神々の支配する世界

黒井 鳩

1章

四年を超えて

 8月26日14時11分のこと、バイトへ向かう気だるそうな背中が一つ、あった。小さなショルダーバッグを持ち、汗がくっきりと浮き出る青いティーシャツとだるだるの半ズボンを身にまとった青年は、いかにも暑そうな顔をして腕時計に目をやった。そこで時間を思い出して焦ったようで、青く明滅する信号を気にして、横断歩道へ走り出した。しかし、暑いのと気だるいのとで彼は疲れていた。思うように足があがらずに、無様に転んでしまう。羞恥で赤くなるも、元々赤いので気にならない。通行人は信号を気にして、彼のそばを通り過ぎる。青年は立ち上がり、しっかりとした足取りで歩き出した。信号が赤になると、車のクラクションで急かされる。ああうるさいと思いつつも青年は音に合わせてまた走った。無事に渡りきったのを確認して車が急発進するのと、青年が肩を突き飛ばされて横断歩道へと逆戻りしたのは、ほぼ同時だった。

 青年は、誰に突き飛ばされたのかよくわからないうちに車に跳ねられ、怒る間も嘆く間もなく、意識を失った。

 

 夕刻、一人の少女が森の中で目を覚ました。

 夕焼け色の木々が風に揺らめく、静かな森である。ぽっかりと円状に広がる砂地は、森に大きな穴を作っている。

 地面にべったりと座り込んだ状態で、彼女は辺りを見回す。地面が湿っていて、土がひんやりと肌になじむ。森の向こう側はまったくの闇で、およそ出口があるように思えない。

 少女は困惑していた。彼女には記憶がなかったのだ。けれど、地球という星の日本という国に住んでいたことだけは覚えていた。それがここかは、わからなかった。

 半袖にスカートという薄着のせいか、彼女は寒かった。

 立ち上がって土を払っていると、どこからか一匹の、猫と犬がやってきた。少女に甘えるようにすり寄る。彼女は、その二匹のことを知っているような気がした。

 見ると、首輪がついている。犬はロゼット、猫はヴァイオラという名前らしい。どちらも雑種だ。

 少女はふと、自分の首を触った。そこに名前が書いてあれば、と思ったのだ。もちろん、首輪なんて物はついていない。

 彼女の髪は肩よりも上のほうで顔の方向にカーブを描いている。それを不思議そうに少女は撫でた。

 突然ロゼットが吠えた。威嚇の声ではない。ただ、合図のように少女に向かって鳴いたのだ。

 ロゼットが森の方向に案内するかのように歩き出した。ヴァイオラもその後に続く。少女も少し考えてから、やはりついて行くことにした。

 森の中は薄暗く、数メートル向こうは何も見えない状態だった。少女は裸足であったため、下に注意をして、けれども後れをとらないように歩かなければならなかった。

 歩いている内に、どうやら今が秋だということに気づいた。枯れ葉や枯れ枝などが目立っていたからだ。もう少し明るければ、木々の紅葉が見られたかもしれない。

 だんだんと夜が迫り気温が低下していくにつれて、少女の足取りは重くなっていった。袖から白く伸びる腕に、切り傷ができては治り、裾からはえる足は寒さで赤くなっている。吐く息は白く、空気は肌を刺す、真冬のようだった。

 少女は手のひらで腕をこすりながら、二匹の後ろを音を頼りについて行く。どれくらい歩いたのか、どこにいるのか、わからなくなっていた。不安で心細かった。

 もう駄目だと足を止めたとき、少女は誰かの体温をかすかに腕に感じた。驚き、ぱっと見ると、背の高い人が立っていた。暗くて、顔が見えない。

「つばき」

 低い、けれどまだ若い男の声だ。少女は我に返って、男の手を振り払う。

 近くでさわさわと音がしている。二匹が男にすり寄っているのだ。

「大丈夫です。なにも怖くありません」

 ロゼットがと鳴く。

「誰ですか」

 男は大きな黒い布のようなもので少女を包むと、優しく言った。

「迎えが遅くなってしまいましたね、私はシツといいます。ここでは案内人と呼ばれている者です」

 その布は毛布のように暖かかった。どうやら凍え死には免れたらしい。

 シツ、という変わった名前の男は、自然な動作で少女を抱き上げると、言った。

「あなたの名前は、つばき。上の名は川野」

「あなたは、私は、誰ですか」

 彼の腕は柔らかくつばきを包んでいる。

「あなたは、今年で十四歳です。誕生日は8月26日。生まれは日本。今はそれだけしか言えないのです」

 つばきは軽く頷いた。シツはロゼットとヴァイオラをつばきの腹の上に乗せると、どこかへ歩き出した。

「ここはどこなんですか」

 つばきは多くを質問した。シツはそのほとんどに答えたが、詳しくは語らなかった。

「この世界には決まった総称がつけられていません。いくつかあげますと、遊び場、神の都、地獄、異世界、などです。この国の中心には神々の住む町があり、それを囲む東西南北の四つに人間の住む町があります」

 彼の声音は真剣そのものだった。つばきにとって神という存在は架空であり、いない者であった。だからこそ、彼の言葉を素直に受け取れない。

「神様、人間と一緒に住んでいるのですか」

「はい。神は見た目人間に等しく、しかし中身は似ても似つかない凶悪な連中です。見かけたら逃げるのが得策です。といっても見かけたとして、それが神であるかどうかなど分からないのですが」

 彼の声には、皮肉にも似た響きがあった。

 つばきは、一人森の中で目覚めたときよりも落ち着いていた。シツがいて、ロゼットとヴァイオラもいる。そして、ここが地球ではないという事が分かったからだろう。自分がどこに立っているのか明確になると、不思議な余裕が生まれていた。

「あなたは東町に住むことになります。そこに住む人たちは人柄もよく、穏和な性格です。あなたはそこで、人として静かに生きていくことになるでしょう」

 つばきは何も言わずに頷いた。生きる場所もあるのだ。荒野に一人放り出されるのではない。寒空の下で何もわからずに死ぬ方が辛い。たとえその町が安全でなかったとしても。

 すっかり日が暮れて、気温はマイナスに沈み込んでいたのだが、つばきは寒さを全く感じなかった。シツのマントは、魔法のように外気を退けている。

 つばきはどこか暖かい雰囲気を持つシツの腕の中で、大きな安心感を感じた。

(この感覚……もうずっと前から忘れていた気がする)


「ここからは一人でお行きなさい。まっすぐ、町の門まで歩くのです。マントはあげます。それ一枚で防寒、防暑対応しています」

 つばきは地面に優しく下ろされる。いつの間にか森は後方にあって、目前には広大な砂地が広がっている。

 ロゼットとヴァイオラはつばきの足にまとわりつくと、先に東町の方へと歩き出した。二匹は軽快に、跳ぶように歩いている。

 つばきはもらった不思議なマントを体に巻き付けて、シツにお辞儀した。

「シツさん、お世話になりました」

 シツの顔は見えなかったが、空気で笑ったのだとわかる。つばきを促すように大きく首を縦に振る。


 東町へと歩くつばきの後ろ姿を、どこか寂しげにシツは見送った。小さな背中を追いかける二つの影が、彼の代わりにつばきを守ってくれているようだ。

(どうか幸せに)

 つばきの背中が闇に消えると、シツは森の中へと戻っていった。


 しばらく歩くと、目の前に大きな壁が見えてきた。人の足で壁の端から端へ歩こうと思ったら、一日はかかりそうなくらいだ。遠くからでも全貌が見えない大きさに、つばきは少し気圧された。

 あの門まで歩くにはどれくらいかかるだろうかと嫌になったとき、馬の蹄の音が聞こえた。門の方からだ。

 ロゼットとヴァイオラは怯えているが、逃げようとはしない。つばきの後ろの方で身を縮めるだけだった。

 ようやく来た馬は、近くで見るととても大きかった。つばきの背丈よりも高いので、さながらゾウのようだ。

 馬の背には人が乗っている。低い身長に、細身の体で、体系的には少年だ。

「やあ、こんばんは」

 少し高めの声で、やはり少年であることがわかる。つばきの後ろに隠れていた二匹は、馬が恐ろしくないとわかると、すぐに馬の前足にじゃれつき始めた。匂いも気になるようだ。馬は比較的大人しく、纏わりつく二匹のことを寛容に見つめている。

「君が今日来た人だね。僕はアレックスって呼ばれてる。町からの遣いだよ」

「こんばんは。川野つばきです」

 町の遣い、というと変質者ではないはずだ。シツの言葉を思い出しながら、つばきは慎重に話す。

「東町の方ですか」

「そうだよ。寒いから早く乗って。げ、犬と猫がいるなんて聞いてないよ」

 アレックスの手に掴まって、つばきは軽々と馬の背に持ち上げられてしまう。そこでロゼットとヴァイオラに気がついたアレックスが面倒そうに嘆いた。

 つばきは二匹を乗せるために一度降りて、アレックスに手渡す。

「嫌だ。無理でしょ。暴れたりして落ちたら死ぬよ」

「心配ないです。たぶん、暴れません」

 つばきは何となくそう思った。二匹はすっかり馬に気を許しているようだったし、手で掴まえておけば大丈夫だろうと、考えたのだ。

「君がそう言うんなら知らないよ。死んでも僕のせいにしないでよね」

 再度つばきは馬の背にまたがって、二匹をマントの中に入れた。

(高くない……かも)

「掴まっててね。寒いからそんなに早くは走らせないけど、落ちたら死ぬから」

 つばきは、彼の頼りない細い体にしがみつく。

 馬が走り出すと、思ったよりも強い衝撃に驚いた。二匹は少し動いたが、つばきがしっかり包んでやるとおとなしくなった。彼女はというと、走り出してみたらアトラクションのようで楽しいとさえ思っていた。

 冷気が直に当たるアレックスは、麻痺しつつある体をつばきに暖めてもらっていた。背中からじんわりと感じる温もりが、なんとか体温を上げている。

(マントをしているようだけど……どこの国から来たんだろう)


「着いたよ! やっとだね」

 綺麗に地面へ着地した彼女を見て、アレックスは驚く。

「身軽だね。君はサーカスでもやってたのかな」

 新手のジョークと勘違いして、つばきは言葉を返す。

「記憶がないのでわかりかねますね」

 アレックスの口角が自然に上がる。つばきは彼がどんな反応をしたのか、暗くてわからなかった。

 門はコンクリート製で、相当分厚いように思える。堅く閉ざされた扉に付いている、不自然なボタンを、アレックスは自然な動作で押した。すると、ゆっくりと扉が開いていく。コンクリートが擦れて嫌な音を立てた。

 その扉は手動、というわけではないようだった。両開きの、至って普通の、何の細工もないただのコンクリートだ。

「門の中は寒いから、早く通り抜けよう」

 アレックスの声が門の中で不自然に反響する。

「えーっと、つばき、さっきも少し思ったんだけど、そのマントは何? 君の国ではそれが普通の服装なのかな」

 つばきのマントをじっと見つめている。アレックスの知識上、黒いマントを羽織る民族はいなかった。背丈に合わないまるで布団のようなそれをマント、と呼ぶのにも抵抗があった。

 つばきは首を傾げて、アレックスが大きな勘違いをしていると気づくとゆっくり訂正した。

「これは、シツ……案内人の方から頂いたものです」

「嘘っ! 本当に? 君ってすばらしく運がいいね」

 アレックスが急にはしゃいだ。案内人というのはあまり物を渡したりしないため、案内人からの贈り物には不思議な力が宿ると言われているらしい。つばきはそんなわけはないと否定しようとして、はっと思いとどまる。

「そういえば、私は全く寒さを感じていません。これが不思議な力?」

「馬の背に乗っていたときやけにあったかいなあと思ってたんだよ。なるほどねえ」

 羨ましいのか、アレックスはマントを物欲しげに見つめる。けれど決して口にはしなかった。

「案内人の……彼の住んでいるところを知っていますか」

「知らないな。彼らは、この世界での多くの謎の内の一つさ。新入りを案内したり、たまに町まで様子を見に来たり、結婚したり」

 アレックスは世間話のように語る。

「結婚して産まれた子供は、必ず北町か南町に移される。親はここに残されて、まるで悲劇のお話さ」

 そこでアレックスは話をやめて、前方に広がる町を指さした。

「ここが東町だよ。ようこそつばき」

 どこからか町を照らす光が溢れ、屋台と甘い果物の香りがつばきの鼻孔を満たした。

 右手には屋台が何十メートルも並び、左手にはお店が建ち並んでいる。商店街だ。目の前は公園のようで、先が見えないほど砂地と遊具が広がっている。つばきはこんなめちゃくちゃなところを見たことがないように思った。

「面白いですね」

「そうでしょっ。僕も最初はそう思ったんだよ。今では違和感があんまりないけどね」

 アレックスはにこにこと笑う。

「まずは関所で名前を登録しないとね」

「関所で名前を登録? おかしな話」

 つばきは顔をしかめる。

「ここでいう関所は、玄関的役割も持っていて、住民が出入りするときは門から見て左の関所を使うのがルールなんだ。右手にあるのは交易用」

 門には二つの出入り口があって、それぞれ意味があるらしい。関所が二つあるのと同じように。

 つばきは納得した風に頷いて、アレックスの後を小走りで追いかけた。二匹は店の方でなにやらしていたが、つばきが行ってしまうとわかると、急いで走り寄った。それを少し嫌そうに、アレックスがちらりとみる。彼は動物が嫌い……というわけではなさそうだが、二匹のことをよく思っていないようだった。

 関所、というとなんだか嫌な感じがするが、実際はそうでもなかった。商店街の前を通り抜けて少し行くと大通りがあって、その左側に並んでいたのが関所だった。木製カウンターに書類やら、飲み物やらが置いてあり、その向こう側に人が立っている。そんな感じのが六つくらいあった。カウンターからは町に溢れる不思議な光がもれている。

 アレックスは慣れた様子で、一番手前のカウンターに近寄った。

「やあ、コニー。さっきぶりだね」

 声をかけられてカウンターから顔を覗かせたのは、二十歳くらいの背の高い女の人だった。ブラウンの髪に、白い肌、青い瞳を見ると、日本人ではないのがわかる。屋台の光に照らされて、今までおぼろげだったアレックスの顔がくっきりと、つばきから見えた。やはり青い瞳に白い肌、金髪に近い茶髪、フランス人だろうとつばきは見当をつける。

「はあい、アレックス。あなたの顔は見飽きたわ」

 日本語の挨拶ではあったが、強い違和感があった。

「こんばんは」

 カウンター越しにお辞儀する。コニーはアレックスと同様に親しげだ。つばきに笑顔を向けてから、少し気だるそうに言う。

「それにしても、最近立て続けに新人が増えて、町案内をする人手が足りなくなりそうよ。なんだって東町だけに人が来るのかしらね。アレックス、他の町の情報、仕入れてきたんでしょ」

「もちろん。一週間前と同じ、新人は数名だね。北町と南町はゼロだけど」

 二人とも疲れ切った表情だ。ここ最近、東町の人口が右肩上がりであることに関係しているのだ。

「あー、っと、つばき。ごめんなさいね、つい愚痴ってしまったわ。あなたは何もわからない状態だというのにね」

「いえ、大丈夫です。話を聞くだけでも何となくわかります」

 大真面目に彼女は言った。実際にそうである。

「今日は僕が案内するよ! つばき第一、じゃなかった、第二発見者だからね」

「アレクサンダー」

 つばきがわざとそう呼ぶと、アレックスは苦い顔で言う。

「その、僕のことは愛称で呼んでよ。そう呼ばれるのにはあまり、その……」

 なんとなく呼んだだけである。彼の動揺ぶりは意外だった。

「わかっています」

 不意につばきはカウンターの中の、コップに入っている物に気が付いた。今まで気が付かなかったことが不思議なくらい、強い光を放つ液体だ。透明、とは言い難く、けれど透明としか言えないような不思議な色をしている。それはこの町の光そのものだった。

 つばきの視線で、コニーはコップを指さす。

「ああ、これ? これは水源って……言ってもわかんないか」

「それ自体が水源なのですか?」

 彼女の言葉を聞くと、アレックスとコニーは頷いた。

「まあ、そんなところなの。これ自体は水ではないのだけど、強く物体を思い浮かべることによって、水が手にはいるわ。そのほかにも、水で作れるもの、例えば氷とかも生み出せるのよ。そしてこの水源は光にもなる。見てて」

 そう言うと、じっとコニーはコップを見つめた。つばきはコップの光が段々と強くなるのを感じた。実際に輝きを増している。そして、今度は急に光が消えていった。コニーは光の強弱を操っているのだ。

「凄く綺麗ですね」

 しばらく見入っていると、つばきの足にロゼットが絡みついて、それと同時にヴァイオラがカウンターの上に飛び乗った。

「あら、可愛い黒猫ちゃん」

 金色の瞳に黒い毛並み。ヴァイオラは姿勢良く、座った。

「ヴァイオラって言うんです。こっちはロゼット。目が覚めたとき、そばにいたんです」

「じゃあ、この子たちがあなたの大切なものなのね。いいわ、一緒に登録しちゃえ」

 お茶目にコニーが笑い、書類に名前を書いていく。

「生年月日とか、年齢とかわかる? ちなみに、今は2392年11月2日よ」

 頭の中でつばきは素早く計算した。シツから聞いたことが真実で、この世界とあちらの世界との時間のずれが無いと考えて、という確信のない物だ。

「2378年8月26日生まれの十四歳です」

「十四! 確かに、見た目はそんな感じだわ。若いのね」

「つばきよりも僕の方が二つ上だね。さ、登録も終わったし、町案内をしてあげる」

 アレックスが上機嫌で言うと、コニーは首を振った。

「駄目よ。もう遅いし、今日は宿を取って案内は明日にしなさい。それと、寮のこともよろしくね、先輩のアレックス」

「ちぇっ。コニーは僕の母親みたいだ。五つしか違わないのに。ま、いいよ。つばきの宿のことなら任せてよ」

 ふてくされてみせるアレックスは、どう見ても子供だった。

 彼はつばきの手を引っ張って、来た道を戻り出す。彼女は引っ張られるままに、コニーに会釈した。ロゼットが嬉しそうについてくるが、ヴァイオラはカウンターの上でなにやらじっとしている。姿が見えなくなりそうなぎりぎりのところで、やっとつばきについてきた。

 町の灯りは昼間のようで、夜をあまり感じさせない。アレックスは砂地の広場を通り過ぎて、門沿いにどんどん歩いていく。町の中から見ると、門の端から端まではそんなに遠くなく、20分もあればついてしまった。

 そこには関所があり、だだっ広い交易所が賑わっていた。テーブルに果物やら野菜やら宝石らしきものまで並べてある。そこに隣接するように設置されているのが、宿だろう。商人たちを泊めるためのものだ。

 ほとんどの部屋に明かりが灯っている。あの、水源の光だ。

 この町全体を照らすほどの水源は、見る限りどこにもない。空中にでも舞っているのだろうか、とつばきが考えていると、アレックスがいなくなっていた。いつの間にかアレックスの手から逃れたつばきの腕が、夜の町を不安げに彷徨う。

 交易所にいる商人が、つばきをじろりと睨んだ。部外者は出て行け、と言わんばかりだ。それもそのはず、彼女の立っているところは、人が往来する真ん中だ。つばきは、ぼんやりと周りを見て、道の脇に避けた。

 ロゼットとヴァイオラはうまく人の間をぬって交易所の方へと走っていく。つばきは追いかけようかと悩み、そこに残ることにした。下手に動いてアレックスと会えなくなっても面倒だからだ。

「ちょっと、お嬢さん」

 突然、つばきは肩を叩かれた。五十代前半くらいの、スーツを身に纏った老紳士が困ったように笑っている。帽子を取ってつばきに軽く会釈したのを見ると、文句があるわけではないようだ。

「どうかしましたか」

「アレックスという少年を知っているね? 彼がつばきという女の子を捜しているらしい。この辺りで君以外にそれっぽい人がいなかったから、きっとそうだと思ってね。アレックスは宿のロビーにいるらしい」

 人の良さそうな笑みで、彼は言った。つばきは困ってしまった。ロゼットとヴァイオラが戻ってきていないし、彼の言うことを信じきれなかったのだ。

「私は、ロゼットとヴァイオラを探さないと」

「おお、ロゼットに、ヴァイオラ、といいましたかな。それはそれは。やはりあなたが噂の子でしたか。私は北町の者でしてね、今日は観光に来ただけなんですよ」

 嬉しそうに握手を求められ、つばきはよくわからないまま、握手を交わす。彼の手は酷く冷たかった。触れれば凍りそうなほどに。

「あの、私のことをどうして知っているんですか」

「最近の新入りは、あなたがつれてきたも同然と言われているのです。しばらく、その波は続くでしょう。全てあなたの配下のようなものです」

 驚いて、つばきは固まった。

「配下? それは、誰が言ったことですか」

「なんでも、案内人たちがそう言ったと」

(わけがわからない)

 続けざまに質問しようと口を開くと、アレックスが遠くの方でつばきを呼んでいるのが聞こえた。やはり宿のロビーにいるというのは嘘だった。

「残念だ、もう少しお話が聞きたかったのだが……また会おう、つばきさん」

 呼び止めようと振り向くと、そこにはすでに誰もいなかった。

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