第23話 水の精霊
「フルーク、オレはこのベスティアと言う国を少々なめていた様だ。東方にある辺境の小国で、これほどまでの獲物に出会えるとは──」
ブッハは通りの向こうに異様な気配を感じ取ると、愛おしい者を見つめる様に黄金色の目を細め、邪悪な笑みを称えて言った。
『あれは……』思わず呟いたフルークには、オレたち同様にそれが何なのかは理解できていない様子であった。しかし、シュタルテン皇国において賢者と呼ばれる彼の実力も並では無い。ブッハと比べれば見劣りするかもしれないが、それはブッハが異常なのだ。即座にそれが普通の魔物では無いと判断すると、迷うことなく地面に魔法陣を描き召喚魔法を行使した。
『出でよ、水の
その言葉で魔法陣の中央に水が沸き出したかと思うと、やがて不自然に盛り上がり人の形を成す。次々と現れた水の塊に向けてフルークは『我を守護せよ』と指示を出す。すると、三体の水の精霊はゴポゴポと音を立てながら、文字通り流れる様な動作でフルークの前に立ちはだかった。コイツ、自分だけ守りを固めやがった。オレはシュヴェールに向けて『オレたちにも何か──』と強く要求の視線を送る。しかし、シュヴェールはそんなオレの視線など気に留める様子も無く、通りの向こうに現れた巨大な怪物を見つめ愕然とした表情を浮かべている。それは単純に表れた怪物に驚いたという様な感じでは無い。シュヴェールの様子は明らかにおかしい。
やむ追えずオレはフルークに視線を向ける。『どうにかしてくれ!』と。もし、彼らが探していたのがオレなのだとすれば、ここでオレに死なれるのは本意ではないはずだ。フルークはすぐにオレの視線の意図を感じ取ったかの様に、続けてもう一体の水の精霊を召喚すると『あの者たちを守護せよ』とオレを指差して命じた。水の精霊はその指示通りにゴボゴボと音を立てながら、オレたちの前に流れる様に移動して立ちはだかる。
「お主たちはそこを動くな」
そう言い放ち、フルークはまだだいぶ遠くにいる巨大な怪物に向けて杖を構える。てゆーか、自分には三体でオレたちには一体だけかよ。心の中で激しくツッコミながらも、今は一体でもいてくれた方が心強い。やがて、その異様な雰囲気に気付いたナーゼたちも、作業の手を止めてこちらへ集まって来た。
『おい、あれはいったい何だ!?』ナーゼがシュヴェールに問い掛ける。しかし、シュヴェールは呆然と近付いて来る巨大な怪物を眺めるばかりだ。ナーゼもシュヴェールのその様子に異常を感じたのだろう。すぐにオレたちにその旨を確認する様に視線を送る。いずれにしろ、この人数を守るのに水の精霊では心細い。『フルークさん!』今度は声に出して催促する。するとフルークは忌々しそうに睨み返すが、渋々もう一体の水の精霊を召喚し、ナーゼたちの前に配置した。
『ブラン様に面白いご報告が出来ると思ったんだがな──』ブッハはそう言ってオレたちを一瞥する。その視線の先はオレやミュルではなくシュヴェールに向いていた様に感じたが、シュヴェールはまったくその言葉に答える様子が無い。
巨大な怪物の決して素早くは無いが、着実にじわじわと迫り来る様子は、まるで万人の身にいずれ必ず訪れる『死』そのものを具現化したかの様にも見える。しかし、ブッハは気にする様子も無く、ゆっくりと歩を進め続ける。
『
『
『
歩みも止めずにブッハは立て続けに呪文を唱える。その気軽な様子はまるで歌でも口ずさむかの様にも見える。しかし、そのたびに魔法効果が追加された事を証明する輝きが漆黒の肌を覆い、オレの中にとてつもない期待感が湧き上がる。
もはやブッハが只者で無い事は、魔法に関する知識が皆無なオレにでも理解できていた。それは水の精霊を五体も呼び出すほどの魔力を持ちながら、一切、戦闘に参加しようとしないフルークを見ても、ブッハの実力がフルークを格段に凌ぐという事が容易に想像できる。もし、不安要素があるとすればシュヴェールの様子がおかしい事だ。カルネギを目の前にしても一切の動揺を見せなかった彼女が、あの怪物を見た途端にまともに動くことすらままならない。いったい何が──。
それは瞬き程の時間の事だった。遥か遠くに見えたはずの巨大な怪物が一瞬にしてブッハの目の前に姿を現す。三階建ての建物に匹敵するであろうその怪物は、青白い肌を粘液でテラテラと輝かせ、天を突く二本の折れ曲がった角は異様な輝きを放つ。無数に蠢く触手の一本がブッハに襲い掛かる。その一本を避けたそのすぐ陰から迫る別の触手をすれすれの所でかわし、あと一歩で本体に手が届くかというところで、突然ブッハが枯れ葉の様に吹き飛び宿屋の壁を突き破った。二本の触手の死角から放たれた、もう一本触手に跳ね除けられたのだ。
『ひっ』リーテンが小さな悲鳴を上げる。何が起こっているのか理解できないオレたちはほとんど混乱状態にあった。フルークは信じられないと言った表情でブッハが吹き飛んだ先を見つめ、それから恐る恐る怪物に視線を戻す。
やがて怪物ゆっくりとこちらに近寄って来る。
『おお。シュヴェールか──』眉間の辺りに腰まで怪物に同化した、青白い顔のエルフらしき人影が口を開く。
「あ、兄上、まさかこれは──」
「ははは。解るか! 流石は我が妹。お前ならこの素晴らしさを理解してくれると思っていたよ!」
二人の会話に聞き入る一同はシュヴェールの口から出た『兄上』と言う言葉を聞き逃さなかった。あの怪物がシュヴェールの兄アヴ二エルスだと。オレは何がどうなっているのかまったく理解できないでいた。
「兄上、シャルヴェールをお放しください!」
「放す? こやつがオレを呼んだのだぞ? シャルヴェールも我が身を一つになればその素晴らしさを実感できる。もはやこの体にはアムルスの樹さえも必要ないのだぞ!」
そう言ってアヴ二エルスは歪んだ笑みを浮かべる。蠢く触手の一つに絡まれるシャルヴェールは気を失っている様だ。
「シュヴェールさん、これは──」
「──
オレの問い掛けにシュヴェールは、その名を口にするのもおぞましいといった表情で答える。シュヴェールはその気配を感じた時から、この最悪の事態を予測していた様だった。思えば兄アヴ二エルスの死後、突然その死体が姿を消した時から妙な胸騒ぎはしていた。後にシャルヴェールはそれを姿を眩ましたシュヴェールの仕業だと思い込み、兄アヴ二エルスの手記を片っ端から調べ上げる。そこで見つけたのがアブロスの触手やカルネギだ。だが、それらは兄アヴ二エルスにすれば研究材料の一つでしかなかった。
「禁忌など笑止。シュヴェールよ、使ってこその祈祷術であろう」
アヴ二エルスがそう言うと、突然、
「水の
フルークの指先がアヴ二エルスを指すと、五体の水の精霊たちが海霊王を囲い込む。そして、薄く刃物の様に圧縮された水刃を一斉に海霊王を目掛けて放つ。
「ま、待ってくれ、あそこには妹が!」
シュヴェールがフルークに詰め寄る。しかし、フルークは聞く耳を持たない。当然だ。殺らねば、こちらが殺られる。水の精霊たちが連続で水刃を浴びせ続けると辺りは土煙に覆われた。やがて、フルークの号令で攻撃が止む。これだけの水刃を食らわせば、山ひとつを跡形も無く崩す事ができる。いかに海霊王と言えどただでは済まされない。上官であるブッハには悪いが、ここは自分が手柄を立てさせてもらう。フルークは内心でほくそ笑みながら、止めの呪文を唱える。
『
その言葉と共に五体の水の精霊たちが彗星の如く輝き、天に舞い上がり自ら巨大な水の槍と化す。そして、狙いを定めると一気に海霊王へと襲い掛かる。上空から降り注ぐ巨大な五本の水の槍の衝撃波はまるで隕石の落下を思わせた。
『私にここまで使わせたのは、先の大戦で現れた怪物の群れ以来だよ』そう言ってフルークは満足気にタキシードに着いた埃を払う。
「まだだ、サトウ、そいつらを連れて急いで隠れろ──」
『まだ』とはどういう事だ。シュヴェールの言葉に、フルークは不快感を露わにする。片田舎の祈祷師風情がシュタルテン皇国魔法省第31席の私に意見すると言うのか。何も出来ずに片隅で震えていたくせに生意気な。だが、その思いはすぐに自分の思い上がりであった事に気付かされる事となる。
土煙が薄れるとゆっくりと姿を現す。五体の水の精霊の無数の水刃を浴び、五本の
「こちらも少し遊ばせてもらうぞ?」
そう言うと、海霊王の瞳が怪しく輝く。すると、フルークは突然の目眩と強い疲労感に襲われる。『こ、これは──』彼はすぐに自らの生気が抜き取られた事に気付き、懐から取り出した高位回復薬を素早く飲み干した。オレとミュル、ナーゼ、グルトンも強い疲労感に襲われ、メルゲンとリーテンは気を失った。
「フルーク、お前では無理だ」
「!?」
瓦礫の中から姿を現したのはブッハだ。埃まみれになっているものの、宿屋の壁に叩きつけられたダメージはまったく感じさせない。
「ブッハ殿、ご無事だったので!?」
「当たり前だ。それよりそいつらを連れて下がっていろ。コイツには魔法による攻撃は効かない」
『な、何と!?』フルークの驚きは当然だ。ブッハが平然と言ってのけた事実は、魔法使いにとっては、文字通り死活問題となる内容だ。ブッハは愕然とするフルークを一瞥すると、すぐにシュヴェールに視線を向ける。
「おい、ダークエルフの娘よ。これはお前がやるべき仕事なのでは無いのか?」
「……」
「やらぬならオレが殺るが良いのか? 魔法が効かない以上、手加減は出来ない」
ブッハの問い掛けにシュヴェールは表情を曇らせ微かに俯く。その言葉が捕らわれているシャルヴェールの命の保証が、難しいと言う事を示す事をシュヴェールは理解していた。
「さあ、シュヴェールよ。お前も我が元へ来るのだ。母上もシャルヴェールも待っておるぞ──」
『シュヴェール……妹を……シャルヴェールを救ってあげて……』既にその大半が海霊王の触手に同化している母シュトレーヌの悲痛な叫びが、シュヴェールの琴線に触れる。そして、決意を固めた。
彼女が悩んでいたのはシャルヴェールを救う事はできたとしても、母と兄に安らかな死を与える術を模索していたからだ。しかし、ついにその方法が見付からないままに、シュヴェールは母シュトレーヌの懇願する姿に背中を突き動かされる。霊体であるシュトレーヌは既に自らの末路を覚悟していた。例えそれが永遠に続く地獄の苦しみだとしても、娘であるシャルヴェールを救う事を願ったのだ。
「兄上、さらばです──」
シュヴェールは小さく呟く。それは目の前の怪物への決別の言葉では無い。彼女の思い出の中に生きる強く優しい兄への感謝の言葉だ。
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