『クリスティニア』が『桐花』でいるために-5
「お? 許されたつっきーにはこれをくれてやろう」
瀬野川に渡された要望書は、俺達が抱える悩みの一つを解決してくれそうな内容だった。
「留学生?」
見たこともないやたらと格好良い漢字が並んでいた。
「あー、アタシのクラスにいる確かシーイーとかそういう名前の留学生かな。シンガポール人だっけかなー?」
条辺先輩と同じクラスとは。苦労してそうだな。
英名があるので、普段から呼ばれ慣れている名前を学校でも使わせて欲しいという要望だった。
「留学生は何人かいるよ。桐花ちゃんも話しかけられて困ってたよね」
山丹先輩の言葉に、向井桐花は下を向いてしまった。
向井桐花には見た目を裏切らない英語力はあるんだが、社交性のなさでしゃべれない認定されてしまっていただけだ。
「そっかー。どさくさに紛れて向井ちゃんも認めてもらえばいっかー! 瀬野川ちゃんさすがぁ!」
「そゆこと。とーた、もっと褒めて!」
俺は瀬野川と杜太ほど楽観的にはなれなかった。
たとえこの要望が通ったとしても、留学生のみなんて条件がついたらアウトだ。
向井桐花の立場は特殊過ぎる。
それに、この高校には名札もなければ体育着に名前ゼッケンを付けている訳でもないから、あまり深刻に捉えられないかもしれない。
だけど、向井桐花にとって名前は結構重要だ。
日本生まれの日本国籍所持者だ。小中学校共に公立で、高校も県立だ。
「桐花ちゃん、もし桐花って名前を使いたいならこれ書いてね」
山丹先輩が向井桐花に渡したのは空白の要望書だった。
要望書の募集期限は過ぎているが、それくらい自治会特権で受理しても構わないだろう。
向井桐花はじっと紙を見てから、山丹先輩の顔を見た。
「……騒ぎに、なりませんか?」
変な質問だ。なった方が大人は動いてくれるのに。
「騒ぎに? 大丈夫だと思うよ。一年衆、騒ぎにしないでね」
正直、約束できない。
この要望書が棄却されたら『わざと騒ぎにする』かも分からん。
要望書を書き始めた向井桐花を尻目に、俺は白馬と瀬野川が気になって仕方なかった。
二人の関係が特に変わった様子はなかった。
むしろこんなに仲が良かったのかと、今更気付いたくらいだ。
瀬野川は多江に話しかけるよりも多く白馬に話しかけていた。
しかも白馬に話しかける時に限って声のトーンが一段階高めというか、甘めだ。
この二人が付き合っているとしてもおかしくないと思うのは、俺に恋愛経験がないからかもしれないけれど。
「ん? 書き終わった?」
向井桐花が要望書を渡す手つきがあまりにも自然な動作だったので、そのまま受け取ってしまった。
どうして俺に渡すのか聞こうとしたが、向井桐花は要望書の処理に戻ってしまった。
A5の要望書には、短時間で書かれたとは思えない量の文章が書かれていた。
きっと、前からずっと困っている理由は常に自分の中にあったんだろう。
母方の親戚が厳格で日本人名を認めなかったこと。
その親戚のふとしたアイディアで、両親の名前の前後をくっつけた自分の名前が決まってしまったこと。
そのせいで略称が使えず困っていること。
友達に考えてもらった向井桐花という名前は、本名より大事にしたい名前だということ。
だから高校の間だけでもこの日本名を使いたいので許可して欲しいという結論で結ばれていた。
なんだ、これ。
手先が温度を失っていく。
「え、えと、ちょっと、な、直そう」
無言で俺の隣にやってきた向井桐花の顔は緊張で強張っていた。
きっと俺も同じような顔をしている。
本名よりも大事ってどういう意味なんだ。
たった数十分で俺が、俺達が考えた名前なのに。
「ど、どうしたの? 安佐手君、汗びっしょりだけど……」
白馬が心配そうに顔を覗き込んできた。
「んー……暑いから?」
「疑問系で返されても困るよ。窓開けようか?」
「い、いや、いい」
頭の中がごちゃごちゃだ。
明らかに向井桐花から受けている感謝の量と労力が、あまりにも見合ってなさ過ぎる。
「えと、その、使いたい理由を、慎重に考えないと、あれ、だから」
体中、おかしな震えが走り続けていた。
「あの、もう一枚要望書取ってもらえる?」
手の震えが隠せないので、口頭で伝えるよりなかった。
「ん、んーと、要望書っぽく、書かないと」
息苦しい。でもこの場を何とかしなければ。
向井桐花が暗い顔をしてしまっていた。
震える手で携帯を取り出して長机に置く。
『この紙もらっていい?』
メモ画面に入力して向井桐花の方へよこす。
『?』
と、その下の行に返された。
そして、その下に『大丈夫?』と書かれてしまった。
緊張が伝わってしまったのかもしれない。心配されてどうすんだ俺は。
『大丈夫』
そのまま予測変換の履歴で返すことしかできなかった。
「おいおいお二人ー? 何こそこそ話しちゃってるんかなー?」
多江も目敏いな。
「ぐ、ググってんだよ。要望書なんてほら、さもたくさんの人が同じ困りごとがあるように書かないとだろ」
「ほーぉ。さすが
瀬野川め、いきなりなんだ。
「な、なんだKOWって?」
「キング・オブ・悪知恵の略」
人生初の王の地位がそれかよ。でも、少し落ち着いた。
悪知恵だって人の役に立つんだ。
向井桐花の名前を考えた時、短時間ではあったが、一応手は抜いていない。
本人の名前をベースにして必死に考えたのは確かだ。
そうだ、ここまで名前を気に入ってくれた向井桐花にも、この流れで感謝しとこう。
『気に入ってくれてありがとう』
歯が浮く。
でももう打っちゃったから仕方ない。
人への感謝をためらってしまう性格はなんとかしたい。
向井桐花が携帯に手を伸ばそうとした瞬間、俺はさっと携帯をしまった。
「なーにしてんのぉー?」
あっぶねぇ。
俺の条辺センサーが感度良好で助かった。
「ぐ、ググってました」
「へぇ~~。じゃ金髪! なーにしてたのー?」
「……ググってました……」
ぶっと瀬野川と多江が吹き出した。何かを誤解していそうだ。
結局、要望書はほとんど俺が考えた内容になってしまった。
とにかく学校生活で支障が出ているので、保護者承認の元で別名を使わせて欲しい旨を記載しただけだが。
最後に本人が『フロンクロス クリスティニア』と記名した。
記名は任意だが、記名ありの方が採用されやすい。
山丹先輩が承認印の日付を戻して捺印し、先程見つけた要望書と一緒にして採用ボックスへ入れた。
「さ、私の不手際で本当に申し訳ないんだけど、もう一頑張りしましょう」
山丹先輩の号令で皆作業に戻る。
要望書の整理を進めていても、俺の頭の中は向井桐花の要望書がずっと気にかかっていた。
俺の見立てでは多分、教師は取り合ってはくれない。
次の一手を考えないと、『クリスティニア』はずっとそのままだ。本人の望む『桐花』にはなれないんだ。
女子のために熱血キャラみたいな思考回路になってる自分が気持ち悪いが、ずっと名前で悩んでいた向井桐花の願いを叶えるためなら、いくらでもキモくなってやるという気にさせられた。
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