第13話 ロールキャベツと皇帝の旅立ち

 ハルトとミトがメインディッシュの仕上げをしていた頃。

 ロサリアは皇帝ケネンの側で給仕していた。

 

 奥にある席で、一人の骸骨が凛とした姿勢で座っている。

 ケネンは胡乱な様子で店内を見渡していた。

 

「……相変わらず、質素な作りだ」

「お気に召しませんでしょうか?」

 

 ケネンが以前に来た時、辟易した表情を見せていた。

 きらびやかな宮廷に慣れていたせいか、物足りなく感じるのだろう。

 ロサリアが恐る恐る尋ねると、ケネンは首を横に振った。

 

「いいや、民の店となればこんなものだろう」

 

 どうやら、単純に感じたことを呟いただけのようだ。

 ケネンに同調して、ロサリアも店内を見渡す。

 温かな光が優しく店内を包み込んでいる。

 

「内装はミトさんが整えたんですよ。落ち着く雰囲気で、私は好きです」

「……異論はない」

 

 ケネンも豪華絢爛な造りが好きというわけではないらしい。

 席に座る彼女は、気だるげに指先の骨をカチカチと鳴らしている。

 どうやら退屈しているようだ。

 それを見て、ロサリアは棚から一本のワインを取り出した。

 慣れた手つきでグラスを用意し、赤い液体を注いでいく。

 

「こちら、食前酒になります」

「頼んでいないが」

「サービスです」

「……そうか。ならば飲むとしよう」

 

 淡々と答えるケネン。

 彼女はグラスを持ち上げ、鑑賞するようにくゆらせた。

 そのまま流れるように鼻先で匂いを嗅いでいく。すると、彼女は困惑するような声を発した。

 

「これは……?」

 

 何かが引っかかったらしい。

 ケネンは舌先で転がすように飲んだ。

 透き通るようなブドウの匂い。

 じんわりと熱が口の中に広がる。

 

 一口で確信を得たらしく、ケネンはふっと笑った。

 

「よもや、他国で故郷のブドウ酒に出会えるとは思わなんだ」

「ええ。今宵のために選ばせていただきました」

「ふっ、粋なことをしてくれる」

 

 ケネンは愉快げに喉の骨を鳴らした。

 懐かしのワインに感じ入ったのか、あっという間にグラスを空にしてしまう。

 グラスをゆっくり置くと、ケネンは虚空を見つめながら呟いた。

 

「……貴族とブドウは似ている。そう思わぬか?」

「と、言いますと?」

 

 いきなりの問いに、ロサリアは眉をひそめた。

 気難しい人であることは知っているので、自然に肩へ力が入る。

 一方、ケネンは弛緩した姿勢で呟き続けた。

 

「ブドウは枝に近いところから熟する。それゆえ上にある果実ほど甘く、下の果実は酸いものとなるのだ」

「……王家に近い者ほど得をする、ということでしょうか」

「聡いな、確かにそれもある」

 

 ケネンは満足気に頷いた。

 真意を読み取れたようなので、ロサリアはほっと息を吐く。

 

「ただ余の場合――それと似たことが王家の中でそれが起きてしまったのだ」

 

 そう告げるケネンの双眸には、悲しい光が灯っていた。

 彼女は二杯目のワインを呷りながら、とある話を始めた。

 

 あるところに、三人の帝位継承者がいた。

 それは二人の兄弟と、一人の妹。

 同腹の子ということもあり、彼らは非常に仲が良かった。

 

 勉学も武技も苦手だが、人望のあった長兄。

 そして天賦の才を持ち、何事も完璧にこなした妹。

 最後に、勉学はめっぽう苦手なものの、武術に関しては歴代でも随一の片鱗を見せた弟。

 

 各々は互いに足りないものを知っており、きょうだい間で補いあっていた。

 晩餐はいつも一緒に取っており、その仲の良さは重臣たちを安心させた。

 しかし――悲劇は起きた。

 

 数年後、皇帝が病に伏せると逆臣が暗躍し始めたのだ。

 側近として、兄弟たちに良からぬことを吹き込み始めた。

 卑劣な離間工作で兄弟の絆は砕け散り、二人は互いに憎み始める。

 そして帝位継承をめぐって闘争が勃発したのだ。

 

「国を疲弊させたのは間違いなく愚兄と愚弟だ。戦ううちに民の不満を買い、革命を許してしまったのだからな」

 

 詳しく聞かずとも分かる。

 どのようにして大アジール王朝が滅びたのかを示す話だ。

 ケネンは話すうちに少しずつ語気が荒くなっていた。

 嫌な記憶で感情が昂ぶっていたのだろう。

 

「また、諌めようとした余に、奴らはこう言ったのだ。『若造の、それも女が口を出すな』と。余がいなければ、ロクに軍事も内政も回せなかったというのにな」

 

 ざまあない、といった口調。

 しかし、その言葉を紡ぐ声はどこか悲しげだった。

 

「最終通告をするために一同を集めての晩餐会を開こうとしたが、それも叶わず。反乱中に他国の侵略を受けて国は滅亡。歴史ある大アジールは分裂し、歴史から消え去ったのだ」

 

 恐らく彼女は、王朝を存続させるため奔走したのだろう。

 奸計で壊れてしまった兄弟間の絆を取り戻すために。

 しかし、それは実現しなかった。

 ケネンは昔話を終えると、淋しげにため息を吐いた。

 

「いかに優秀な種子を持とうとも、下に実をつけてしまえば全てが台無し。上の実には逆らえず。貴族の悲しき性よな」

「……心中、お察しします」

 

 ロサリアも聞いていて胸を痛めたのだろう。

 制服の裾を握りしめながら呟いた。

 それを見て、ケネンは手のひらを軽く振った。

 

「暗い話は終わりだ。馳走が不味くなる」

 

 その言葉を境に、再び店内に沈黙が訪れた。

 二人とも喋らないので、気まずい空気が流れる。その時だった。

 

「――お待たせしました」

 

 ミトとハルトが厨房から出てきたのだ。

 片手には湯気の立ち上る皿を持っている。

 

「この、匂いは……」

「アジール豚のロールキャベツです」

 

 ミトがケネンの前に皿を置いた。

 少し底の深い皿に、たっぷりとロールキャベツが盛られている。

 キャベツは丁寧に巻かれており、触れる前から柔らかな食感が予想できる。

 トマトソースの効いたスープは、空腹を煽るかのように鼻腔を刺激してきた。

 

「ほぉ……本当に作ってくるとは。料理書は反乱の折に燃えたはずだが」

 

 ケネンは感心したように唸っている。

 どうやら二度と作れないものであると思っていたらしい。

 それに対し、ミトは軽く一礼を返す。

 

「全身全霊、再現させていただきました」

 

 ケネンはしばらく、ロールキャベツに視線が釘付けになっていた。

 しかし何かをボソリと呟くと、ミトに声をかける。

 

「――皿を持ってきて座れ。随伴せよ」

 

 その言葉に、ミトを始めとしてハルト達も驚く。

 一緒に食べようと言っているのだろう。

 ミトもまったく予想していなかったらしく、神妙に尋ねた。

 

「よろしいので?」

「余が命じているのだ」

「かしこまりました」

 

 ミトは厨房から人数分の小皿を持ってくる。

 ロールキャベツはボリュームがあるので、取り分けても十分に量はある。

 全員に行き渡ったところで、ケネンはナイフとフォークを手に取った。

 

「では、いただくとしよう」

 

 彼女はナイフをキャベツに当て、ゆっくりと沈ませる。

 すると、ほとんど力を入れずして切ることができた。

 よく煮込んでいる証拠だ。

 これならばスプーンの端でも容易に切り分けられるだろう。

 

 肉の断面からじゅわっと肉汁が溢れだす。

 そして存分にスープを絡ませ、一口にかぶりついた。

 甘みのあるキャベツが舌を撫でる。

 ある程度の食感を残しつつも、キャベツはしゃくっと噛みきれた。

 

 そして、圧巻なのはその次だ。

 中の豚肉を噛み切ると、口内に熱い肉汁が溢れたのだ。

 キャベツを巻くことでしっかりと旨みを閉じ込めていたのだろう。

 

 香ばしくもまろやかな豚肉の味わい。

 後味は爽やかで一切の淀みもない。

 スープに溶けたトマトの香りと最高の相性だ。

 飲み込んだ瞬間、ほうっと息を吐いてしまう。

 

 ケネンは宙を見上げながら呟いた。

 

「……あぁ、これだ」

 

 たとえ幾千もの年月が経とうとも。

 決して忘れることのできない味。

 全身に熱が染み渡るのを感じながら、ケネンは呟いた。

 

「懐かしい……よく、食べていた」

 

 その瞬間、ケネンの身体に変化が現れた。

 煤けた骸骨だった全身が、生きた人の形を持ち始めたのだ。

 同時に、彼女は目の前が明るい光に包まれた。

 

「あの、晩餐会で、席を並べてな――」

 

 次の瞬間。

 かつて見た光景が眼前に映し出されたのだった。

 

 

    ◆◆◆

 

 

『フレイ兄様、なにを悩んでいるのですか?』

 

 少女ケネンは無邪気に尋ねた。

 すると、長兄にして帝位継承候補のフレイは冷や汗をかく。

 彼は頬をポリポリと掻いて、妹の追及を逃れた。

 

『い……いや、なんでもないよ』

『勉学は向き不向きがあると聞きました。きっと兄様は向いてないのです』

『こら、酷いことを言うな』

 

 せっかくごまかそうとしたのに。

 フレイは屈託のない笑みを浮かべてそう言った。

 しかし、ケネンはじっと彼の顔を見ている。

 

 少女は兄が勉強を苦手としていることを知っていた。

 彼は最近、この時間になるといつも苦しそうに机に向かっている。

 そんな兄を見て、ケネンは胸を痛めていたのだ。

 

『勉学が必要なら、私が修めます。だから、そんな辛い顔をしないでください』

『はは、ケネンはいい子だな』

 

 フレイは妹の髪をくしゃくしゃと撫でた。

 自分と違い、ケネンはまさに天才としか言いようのない神童。

 まだ少女であるにも関わらず学問に精通し、武芸百般すらその身に修めている。

 

 帝王に選ばれるのが男子のみでなければ、彼女が帝位を継ぐべきだろう。少

 なくともフレイはそう思っていた。

 

『でも、これは私の使命でね。アジールの後継者としてやらなきゃダメなんだよ』

『……そんなものですか』

『ああ、そういうものだ』

 

 そう言って、フレイは再び机に向かおうとした。

 その時、部屋の扉が勢い良く開いた。

 

『兄上、姉上。晩餐の時間ですよ!』

『こら、ウォルト。開ける時は静かにしなさい』

『……ご、ごめんなさい』

 

 部屋に入ってきたのは幼い少年。

 大アジール王朝の第二皇子にして、フレイとケネンの弟だ。

 少しやんちゃな性格だが、早くも武術に関して才能を見せている。

 将来が楽しみな人材だった。

 

『もうそんな時間か。教えてくれてありがとう、ウォルト』

 

 フレイは笑顔で弟の髪を撫でる。

 すると、ウォルトはワクワクした様子で二人の袖を引いた。

 

『いきましょう! 今日はロールキャベツらしいのです!』

『ほお』

『楽しみね』

 

 月に二度ほど、晩餐にロールキャベツが出てくる。

 この国で育てられた、最高級の豚を使った料理だ。

 3人は宮廷料理の中でも、ロールキャベツが特に好きだった。

 

『では、いただきます!』

 

 3人はいつも晩餐を共にしていた。

 父母である皇帝と王妃は多忙のため、この時間を一緒に過ごすことはできない。

 しかし、仲の良いきょうだいがいるので、淋しいと思ったことはなかった。

 皇子たちの微笑ましい食事風景が、廷内の日常だった。

 

『ウォルト、口の周りについてるわよ』

『あ、姉上……いいです。自分で取ります』

『ダメ。こっち向きなさい』

『……でも、恥ずかしいです』

『そしたらそれだけ早く覚えるでしょう?』

 

 ケネンは天然なところはあれど、非常に面倒見がよかった。

 ウォルトの教育役からもありがたがられている程だ。

 あまり優秀ではないが人望の厚い兄。

 

 将来を嘱望されているがワガママなところのある弟。

 その二人の間に入る才気煥発の妹。

 この3人がいれば、皇家の未来は安泰だろう。国の誰もがそう思っていた。

 皇帝が突如として逝去する時までは――

 

 十五年後。

 皇帝が流行りの疫病により崩御。

 跡継ぎを指名しないままこの世を去ってしまった。

 しかし順位に基づく継承権が定められていたため、長兄フレイが後継者として注目された。

 

 だが、その時に逆臣が牙を剥いたのだ。

 第二皇子ウォルトに取り行っていた重臣らが彼を担ぎ上げ、皇位継承を唱えたのだ。

 

 ――才なき第一皇子フレイに皇位を継ぐ器量なし

 ――軍事に長けた第二皇子ディルが継ぐべきである。

 

 これに対し、フレイは宮廷の兵を動員。

 ウォルトを廷内から追い出した。

 兄弟の仲が良いことは万民が知っていたので、この事件で動揺が広がった。

 争っていたのは廷臣だけではなかったのか、と。

 

 その数日前、両者に亀裂を入れる事件が発生していたのだ。

 フレイが勉学の師と仰いでいた側近を、ウォルトの雇った暗殺者が殺害。

 傍にいたフレイにも重傷を追わせるという事件だった。

 

 これを聞いたケネンは首を横に振った。

 ウォルトがそのようなことをするはずがない。

 逆臣が彼の意向を無視して凶行に及んだのだ。

 もはや取り返しがつかないところまで事態を進ませるために。

 

 ケネンは兄弟のところへ行き、和解するよう求めた。

 しかし両者は固辞し、『奴との決着がつくまで黙っていろ』と返したのだ。

 ウォルトは正式な皇帝を名乗り、兵を集めて宮廷に進軍。

 これを危惧したフレイは城下を焼き払い、ウォルトの尖兵を痛めつけた。

 

 これを聞いたケネンは、目の前が真っ暗になったという。

 彼女はたまらずフレイの元へと駆けつけた。

 

『兄上、なぜ民のいる街を焼き払ったのですか!?』

『では、殺されるのを待っていろとでも言うのか?』

『話し合えば分かります。一度冷静になってください』

 

 ここで止めなければ、決定的になってしまう。

 すべてが終わってしまう。

 だからこそ、ケネンは縋るような思いで告げた。

 

『また、晩餐を共にしましょう? ウォルトも呼んで、ロールキャベツを食べて。ゆっくり、これからのことを――』

 

 必死で説得するケネン。

 以前のフレイならば、可愛い妹の言うことを聞いていただろう。

 しかし彼は、最愛の弟から裏切りを受けて心が荒み、人を信じられなくなっていた。

 

『――くだらん。いつの話をしているのだ?』

 

 その一言で、ケネンに残った希望が潰えた。

 フレイは深いため息を吐くと、うんざりしたように怒鳴り散らした。

 

『お前には関係ない。そもそも継承権のない女が、私の為すことに口を出すな!』

 

 それが、最後に聞いた兄の言葉だった。

 ケネンはすぐに宮廷を追い出され、強制的に蟄居させられた。

 

 そして争いが続くこと数年。

 ついに民の怒りが限界を迎え、反乱が勃発。

 それを利用して隣国が都へ出兵し、全てを食い荒らした。

 

 フレイとウォルトは革命軍に捕まり処刑。

 危険の迫ったケネンは、信頼できる家臣を連れて西へ逃れた。

 こうして大アジール王朝は滅びたのである。

 

『……なんで、こうなっちゃったんだろう』

 

 ケネンは棄民の要望に押され、逃亡先で新しい王朝を開いた。

 それが西アジール王朝だった。

 

 常に隣国からの重圧に晒される毎日。

 物資も乏しく、宮廷内でさえ贅沢品が使えることは稀だった。

 ケネンは心労が重なり、一切の食事が喉を通らなくなった。

 

 晩餐の時間になると、一人で円卓に座る。

 すると、かつての賑やかな食事を思い出してしまう。

 

 口の周りを汚してしまうウォルト。

 それを見て苦笑するフレイ。

 そんな三人を見て、和やかに微笑む従者たち。

 慌ただしくも輝かしい毎日。

 

 そんな、ケネンが望んだ日常は、もう――

 

『……淋しいなぁ』

 

 座るたびに思い出してしまう記憶。

 それと反対に増え続ける疲労と苦痛。

 憔悴しきり、夜も眠れなくなった。

 

 そしてある日、政務を終えたケネンは、ひどいめまいを覚えた。

 近くにあった円卓の椅子に倒れこむ。

 なんだか、酷く眠かった。

 

 ここで寝れば、きっと全てから開放される。

 二度と目を覚ますことはない。

 そんな気がした。

 しかし、ケネンはそれに抗う力など残っていなかった。

 

 最後に、心残りがあるとすれば――

 

『もう一度……皆で食べたかったな』

 

 瞼が落ちていく。

 戯曲の幕を下ろすかのように。

 薄れゆく視界の中で、彼女は何とか目を開こうとした。

 

 しかし、叶わない。

 もう何も感じない。

 悔恨の呟きを残して、最後の皇帝は深い眠りに着いたのだった。

 

『あの、ロールキャベツを――』

 

 

   ◆◆◆

 

 

 意識が現実へと戻る。

 今、ケネンの視界に映るのは、己と共に食事をする者達。

 彼女たちはロールキャベツを頬張り、嬉しそうに笑みを浮かべている。

 

 その姿は言うまでもなく、かつての日常と重なって見えた。

 そして、口の中に広がる味は――

 

『……おい、しい』

 

 手が止まらない。

 遙かなる時の中で、この味と再会するために彷徨い続けてきた。

 しかし、出会えなかった。

 

 当然だ、もはや己のいた時代などとうに過ぎたのだから。

 国が終わり、文明も終わり、全てが喪われた。

 しかし、それでも――

 

 今日、ここで再び、味わうことができたのだ。

 全てが楽しかったあの頃の懐かしい味を。

 その時、ケネンは頬が熱くなったのを感じた。

 

 思わず拭い取ると、そこには水滴が付いている。

 

「……なんだ、この水は」

「涙、ではないでしょうか」

 

 目の前の店主が告げてくる。

 だが、にわかには信じられなかった。

 

「……はっ、ありえんな。もはや涙など枯れ果て、人の情など尽き果てた」

 

 今の自分は亡霊にすぎない。

 生きていた頃の感情など、もはや残っていない。

 そんな、料理を食べただけで涙を流すなど。

 まるで初心な人間のすることではないか。

 

 しかし、自分の心に嘘はつけなかった。

 

『……そう、思っていたのに』

 

 あふれる涙が止まらない。

 拭っても、拭っても、後から流れ出してくる。

 

『……ああ、そうか』

 

 自分がなぜ死ねなかったのか。

 ケネンは真の意味で理解した。

 

 自分にとって最も大切だった、きょうだいの絆。

 彼らと一緒にいる時ほど楽しいことはなかった。

 そんな日常を壊されたのが、否定されたのが、たまらなく悔しかったのだ。

 

 せめて死ぬ前に、もう一度あの輝きを取り戻したかった。

 

『たった、それだけのために、私は――』

 

 その瞬間。

 ケネンは信じられないものを見た。

 自分を包むまばゆい光の中に、二つの人影が見えたのだ。

 

 目を凝らすと、それは見慣れた背中だった。

 最愛の兄と弟が、こちらをじっと見ている。

 離別の際に目にした、あの時の姿のままだ。

 

 二人は少し苦笑した後、こちらに手を伸ばしてきた。

 彼らの奥には円卓が見える。

 

『……あぁ』

 

 これもまた幻覚なのかもしれない。

 あれほど痛い言葉をぶつけられたのに。

 鬱陶しいと思われていたのに。

 そんな二人が、自分に手を差し伸べるはずがない。

 

 しかし、妹としての経験が――本能が告げていた。

 彼らが決して幻影などではないことを。

 

 そこに根拠は存在しない。

 しかし、手を取らずにはいられない。

 彼らが、一緒に行こうと言っているのだ。

 取り残された自分を、迎えに来てくれたのだ。

 

『……フレイ兄様。ウォルト。待たせたな』

 

 ケネンは二人の手を取る。

 すると、人肌の温かみを感じた。

 この感覚も、数千年ぶりか。

 しかし、もうその孤独も終わりだ。

 

『まったく、二人ときたら……』

 

 今ここに、自分の探し求めたものがあるのだから。

 一歩踏み出すと、彼らもまた円卓の方に進みだした。

 自分の手を引いて、テーブルに座ろうと言ってくる。

 そんな二人を見て、ケネンは苦笑する。

 

『本当に、変わらないな』

 

 輝かしい日常に手が届いた。

 そう悟った刹那、全身が光になって舞い散り始めた。

 自分という存在が薄くなっているのが分かる。

 

 しかし、構わない。

 この消失は、あの時のものとは違う。

 こんなにも、温かい気持ちになれたのだから。

 

『さあ、食べよう。また皆で一緒に――』

 

 ケネン・ド・アジール。

 悲しみの死を続けてきた最後の皇帝。

 そんな彼女は、光の中へ消えたのだった。

 

 かつてない幸せな笑顔を浮かべながら――

 

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