれば、場合によっては俺が海で見た光景を山中で繰り広げるつもりだったのだろう。
なるほど、そういうことか。と俺は一度は納得した。
ありえない。この論には穴がある。
理渡は俺に、御守を通して富山湾の怪異を呼び寄せるような指示を伝えた。だがそれは、蜘蛛が海や川の近くにいなければ、何の意味もないものだ。もし蜘蛛を阻止するための最後の作戦であるならば、そのことも明記しておかなければならないはず。
それに『手取川に』という指示は明らかにおかしい。富山県で進行している事態に対し、なぜ石川県の河川にそれを投じなければならない。なぜそこなのだ。
恐らく、理渡の指示には、まったく別の目的があったはずだ。今度の結末は、俺が一人で蜘蛛と戦おうとしたことは、理渡にとっても予想外のことだったのだろう。最終的に事態が解決するかたちで終息したとはいえ、それはあまりにも危うい綱渡りの結果であり、事前に予測できるわけがない。
では理渡の本当の思惑はどこにあったのか?
手取川という場所にはどんな意味がある?
手取川。白山から流れ出でる川。白山。白き神の住まう山。シラヤマガミ。今では白山比咩神、白山妙理権現、あるいは菊理姫と呼ばれる神。
かつて家永たちと喋りあった会話を思い返す。
修験者の泰澄が白山を開いたきっかけは、山頂の御前峰で瞑想する彼の前に白山権現の化身たる九頭竜王が現れたことだとされている。
九頭竜。九頭竜川。その川の名もまた、白山権現と関わる由来を持つ。白山権現と共に九頭竜が現れたことで、以来この川を九頭竜川と呼んだ、という。
九頭竜川を遡ったところにあった、黒瀬神社。
俺はそこで九つの箱を見、そのうちの一つを持ち帰った。その箱は理渡の手に渡り、そして、なぜか、それが俺の車に積み込まれた荷物の中に混ざりこんでいた。
理渡がその箱を持ち込んだ理由はなんだ?
中身のない、空っぽの箱を、なぜ持ってきた?
いや。本当にそれは、中身が無かったのだろうか。
――空っぽ?――
――ああ、空っぽだな――
――そう――
あの時、理渡はなんと言った?
――あなたには、そう見えるのね――
俺には、空っぽに見える。
理渡には、どう見えた?
俺の夢見人としての力について、確かめていないことがある。
俺は理渡をはじめとして、普通の人間には見えない世界、境界の向こう側を見ることができるらしい。それは、俺の目というよりも、脳か、あるいは非科学的ながら魂めいたものが、そうした世界と同調しているため、なのかもしれない。
ではその逆は? 俺には普通の人間に見えないものが見える。ならば、普通の人には見えて、俺には見えないものはないのか?
箱の中身を見た時、俺はどっちの世界を見ていた?
あの、まるで首桶のような形をした箱。
黒瀬神社に九つ並べられていた箱。
九つの頭をもつ龍にまつわる川のほとりにあった、九つの首桶のような箱。
その中身は、本当はなんだったのだ?
仮にそれが、正真正銘の首桶だったとして。
中に収められていた首は、果たして人間のものだったのだろうか。
連想ゲームのように、思考がどんどん先へ進んでいく。闇雲に想像が広がっていく。しかしそれは、いずれ元の疑問に収束するだろうと、確信に近い予感があった。
白山の神と九頭竜。両者が、化身というかたちで同一の存在だとしたら、シラヤマガミの末裔である理渡はどうなる。理渡にとって、化身とはなんだ。自分の先祖たる神のみに関する事象なのか。それとも。
俺にはどうしても腑に落ちないことがあった。
理渡は生きていた。普通の人間なら致命傷だろう大怪我を幾つも負って無事だった。流石は神の眷属というべきか。
本当にそうか?
理渡はかつて『自分は人間の血のほうが多い』と言ってはいなかったか? それでは人間にとっての致命傷を受けて、完全に無事であるだろうか? なぜ、傷跡の一つも残っていない?
神の血をひく者が、不死身に近い肉体を持つという話は、世界の神話にはゴロゴロしている。ヘラクレスしかり、ケイロンしかり、英雄譚の登場人物は神の子として、不死性を持ち合わせている。理渡もそうした、不死の存在なのだろうか。
蜘蛛に喰われたのに?
そう、喰われたのだ。俺は蜘蛛の牙に貫かれた理渡しか見ていない。それでもその後に起こった、おぞましい行為を想像することはできる。蜘蛛は人間を殺すだけではない、喰らうのだ。山壁と宵満の身体の一部と、家永の身体全ては、いまだ見つかっていない。どこへいったかは明らかだ。
理渡はどうやって、あのアギトから逃れられたのだ? それとも、赤頭巾や白ヤギの童話のように、蜘蛛の腹の中から復活を果たしたとでも?
ナンセンスだ。いくら常識外れの神様だからといって、バラバラにされて無事に済むとは思えない。ビデオ映像を逆再生するように、何もかも元通りになるものか。ましてや、人間の血のほうが多いというやつが。
俺は、窓の外の景色に見入っている理渡を見る。
こいつは、俺の知る理渡なのだろうか。
俺を助けてくれた、あの理渡は、あの夜たしかに殺されていた。
その傷跡がまったくないこいつは、誰だ。
会話におかしなところはない。俺との記憶はあるらしい。
しかし……。
理渡は、今日も、あの再会した朝も、同じ白のつば広帽を被っていた。もはやこいつのトレードマークのようになっている。
それは、あの夜、後部トランクに納められていたものであり。車と共に海の中へ没したはずだった。
なぜ、それがここにある。
どうやって取り戻したのだ。
俺の脳は、これらの断片を拾い上げて、ある想像をかたちづくる。
……理渡は一度死んだ。完膚なきまでに死んだ。しかしそれは理渡という存在を構成する、一部の化身が失われたにすぎない。
それから俺の車と共に海中に没した、首桶。あの中には九頭竜、九つの頭をもつシラヤマガミの化身の一つが納められていた。それが海、すなわち水に触れたことで、本来の力を取り戻した。復活した。
そして、その化身が今度は二人目の理渡となって、俺の前に現れたのではないか。
復活した時に一緒だった、白のつば広帽を携えて……。
――あなたは……なに?――
無論、根拠などどこにもない。完全なる、俺の創作だ。
こんなもの、いくらでも反論できる、杜撰な、落第必至のトンデモ論文だ。
しかし……俺はそう思わずにはいられない。もしそうでないというなら、その証拠が欲しい。この想像が間違っていると、誰か証明してくれ。
だが、ある一点、ある直感だけが、決定的に真実を仄めかしてくるのだ……。
「あら、残念。見えなくなりました」
思考の海に沈んでいた俺は、理渡の声で現実に戻った。
窓の外は高架沿いに建てられた防音壁に遮られ、灰色一色に塗りつぶされていた。
まるで地下鉄にでも乗ったかのように、外の景色は消え去り、無機質で変化のないパターンが規則正しく繰り返すだけ。
いつかそれが途切れるのを待っているかのように、理渡は窓のほうへじっと顔を向けている。
俺は理渡越しに窓を見た。
冬の北陸の朝は日も遅く、曇天の下、夜のように気だるく暗い。
外が暗く、中が明るいため、車内の光景が鏡のように窓に反射していた。
ふと、視線が合う。
俺の目は自然に、窓に映る理渡の大きな目に吸い込まれていった。
互いに同じ方向を向きながら、俺たちは見つめあう。
理渡の目は、大きく、水面のようにきらめき、氷柱のような妖しい光を宿している。
それを見るうち、記憶が過去へと戻されていく。
あの夜。あの海。
水平線の彼方に浮かぶ、金色の月。
太古の怪異を葬り去った、深淵の怪異。
俺にはわかる。この直感は決して間違ってはいない。
あれは目だ。月無き夜の闇の中で唯一輝く、巨大な目だ。
そしてそれは、まぎれもなく理渡の目だったのだ。
完
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