2-17 寒い国からやってきたスパイ

 牧草月第4週の土の日。

 夏季の到来を感じる、心地よい夜。

 シアが寝息を立てていると、寝ていたはずのゾフィーがそっと起き上がった。


 水でも飲むのかなとでも思っていると、彼女は普段とは違う服に着替え、髪形も改め、静かに窓を開けた。

 一度外の様子を見ると、ベッドに戻り、シーツを整える。

 皺ができないように、そっと座り、小さくため息をついた。


 様子がおかしいな。

 俺はシアの身体に入れ替わり、起き上がろうとする。

『シン、大丈夫。私が』

 そう言いながら、シアはベッドから立ち上がろうとするゾフィーの手を掴んだ。


「どこへ行くの?」

 シアがそう訊くと、ゾフィーは怒られる子供のような顔になった。

 何か逡巡したことをすぐに打ち切るように、彼女は深く頭を下げた。

「ごめんなさい。シア様。少々、外でやるべきことがあります」

 それは、何か言えないことなのだろうか。

「そっか。すぐに帰ってくる?」

 シアは何か察したように、頷いた。

「はい、日を昇る前には必ず」

「なら良し! 行ってらっしゃい」

 シアは彼女の問いに快諾した。

「シア様。内容は聞かないのですか?」

「うん。ゾフィーが言いたくなったら言ってね」

 シアはそう言うと、耳の後ろに流れる髪に手を差し入れ、優しく撫でた。


「では、行って参ります。ご主人様」

 そして、ゾフィーが翼を広げ、窓から飛び立っていった。


『さてと。シン、確認できる?』

『いや、流石に夜間だ。目が悪い。北に向かった事がわかる程度だ』

 一応、予め千里眼を発現させたが、暗くて見失う。

『北ね……んー。とりあえず行ってみますか』

『なぁ、見送るくらいなら、一緒に行けばよかったんじゃ?』

『馬鹿ね、シンは。たぶんそれじゃゾフィーは納得できないから、一人で行ったんじゃない。でも、心配でしょ?』

 そうなのか。

 こういう微妙な気持ちの按配は、同体でも測りかねる。

 それが欠点なのか長所かは、いいとして。

 いや、そもそも俺は直接ゾフィーからそれを察すべきだったんだろう。

 とにかく、そんなことを考えてもしょうがない。


『見つけられるか、難しいとは思う』

 一口に北と言っても、この街は広く、郊外に出られたら、追いようがない。

『ええ。でも行かないよりはマシでしょ。主人として』

『――そうだな。全く、主人と奴隷の関係が板についたもんだ』

『ゾフィーと私たちがその関係の範疇かはわからないけどね』

 むしろ、気持ちは保護者が近しい。


 シアは眠気を飛ばすように伸びをすると、手早く用意を済ませ、部屋を出る。


「よう。ご主人」

「どうしたのリリア?」

 扉を開けると、月明かりが差し込み、リリアの半身が照らされた。

 彼女はシアが出てくるのを待っていたかのように、壁に身を預けていた。

「ご主人。そんな慌てて、どうしたのかってセリフそのまま返すぞ」

「ええと、ゾフィーが――」

「ああ、やっぱり。そうだろうさ。さっきのは、冗談だ。ゾフィーなら、街の北、貴族区間、ケッセルハイム邸に行ったよ」

 リリアは、シアの話を途中で遮り、独り合点しながら、求めてた答えを手品のように告げた。

 シアは手品の種よりも、答えの詳細を求めた。

「場所の目印はある?」

「ご主人がよく行ってる図書館がある大通りを更に奥、北広場を抜けて左の道へ。住宅街の中でも一際広い土地で、門に悪趣味な像があるからわかるだろ」

「ありがと。じゃ行ってくる」

 礼を告げながらも、既にシアは階下へ向かい始めている。

「何も聞かないんだな」

 背に向かって、さっきのゾフィーと同じことを言うリリア。

 シアが振り返り問う。

「今急いでるからね。リリアも来る?」

「悪いね。あたしにもやる事がある」

「そっか。じゃ、後で聞かせてね」

「りょーかい」

 気軽に返事をして、緩く手を振るリリアに応え、家を飛び出す。

 しかし、リリアもこんな夜にやる事があるなんて、何なのだろうか。

 何かが動き始めているようだが、霧の中にいる俺たち。

 なんだか今夜は忙しくなりそうだ。


 警邏隊の目につかないように、足早に東大通りを抜け、人もまばらな北大通りに出る。

 貯蓄魔力を用いた街灯も減り、いよいよ人を見なくなる。

 急ぎ直進して、噴水のみが音を立てる広場が目に入る。

 話に聞いた住宅街は、ここを左に抜ける必要がある。


 広場に入ると、硬質な石畳が鳴る。

 夜更け、北広場には人影は無い。


 一人を除いて。


「待っていたぞ、オルドア三等冒険者、シンシア」


 月光を反射するは長槍。

 赤灼の髪が風に靡く。


「ここを通す訳にはいかない。可能ならば、平和的解決を望むが」

 シアの前進を止めるように、彼女は槍を薙ぐ。

 路地に火花が散る。


「そうで無いならば、このグノーシャ・カリウスが相手をする」


 ああ、本当に今夜は忙しくなりそうだ。



  ●



 場所を告げ次第、シンシアが急ぎ階段を降り、家を出ていくのを認めると、あたしも階下へ歩を進める。

 一階の踊り場、廊下へ出ようと振り向く。


「何のつもりだ? クルカ大尉殿?」

 音もなく、眼前に突きつけられるは、銀のナイフ。

 対して、彼女の前にもあたしは短剣を突きつけている。

「それはこっちの質問になります。どうして、命を為さないのですか?」


 数日前に彼女を通じて与えられた命令。

 それは、非常に性急な内容だった。

 その一。ゾフィーの監視から確保へ。

 その二。シンシアに対しては殺害命令。

 その三。オルドア軍所属ベーレン少佐の殺害命令。

 丁寧なことにオルドア軍人貴族ベーレン少佐が滞在している近郊の場所まで教えてくれた。


 しかし、あたしはどれも実行しなかった。

「そいつに関しては、一応理由があるんだぜ?」

「いいでしょう。聴きましょう」

「なら、物騒なものを降して欲しいんだが」

「お互い様でしょう」

 彼女は油断しない。

「用心深ぇな。まあいい」

 刃物の先端越しに、クルカへあたしの意見を伝える。


「疑問に思ったのは、まずゾフィーの扱いだ」

 鋭い視線はそのままに、彼女は黙して聞いている。

「ゾフィーの確保。これは確かに元々情報本部の要求に違いない。しかし、ここはゼイフリッド領その本都だ。その危険は、政治的動物に過ぎる情報本部ならわかることだ」

 彼らは必要ならば、身内に鉄槌を下ろすことになんの躊躇いもないが、引き起こされる損得には非常に気を使う。


「ゼイフリッドが情報本部に協力しているという線もない。それなら、クルカ大尉の存在が無意味となる」

 協力に対する監視が目的であるのなら、アセットは不要だ。

 もっと堂々とした存在の方がむしろ都合がいい。


「そして、ゼイフリッドはゾフィーについて知り得ながらも、この街に保持するだけ。その判断から、彼らが強行に及ぶということは、あまりにも考えが足りない。故にゾフィーの確保とシンシアの殺害に違和感がある」


「……他には?」

「ベーレンの暗殺についてもだ。国家間問題になることぐらいあたしでもわかる。そしてあたしの身元を知る奴は、今に至って増えている」

 シンシアが言うように、オルドアの連中がここに来ていたということは、あたしの顔は割れていると考えるべき。


「以上から、この命令はどれも情報本部、ひいてはトラシントが不利になるものでしかない」

「あなたの論旨に従うのでしたら、そうなります」

「であるなら、おまえは情報本部とは別の意向に従っている。それは何か。ゼイフリッドか? それとも他の組織? はたまた――魔族か?」

 最後の言葉にクルカはやや目を見開いた。

「ふん。アタリだな」

「発想として驚いたのです。荒唐無稽、と言うべきでしょうか」

「ま、可能性の一つさ」

 そう。

 今言った事を勘案するのであるなら、妥当なのはゼイフリッドにくみしているという考え。


 情報本部は、ゼイフリッドだけでなく、どこでも嫌われている。

 国内ではそう認識されていると思っていい。

 そして、その認識とあたしの身元を利用して、全てを情報本部に押し付け、ゼイフリッドは発言力を高め、彼らの実行力を削ぐことができる。

 しかも、彼女は侯爵城メイドだ。

 そう。だからこそ。

 端的に言って、見え透いている。

 そう思ってくれと言わんばかりの。


「もう一つ気になる事がある」

「どうぞ」

「昨今からおかしいと思っていたが、今夜、ケッセルハイム邸で一体何が起ころうとしているのか。前の話じゃ、ただの集会って聞いたが、今回はそうじゃないんだろ?」

「そこまで自分は伺っておりません」

 本当に知らないのか、惚けているのか。

「いいや、知らない訳がない。あたしにしろ、ゾフィーにしろ、ケッセルハイムがこの日に何かをしていることを、あたしたちは別々に知っていた。けどな、あたしと同様ゾフィーもおまえが誘導したと考えている」

 ゾフィーに関しては、あたしの予想ではある。

 シンシアの口から、ゾフィーは北に向かったと聞いただけ。

 この日この時間だからこそ、あたしは確信した。


 おそらく、彼女はあたしを情報員として、首を突っ込むことを期待していた。

 しかも、あくまで自主的に動いてもらうつもりで。

 それは、ゾフィーを攫わせるためだったのか、情報本部を吊るし上げるためだったのか。

 でも、動く気がないと見るやいなや、直接的に命令を行った訳だ。

 それが、クルカへの違和感に対する根拠になった。


「率直に申し上げますと、狭い考え方だと存じます」

「そうさ。あくまで可能性だ」

 しかし、情報を操作するということは、こういうことだ。

 情報源をぼかし、情報を任意の人物にだけ届ける。

 拡散されないのは、それ相応の弱味があるから。

 結果として、掌の上にいるような不測の状況が出来上がる。


「クルカ大尉。おまえは情報本部諜報員名簿に記録された情報提供者アセットだ」

 黙りこくる、クルカを無視し、あたしは続ける。

「しかし、それはゼイフリッド領内の出来事において、情報を操作し、意図的に誤報や隠蔽を行える立場」

 結局彼女が演じた役割は何だったのか。

 考えを整理しながら、あたしの勘が指す先へと導いていく。

「通常、アセットは、弱味を握られている人間ではなく、性格や政治的傾向、そして担当官の判断により選出される。充分に有り得る話として、寝返る可能性がある。送られてくる情報の齟齬を追えば、それは判明し、そいつをすぐに切り離せることが多い。しかしおまえは、色々と心得過ぎている。現地雇いが大尉に昇進する程度は、な」

 そう。優秀なんだ。彼女は。

 でも。

「そうであるのならば、どうして決定的な功績がないのか。政治中枢に片足を突っ込んでおきながら、敵の座る椅子を暗黙の内に蹴り落とす工作をいくらでもできるはずだった」

 ゼイフリッド領が平穏に過ぎるのだ。

 種はいくらでもあるのに。

 例えば、屈強な軍隊を持つゼイフリッド領は、情報本部にとって削ぐべき相手だ。将校と貴族を対立させる等、極端な話、何も事件が起きず、弾劾されてもいないのは、おかしい。

 逆に、情報本部のゼイフリッドへの認識を大きく誤るような偽報もない。

 故に、彼女は成果を上げつつも、誰も損をしないことを意図したと結論する。


「クルカ大尉殿。仰ぐ頭目が誰にせよ、おまえは裏切りものだ。双方への絶対的不利な情報について隠蔽を行った。つまりだ。ゼイフリッドの利益と情報本部の利益を天秤に掛け、均衡を保ち続けていた」

「…………」

「そして、その均衡が崩れる時。それは今何だろう?」

 天秤が傾くのか、一切が壊れるのか。

 彼女の目的は何なのか。


「よろしいでしょう。リリア中尉の疑問、お答えします」

 黙っていたクルカが、口を開いた。

「へぇ。意外だな」

 あたしの中では既に、情報本部に敵対する人間として数えている。

 刃物と突き付け合っている状況だから尚更。

 つまり、答えるわけがないと思っていた。


「……自分が受けていた使命は、トラシント国内の派閥の均衡を保つこと。トラシント政治家、国軍、ゼイフリッド派、野心的な貴族、不穏分子たち。誰もが、決定的に排除され無いが、目立った行動を抑制する。ただ、全てが温床で育っていくことを目的としておりました。あなたの仰ったことは正解です」

「一応そういうこととして受け取っておくよ」

「ご自由に。元々、リリア中尉に与えた命令は失敗してもよいものでした。判明した事実は、政治的問題まで敷衍ふえん。不和の種が広がり、芽を出す時、トラシント公国は、容易に瓦解する。それを望む者は意外と多いのです」

 目的はトラシント自体の崩壊?

 それはゼイフリッドの野心か、どこかの貴族の​奸心か。

 そして過剰なまでにゾフィーに固執することについては触れてもいない。

 やはり彼女は全てを話していない。

 が。

「話はこれまでになります。自分は他に喋るつもりはございません。何にせよ、あなたには以後、口を閉ざしていただきます――」

「お喋りは終わりというわけだ――」

 なぜお喋りをする気になったのか。

 そんな疑問を挟む間もなく、ほぼ同時に、互いの凶刃が動き出す。

 向けられた切っ先が、真っ直ぐ側頭部を過ぎる。

 対して、首を刈るように振られた短剣は、頭を下げることで避けられる。

 あたしとクルカの均衡は崩れた。


 彼女の脇を通り抜けるように、廊下を疾駆。

 壁を蹴り、反転。

 滑るように低い姿勢から両足を狙う。


「シィッ」

 独特な呼吸法から、蹴りが繰り出される。

 クルカは軽やかにステップを踏み、横回転から胴に踵を叩きつけてきた。

 あたしは、軽々と蹴り上げられる。


 痛ぇ。

 ったく、やりずれぇな。

 狭い廊下の壁に打ち付けられつつも、受け身を取りながら、短剣を投擲。

 避ける方向を予測し、もう一本投げる。


「くっ!」

 案の定、狭い場所だ。一本が受け流しきれず、彼女の右足太腿に刺さる。

 あたしは既に、短剣を追うように進み、彼女の持つ手ごとナイフを払う。

 音を立てて転がる彼女の得物。

 即座に、掌底があたしの顎を狙う。

 轟音が顎を掠める。

「っとと」

 あぶねぇな。


 細い息を吐きながら、飛ばされたナイフなど気にもせず、格闘の構えをとるクルカ。

 失血を気にしてか足に刺さったままとはいえ、立ち回りは平素と変わらない。

 掲示上では、被害を受けていることは確認できる。

 格闘戦か。

 体格上、圧倒的に不利ではある。

 短剣を拾いたいところだ……が。


 もちろん、彼女の基本行動が、短剣を拾わせないこと、体格有利差を活かすことになる。

 彼女の呼吸が止まる。

 一瞬で詰められる距離。

 放たれる拳。

 しなるような蹴り。

 あたしは、狭い空間を跳ねるように避ける。

 応接間へと転がり込み、椅子を投げるが、紙くずのようにいなされる。

 受ける度、下がる度に落ちている一振りの短剣から距離が遠のく。

 部屋も、もうどん詰まり。


 さて、どうしたもんか。

 あたしは、背後の壁に迫るように一挙に下がる。

 床を蹴り、壁を蹴り、テーブルを蹴り、飛び上がる。

「無闇、ですね」

 身動きができない空中に飛び上がるあたしを見据え、彼女は必殺の構え。

 全身を跳ね上げるかのような、真っ直ぐ突き上げる蹴り上げ。

 柔らかい腹部に突き刺さる。

「ゴフッ!」

「くっぅ!」

 蹴られる瞬間、失血を恐れ、刺さりっぱなしだった短剣の頭を蹴りつける。

 それは、あたしの方がやや先に届いた。


 より抉った短剣は彼女の行動を止める。膝をつく。

 その隙を逃しはしない。

 腹部の痛みに耐えながら、一足飛びに、狙いやすくなった彼女の頭を蹴る。

 ゆらゆらと揺れ、クルカは気を失った。


 ちっ、痛ぇなぁ。

 正直、あたしも動ける状態ではない。

 現状、戦闘は不可能だと考えたほうがいい。

 そうなんだけど。


「さて、仕事だ」

 仕事。本当に仕事なのだろうか。

 為すべき事?

 いいや、誰もそれをそうだと決めた覚えはない。

 成したいこと。

 そうなのだ。

 これはあたしが決めないといけないこと。

 決定権はあたしにあると傲慢になるつもりはない。

 ただあたしがあたしを決めるだけだ。


 あたしは、何ができるのか、何をするのかわからないまま、ケッセルハイム邸に向かう。

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