第6話 イルミナ鶏の串焼き

 ハルトは自分の料理法に一つのこだわりを持っていた。

それは、料理を偏見のない目で見つめ、研究した上で作業に取り掛かるというもの。

この信念があるために成長し、また孤独の道を歩むことになった。


 確かに、一度は己に絶望した。

 包丁すら握れない自分に怒りすら覚えた。

 しかし、それでも、この信念を後悔したことだけは――1度もない。


 ハルトはまず、『イルミナ鶏の串焼き』のレシピを徹底的に調べた。

 文字こそ読めないが、併記された絵から食材を的確に読み取っていく。


 肉が鶏であることはすぐに分かる。

 だが、肉の上に散らされている調味料が判然としない。

 ハーブを使っているのは確かだが、何の品種か判然としないのだ。

 ハルトは記憶を頼りに、ハーブの絵を見つめる。


「……バジル? いや、葉先からしてローズマリーか」


 間違いない。

 使われている調味料は、ローズマリーを用いたハーブソルトだ。


 ローズマリー。

 数多くあるハーブの中でも特に薬効性が強いもの。

 その抗菌作用は近世ヨーロッパで注目され、ペスト流行の歯止め役としても名を馳せた。

 消臭効果も抜群で、スッキリとした爽やかな味をもたらしてくれる。

 ハーブを名産とするイルミナで普及したのも頷ける。


「ミトさん、ローズマリーってあります?」


 ハルトの研究を静かに見ていたミトは、少し考えた後に頷いた。


「ん、多分あるよ。ウチの看板娘がハーブにはまってるから」


 どうやら、欠勤している店員がハーブを集めているらしい。

 ミトは棚をガサガサと探ると、一つの瓶を取り出した。


「あった、これだね」


 瓶詰めにされたハーブ。

 ハルトは蓋を開けて匂いを嗅いだ。

 鼻腔に充満する爽快感。間違いなくこれだ。


「それじゃあ、俺は調味料を完成させます。ミトさんは鶏のもも肉を一口大に切ってくれますか?」

「ふっ、任せてもらおう。良い鶏が入ってるんだ」


 仮面を甲斐甲斐しく上げると、ミトは鶏肉を切り始めた。

 それを確認して、ハルトは塩を取り出した。

 今から作るのはハーブソルト。

 香り高いハーブと塩を混ぜ込んだ調味料だ。


 乳鉢に塩とローズマリーを入れ、丁寧にすり潰していく。

 すると、書物に載っていた絵の通りの粉ができあがった。

 ついでに、研究をしている間に焼き鳥のタレも作っておいた。


 タレを作るのは難しいことではない。

 醤油、みりん、酒などを入れて煮詰めれば簡単にできる。

 塩を用いるイルミナ料理では使われていないが、焼き鳥といえば塩とタレが二大巨頭。

 せっかくなので作っておいた。


「……味もよし。ミトさん、鶏肉は――」

「既にできてるよ」


 次の指示を出そうとした矢先、ミトがボウルを差し出してくる。

 そこには完璧な形に切られたもも肉が載っていた。

 すさまじく早い仕込みだ。


「……すごいですね」

「たまに失敗するけどね。今日は運がいい」


 さらっととんでもないことを言うミトだが、ハルトは突っ込まず次の工程に進む。

 美しい灰紅色の鶏を、用意された竹串に刺していく。

 一本ずつ、慎重に――


「手伝おうか?」


 ここで、ミトが竹串を指差して言った。

 しかし、ハルトはゆっくりと首を振る。


「いや、大丈夫です。串打ちは俺がやりますよ」

「そっか、じゃあ見とこっと」


 ミトは少し興味があったようだが、あっさりと引いた。

 特別な技術を要する工程だと悟ったのだろう。

 真剣な表情で串打ちを進めるハルトの横で、ミトは感心したように息を吐く。


「へぇ……刺す角度があるんだ」

「はい、これで食感に違いが出るんです」


 均等に火が通るよう、肉の厚さを揃えていく。

 繊維を傷つけないように、狙いを定める。

 その際、ハルトは皮が上に来るように刺していた。

 こうすると出来栄えが良くなるのだ。


「……ふぅ」


 数分の後、全ての肉を串に刺し終えた。

 ほとんどの串にハーブソルトを振り、数本だけタレを付けていく。

 その上で、すかさず最後の工程へ移った。


「ミトさん炭火はありますか?」

「炭火? そこの作業台に備え付けてあるけど」

「使わせてもらいますね」


 レシピには焼き方の作法は書かれていない。

 自由に焼けということだろう。

 それならば、ハルトにとって最善の焼きを入れるまでだ。


 ハルトは作業台にある炭を手に取る。

 備長炭とは材質が少し違う。

 だが、問題なく使えることを確認した。

 焼き鳥は炭火で焼くことで、肉の旨味を封じ込めることができる。


「客を思い、料理を思うがための一工夫だね。いやはや、惚れ惚れするよ」

「いや、むしろ普通は炭火で焼くんです……」


 ミトの感嘆する声に戸惑いながら、ハルトは肉に火を通した。

 炭火の特徴は、『強火の遠火』という一言に尽きる。

 まんべんなく熱を与えることで、ムラのないジューシーな焼き上がりになるのだ。


 炭火に包まれたもも肉は、色と香りの存在感を高めながら焼き上がっていく。

 その匂いは嗅いでいるだけで食欲が刺激され、唾液が止まらない。

 ミトは喉をごくりと鳴らしながら呟いた。


「すごいジュージュー言ってる……!」

「音がいいですよね」

「……一本食べちゃダメ?」

「ダメです」


 これはあくまでも客に提供するものだ。

 まかないとして作っているなら別だが、つまみ食いはあまり行儀の良いものではない。


 ミトは残念といったふうに首を引っ込める。

 落胆する姿を見て、ハルトは少しだけ胸が痛んだ。

 そこで、埋め合わせの約束をしようとする。


「また今度、日を改めて作りましょ――」


 だが、そこで言葉を詰まらせた。

 まだ、この店にいられると決まったわけではないのだ。

 懇願と取られれば不興を買いかねない。

 しかし、ミトはくすりと笑って頷いた。


「ふふ、そうだね。楽しみにしてるよ?」


 その慈愛に満ちた笑顔で、ハルトは気が楽になった。


 ちょうど肉が焼き上がろうとしている。

 気合を入れ、しっかりと焼き色を見定めた。

 香ばしい音と共に、肉汁が下垂れ落ちる。

 これを見ているだけというのは拷問に近い。


 そんな感覚が芽生え始めた頃――


「――焼き上がり。完成です」


 ハルトは焼き鳥の串を引き上げ、皿に運んだ。

 塩とタレの焼き鳥を分け、綺麗に並べていく。

 肉汁が弾け、焼き鳥の表面は輝きを放っていた。

 口の中に入れるのを想像するだけで胃が反応する。


「……うわぁ、すごい。すごいよハルトくん!」


 焼き鳥を前にミトは語彙を失い、手をワキワキとさせていた。

 このままでは手を出しかねないので、ハルトはさっと皿を背後に隠した。


「ミトさん、商品ですよ」

「わかってるって。”料理人”の芸術品をつまみ食いするほど、僕は落ちぶれちゃいないよ」


 そう告げて、ミトは印象的なウインクをしてきた。そして最後に、ねぎらいの言葉をかけてくる。


「お疲れさま。料理を作っているキミは、何よりも輝いていたよ」

「……ありがとう、ございます」


 ミトの言葉で、ハルトはようやく全身の力を抜くことができた。

 仕事モードを解除し、張り詰めた表情を崩していく。


 この時ハルトは、あることに気づいた。

 ずっと心のどこかで引っかかっていて、それでも分からなかったこと。

 それが今、外発的な力によって思い出されたのだ。


「……あぁ、そうか」


 普段の自分と、料理に向かう時の自分。

 その両者は、限りなく別ものなのだ。


 苛烈なトラウマで壊れてしまったのは、あくまでも普段の自分。

 その奥底に眠る、己が料理人であると叫ぶ本能は、何一つ変わっていなかった。


 だからこそ、料理を前にして頑張れた。

 包丁が握れなくても、過去に絶望しても、こうして一つの料理をつくることができたのだ。


 ――俺はまだ、死んでない

 ――諦めないで、もっとよく見てくれ!

 ――傷を抱えてるけど、俺は料理人なんだ


 失望によって覆い隠されていた、内なる叫び。

 それに気づいたハルトは、固く拳を握りしめる。

 少しだけ、これまでよりも前を向けそうな気がした。

 自分という人間が、まだ終わってないことが分かったから。


 そして、それに気づかせてくれたのは――


「……ミトさんって」


 無意識に、ハルトは言葉を紡いでいた。

 すると、目の前の女性は甲斐甲斐しく首を傾げる。


「ん、なにかな?」


 恐らく、これから言うことも見透かされているのだろう。

 でも、構わない。

 ハルトは特別な感情を込めて、目の前の料理人に告げた。


「――本当に、ずるい人ですね」

「ふふ、過大評価だよ」


 ミトは肩をすくめた。

 そして余韻に浸る間も与えず、ハルトの背中をポンと叩く。


「さて、切り替えてね。次は接客だよ」


 既に彼女の左手には、完成された焼き鳥――

 もとい、『イルミナ鶏の串焼き』の皿があった。


 今までやっていたのは、一人の料理人としての仕事。

 今から始まるのは、『料亭みとり』としての仕事だ。


「それじゃ行こうか。僕達の成果を、見届けるために」


 ミトはそっと右手を差し出した。

 すると、その手は一瞬のうちに握られる。

 彼の瞳に、もはや迷いはない。


「――はい!」


 胸を高鳴らせながら、ハルトは頷いたのだった。



 ---



「お待たせしました。『イルミナ鶏の串焼き』です」


 優雅な所作で、ミトは注文の品を配膳した。

 その隣ではハルトが神妙な顔で立っている。

 目の前に料理を置かれ、青年は顔を上げた。

 その瞳には、驚きと戸惑いの感情が宿っている。


『……これを、どこで?』

「ふふ、優秀な料理人がいるのさ」


 ミトが得意気にハルトを指し示した。

 すると、青年はじっと彼を見つめる。

 何を言えばいいかわからず、ハルトは恥ずかしげに会釈した。


「それで、この料理で間違いないかな?」


 ミトが確認を促すと、青年は再び料理に目を落とした。

 こんがりと焼き目の付いた焼き鳥。

 何かを思い出しそうなのか、青年は苦しげに頭を抱える。


『……分からない。記憶が、曖昧だ』


 その言葉で、一瞬だけハルトは不安になった。

 できる限り再現したつもりだが、見当違いである可能性がないとは言えない。

 そもそも書物のレシピが誤っていたら終わりだ。

 だが、ここで青年がしみじみと呟いた。


『……しかし、懐かしい。不思議な感覚が、する』


 そう言って、青年は2本の焼き鳥を手にとった。

 そのまま食べるのかとおもいきや、こちらへと差し出してくる。

 きょとんとするミトとハルト。


「どうされました?」

『……イルミナの戦士は、一人で食らうことを好かず』


 どうやら、一緒に食べようということらしい。

 厚意を無下に断る理由もない。


「では、お言葉に甘えて」

「いただきます」


 3人は焼き色のついた串を持つと、食欲のままに食べ始めた。



 ---



 この高揚感を、青年は知っている。

 遥か昔に、イルミナで何度も経験した感覚だ。

 この串焼きで、その大切な何かを思い出せそうな気がした。


『……いい匂いだな』


 口元に運んだだけで分かる、食欲をそそる香り。

 唾液が溢れ、口を開けずにはいられない。

 本能のままに、青年は串焼きを頬張った。


『……ぐっ』


 その瞬間、青年の身体に異変が現れる。

 半透明だった肉体が形を持ち、生者と変わらぬ姿になったのだ。

 みすぼらしい装備はそのまま。

 頬は痩せており、いかにも幸の薄そうな顔だ。

 しかしその表情は、かつてなく活き活きしていた。


『……はぐっ』


 青年は夢中で肉を噛みしめる。

 歯を立てた瞬間、熱々の肉汁がじゅわっと溢れだす。

 熱い、しかし旨い。


 表面のカリカリとした食感がたまらないのだ。

 それでいて、中身は舌の上で溶けそうなほどに柔らかかった。

 上質の脂が乗っている証拠だ。

 ハーブの香り漂う塩気が、全てを優しく癒やしてくれる。


 活力が湧き上がる肉の旨み。

 荒んだ心を解きほぐすハーブ。

 それこそが、イルミナ鶏の串焼き。


 イルミナの人たちは、この料理をこよなく愛していた。

 当然、イルミナで生涯を終えた自分も――


『……あぁ、そうだ』


 頭の中の靄が晴れていく。

 失われた記憶が、今ここに蘇る。

 青年はぎゅっと己の胸を掴んだ。


 なぜ、今まで思い出せなかったのか。

 こんなにも、大事なことだったのに。

 けれど、もういい。

 二度と忘れないから。

 忘れるなど、できるはずがない。


 さまよい続けて数百年。

 ようやく、出会うことができた。

 ずっと探していた、懐かしの料理に――


『……これが、食べたかったんだ』


 そう呟いた瞬間、青年は確かに見た。

 目の前に広がる、現実とは思えない光景を。


 豊かな海。

 一面に広がるハーブ園。

 空はどこまでも青く突き抜け、温かな陽射しが降り注いでいる。


『……ここは』


 自分は、この場所を知っている。

 この世にあって、既に喪われたもの。

 郷愁で胸が締めつけられそうだ。


『――――』


 誰かの声が聞こえる。

 どうやら、自分の名前を呼んでいるようだ。

 視線をやると、ハーブ園の奥に、見覚えのある小屋が建っていた。


 その戸口から、一人の女性がこちらへ手を振っている。

 いったい、誰だろう。

 顔は霞がかっていてよく見えない。

 しかし、ずっと昔から知っている女性ひとな気がする。

 見ていると、なぜだか涙が止まらなかった。


 果たされなかった約束。

 彼女の元へ帰れたなら、どれだけ幸せだっただろう。

 しかし、叶わなかった。

 全てが赤い火に包まれて、その願いは終わってしまった。


 けれど。

 数百年の時を越え、限りなく近づいた今なら、不可能ではない。


 自分の愛した人が。

 自分の帰るべき故郷ばしょが――


『……そこに、あるのだから』



 ---



 その時、ハルトは不思議なものを見た。

 遠くを見据える青年の身体が、光を放ち始めたのだ。

 粒子のような光が、ふわふわと宙へと昇り、緩やかに消えていく。


 粒子が空へ舞うたびに、透けていく青年の肉体。

 しかし、先ほどまでの半透明とはまるで違う。

 青年の顔は何よりも優しく、充足感に満ちていた。


「なんだ……これ」

「――静かに」


 ハルトの困惑に対し、ミトは口の前で指を立てた。

 このまま見守っておけということだろう。

 焼き鳥を食べ終え、青年は最後の串を皿に置く。


『……あぁ、満足だ』


 その瞬間、青年の粒子化が激しさを増した。

 店内を照らすかのように、生命の輝きを燃やしていく。


『……世話になったな。うまかったよ』

「お粗末さまです」


 ミトは惚れ惚れするほど美しい一礼を見せる。

 それに釣られて、ハルトも頭を下げた。

 すると、青年は柔らかい笑みを浮かべる。


『……礼を言う、少年』

「いえ、俺はただ――」

『……君がいなければ、私は永遠に彷徨っていたよ』


 謙遜は許さないとばかりに、青年はハルトの手を握る。

 入店した時は、決して触れられなかった青年の身体。

 そんな彼の手は、亡霊とは思えないほどに温かかった。


「そう言って頂けて、嬉しいです」


 ハルトは素直に頷いた。

 そして、青年の手を固く握り返す。

 満足げに微笑む彼は、今にも消えてしまいそうだ。


 きっと、青年も悟っているのだろう。

 これから自分が、どうなるのかを。

 ここで、彼は意外そうな顔でミトに尋ねた。


『……見送って、くれるのか?』

「ええ。”お看取り”します」


 彼女の言葉に、青年は納得したように頷く。

 青年はゆっくりと立ち上がり、麻袋をカウンターに置いた。

 そして迷いのない足取りで出口へ歩いて行く。


 見送りのため、ミトとハルトは扉を開けた。

 いつの間にか外は白んできており、夜明け前になっている。

 外の世界へ一歩踏み出すと、青年はくるりと振り向いてきた。

 そして、満足気に最後の別れを告げてくる。


『料理を、出してくれて。人に、還してくれて――』


 名も知らぬ亡霊。

 その全てが粒子となり、空へと帰っていく。


『……本当に、ありがとう』


 こうして、青年は光の中へと消えていったのだった。



 ---



 朝日が山の端から見えた頃。

 料亭みとりの店内は静寂に包まれていた。

 すべての客が店を後にし、片付けの時間となる。


 ハルトは皿を洗いながら、感無量といった様子で宙を見上げる。

 先ほどの幻想的な光景が、瞼の裏に浮かんできた。

 そんな彼を見て、ミトは調理器具をしまいながら首を傾げる。


「どうしたんだい? ハルトくん」

「いえ……あの亡霊の人なんですけど」


 先ほど、目の前で光となって消えた青年。

 最期の様子から察するに、故郷へと帰れたのだろう。

 彼の去り際の顔が、今になっても忘れられなかった。


「あんなに幸せそうに笑うなんて、最初は想像できなくて――」

「うんうん、それが普通の反応だよ」


 ミトは共感するように頷いた。

 当初ハルトにとって、青年は恐怖の対象でしかなかった。

 壁に消えたり、触れなかったり、表情がなかったりと。

 この世の理から外れた存在を相手に、怯えてしまっていたのだ。


 しかし、正面から向き合ってみれば違った。

 料理で記憶を取り戻した青年は、誰よりも人間味に満ちていた。

 そのギャップは、ハルトの胸に深く刻み込まれている


「亡霊には無感動だったり、危険だったりするのもいる。でも、それは未練が原因なだけで、元は一人の人間なんだよね」

「ええ。実感しました」


 ミトの言葉は、今の自分に深く染みた。

 入店時にやってきた二人の骸骨もそうだ。

 話してみれば気さくな人達だった。


「未練を晴らして成仏したい人も、そうじゃない人も、亡霊ならみんなお客様。それが『みとり』の流儀だよ」


 ミトはえっへんと胸を張る。

 そんな彼女に、ハルトはじっと視線を注いでいた。

 抜けている人かと思いきや、全てを見通すような鋭さを持っている。

 そして、雄弁に己の仕事を語る姿からは、強い芯と誇りが感じられた。


 一度ドロップアウトした人間からすると、果てしなく眩しい。

 けれど、その信念をさらに間近で見てみたいと思わせる魅力が、彼女にはあった。


 こんな人に出会ったのは、掛け値なく初めてのことだ。

 もっと、この人と一緒に仕事がしたい。

 業務を終え、ハルトは溜めていた言葉をついに発する。


「――ミトさん」

「なにかな?」


 彼女は満面の笑みで首を傾げる。

 ハルトは無意識に声が震えるのを感じながら、ミトに向き合った。


「一つ、お願いしたいことがあります」

「奇遇だね。僕もキミのお願いを一つ聞きたいと思ってたんだよ」


 明らかに見透かされている。

 しかしそれでも、思いは変わらない。

 ハルトは迷いなく真っ直ぐに告げた。


「ここで――働かせてくれませんか?」

「いいよ。歓迎しよう!」


 あっさりだった。

 客の話では、彼女は一切の助手を雇おうとしなかったらしい。

 たまに料理人が志願してきても、ことごとく拒んでいたそうだ。

 躊躇のない快諾を受けて、ハルトは呆気に取られる。


「いいんですか?」

「うん。人手足りてないし、店内が寂しいしね」


 そうだろうと思った。

 厨房の広さから言って、5人までは余裕で同時作業ができる。

 そのスペースをミトが一人で占領し、料理を提供していたのだ。

 違和感を覚えるのも無理はない。


 ふと、逆にミトが心配そうに尋ねてきた。


「でも、大丈夫? お給金もそんなに出せないし。キミが勤めていた店と比べたら、格落ちも甚だしいんじゃないかな」

「そんなことないです」


 ハルトは即座に首を振った。

 確かに、以前に勤めていた店は名門だった。

 有名料理店の立ち並ぶ通りで、周囲の店を潰しまくっていたほどだ。


 しかし、ハルトはその環境に馴染めなかった。

 理念や考え方が、自分の反対を行くものだったからだ。

 だが、ここは違う。


 ここ、料亭「みとり」は――


「初めて、自分から働きたいと思った店なんです」

「ふふ、嬉しいことを言ってくれるじゃないか」


 ミトは照れくさそうに頬を掻いた。

 彼女はハルトの手を握りしめ、高らかに告げてくる。


「僕もキミと一緒に働きたいな。これからよろしく頼むよ」

「はい!」


 ひとまず見つかった安住の宿。

 そして、まだ見ぬ料理の世界への入り口。

 かつてない期待感が、ハルトの胸中を満たしていた。

 

 この店に見合うだけの努力をしていこう。

 それが、彼女への恩返しとなるだろう。 


 ハルトが決意する横で、ミトは一人で機械をいじっていた。

 箱型の器具で、中の石がオレンジ色に発光している。

 どう見ても電子レンジだ。

 動力源が違うとはいえ、これも日本から伝わったものなのだろう。


 だが、今気になるのはそのことではない。


「なにしてるんです?」

「いやなに、キミの入店を祝っての景気づけだよ。一緒に食べようじゃないか」

「そ、そんな悪いですよ……」


 どうやら、自分のために何かを作ってくれているらしい。

 料理の場で祝われたことなどないため、困惑してしまう。

 しかし、そんなハルトを差し置いて、箱型の器具が仕事を終える。


 中から出てきたホクホクの料理。

 ミトは味見を兼ねてか、一気にかぶりつく。


「タレ、おいしい……! 僕、塩よりこっちの方が好きかも」


 その言葉で、ハルトの目がすっと細くなる。

 見てみれば、ミトは見覚えのある焼き鳥を頬張っていた。


「それ、俺がさっき作ったやつですよね」


 思わず出る声も低くなる。

 その焼き鳥は、青年の亡霊に出したものだ。

 もっとも、彼が食べたのはハーブソルトの焼き鳥だけ。

 隣に添えておいたタレの焼き鳥は完全に手付かずだった。


 ワクワクを返せと言わんばかりに、ハルトは無言の視線を送る。


「おや、不満なのかい?」

「いえ、別に……」

「いいよ、それなら僕が全部もらうね!」


 彼女はハルトの糾弾すらも予想していたようだ。

 ケチが付く前に全ての焼き鳥を食べようとしている。

 これにはさすがのハルトも慌てた。


「ちょっ、待ってください。俺も腹減ってるんですよ!」


 考えてみれば、刺し身を数切れ食べただけで、半日近く何も胃に入れてないのだ。

 次々となくなっていく焼き鳥。

 危機感を覚えたハルトは、負けじと一本目を頬張る。


「……っ」


 その瞬間、口の中にじわりと肉汁が溢れだした。

 特製のタレと相まって、いっそう深みのあるジューシーな味わいになっている。

 噛みしめる度に、旨みが口内に広がっていく。

 隠し味としてタレに入れた柚子の皮が、ほのかなアクセントをもたらす。


 自分で作ったものとはいえ、こんなものを前にして我慢できるはずがない。

 あっという間に一本食べてしまうと、次の串に手を伸ばしていく。


「二本目を……って、あれ?」


 しかし、皿の上にはもう串しか残っていなかった。

 対面を見ると、ミトがリスのように頬を膨らませている。

 そして彼女は、目を点にするハルトへ和やかに告げた。


「ふぉふぃふぉうふぁま」

「全部食べやがった!」


 何がごちそうさまだ。

 一本でも多く食べたいからと言ってそこまでするか。

 ハルトは非難の声を上げた。


 ミトの端正な顔は面白い形になり、口の周りにはタレが付いている。

 しかし、そこまでしても色気が失われないあたり、元の容貌が美しすぎるのだと思い知らされる。

 彼女は今にも昇天しそうな顔で焼き鳥を楽しむと、全てを飲み込んで笑った。


「ふふ、この世はヤキトリテイショク。じゃぱねぜで習わなかったかい?」

「弱肉強食?」

「それだよ」


 相変わらずのエセ日本知識。

 彼女の日本かぶれは治りそうにない。

 ハルトは思わずため息を吐く。


 働く店、本当にここで良かったのかな。

 そんな疑念が一瞬だけ脳裏を掠めたが、すぐに消えた。


 まずは働いてみなくては分からない。

 この場所で、自分と改めて向き合ってみたいのだ。

 料理人として、再出発するために。


 ため息を吐きながらも、ハルトは意気込みを呟く。

 それは、後悔など感じさせない爽やかな言葉で――


「まぁ――雇われたからには、頑張りますよ」


 こうして、ハルトの新たな料理人生活が幕を開けたのだった。

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