第16話 カルネギの紅息
オレはひたすら走り続ける。紅色の霞を避けて遠回りしながら、街の最奥に住むと言う薬師のメルゲンの元を目指して。
紅色の霞はいつの間にかその範囲も倍以上に広がり、紅色の濃霧と表現した方がしっくり来るくらいに、更に濃い紅色となって街を包み込んでいた。紅色の濃霧が広がる方角から悲鳴にも似た叫び声が聞こえるが、あの紅色の中でいったい何が起こっているのか、ここからでは確認できない。今はとにかく薬師のメルゲンを探し出し、一刻も早くグルトンの元へ
途中で何度か逃げ惑う住民とすれ違うが、混乱状態にある彼らに薬師のメルゲンの居場所を聞く事は出来なかった。しばらく進むと道端に小さなオークの少女が泣きながら立ち尽くしている。親と逸れでもしたのだろうか。膝を擦り剥き血が滲んでいるのが見える。
「大丈夫かい?」
近寄って声を掛けるとオークの少女は一瞬、驚ろいて泣き止むと、怖がる様に後ずさりしながらオレを見上げる。
「怖がらなくても大丈夫だよ」
オレは少女に視線の高さを合わせる様に、しゃがみ込んで話し掛ける。正直こんなことをしている場合ではない。しかし、外は既に薄暗くなっており向こう側には紅色の濃霧が広がっている。そんな道端で一人ぼっちで泣いている少女を見過ごす事など、世界が違ってもきっと許される事では無い。オークの少女は不安気にオレの顔を眺めているうちに、次第に顔をクシャクシャにし、再び大声で泣きじゃくった。
「ひとりなの? お家の人はどこに行ったの?」
「動かなくなっちゃった……」
「動かなく? 迷子なのかい?」
オークの少女は目に涙をいっぱいに浮かべながら、跳び付く様にオレの腕に掴まると震える声で続けた。
「紅いのを吸ったら、体中から血が流れて……倒れて動かなくなっちゃった」
「紅いの? 体中から血が!?」
紅いのとはまさかあの紅色の濃霧の事か。体中から血が流れて動かなくなったとは、亡くなったと言う事なのか。オレは彼女にこれ以上の不安を与えない様に、必死で平全を取り繕いながら考える。この世界での毎日の生活にもだいぶ慣れ、それなりにこの世界での一般常識も理解しているつもりだった。しかし、今起こっている事はオレにはまったく理解できない。まだまだオレの知らない常識がたくさんあったと言う事なのだろうか。あまりのショックにオレは言葉を失う。
「他の人たちもいっぱい倒れてた──」
未曾有の光景を思い出す様にオークの少女が小さく震えながら続ける。
「紅いのを吸い込んだら咳が出て、そのうちに血を吐いて──」
絞り出す様に彼女が話した内容にオレは動揺を隠しきれないでいた。やはりあの紅色の濃霧は危険だ。既に死者が出ている。これは早くナーゼに伝えなければ。
まずはグルトンのために回復薬を手に入れるのが最優先だ。だが、あの紅色の濃霧は次第にその範囲を広めている。この子をほったらかしにする訳にはいかない。
「オジサンはこれから大事な用事で、薬師のメルゲンさんと言う方の家に行かなきゃいけないんだ」
「メルゲンさんなら知ってる。時々、お婆ちゃんのお薬をもらいに行ってた」
「お!? そうか! なら、家の場所も解るか?」
「案内できるよ」
「頼めるか」
「うん。私、リーテン。オジサンは?」
「サトウだ。よろしくなリーテン」
リーテンはオレの手を掴み『こっち!』と言ってグイグイ引っ張る。彼女の顔に少しだけ元気が戻った気がする。ありがたい。これなら彼女をこの場に置き去りにする事も無く、迷わずに薬師のメルゲンの家を目指す事ができる。
そこからしばらく歩くとリーテンは、一軒の古ぼけた小さな家の前で立ち止った。『ここだよ』彼女はそう言うと、勝手を知るように扉を開けてどんどん中へと入って行く。オレは恐る恐る中を覗いて見た。家の中には所狭しと薬の入った箱や壺が並び、薬草の香りが漂いどこかクライネスにあるヴォーツェルの家を思わせる。
「薬屋のお爺ちゃーん!」
リーテンが家の奥へ向けて声を上げた。しばらく待つが反応は無い。オークの少女は更に大きな声で叫んだ。すると奥の部屋でガサゴソと物音がした。
「誰じゃ?」
「あ! 薬屋のお爺ちゃん」
奥から姿を現したのは腰が曲がり白髪混じりの年老いたオークだ。
「あの、薬師のメルゲンさんでしょうか?」
「は?」
「薬師のメルゲンさんでは?」
「何だって?」
何か様子がおかしい。機嫌が悪いのかなかなかオレの話が通じない。それとも、そもそも人違いなのだろうか。
「だめだよオジサン。薬屋のお爺ちゃんはこれが無いと良く聞こえないの」
そう言ってリーテンはテーブルの上に置かれた、漏斗の様な道具を年老いたオークに差し出した。
「おお。そうじゃった。これを忘れておった」
そう言って年老いたオークはそれを自分の耳に当てると、リーテンを見て笑顔を浮かべて話し出す。
「ありがとうよ、リーテン。今日もお婆ちゃんのお使いかい?」
「違うの。このオジサンが薬屋のお爺ちゃんに用事があるんだって」
年老いたオークはオレを訝しげに眺めると少し考え込む様な仕草を見せ、その後に人懐っこい笑顔を浮かべながら口を開いた。
「どちらさんだったかのう? 最近ちょっと物忘れが酷くてな──」
「はじめまして。サトウと申します。メルゲンさんですよね?」
「ああ。ここで薬師をしとるメルゲンだ。何か用かい?」
「所長のナーゼさんに頼まれて、回復薬をいただきに来ました」
「なんじゃ、ナーゼの使いじゃったか。しかし、回復薬とは穏やかではないな。何かあったのか?」
「じつは保安所が大変な事になってまして──」
「大変な事?」
回復薬を分けてもらうために、オレは街に広がる紅色の濃霧の事や、保安所が襲撃され建物の一部が崩れ落ちた事などを掻い摘んで説明した。メルゲンは腕組みをして目を閉じて、オレの話に黙って聞き入る。じっと聞き入りオレが話終わっても何かを考え込む様に動かない。
「それで、副所長のグルトンさんのために回復薬が必要なんです」
メルゲンは何も言わず黙り込んだままだ。何か回復薬を渡せない事情でもあるのだろうか。突然、腕組みが外れメルゲンが大きく体勢を崩した。
「おお。すまん。すまん。居眠りしておった。それで、何だったかのう?」
子供の頃に良く見たコントにそっくりな場面に、まさかこんな切羽詰まった状況で出くわすとは思ってもみなかった。いつものオレなら大爆笑しているはずだが、流石に今はそれどころではない。街ではあまりに多くの血が流れ過ぎている。
「副所長のグルトンさんが大怪我をしました。回復薬を譲っていただきたいのです」
「何とグルトンが? いったい何があったんじゃ?」
メンゲルは驚きの表情を浮かべて問い掛ける。オレは『またそこからかい!』というツッコミを心の中に仕舞い込み再び説明を始める。
「保安所が何者かに襲われました。多くの保安委員の命が奪われ、その際にグルトンさんも大怪我をしました。しかも、街には今、謎の紅色の濃霧が広がっています」
「紅色の濃霧!?」
「はい。吸い込むと危険です。リーテンの話では、全身から血が流れて倒れるそうです。彼女の家の者も──」
「何てことだ……」
メルゲンは言葉を失う。耳の悪いメルゲンが何も気付かずに家の中で過ごしているうちに、街では幼いリーテンの家族までその犠牲となる恐ろしい事態が巻き起こっていた。苦しむ者たちを助けなければ。突如、その老骨には啓示にも似た強い使命感が沸き上がる。
「よし。すぐに皆を助けに向かおう。サトウと言ったな、悪いが準備を手伝ってくれんか」
「はい」
メルゲンは部屋の奥へ向かうと何やらゴソゴソと準備を始めた。そして、準備を続けながら声を上げる。『家の裏に荷車がある。悪いが家の前まで運んでおいてくれ』オレは言われるがままに荷車を取りに家の裏へと向かった。
彼の言葉通り家の裏には古ぼけた荷車が置かれていた。オレはその荷車を家の前へと運んで中へと戻ると、メルゲンは大きな包に薬を山ほどを詰め込んでいた。リーテンもそれを手伝っている。
「悪いがこれを荷車に積んでくれ」
オレの背負うバックパックの十倍以上の重さの包を、やっとの事で荷車に積み込んで一息ついていると、いつの間にかメンゲルとリーテンも荷車に乗り込んでいた。
「一緒に行かれるんですか? リーテンまで!?」
「まさかここに一人で置いては行けまい?」
「でも、危険ですよ──」
メンゲルは俯きながら考え込む様に腕組みをした。まさか、また居眠りする気では。オレがそう疑い始めた矢先に、メンゲルがゆっくりと口を開いた。
「サトウ、お前の言う紅色の濃霧と言うのは、恐らく『カルネギの紅息』と呼ばれるものじゃ」
「カルネギの紅息?」
「ああ。別名、悪魔の紅霧と呼ばれる。本来は街中などに発生するべきものでは無い恐ろしいものじゃ。本当に恐ろしいのはその後なんじゃ──」
メンゲルがますます険しい表情で話を続ける。
「もしそれが本当にカルネギの紅息だとすれば、近くに本体がおるはずじゃ」
「本体?」
「ああ。紅息を吐いた本体。化物じゃよ」
「化物!?」
大変な事になっているのは理解していたつもりだった。しかし、オレが思っていた以上にノルイドは大変な事になっていた。あの紅色の濃霧は化物の仕業だ。もうオレたちの手に負える様な事ではないのでは。もうオレは元の世界に戻る事も──。
そんな思いが脳裏を過る中、オレたちはグルトンの元へと急いだ。
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