三 船岡神社


「そんなやつに心当たりは無いなぁ」

 研究室に顔を出した折、鶴来駅で出会った女について坂井に尋ねてみたが、空振りに終わった。

「まず三年にはいない。一年二年はちと自信が無いが、そんなのがイタズラ仕掛けてくる理由もわからんし」

「他の学部の可能性まで考えると埒があかん」

「それこそ俺にゃお手上げだ。まあとにかく、俺は知らん、わからん、すまん、と」

「いや、謝るのはこっちのほうだ。悪かったな」

 駄目もとで聞いたのだ。こうなることも予想できていた。

 結局、あの奇妙な依頼が何だったのか、あの女が誰だったのかは、分からずじまいだった。わからないことだらけで、気持ちの悪い不完全燃焼が、俺の胸の中で燻っている。このモヤモヤが解消されないのは、どうにも落ち着かなかった。

「なんかの詐欺でなければ、それで良いんだがな……」

 報酬の五万円はいまだ支払われていないものの、福井までの交通費は、経費として渡された三千円で相殺されてお釣りがくるほどだ。少なくとも俺は損をしていないから、俺を対象とした詐欺であるとは思えなかった。

「ところで今日先生は?」

「今だとタバコ休憩じゃね。屋上か、中庭か……」坂井は窓から中庭を見た。「お、下にいるぜ。また戻ってくるまで仮眠するのか?」

「いや、今行ってこよう。明日はまた休むからな」

「天気予報じゃ明日は晴れだぜ」

「いや、そっちじゃない。あー、まあ、それに関連した話なんだが……。医者にな」

 そっかそっか、と坂井は納得して頷いた。

 俺は嘘を言ったわけではなかったが、それでも少しの後ろめたさを感じた。


 溺れる者は藁をも掴む。俺が藁にすがったのは、鶴来を訪れてから数日後のことだった。

 あいつの言うことを完全に信じたわけではない。だが、そんなことがどうでも良くなるほど俺は毎夜の地獄に苦しめられていた。まだ冬至まで数ヶ月あり、これからどんどん長くなっていく夜に耐え続けることなど、想像しただけで発狂しそうだった。

「もうインチキだろうとプラシーボだろうと何でも良い、この生き地獄が少しでもマシになるのなら……!」

 あるいは、心身ともに疲弊しきって正常な判断力が死んでいたのだろうか。震える指で電話を操作する間、俺の行動は半ば無意識が司っていた気がした。

『お待ちしております』

 電話口に出たヤツの声には、わずかに嬉しそうな色が混ざっていた。それが社交辞令的なものか、それとも嘲りによるものかは、わからない。

 リダイヤルを使ったのに、今度は電話が通じたことについて、俺は無視を決め込んだ。


 ●


 また昔の夢を見ている。

 ここはサークルの活動場所として使っていた会議室だろうか。

「明日、鶴来へ行くことになったんだ。神社に」

 そう呟くと、山壁が反応した。

「初詣かー。比咩ひめ神社だっけ」

「違うさ。こいつに会いにいく」

 俺は壁際にあった冷蔵庫を開き、中に納まっていた女を取り出す。

 白いつば広帽に白のワンピースをした、黒髪の女。鶴来駅で会った少女。

「はじめまして」

「やあ、こんにちわ」

 なごやかに挨拶をする皆を尻目に、俺は女を近くにあった椅子に降ろす。

「あなたが、真舘さん?」

 記憶のどこかにあるセリフを、女が口にする。

「これは俺の夢だ」

「あなたの、夢」

「そうだ。おまえも俺の夢だ」

 女は頷き、目を閉じて微笑む。

「私は、夢」

 珍しいこともあるものだ。夢が自分を夢だと認めた。

 俺は少しばかり感心しながら、あらためて家永たちと向き合う。

 ここは、いつの時間の夢なのだろう。

 きっと、皆で初詣に行く相談をした日の記憶だ。

「白山の神といえば、菊理姫くくりひめか」

「お、宵満知ってるの」

「聞いたことがある。名前以外は、よく知らないが」

 皆の視線が、家永に集まった。この中で一番、そういうことに詳しい男に。

「……白山は日本三霊山の一つと言われている。昔から修験道の聖地として、信仰の対象として、けっこう有名だったんだ」

 家永はそんな切り口で語り始めた。

「白山信仰の歴史は古い。あまりにも古い。下手をすると縄文時代まで遡る。元々はシラヤマ神と呼んだらしいけど、今でもシラヤマさんと呼ばれて親しまれているね。特に手取川流域の農耕民は、恵みの水をもたらす神として、また水害をもたらす神として、白山を敬い畏れ祀っていた。面白いことに、白山の神である菊理媛には、水神ではないか、という解釈があるんだ。ククリという名前は、縁を結ぶ『括り』に通じるというのが、よく知られているけれど、その他に『水に潜(くぐ)る』という説もあってね」

「色んなゲームでキクリヒメが水属性になってるのは、そういうことか」

 そんな合いの手を入れたのは、その場にいた誰だったろう。

「そういうこと。しかしこの菊理媛、どうにも掴みどころのない神様でね」

「知ってる。日本書紀の一場面にしか出てこないんだろ。黄泉比良坂を逃げるイザナギにイザナミが追いついたところで、菊理媛が仲裁した、っていう。だから縁結びの神様なんだって」

「もちろん、それもある。おまけに、その場面ですら菊理媛にはセリフが一言もない。何か良い提案なり発言なりして、イザナギに褒められたとしか書いてないんだ。さっきの水神の話に戻れば、その後イザナギが禊をしていることから、川の水で身を清めるよう進言したのではないか、だから菊理媛は水神だったのでは、という説を唱える人もいる」

 しかし、と家永は続ける。

「しかし。そういった神そのものだけじゃなく、白山の神として祀られていることも、どうにも怪しいんだ。総本山たる白山比咩神社に元々祀られていたのはイザナギとイザナミで、菊理媛じゃなかった。それが、今では二柱をおいて菊理媛が主神となっている。一体、いつ、どうして、この女神が登場してきたのか。

 資料は残っていない。実は、比咩神社の祭神が菊理媛だと記した最古の記録は現存していなくて、後世の書物に『そう書かれていた』と言及されているだけなんだよ。さあ、急に話が怪しくなってきただろう。研究者もそう考えているみたいでね。本当は記録が残されていないのを良いことに、後からでっちあげられた可能性も考えられるんだ。陰謀論だね。唯一の問題点は、そんなことをしてまで白山の神をマイナーな菊理媛だとした動機はなんだったのか、ってことなんだけど。だって、そうする必要あると思うかい?」

 語り続けてきた家永の目は、怪しい光をたたえていた。

「別に僕は、菊理媛のククリという発音がどうとかは言わないよ。ただ、土着の白山信仰には、色々と思うところがあるんだ。そもそも、白山、白い山の神とは何だろう。

 古代において白色は、木の皮を剥いだ時に見える下地の色を差したという。それは生命の象徴であると同時に、空白や無色を表す色として、死とも結び付けられた。生と死、両方の意味を持つ色が白だ。そして山。山は天に近い神の領域であり、また死者の魂が辿りつく死後の世界と見なされた。聖域であり、異界でもあった。

 僕の考えを言うとね。白山の神は水の神だけでなく、境界神でもあると思うんだ。水を産み川を産む分水嶺、みくまりの神。生者と死者、この世とあの世の間に立つ境の神。その両面を持つのが、あの山に在します白き神の正体ではないか、と」

 生と死の白を象徴とする、山の神。

 生と死の間をとりなす、境の神。

「橋姫の伝説のように、橋を渡った先は異なる世界、なんて考え方もあるけれど。川や水に対する概念と境界にまつわる概念は、実は非常に似ているのかもしれない。だからこそ白山の神には、同じく水と境界の神である菊理媛があてられたのやも。そう考えると、白山権現と菊理媛の同一視は、実は陰謀でも何でもない、順当なものだったのかもしれないね」


 ●


 鶴来駅から車で数分の距離にある船岡神社は、町中の小さな神社だった。

 よくある郊外に取り残された神社と比べれば境内もこぢんまりとしており、植えられている松などの木々も、鎮守の森と呼ぶには程遠い数しかない。

「こちらへ」

 鳥居のところで、あの女に出迎えられ、俺は社殿の横にある社務所へ通された。今日は以前のワンピースとは違ってシャツとスカート姿だが、上下とも色は同じ白だった。

 神社としては小規模だが、それでも敷地は広い。社務所も周りの民家よりは大きく、地主の屋敷と言われたら信じてしまいそうだった。

「お祓いするなら拝殿でやるんじゃないのか?」

「あら。お祓いを、ご希望ですか?」

「いや、いい。当分神様には近づきたくない」

 女はクスクスと笑った。初対面の時ほどではないが、やはりその目と笑い方は、なぜだか妙に障る。

 こいつは、ニッコリとは笑わない。前に聞いたことがある、作り笑いかどうかを見分ける方法は、目元だと。本当に愉快で笑う時、人は無意識に頬の上の筋肉まで動かす。作り笑いは口元だけを動かすから、目元に変化が現れない。こいつのそれは、口の端を小さくしか動かさないから、どちらとも判断がつかないが。どうにも、後者のような気がしてならない。

 中に通された後、しばらく待つように言われた一室は、寮の部屋より広い和室だった。

 部屋の中は無人で、目を引く家具としては、筆や硯が乗った文机がやや奥のほうに置かれていた。こちら側からは見えないが、横に引き出しがついているらしい、木目が美しいものだ。

 座布団は二つ。入り口側と、文机側。俺は手前に敷かれた座布団に腰を下ろした。こういう畳敷きの和室では、無意識に正座をしてしまう。

「お待たせしました」

 しばらくして、やつが戻ってきた。

 俺を待たせている間に、誰かを呼びに行ったものとばかり思っていたが、他に入ってきた者はいなかった。俺の横を通り過ぎ、文机の前の座布団へ静かに座る。

「どうぞ、楽になさってください」

「…………」

「どうされました?」

「いや別に。……なあ、俺は今日、ここで治してもらえると聞いてやってきたんだが」

「ええ」

「誰が治してくれるんだ?」

「当神社の、代表が。あなたのような人を治す術を知っています」

「確か、理渡りと、という名前だったか。その人には後で会えるのか?」

 その問いに女が返したのは、あのクスクスという笑いだった。

「違います。あれはリトと読むのではありません」

「なに?」

「あらためて」瞼が閉じられ、その隙間から愉悦混じりの視線が向けられた。「はじめまして。わたしが、当神社の代表を務めます、理渡(リワタリ)と申します」

「……冗談だろ」

「いいえ。本当です」

 女は――理渡りわたりは――微笑を浮かべた。

「信じては、もらえませんか?」

「あんたが俺をからかっているだけにしか聞こえないからな」

 見た目も印象も、そして年齢も、こんな神社の上に立っている人間とは思えない。そりゃ、世の中には色んな人間がいるだろう。だが、そんな例外が目の前にいると言われて、おいそれと信じるほど、俺は純粋な性格ではない。

 それより、こいつが他人の名を騙っているだけだと考えるほうが、よっぽど理に叶っている。

「ふふ。仕方ありません。すぐには信じてもらえないでしょう」

 意に介した風もなく、理渡と名乗る女は微笑みを絶やさなかった。

「けれど。真舘さん。今日あなたを治すのが私であることは変わりませんよ」

「悪いが帰っていいか」

 藁にすがるつもりだったが、これじゃ藁より、なお悪い。ガソリン代は無駄になったし、これ以上ここに残れば時間も無駄になる。

 俺は立ち上がり、そのまま部屋を出て行こうとした。

「あなたは」

 いきりたって退出しようとする客人に対して、理渡の声には上擦ったり焦ったりした響きは無かった。あったのは、微量の含みをたらした、冷たい息吹だけだった。

「なにを見たの?」

 俺の足は止まった。

「…………」

 部屋の温度が下がったような感覚。体感温度が、一瞬だけ、急激に狂った。

「あなたは、なにを見て」

 刺さる言葉が、記憶にまとわりついてくる。

「なにを知って」

 俺しか知らないはずのことを、知っているかのように。

「なにを、恐れるようになったの」

 そして理渡は口を閉じた。

 問いかけのようでもあり、答えを知った上で言った含みのようでもあり。その後に続いた沈黙が、俺の足と思考を捕らえていた。

「お前は、どこまで知っている」

「なにも」

「じゃあなんで、俺のことを知っている! 俺の。俺の……」

 言葉が詰まる。アレを思い出してはならない。

「いいえ。知っては、いません。ただ、分かるの」

 いつかと同じ答えが返ってきた。

「たまに、いるのです。あなたのように、見てはいけないものを、見てしまった人が。知ってはいけないことを、知ってしまった人が。そのような目に遭った人は、大抵、なにかをひどく恐れるようになってしまう。今のあなたのように」

 俺は理渡を見る。長い髪の間にある左半分の顔から、あの目が俺を上目遣いに射止めていた。

「あなたも理解しているのでしょう。それは医学や科学で治せるものではない、と」

「だったら、神様に祈れば治るのか」

「治すのは、私」理渡の声に、喜悦のようなものが混じる。「信じる、信じないは、お好きなように。私は、今日あなたが私につきあってくれて、それで元通りの人生に戻ってくれれば、それでいいの。そう、よく言うでしょう」

 セリフを呟く役者のごとく、小さな唇がわざとらしく動く。

「『騙されたつもりになって』と。ねぇ、どうか今日は、私に騙されてくれないかしら。これから数時間を、私にくださらない? そうすれば、もう二度とここへ来なくても良くなるから。なにも、氏子になれとか、神様を信じなさいとか、そういうことは求めない。ただ、ここに、この部屋で、私と過ごしてくだされば」

 甘ったるい、熱を帯びるべき言葉が、理渡の誘い込むような声で冷涼に紡がれていく。

 怪しい話だ。それ以上に、やはり、怪しい女だ。すり鉢状の蟻地獄に嵌まりこむような感覚。食虫植物の張る罠が口を開いている錯覚。それらが危機感であるなら、こいつの話に耳を傾けるべきではないかという直感は、妄想か、あるいは希望を欲するあまり麻痺した理性か。

 だが、いずれにせよ今夜もまた地獄が俺を待ち構えている事実は変わらない。虎穴に入らずんば虎児を得ず。どちらに転んでも結局暗黒に襲われるのであれば、毒もろとも皿を食うほうを選んでやろう。

 俺はどっかりと――今度は足を崩した胡坐で――再度座りこんだ。

「……どうせこのまま帰ったって今まで通りだ。聞くだけ聞いてやる。言っておくがな、俺は信心深くない理系の人間だ。それにあんたのことは信用していない。あんたの思い通りにならなくても俺は知らんぞ」

 ついでとばかりに吐き出した嫌味は、理渡には何も与えなかったようだ。

「ありがとう、ございます」

 今度こそ、喜の色を隠さぬ笑顔で、理渡は小さく頭を下げた。


「処置には、ある程度、時間がかかります。それは、よろしいかしら」

 今はまだ昼を過ぎたかどうかという頃。帰りの時間を差し引いても、夜まで十分に余裕はある。俺は無言で頷き、続きを待った。

「あなたが見たのは、人に知られてはいない存在です」

 それだけ言って、唐突にフフという忍び笑いが漏れた。

「いきなり、信用できないことを言ってきたと、思いましたね」

「いいからさっさと言ってくれ。最後まで聞いてから信じないことにする」

 こいつ、人をおちょくりやがって。

 内心で毒づいても、相手には伝わらない。理渡は笑みを潜めて語りを続けた。

「正しくは、人が知ってはならない、隠されている知識。少なくとも、あなたのような、普通の人が知るべきではない。そういうものに、あなたは触れてしまった」

「知識?」

「何をどう見たか、触れたか、知ったかは、わかりません。きっかけはどうであれ、知らないほうが良かった経験を記憶に残すことになる。だから、総じて知識と言います」

「ネットの検索でうっかりグロ画像を踏んじまうようなものか」

「グロテスク……ええ、一般的に苦しみを与える知識は、そうした生理的嫌悪を誘発させるもの。死体、病、腐敗、汚物……今の日本は、飢饉も流行り病もなく、遺体は綺麗に保存されて火葬される。町は綺麗で、血を見ることもない。平和で、清潔で……だからこそ、生々しい死と不浄なるものに対して、心が耐えられなくなっている」

「最近じゃ逆に、ネットで簡単に見れてしまう世の中になったがな」

「でも」理渡は言う。「あなたが見たのは、そういうものでは、ないのでしょう」

「…………」

「それは、人の死体を見るより、誰かを自ら殺してしまうことより、なお恐ろしいもの。人が定めた倫理に対する禁忌ではない、生物としての人間にとって耐え難い、もっと根源的な恐怖」

「それは……」

「さっき、おっしゃいましたね。ご自分が、理系の人間であると。だからこそ、理解してしまったのではないかしら。それが、科学で説明のつけられないものだと」

 そうだ。アレは。ありえない。あるはずがない。

「あなたは知ってしまった。人間の理解の外側に、禁じられた領域があることを。自分という存在を脅かす何かがいることを。そして、それが……」

 それが、なんだというのか。理渡はその続きを言わなかった。

 言ってしまえば、俺にトドメを刺すことであるかのように。

「……随分と、オカルトな話だな」

「いいえ。これは科学のお話」

「科学で説明できないと言ってなかったか」

「今の人間の科学では、理解できないでしょう」

「今は、か。そのうち解明できると?」

 理渡は答えなかった。ただ黙って、口の前に人差し指を立てるジェスチャーをしただけ。言葉にするつもりはないらしい。

「こうした話も、余計な知識を与えてしまいます。真舘さんのように賢い方は、ちょっとしたことからも、真実に辿りついてしまうから」

「それは嫌味か」

「ご謙遜を」

 また、笑う。こいつでなければ、嫌味の無いただの愛想笑いなのだろうが。俺には、どうしてか気に触る。

「それで、結局どうするんだ。俺はその知識とやらを知ってしまった。それが原因で苦しんでいることも認めよう。だが、どうする。どうやって治す」

「選べる道は、二つ」

 理渡は笑顔を潜めた。

「一つは、受け入れること。事実を認めて、あるがままを受け入れて、残りの人生を歩んでいく。以前の生活に戻ることを諦める道」

 論外だ。今まさにその通りの生活を送って、そのせいで苦しめられているのだ。それは何もしないのと同じだ。

「もう一つは」

「もう一つは、知識を忘れること。嫌なことを忘れて、元通りの人生を送る道。あなたに施すのは、こちらの方」

「記憶を、消す?」

「正しくは、思い出せなくする。人の記憶を完全に忘れさせるには、脳そのものを処置しないといけない。封じるだけなら、そんな危険なことをしなくて済みます」

「馬鹿な。人為的に記憶喪失にさせる方法があるなんて、聞いたことがない」

「知らないほうがいい知識ですもの」

 さらりと、冗談に聞こえない遊びを入れてきた。

「……忘れることができるなら、それに越したことはない。だが、得体の知れない方法で頭をいじくり回されるのは御免だ」

「なにも、頭をぶつけて記憶喪失にさせるわけじゃない。私の声をただ聞いて、言うとおりにしてくれれば、あなたに触れずに処置は終わります」

「それは、つまり。催眠療法というやつか?」

「ええ。暗示のようなもの、と思ってくだされば」

 ……催眠術で記憶を操作する、か。

 実際にお目にかかったことはないし、ともすると似非科学に近い話かもしれない。しかし、てっきり加持祈祷でもやるのかと思っていただけに、その妙な説得力ある話が出てきたことに、俺は内心で戸惑っていた。

 怪しげな術だのお札だのを使うと言い出したら、鼻で笑ってやろうとも考えていたのだが。その目論見は、出鼻をくじかれてしまったようだ。

「どうなさいます。よろしければ、今すぐにでも、はじめられますけれど」

 理渡は返答を要求してきた。

 どうにも、不気味な静けさのようなものを感じる。こいつの言っていること、出してきた条件、それらは聞いた限りでは危険があるとは思えない。ただこいつの話を聞いて暗示にかけられるだけで、あの忌まわしい記憶とおさらばできる、かもしれない。成功すれば、願ったり叶ったり。仮に失敗したとして、大きなデメリットが生じるかどうかは……。

「失敗して、無関係の記憶まで失うリスクはないのか」

「滅多にありません。もし、失敗したとしても、ただ封印されているだけですから。後になって思い出すことはできます」

「その時は、あんたにまた頼むことになるのか」

「思い出すだけなら、私は必要ありません。きっかけがあれば、真舘さん一人の力でも、暗示を解くことはできるはず」

「……なら、肝心の忘れたい記憶も、何かの拍子に思い出してしまうリスクがあると」

「理論的には。でも、それはまずない」理渡は笑う。「だって、きっかけが無いのだから。自分から踏み込まない限り、禁じられた知識に触れる機会は、一生訪れない。安心して」

 それには納得できた。俺がこうなった原因からして、およそ尋常ではない経緯を辿った末の出来事だった。あんなもの、普通の人間が何度も遭遇するわけがない。

「他に、ご質問は?」

「……無い、な」俺は無駄な抵抗を諦めた。「あんたは信用できないが、今の説明に怪しいところは、たぶん無かった」

「ふふ、用心深い人」理渡はまたも嫌味をさらりとかわす。「それじゃ、よろしいかしら?」

「ああ」

 俺は頷き、処置とやらについて承諾した。

 そして理渡も頷きを返す。

「それではまず、汗を流してもらいます。お風呂の用意はできておりますので」

「……なんだって?」

 しばらく、何を言われたかが理解できなかった。


 ◇


 風呂を浴びてさっぱりとし、用意されていた浴衣に着替えて再び和室に戻った時には、畳の上に布団が敷かれていた。掛け布団はなかった。

「そこへ横になってください」

 促されるまま、布団の上に仰向けに寝る。

「催眠術を、試してみたことはありますか?」

「いや、ない」

「それでは、私の言うことを聞いて、その通りにして。力を抜いて、呼吸をして、心を落ち着かせて……途中で眠ってしまっても、構いません。これが治療なのだと考えずに」

「寝てしまったら暗示にならないんじゃないのか」

「大丈夫。それより、疑ったり、反発しようと意識しては駄目。途中で意識を覚醒させたら、最初からやりなおしになります。夢を見ている時のように、ただ流されていってください」

 言われるがまま疑うな、ということか。若干の不安を抱きつつ、努めて理渡への不快感を今しばらくの間だけ胸から追い出すことにした。

「はじめます。目を閉じて……」

 瞼を閉じ、視界を消す。

「息を吸って……吐いて。吸って……吐いて。……息を吐く時に、手足の先から力を抜くよう意識して……」

 穏やかに呼吸し、手足を脱力させていく。

「魂が抜けるように……手足が、布団の下へ落ちていくように……」

 傍らに座る理渡の、囁く声が耳朶をなでる。

 しばらくそうして、言われるまま呼吸と脱力を繰り返していった。入浴と、身を横たえたことで、心地良い睡魔のようなものが、じわりじわりと広がっていく。このまま眠ってしまいそうだ。そうしても構わないと言っていたが、その言葉に甘えても良いだろうか……。

「……あなたは今、部屋の中で寝ています。目を閉じていても、周りに何があるか、見ることができる……」

 理渡が今までとは違う言葉を口にする。

「障子窓から、穏やかな午後の光が差し込んでいます。あなたの足の方には机が置かれていて、その上に筆や硯もある……風が木々を揺らす音が、枯れ落ちた葉が玉砂利の上に落ちる音が聞こえます……」

 記憶を辿るように、和室の中の光景がありありと浮かんでくる。瞼に感じる光から、暗い室内に差し込む陽明かりを。耳に触れる音から、窓の先にあるだろう秋の景色を。

「……障子窓に、落ち葉の影が、映っています。紅葉の葉が、ひらひらと、風にあおられて。一枚、二枚……また一枚……」

 五股の葉が、落ちていく。幻燈のように、影が障子窓と、畳の上に落ちる。

「段々、落ち葉の数が増えています。いくつも、いくつも。季節が、秋から冬へ向かっていきます……陽が傾いていって、ゆっくり、ゆっくりと、赤くなっていく……」

 畳に落ちた日向が、滑るように壁のほうへと移動していく。光は弱々しくなり、待ってくれ、瞼に感じる光が白色から橙色へと変わっていく。

「……夕焼けが、見えます。山影に陽が沈んでいこうとしている。東の空は青紫色に染まって、もうすぐ星も見えてくるでしょう……」

 最後の残照が、待ってくれ、山の木々の隙間から断末魔を叫んでいる。待ってくれ。陽が沈んでいき、やめろ、赤焼けの空も、やめてくれ、力尽きていく。

「町の家々に、街灯に、灯りが点っていくのが見えます。空には星の光が、一つ、また一つ」

 和室に灯りは点らない。駄目だ。部屋の四方の角は暗くて見通せない。やめろ。黒い何かが、忍び寄ってくる。助けてくれ。来る。俺の足元まで来ている。ここから出してくれ。

「そして」

 やめろ、言うな、それ以上時を進めないでくれ。助けて。

「夜が」

「やめろ!!」

 叫びと共に、俺は飛び起きた。

 心臓が早鐘を打ち、波のような悪寒が脳髄を揺さぶっていく。

「やめろ……やめてくれ……」

 と。

 理渡の指が、俺の眉間の前に突き出された。

「そう」いつの間にか、理渡は俺の目の前に膝をついていた。「それが、あなたの恐れるものなのね」

「…………」

 みっともなく息を乱し、あえぐように酸素を取り込もうとする俺に対して。理渡の細められた瞼の隙間から、冷え冷えとした視線が、俺か、俺の背後にある何かを射抜いていた。

 しかしそれも束の間、力を抜いたように、その表情は穏やかなものに変わる。

「さあ、もう一度、横になって」

「…………」

「大丈夫。もう、あなたを傷つけるようなところへは、行かせません。さあ」

 不思議なことに、突きつけられた二本の指は俺に触れていないというのに、それが近づけられるのに合わせて、俺の身体は再び布団へと倒れていった。

「そのまま。横になったまま、鼓動が治まるのを待って。息も無理に整えなくて良いから……そう、自然に落ち着くのに合わせて」

 理渡の掌が、俺の胸の上にかざされる。直接触れてはいないのに、なぜだかそれが、今はとても暖かい。

 動悸が治まるにつれ、吐き気のような気持ち悪さも、徐々に去っていった。目に映るのは、部屋の天井と、視界の隅にいる理渡の顔だけ。今はまだ昼、太陽の光が暗闇をかき消してくれている時間。

 しばらく、静かな時が流れた。倒れ臥す俺はもとより、絶えず言葉を紡いでいた理渡も、今は俺をまんじりと見ているだけ。その眼差しは、眠る我が子を見守る母親のようにも、病人を看取る医者のようにも思えた。

「……落ち着いたようですね」

 呼吸と鼓動が治まった頃に、ようやく口を開いた。

「そのままにしていてください。続きは、一休みした後に」

「ああ……」

 理渡は俺の横で膝を崩し、寝そべるような姿勢になった。

「少し、お話をしましょう」


「真舘さんは、このあたりに来たことがありますか」

 他愛もない世間話のように、そんな問いかけが来る。

「あまり、ないな。前に、サークルの連中と比咩神社で初詣をした時以来か」

 白山しらやま比咩ひめ神社は、石川県でも特に人気の高い神社だ。金沢市内にある加賀前田藩ゆかりの尾山神社や、縁結びで有名な能登の気多大社と比較しても、初詣の参拝客数では頭ひとつ抜けている。鶴来駅は今でこそ私鉄路線である石川線の終着駅となっているが、かつては参拝客が押し寄せる新年の時だけ、二駅先にあった比咩神社の最寄り駅まで臨時列車が通っていたこともあった。もう何年も前に、廃線となってしまったが。

「ふふ。金沢の学生さんは、皆さんそれぐらいでしか来ませんね」

 地元の人間から見れば、そういうものが風物詩になるのだろう。

白山しらやまさんに祭られている神様を、ご存知かしら。菊理媛という女神様で、縁結びのご利益があるとされます」

 前に友人がその神について、色々と言っていた。あれは、なんと言っていたのだったか。

「昔は……シラヤマ神と呼ばれていたと」

「ええ。よくご存知ですね」

 寝物語を語るように、理渡はゆっくりと言葉を紡いでいく。

「冬が終わって、春がきても、山の頂の雪は溶けず。だからシラヤマ。雪解け水は川となって、田畑を潤す。今はもう、祀る人は少なくなったけれど、ずっとずっと昔から、白山は人々の生活と共にあった」

 農耕民にとっての命の水をもたらす、高き山の神。

 その信仰は興隆を極めた後、衰退した。加賀の一向一揆で浄土真宗が北陸を席巻し、白山神社は荒廃。今でも加賀では浄土真宗の文化が根強く、白山信仰に由来する祭事は少ないという。

「水の神、か……」

 分水嶺とみくまりの神。白の神。

 理渡の手が、俺の頬に当てられた。氷のように、冷たい手。

「そう……水は命の源。穢れを清めるもの。様々なものを飲み込んで、やがて海へ至る」

 ぞっとするほど冷え冷えとした感触が、頬から顎へ、首筋へ移っていく。まるで清流に口をつけたような、不思議な清涼感が喉を伝う。

「産まれてから消えるまでの長い長い時の中で、絶えず短い旅路を流れていく。冬の雪を溶かしながら。夏の雨と混ざりながら。人と共に種を慈しみ、風と共に人を愛しながら」

 額に手が置かれる。気持ちの良い冷たさ。身体の熱が引いていく。

 手は少し下がって、俺の瞼の上を覆い隠した。

「ずっと、ずっと、見守っている……。安らぎを思い出して。心にある不安を洗い流して」

 肌に落ちた雪のように、その手が融けていく。

「浅瀬に身を横たえて……暖かな日差しを受けて……穏やかにたゆたうの」

 静かに身体が包まれていく。冷たく清らかな水に、温かく心安らかな光に。

「憂いを忘れて、眠りなさい。浮かび沈まず漂えし、咎無きあなたに清浄を。かつては知らず、いつかも聞かず。ただ、ただ、アメの下、ツチの上に」

 どこにも流されることなく、底へと沈むこともなく。俺の身体は漂って、水面の下から光溢れる世界をぼんやりと眺めている。

 それは、いつか見た記憶か。海で生まれた生命が、水界の外へ出る前に見た光景か。

「ゆらゆらと……寄せる調べに抱かれて……正しき陽と星の巡る世界を……」

 どこからか、誰かの囁く声が聞こえる。

 とても心地が好く、どこか懐かしい、郷愁に似た感情を呼び起こすものだった。

 それからも何かが聞こえていた気がしたが、岸辺に寄せる潮騒のごとく、まどろみの彼方へ弾けていった。


 目を覚ましたのは、時計の針が二時間ばかし進んだ頃。

 ひどく充実感に満ちた気分で目覚め、しばらくその余韻に浸っていた。こんなに熟睡したのは久しぶりであり、最初は一晩も眠っていないという事実が信じられなかった。

「今度は、うっかり寝てしまったか……続きはどうする。あと一時間ぐらいで終わってくれると助かるんだが」

 日没まで余裕をもって帰りたい。そう考えて要望を言うと、理渡はそれを笑って流した。

「あら。もう終わりましたよ」

「終わった?」

「眠ってしまって、覚えてないのでしょう。なすべきことは、なしました。これでもう、私の手助けは必要ありません」

「そうか……」

 どうにも釈然としない。狐につままれたようとは、こういう時の感覚を言うのだろうか。

 得心がいかないまま、俺は服を着替えた。

 報酬の五万円を受け取り、社務所を出た後、理渡は見送りのため鳥居までついてきた。

「これで本当に、治ったんだろうか」

 実感が湧かない。本当かどうかを確かめるには、あと数時間待たなければならないが、それを考えるのは嫌な気分だった。

「ご心配ですか」

「正直に言えばな」

 まだ俺は、闇夜への恐怖が消え去っているかどうかを知らない。あの地獄が今夜から来ないとは断言できず、考えるだけで緊張感のようなものが脊髄を圧迫するのだ。

「大丈夫ですよ」

 かけられた声は、自信に満ちているというより、怯える子に語りかける母親を思わせた。

「それでは、お元気で、真舘さん。さようなら」

 理渡は小さく手を振って、俺はそれに曖昧な頷きを返しただけで背を向けた。

 彼女は、また、とは言わなかった。もう二度と会わないだろうと、そう思ったか、願ったか。

 しかしそれは、いくらと経たないうちに破られるのだが。

 その時の俺は、間もなく訪れる夜のことばかりを考えていて、理渡のことをすぐに意識の外へと追い出してしまった。

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